転生して電子生命体になったのでヴァーチャル配信者になります 作:田舎犬派
「ネットダイブシステム立ち上げ完了です。
「よし。わちる、降下する前に説明しておく。お前が侵入するのは破棄された空間だ」
ソファに横になるわちるは機器を装着し降下する直前、室長より声をかけられる。
灯はNDSに接続されたいくつものディスプレイに目を走らせ、その横でなこそが情報処理の補助をしている。
推進室で最も高い情報処理能力を持ち、それ故に室長に推進室へと勧誘された灯と、かつて灯に師事していたこともあるなこその二人がかりでダイブするわちるをバックアップするつもりだ。
「破棄された、空間ですか……?」
「わんこーろ。彼女が開拓している空間、それは本来ならば削除され消滅しているはずの、破棄された仮想空間だ」
室長は降下までもう少し時間があることを確認し、言葉を続ける。
「お前も配信活動で動画や画像の編集作業をしているだろう?その時にいらなくなったデータはどうしている?」
「えっと、消しちゃいます。ゴミ箱にいれて、一杯になったら削除します」
「だろうな。だが、削除したデータも復元ソフトを使えばサルベージすることは可能だ。それはデータが完全に削除されていないことが理由だ」
効率化社会が崩壊の予兆を見せていた末期、かつてのデータのそのほとんどがサルベージ困難な状態となっていたことを知った各国は数十年単位で削除されたデータをサルベージすることのできる技術の開発を行った。といってもそれほど難しい話ではない。
削除されたデータが復元ソフトなどで復元することができるのは削除された後もコンピュータ内にてデータが残り続けているからだ。そのデータが新たなデータに上書きされるまでにサルベージすることが出来れば破損を最低限に抑えて復元することが出来る。
数十年もの期間、復元可能というのはつまり削除されたデータが数十年コンピュータ内に残り続けるような仕組みになっているということだ。
だが、だからといって削除されたものの状態をそのまま維持し、一瞬で復元できるわけではない。
ほんの僅かな残滓のようなデータが残り続けるだけで、専門の……例えば推進室のようなサルベージ専門の組織の手でなんとかデータの復元が出来るという程度なのだ。
だが、推進室としてはその程度だとしても大いに助かるシステムだ。なんせ現在行っている効率化社会以前のデータサルベージなど、存在していたかどうかも怪しいデータをネットの海に探し求めているのだから。
つまり、現在のネットに接続されているPCや携帯端末などの機器はその内部に数十年もの間、破棄されたデータの残滓が保存されるように設計されているということだ。
だが、そのシステムは今後効率化社会と同じような事が起こった場合の国の施した保険であり、一般的には周知されていない。せいぜい復元までの期間がわずかに伸びた程度の認識であり、メーカーや専門業者も基本的にはサルベージ出来るのは一年程度であり、それ以降の対応はしない事にしている。あくまで非常時の為のシステムであり、常用するようなものでもないのだ。
だからほとんどの人間は削除されたデータがコンピュータ内に残り続けていることは知っていても、それが数十年分もの量であることを知らない。
「わんこーろが管理する空間、その正体は人が不必要だと捨てていったデータの集合体。ネットに繋がっている数万数億の端末の、
わちるがわんこーろより与えられた例の3Dモデルから割り出した犬守村のネット上の位置情報は何とも荒唐無稽な場所を指していた。
それは推進室がデータサルベージを行っているログデータの最深層。3Dモデルより入手した位置情報という道しるべがなければ到底たどり着くことなど不可能といえるような奥底だった。
ほんの少し、室長は呆れたように微笑する。
「一般人では見つけられないはずだ。どれだけコンピューターに検索するよう命令したところで、そのコンピューター自体が
だが、復興推進室は違う。消失したデータ、あるかもわからないデータをサルベージすることに特化しているこの機関ならば、道しるべを頼りに雑多な破損データを掻き分け目的の場所にたどり着くことが出来る。
「さて、準備が出来たようだ。……先ほどの約束は覚えているな?」
「はい。もし想定外の事が起こったら、すぐに
「それでいい。お前の行動はこちらからもモニターしている。映像も声もつながっているから安心しなさい」
そしてわちるは目を閉じ、その意識がネットへと降下するのを待った。
そして気が付くとわちるは真っ白な空間に一人ポツンと立っていた。空間内の光源による陰影のおかげで真っ白であるにも関わらずその空間はそれほど大きくない、小さめな部屋程度だと分かった。
『上手くダイブできたようだな』
「はい。大丈夫そうです……あの、ここは?」
突然室長の声が響く。空間に響いているというよりは灯の頭に直接響くようなその声にわちるは驚くことなく応答した。NDSの機能を利用した通信によって
『ここはまだ推進室の管理空間だ。といっても、その管理者としての機能はほぼ放棄してあるし、最低限の管理機構は厳重に隠蔽してある』
わちるは目の前に手をかざし、出現した半透明なウィンドウを確認する。ダイブプレイヤーの各種バイタルデータや機能、ネット上の現在位置が表示されている。それによると現在のわちるのいる場所は推進室の日常のデータから機密データ等様々な情報が保管されている"管理中枢空間"からいくつかの空間と防壁を経由して接続されている一応、推進室の管理空間であることが分かった。
『わんこーろの管理する空間は破棄された空間の集合体だと言っただろう?そしてその空間は今現在も拡張し続けている。つまり破棄された空間が今なお集まり続けているわけだ。それを逆手に取り"破棄された空間"のように見せかけた仮想空間を作り、それをわんこーろの管理空間に接続する。上手くいけば、破棄されわんこーろの空間に統合される空間であると誤認させることが出来るかもしれん。成功するかは分からんが、少なくとも直接侵入するよりは時間は稼げるはずだ』
『わちるちゃん。灯です。もうすぐわんこーろさんの管理空間につなげます。狐さんの人形に内包されていた情報量から恐らく犬守村は五感のすべてが忠実に再現されていると思われます。ネットの中だからと言って無茶なことはしてはいけませんよ!現実と同じだと思っていてください』
「灯さん、分かりました」
そんなわちるの前に黒く、四角い窓が現れた。この空間と犬守村とのリンク、入り口だ。わちるはその窓を恐る恐るくぐった。
その日、犬守村は満天の星空だった。実際の星空をわんこーろが完全再現させ、その上犬守村には人工的な灯がほぼ存在していない。あったとしてもわんこーろと狐稲利の住む家が小さな明かりを灯しているだけに過ぎず、その降り注ぐほどの星空と満月の光をさえぎるほどの光量では無かった。
「うわぁ……!」
思わず感嘆を漏らすわちるであるが、彼女が驚いたのはその光景だけではない。彼女達にとっては初めてともいえる夏特有の生暖かい夜風が肌を撫でる触感、土や草木の匂い、あるいは鈴虫の鳴き声といった多種多様な情報がまるで現実の世界にいるかのような感覚を与えたからだ。
その感覚はかつての原風景を知らないわちるでさえ、震えるほどの感動をもたらした。
『わちる?聞こえているかわちる?NDSは正常に機能しているのだが』
「あっ!大丈夫です。ちょっと驚いちゃって……」
『まあ、それは分かる。こちらも侵入出来た直後から空間の情報を収集しているが……』
現実世界でディスプレイを確認している室長。
灯、なこそと共にわんこーろの管理空間全体のスキャンを行っているが、そのスキャン完了時間は『あと 365日』から一向に動く気配がない。
そのほかにも各種ツールを用いた部分解析を行っているがどれも完了まで数日から数か月かかることが判明し、そのあまりにもな結果にバカバカしくなった室長は解析を断念した。
『わちるちゃん、"酔い"は感じますか?』
「いえ……全然酔いません、なんだか……不思議なくらい落ち着きます……」
NDSの問題点の一つとしてネット内へダイブした時の"ネット酔い"がある。ネット内の事象を脳が現実のものであると錯覚してしまい、非現実的な物事を体験すると混乱してしまう現象だ。
それ以外にも先進技術研究所が言うには過度に情報量の多い空間にダイブする事でも受け取る情報の多さが原因で脳に酔いをもたらすこともあるという。灯が心配していたのは後者だ。
これらの酔いはそれほど深刻なものではなく、車酔いや3D酔いのようなもので、その上少し時間を経て慣れてしまえばその症状も治まる。後者であってもNDSが即座に情報の受信を制限するので問題はない。
だが、わちるはこの酔いを全く感じなかったという。それどころか心休まるというほどであった。
『3Dモデルすべての情報に制限がかけられているのだろう。五感で得られる情報だけを取得できる、という具合に』
もしも現実世界で目にした物の情報がすべて見えてしまえば、人はその情報の多さに目を回してしまうだろう。
石ころ一つだとしても、その石が産出された場所は?加工方法は?材質は?などと頭が痛くなってしまう。だが、人はそのような情報を実物だけで知ることは出来ない。せいぜい重さや、質感といった情報程度しか取得できないだろう。
だが、ネット内ではそうはいかない。中身のないただの3Dモデルだとしても、その内部に存在するデータは膨大だ、そしてその情報が一気にダイブプレイヤーへと反映される。しかも今回はわんこーろ製の3Dモデルによって形作られた空間にダイブしているのだ。
灯も当初はそれを心配していたが、それは杞憂に終わった。わんこーろはこの空間の3Dモデルすべての情報のアクセスに制限をかけ、容易に閲覧できないようにしていた。まるで現実のように、五感で感じられる情報だけを入手できるようにしていたのだ。
『まるで誰かがダイブすることを想定して作られたかのような空間だな……』
室長のそんなつぶやきは一部正しくもあり、間違いでもあった。
わんこーろはどんなセキュリティの施されてたネット空間であっても電子生命体という特異性から自由自在に行き来することが出来る。だがかつて人であったせいか、あるいは配信者として炎上防止策なのか、彼女は決して法に触れるようなことはしなかった。
あくまで一般人が閲覧できる情報以外には手を付けることなく、不正アクセスの類をしようとはしなかった。
データのサルベージに関しても違法性は無く、サルベージデータの復興省への提出も義務ではない。
そんなわんこーろだからこそ、ここ数日の復興推進室内部の動きはほとんど把握していなかった。極秘中の極秘であるNDSが公表されたのもつい先日であり、そのスペックについても先日の配信で利用した以上の情報は一般に公開されておらず、当然わんこーろも知らなかったし、知ろうともしなかった。
だからわんこーろがこのタイミングでのネットにダイブする機器の登場を察知出来ているわけがないのだ。
では、どうしてダイブプレイヤーにおあつらえ向きな環境となっているかというと、それは狐稲利のためだった。
わんこーろは狐稲利を電子生命体としての技術を教えながらも、まるで現実の子どものように育てようとしていた。
かつての日本の自然豊かな場所で、めいっぱい子どもらしく遊ばせてあげようと考えていたのだ。そのわんこーろの考えの根底にはかつて自身が陥った自己の存在に対する疑問があった。
かつて人であったわんこーろですら己の存在に疑問を持ってしまった。ならば狐稲利が自分自身の存在を疑問に感じるのも時間の問題ではないだろうか?わんこーろはそう思った。
わんこーろは狐稲利に限りなく現実に近い世界を体験してもらい、その経験に自身の存在の在り方を見出してほしいと願ったのだ。
移住者とのやり取りだけでなく五感を用いた物や命とのふれあいが自己の確立を確かなものにし、自我の形成の一助となるとわんこーろは考えていた。
だが、推進室の人間がそんなわんこーろの心境を察するには彼女をあまりにも警戒しすぎた。恐らくわちるならばその答えに辿り着いたかもしれないが、室長はわんこーろが推進室、ひいてはこの国のすべての機密を暴けるような存在ではないかとより一層疑惑を深めてしまう。
『少し待ってくださいね。解析が出来なくても大まかな
「いえ、大丈夫です灯さん。私、たぶん分かります。ここはわたつみ平原の境界近くだと思います。ここから河沿いに歩いて行けば田んぼのある場所まで行けるはずなので、田んぼが見えてくれば後はその先にある山の麓へ行くだけです」
わちるはNDSを利用した配信の前にわんこーろの配信アーカイブを確認していた。さすがに一枠数時間ほどの長さなのでアーカイブに書き込まれたコメントを確認しながら見どころを大まかに確認しただけだが、それだけでわちるは頭の中に犬守村の正確な地図を描いていた。
どの
「もう少しで田んぼが見えてくるはず……!」
だが、その知識だけを信用していたわちるは知らなかった。わんこーろは移住者に見せても良いと判断したものしか紹介しておらず、わちるが知らない要素もかなり存在しているのだ。
そして、その知らないものが、彼女を見つけた。