転生して電子生命体になったのでヴァーチャル配信者になります 作:田舎犬派
『わちるちゃん。影のある場所は歩かないように注意して、出来るだけ月の光に照らされた場所を通って下さい。先ほどの影は不用意に近づかなければ逃げ切れそうですよ』
『わちるちゃーん、こっちから確認できる映像を基にマップデータを作ってみたから参考にして。NDSが使えないからPCの画面を直接カメラの前に持ってきてるから見にくいかもだけど、我慢してね』
「灯さん、なこそさんありがとうございます」
わちるは夜の犬守村を恐る恐る周囲を確認しながら慎重に進んでいく。月の光は予想以上に明るく、真っ暗な夜を淡く映し出していた。
まるで色の無くなったシロクロな世界に入り込んだような光景の中、わちるは犬守山の麓にあるはずの、わんこーろの家を目指す。
「ふう……ふう……」
『大丈夫か?わちる』
「はい、土の地面って久しぶりに歩いたので少し疲れちゃっただけなので大丈夫です」
『そうか、無理はするなよ。ゆっくりでいいからな』
「はい。ありがとうございます室長」
室長の言葉にわちるは少し落ち着きを取り戻す。先ほどまで予想外のことが起こりすぎて、わちる自身どうすればいいのか分からなくなっていた。だが、室長や灯、なこそが傍にいると分かるだけでわちるは現状に取り乱すことなく進むことが出来ていた。
だが、そんな室長の穏やかさや、灯となこそのなんでもないような雰囲気はわちるを心配させまいと、そのように振る舞っているだけであった。
初期に行われた推進室の中枢管理空間への飽和攻撃はまだ続いており、灯となこそはそちらを処理しながらもわちるへのサポートを行っていた。
元々NDSのコントロールを奪うことが目的だったのか、飽和攻撃自体は先の侵攻速度ほどではなく、二人なら完全に締め出せるかと思われたのだが、そう簡単にはいかなかった。
先ほどの単純な侵攻とは打って変わり、攻撃元はまるでこちらの対抗手段を先読みしているかのように侵攻ルートや侵攻方法を攻撃に最適なものへ変更し、じわじわとこちらを攻め立てていた。こちらの動きを見て対策するどころか、こちらがどのように動くか、かなり正確に予測し攻撃を行う。
まるで動きの読めない生物のようだ、と灯は感じた。
ちらりとディスプレイに表示されている現在時刻を確認する灯。あと数時間もすれば日の出の時刻になる。だが、恐らく現在の侵攻状況では日の出前に相手は推進室の中枢管理空間に到達する。
そうなれば、終わりだ。
推進室は上部組織である復興省に繋がっており、復興省はその他の各省庁に繋がっている。相手がこの推進室の中枢管理空間を掌握すれば次の目標となるのは復興省の中枢、さらにそこを押さえれば国の重要な運営機関へと手を伸ばしていくだろう。
本来ならばそうならないように理論上突破不可能な数の防壁が展開されているが、NDSの次世代防衛機構を数十秒で突破した相手にはそんなもの何の意味もないと灯は思っていた。
だからこそ、今この差し迫った状況を好転させることが唯一出来るのは、わちる以外に存在しない。室長はわちる自身が助かるために、と言っていたが実際の状況はもっと大規模なもので、わちるの肩にこの国の命運がかかっているといっても過言ではない。
(わちるちゃんに、無用なプレッシャーを与えたくはない……ってことなんですね、室長)
灯はディスプレイに目を合わせ、キーボードを操作しながらも考える。室長はわちるをダイブさせる前に言っていた。責任を取るのは大人の役目だと。室長はもちろん復興省の、推進室の責任ある立場の人間であり、自身に課せられた責務を投げ出すような人間ではない。だが、今の室長はそれ以上にFSの少女達の親であった。
たとえこの後何があろうとも室長はわちるを帰還させるために全力を注ぐだろうし、それに伴って被る責任の重さを覚悟している。
だが、それをわちるには悟られないようにしていた。
(はあ……まったく、室長も室長ならわちるちゃんもわちるちゃんです。血のつながった親子以上に親子なんですから)
だが、そんな室長の様子に気が付かないわちるではない。彼女がこの家に来た経緯から現在に至るまで、あるいはFSやわんこーろという親友を得るまでの間、わちるにとって室長は自身が心許せる唯一の存在であった。そんな室長のことをわちるが見かけだけで判断するわけがない。
NDSに繋がれたディスプレイを見る灯はその向こうに居るわちるが、冷静ではあるが思いのほか焦っているように見えた。自身の身の安全が脅かされているかもしれないのだ、そう見えていてもおかしくないのかもしれない。だが、わちるは自ら犬守村へとダイブすることを選んだ。このような予想外の事態が発生する可能性も十分存在することを踏まえて、それでもわんこーろに会うことを願った。
その証拠にわちるは例の影と接触した後もダイブし続けることを願い、室長が彼女を浮上させることが出来ないと打ち明けた時も終始冷静な状態であった。
だから今わちるが焦っているように見えるのはそれとは別の理由、つまり今現在陥っている状況は"室長が責任を取らなければならない状況だ"と感じているのではないだろうか。さすがにそれが国の命運などという大それたものだとは考えていないだろうが、それでも室長が何かしらの責任を負うかもしれない事、それが自身の行動如何によって回避される可能性があると感じているのは確実だ。
(どっちも相手のことを想っていて、だけどどちらも口にしない……ほんとにもう)
不器用故に手さぐりな接し方、それでいて互いを大切に思っている。……母娘の関係というよりは、まるで不愛想な父親と引っ込み思案な娘のような二人の在り様に、こんな状況にも関わらず灯は笑みを浮かべてしまうのだった。
暗い暗い犬守村。その田舎道を一人歩くのはその原風景と似合わぬ現代的な洋服に身を包んだ少女、わちるだ。
ヴァーチャル配信者としてのアバターを用いてダイブしているわちるはその橙色の髪を揺らしながら夜道を歩いてゆく。
幼い姿の少女は不安げに口元に手を添え、もう片方の手を前に突き出しながら暗い道を注意深く進んでいく。
先ほどのわちるのアドバイスから月の光が遮られる可能性のある木々の下は通らないのはもちろん、その付近に近づくことも出来る限り避けるようにしていた。そのおかげなのか、最初の接触から今までの間、二度目の接触はなかった。
「このまま、いけるかな……」
影を迂回し隠れるように移動しているため当初のルートを大きく変更しながら移動しているわちる。灯となこそのバックアップと、自身の記憶を頼りに犬守村全体の大まかな地図は出来上がっているが、それによると最初の川沿いに進みながら田んぼを抜け、犬守山の麓に行くルートからはかなり外れてしまっていることがわかった。
(早くしないと室長が……それにわんこーろさんに……)
徐々にそんな思いがわちるの心を占めていく。だからだろうか、わちるは"それ"に気が付かなかった。
いや、気が付いたところでどうすることも出来なかったのだが。
周囲を照らす大きな満月の光、それが雲によって完全に隠されたのだ。上空の風の流れが速かったためか、雲が月を隠していた時間はほんの数秒程度だっただろう。
だが、その数秒はわちるにとって最悪の状況を生み出した。
「……ひっ!」
隠れた月が再び顔を見せた瞬間。ほんの僅か訪れた暗闇によって目の前には先ほどは存在しなかったはずの。
影が居た。
影、影、影……あらゆる方向から、あらゆる物陰から、人の形をした、けれど決して人ではないなにかが、数えきれないほどわちるを見ていた。実際に目があるわけでは無い。だが、分かってしまった。
これらのいくつもの人の形をしたなにかは、こちらを見つめているのだと。
「あ……あ……」
まるで亡者のようにこちらに延ばされた腕がわちるへと迫る。あらゆる音が溢れるこの空間において音もなく近づいてくる違和感に、わちるはおぞましささえ感じてしまう。
『わちる!走れ!』
「っ!」
恐怖に呑まれようとしていたわちるの耳に室長の声が届く。もはや冷静に物事を判断することも出来ない状況ではあっても、室長の声だけはしっかりと聞こえていた。わちるは影と影の隙間を必死に走り抜ける。
幸いその影の動きはそれほど速くないようで、わちるは捕まることもなく通り抜けられるかと思われた。
だが、そんなわちるの足首を何かが掴んだ。
「きゃあ!!……あ、うぐ……」
目の前だけを見て走っていたわちるには突然足首を掴まれたことにまともな対処をする間もなく、勢いを殺すことが出来ず宙を舞い、そして地面に体を叩きつけた。
一瞬視界がぶれたかと思うと体に強い衝撃が走り、その後体のあちこちがじんじんと痛み出した。アバターであるため血は出ていないが、この空間はすべての感覚がリアルに表現されている。それは痛覚に関しても例外ではなかった。
「あう……、」
『わちるっ!?わちるっ!大丈夫かわちる!!』
『わちるちゃん!!』
『わちるちゃん逃げて!!』
突然の痛みに悶え動くことの出来ないわちるは地面より染み出すように現れた新たな影を見上げる。先ほどよりも大きいその影はいくつもの腕を備えており、一対の腕以外の腕を足のように使い、わちるへと這い寄る。
「あ、……あ……、ごめ、なさ……わんこーろさん……」
思わずわんこーろの名前を口にするわちる。だが、目の前の影はなんの反応も示さず、わちるへとにじり寄る。
「わんこーろさん……わん、こーろさ、ん……」
近づくおぞましい影の姿を直視することが出来なくなったわちるは瞼をきつく閉じた。
そしてその腕がわちるの首を掴み締め上げる。
「……わんこーろさん……わんこーろ、さん……会いたい……よぅ……」
締め上げる、はずだった。
影の腕がわちるの首へ迫る直前、わちるは月の冷たい光とは異なる、暖かな光を瞼の裏で感じた。なにかに優しく包まれているような感覚さえ覚えるその光をわちるは現実世界で経験したことがあった。
現実世界では空は黒い雲に覆われ、太陽の光はそんな雲の影響であまり地上に届かない。
だが、塔の街周辺ではその雲の影響が少なく、太陽光が直接降り注ぐこともあった。
そんな天気の良い塔の街で太陽が出ている時、そんな時と同じような暖かさだとわちるは理解した。
そんな、太陽のような暖かさを感じることを不思議に思ったわちるはうっすらと目を開け何が起こったのかを確かめようとし、その光の正体に思わず息をのむ。
そこにいたのはわちるよりも頭一つは背の高い少女だった。
影とわちるの間に割り込む形で現れた少女はわちるを背にして影と対峙している。
和服を翻し、その上から羽織を身にまとう少女は左手に持った光の正体、"提灯"を携え、右手には巨大な"鋏"を持ちそれの切っ先を影へと向ける。
提灯の光は少女の焦げ茶色の髪を闇夜に映し出し、見え隠れする菖蒲色の瞳からは強い意志が感じられた。
そして
「だめっ!!……わちる、たいせつ!!、いたいことするの、だめっ!!」
そしてわちるは、声を持たないはずの少女の声を聴いた。