仮面ライダービルド×Fate/NEW WORLD   作:おみく

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第1話「ゲームの世界へ」

 檀黎斗神は、無数に建ち並んだ高層ビルよりも遥かに高い空に、ひとり、ぽつんと浮かんで街を見下ろしていた。

 眼下に広がる鉛色のビルの群れは、視線の先でぱたりと途切れている。青い川が街を分断するように流れているからだ。川によって分断された街の西側と東側を、真紅の大橋が繋いでいる。橋はこの街にたったひとつしか存在しない。

 

 未だ発展途上の地方都市、冬木。

 

 生前の黎斗が()()()()()を元にして、当時の街の状況を住民含め可能な限り細密に再現し作り上げた仮想世界(ゲームエリア)、それが眼下の冬木市だった。

 この世界が完成したとき、始めこそその会心の出来にうっとりとしたものだが、その感動も今やすっかり摩耗して、今はもう、己の神にも等しい才能に酔い痴れる以外の感嘆はない。

 どんなに素晴らしい世界を創造したところで、攻略しようと挑む挑戦者(プレイヤー)がいなければ虚しい夢に過ぎない。物語を始めるものが現れなければ、ゲーム世界はただ、プログラミングされた通りに変わることのない日常を繰り返すだけだ。眼下に溢れる無数のNPCは誰ひとり黎斗を認識せず、せっかくの神の才能は行き場を失くしてさまよっていた。

 経過時間のカウントすら進まない無間の空間で、何ヶ月、あるいは何年に及ぶかもわからない静寂が続いた。既に消滅した現実世界の檀黎斗神が遺したこのゲームエリア内で、オリジナルの檀黎斗神が遺した分身(バックアップ)は、この世界の案内人(ナビゲーター)として、いつか来る挑戦者(プレイヤー)を待ち続けていた。

 

 あるとき、赤い光が街に降り注いだ。つられて黎斗は空を見上げる。黎斗が創造したこの世界で、黎斗の意思に関係なく変化が訪れることなど、ありえない。外部から何者かが干渉してきたと考えるのが筋だ。

 赤い光はやがて靄となった。靄は蛇のようにうねり、尾を引きながら高層ビルの屋上へと集積してゆく。黎斗も空を飛び、靄の隣へと降り立った。降り積もった靄は少しずつ実体を持ち、それは徐々に、ひとのかたちを形成してゆく。黎斗の眼前に、赤いボディスーツと装甲に身を包んだ人影が姿を現した。胸にはエメラルド色のコブラに似た衣装が輝いており、瞳を覆うバイザーも同様にエメラルド色をしている。

 

「やれやれ、仮想世界ですらこの姿が限界か。我ながら、随分と手ひどくやられたもんだ」

 

 老獪さを感じさせる低い男の声だった。黎斗は現れた赤い男に人差し指を突きつけ、誰何する。

 

「なんだおまえは。この神の領域に無断で脚を踏み入れるとは無礼者め……名を名乗れェ!」

「お前がこの世界の案内人か。そうピリピリするなよ、敵意はない。俺の名はァ……そうだなあ、ブラッドスタークとでも名乗っておこうかァ。親しみを込めて『スターク』とでも呼んでくれ!」

 

 スタークと名乗った男は、指先まで赤に覆われたその手を頭の横で軽く振ってみせた。敵意はないということは伝わったが、歓迎するのはまだ早い。黎斗は考えるように腕を組み、うつむきがちに己の顎に指を添えた。

 

「そのスタークとやらが、いったいどうやってこの世界に干渉してきた」

「恥ずかしい話だが、現実世界の方でやらかしちまってねえ。俺の本体はとっくに消滅しちまったが、意識だけはかろうじて残ったんで、完全に消滅する前にこっちに逃げてきたってわけだ」

「逃げてきた? 見たところ、貴様はバグスターでもなければ仮面ライダーでもなさそうだが」

 

 黎斗は目を細め、スタークのつま先から頭まで舐めまわすように眇めた。対するスタークは特段気分を害した様子もなく、余裕ぶって笑うだけだ。

 

「ま、似たようなもんさ。尤も、今の俺は、そのバグスターってのに近いんだろうがな」

「貴様、バグスターを知っているのか」

「知ってるとも、俺の世界にもバグスターウイルスを研究している人間がいたからなあ」

 

 どこからか取り出した銃型のアイテムを軽く掲げ、スタークは装填されていた小さなボトルを取り外した。同時に赤い装甲のデータはピクセル化し、霧散してゆく。

 一瞬ののち、スタークの装甲の下から、柄物のワイシャツの上にベージュ色のジャケットを羽織った男が姿を表した。鼻の上には丸眼鏡型のサングラスが乗せられている。人間としての姿は、黎斗よりも二回りほど年上の中年男性のように見受けられた。変身を解除した途端、男の声のトーンは高くなり、まさしく別人の声に変わった。

 

「ここに逃げ込むのは中々骨が折れたよ。まず手始めにそこらの一般人に俺の意識を憑依させ、そいつの記憶を辿ってガシャットの存在を知った俺は、その技術に再起の可能性を懸けることにした。まったく、憑依したのがあんたの会社の社員でよかったよ」

「お前の話はわかった。だが、このガシャットを見つけ出すのは簡単な話ではなかったはずだ。なにしろこのゲームはいずれ宝生永夢に挑む為に創られた神のゲーム、まだ誰にも知られず封印されていたはず」

「ああ、簡単じゃなかったとも。だが、そういう、封印されてるゲームだからこそいいんだ。誰にも見つかってないってのは、誰の邪魔も入らないってことだろ」

 

 黎斗は、ふむ、と一言唸ると、憮然とした様子で眉根を寄せた。スタークを名乗るこの男がどこまで黎斗のことを知っているのか、探りを入れてみたくなった。

 

「ということは、この檀ッ黎斗神の神の才能についても当ォ然知っているんだろうな」

「ああ、知ってるとも! あんた、過去にも何度かデータ化した自分自身を現実世界に復活させるためにゲームを仕組んだことあるだろ。大した才能だよ。到底真似できるもんじゃない。その神の才能を、今回は俺にもほんの少しだけ分けて欲しいって話をしにきたのさ」

「なんだと」

「あんた、俺と一緒にこのゲームを盛り上げてみる気はないか?」

 

 スタークが変化した中年男は、その顔に深く皺を刻みながら、人懐っこそうに微笑んだ。

 

   ***

 

 パソコンモニターから視線を外し大きく息をついた桐生戦兎は、デスクの上に置かれた銀色の機械に目を向けた。犬の形をしたロボットの外装だ。銀色ののっぺりとした本体には、まだ塗装すらなされていない。パソコンの画面に表示されているのは、戦兎が造ったペットロボットの行動を制御するためのプログラミング画面だった。まだまだ調整が不十分で、誤作動の可能性が大きい。戦兎の理想は、本物の犬と同等の知能をもって、飼い主と遊び、ともに成長できる高性能AIロボだ。課題は多く、完成は当分先になりそうだった。長期戦が予想される。

 

「おう戦兎、今度のガラクタはどんなんだ」

「ガラクタじゃねえよ。俺はね、いま、お前のクローズドラゴンよりも高性能なペットロボットを造ってる最中なの」

「こいつがァ?」

 

 万丈龍我は、胡乱げな眼差しをロボットの外装に向けながら、その胴体を掴み上げた。しばしロボットの顔とにらめっこをしたのち、指先で手足をつついて遊び始める。その姿が、戦兎には人形で遊ぶ子供のように感じられて、思わず笑みを零した。

 

「そ。売り物なんだから、遊んで壊すなよ」

「壊さねーよ」

 

 いつも通り子供をあしらうように対応しながら、戦兎はここまでのプログラミングデータを保存して、席から立ち上がる。

 この新世界において、桐生戦兎と万丈龍我のふたりに市民権はない。そもそも住民としての登録もないので、定職に就くこともできない。生きていくために、戦兎は己の持てる技術を用いて、戦争に使われることのない発明品を生み出し、それをフリーマーケットで売り出す生活を続けていた。

 戦兎ほどの才能と実力があれば、己の発明品を自らこの世界の企業に売り込み、技術職で雇って貰うことも不可能ではないのかもしれない。例えば、ゲーム会社の『幻夢コーポレーション』あたりであれば、戦兎の天才的な能力を活かせないこともないだろう。だけれども、万丈を差し置いて自分一人だけが定職を手に入れるのは憚られるし、そもそも自分の稼ぎひとつで万丈を養っていくというのは、いささか気持ち悪い。

 現状の生活には満足している。この世界にスカイウォールは存在せず、元の世界で不幸な人生を辿った人々も、この新世界では人並みの幸せを謳歌しているのだ。その中で、戦兎が発明品を造り、万丈がフリーマーケットで売り出し、稼ぐ。決して大金は得られないが、ふたりで細々と暮らしていくのは、これはこれで悪くないと戦兎は思っている。

 自分専用のマグカップにコーヒーを注いでデスクへと戻ると、パソコンモニターの端で、メールソフトのアイコンが未読メールの存在を示す点滅を繰り返していた。

 

「なんだ、誰かからメールが来てるぞ」

「お前いつの間にメル友なんか作ったんだよ」

 

 眉根を寄せて、その大きな瞳を見開いてパソコンモニターを食い入るように見つめる。万丈の軽口も耳を通り抜けていった。

 考えられない、ありえないことが起こっている。この新世界に戦兎の連絡先を知っている人間など存在するはずがない。一瞬、俯きがちに視線を泳がせ黙考した戦兎だったが、考えても仕方がない。アイコンにカーソルを合わせ、受信したメールを開く。

 差出人は。

 

「エボルト」

 

 画面に表示された、たった四文字の短い名前を、戦兎は淡々と呟いた。

 戦兎たち仮面ライダーの宿敵にして、人類の、ひいては星の天敵たる地球外生命体の名前を。

 

「はァ!?」

 

 がしャン、大きな音を立てて戦兎が造ったロボットの外装が地面に落ちた。戦兎の肩に手を乗せて、万丈もまたパソコンモニターへと身を乗り出す。

 新着メールは一件。

 差出人はエボルト。

 メール本文は空白だが、代わりに添付データが貼り付けられていた。

 ふたりの間に無言の間が流れる。怪訝な面持ちのまま、正体不明の添付データにゆっくりとカーソルを合わせる戦兎に対し、万丈は不安げに画面と戦兎の顔を幾度も見比べている。戦兎はちらと万丈の顔を見ると、肺に溜まった空気を鼻から押し出した。こういうとき、知識の面で万丈がまるで役に立たないことを戦兎は知っている。

 

「なんか添付されてるな……見たことない拡張子っぽいが」

 

 添付データは随分と容量が大きいらしく、圧縮ファイルに変換されていた。ファイルをダウンロードし、解答する。再構築されたデータは、一見、なんのデータか判然としなかった。少なくとも、戦兎の知らないプログラムだ。

 

「おい戦兎、なんなんだよこれ、なんでエボルトからメールが来てんだよ!」

「俺が知るわけないでしょうが」

 

 にべもなく切り替えされ、万丈は憮然として押し黙った。

 

「……なんにせよ、差出人が本当にエボルトなら、まずはこのデータを解析する必要がある」

「俺はどうすりゃいい!?」

 

 戦兎の肩に手を乗せたまま、困惑の色を濃く顔に滲ませている万丈を安堵させるように、戦兎は努めていつも通りの様子で頬を緩めた。

 

「今日の分の売り出しにいってこい」

 

 万丈の額を指先で軽く小突く。万丈は数歩よろめきつつも、戦兎の意図を汲み取ったのか単なる馬鹿なのかは知らないが、戦兎が今日まで造ってきた発明品を抱え、早々に飛び出していった。万丈が去ったあと、地面に置き去りにされたペットロボットの外装に視線を向ける。脚が取れていた。

 

「ったく、あれだけ壊すなって言ったのに」

 

 軽く肩を竦め、戦兎は笑う。この生活を、これはこれで気に入っているのだ。せっかく到達した新世界を、再びエボルトに脅かされるわけにはいかない。このメールがエボルトからの挑戦状というのならば、天才物理学者の戦兎が解いてみせるしかない。戦兎は息抜きに淹れたコーヒーを一口胃に流し込みつつ、パソコンモニターに向かい合った。

 

 あれから数時間ののち、万丈は、エボルトから届いた添付データの解析を戦兎ひとりに任せたことを強く後悔した。今日もいつも通り戦兎が借りた埃っぽいラボへと帰宅し、大した売上にならなかったぞ、お前の発明どうなってんだ、などと茶化しながら戦兎と笑い合う、いつも通りの日常が待っていると心のどこかで思っていた。エボルトから連絡が来たとはいえ、それが本当にエボルトの復活に直結するだなどと思うはずもない。

 

「戦兎! おい戦兎、返事しろ戦兎ッ! 起きねェとまた顔に落書きすんぞ!」

 

 パソコンモニターの前で、デスクに突っ伏すようにして意識を失っている戦兎を抱き起こし、強く揺さぶる。口汚く罵っても、頬を叩いても、戦兎はまるで死んだように反応を示さない。これがただの熟睡でないことは、流石の万丈にだってわかる。エボルトから連絡が来た直後に意識を失うなど、普通であるわけがない。

 

「ッ、そうだ、エボルトからのメールはどうなったんだ」

 

 そこで万丈ははたと思い出した。戦兎はエボルトから届いたデータを解析すると言っていた。パソコンモニターに視線を向けるが、モニターは既になにも映し出してはいない。電源が落ちている。

 

「ちくしょう、どうなってやがんだ!」

 

 誰にともなく怒鳴り散らしながら、万丈はパソコン本体の電源ボタンを押し込んだ。ぶゥん、と羽虫が飛ぶような短い駆動音を鳴らして、電源ボタンのランプが点灯する。一瞬ののち、モニターに起動画面が表示される。けれども、様子がおかしい。画面の中のピクセルが、ところどころ、モザイクでもかけられたようにぼやけている。やがてパソコンの起動が完全に完了したとき、万丈はようやくその異常の正体に気付いた。

 

「こいつはッ」

 

 戦兎が解析し、再構築したデータが、画面上に表示されている。まるで生きているかのように、さながらコンピューターの中を自在に動き回るウイルスのように。それを目視し、認識してしまったとき、万丈はふっと意識が遠のくのを感じた。

 かくして二人へと仕向けられた罠は正しく作動した。エボルトによって送り付けられた罠は、新種のバグスターウイルスとなって二人に牙を剥いたのだった。

 

   ***

 

「ようこそ。君が新たな挑戦者(プレイヤー)か。我が珠玉のゲーム『フェイトクロニクルZ』への挑戦、心から歓迎しよう!」

 

 未だ判然としない意識の中、寝ぼけ眼の戦兎を出迎えたのは、尊大な口調で語るひとりの男だった。空から降り注ぐ陽光に目をしかめつつ、戦兎は周囲を見渡す。見覚えのない街だ。戦兎は最前までいた街と比べると、幾らか緑が多い。視界の端には海が見えるが、潮風の匂いはしなかった。

 

「あんたは」

 

 未だ眠気によって細められたままの瞳で、戦兎は目の前に現れた黒いジャケットを着た男に誰何する。

 

「私は……神だ!」

「神?」

 

 戦兎は小首をかしげた。

 

「そう、私こそは、神の才能に恵まれた男、檀ッ、黎斗神……」

「ダン、クロトシン……」

「そしてこの世界は神の想像(アイデア)によって創造された仮想世界(ゲームエリア)! 現実世界に戻る方法はたったひとつ! これからはじまる『聖杯戦争』と呼ばれる魔術儀式に、君もマスターのひとりとして参加し『聖杯』を手にすること……」

「ちょ、ちょっと待て、いきなりなに言ってんだあんた。神だの聖杯戦争だのマスターだの、俺にどうしろって言うんだよ、もっとわかるように説明しなさいよ」

「うん? 天才を自称する割には物分りが悪いな……まあいい。左手の甲を見てみろ」

 

 促されるまま、戦兎は左手の甲を掲げる。覚えのない赤のタトゥーが、色濃く刻み込まれていた。

 

「なんッだこれ、いつの間に!」

 

 慌てて甲を擦るが、タトゥーが消える様子はない。擦っても引っ掻いてもタトゥーは微動だにせず、ただただ手の甲に痛みが走り、肌がじんわりと赤らむだけだった。

 檀黎斗が、上体を軽くのけ反らせながら高らかに笑った。

 

「君の左手に刻まれたそれは『令呪』と呼ばれる、いわば我が聖杯戦争への()()()だ。自らのサーヴァントに対する絶対命令権であると同時に、その令呪を三画すべて失った時点で、サーヴァントへの絶対遵守の命令権は失われる……つまり、サーヴァントが君の制御を外れる可能性がある、ということだ」

 

 事ここに至って、ようやく状況が読み込めてきた戦兎は、左手に深く刻まれた三画の令呪から視線を外し、檀黎斗を睨め付ける。

 

「あのメールを送ったのはお前か」

「厳密に言えば私ではない。スポンサーの意向さ」

「スポンサー?」

「ああ。とある事情で開始されることなく埋もれていくはずだったこのゲームを見事ッ、掘り起こしてみせたスポンサーからのたっての希望でね。君は主催者から直々にゲームに招待されたのだよ」

「メールに添付されてたあのデータは!」

「あれはこの私が新たに開発したバグスターウイルス……いわば我々からの挑戦状だ。あの難解なパズルを解いてみせたことには素直に称賛を贈ろう。まあ、あの程度のパズルも解けないようなら、私のゲームに挑戦するなど夢のまた夢だが」

 

 黎斗は腕組みをしたまま、満足気に笑みを深めひとり頷いている。

 戦兎の中で、すべての辻褄が合わさった。あのメールの差出人はこの男とエボルトで、添付されていたファイルはそのまま、戦兎へと差し向けられた罠だったのだ。それ単体では機能しないただのジャンクデータを戦兎は自ら組み上げ、現実世界の人間の意識をゲーム世界へと引きずり込むウイルスを完成させてしまったことになる。

 今にして思えば、あんな得体の知れないメールは相手にせず無視しておけばよかったのだ。自分自身の天才的な才能が悔やまれる。戦兎は深く吐息を零して、頭を掻き毟った。

 

「お前、自分がいったいなにと手を組んだかわかってんのか」

「当ォゥ然、わかっているとも。だが、だからこそ面白いんじゃないか……誰が最初に聖杯を手にするのか。ゲームマスターである私か、それとも侵略者である()か……?」

 

 黎斗は不敵に口角を吊り上げ、笑う。短いやりとりで、戦兎は檀黎斗という人間が、話をするだけ無駄な人種であることを悟った。

 同時に、檀黎斗が天才的な才能を持った人間であることも理解した。この空間が仮想現実ということも、おそらく事実だ。海に近いのに潮風も潮の香りも感じないことがその証左と考えていい。

 

「はァァ……最ッ悪だ」

 

 自分のなすべきことを理解した戦兎は、特大の嘆息を落とし、ぼやいた。

 エボルトに聖杯を獲らせるわけにはいかない。この電脳世界のどこかにいるエボルトを倒し、聖杯を獲得したのち、元の世界に戻る。それがこのゲームのクリア条件だ。

 戦兎は諦念混じりの決意を固め、黎斗へと向き直った。

 

「やることはわかった。その上で、一応確認するぞ。この聖杯戦争ってのに現実世界から参戦してるマスターは俺だけか」

「あいにくと、まだすべてのマスターが出揃ったわけではないのでね。きみ以外の何人が現実の人間で、何人がNPCなのか……その答えは、自分の目で確かめてみることだ」

「……そういう答え、一番役に立たねえんだよな」

「感謝するがいい、迷える子羊に道を指し示す神のお告げだ」

「ああ、はいはい。で、その自称神様のあんたはマスターなのか」

「私はゲームマスターだ。一般参加のマスターと一緒にされては困る!」

 

 戦兎は眉根を顰め、再度嘆息を零す。会話にならない。

 呼吸を整え、戦兎は問いを変えた。

 

「わかった、じゃあ、そのサーヴァントってのはどうやって召喚すりゃいいんだ」

 

 戦兎の問いに応えたのは、黎斗ではなかった。戦兎の目の前に、空中に投影されるように半透明のウインドウが表示される。ホログラムだ。ウインドウには、聖杯戦争のルールについて、と見出しが書かれている。他にもいくつか見出しはあったが、ひとまず大体のシステムを理解した戦兎は、ウインドウに表示された文字に指を添わせて、画面をスクロールさせてゆく。こういうとき、仮想空間というのは便利だ。

 サーヴァント召喚について、という項目はすぐに見つかった。聖杯のシステムから、サーヴァント召喚のシステム、詠唱のために必要なテンプレート文章などの一覧が確認できる。大きな瞳を見開き、黒目を走らせて読み進めてゆく戦兎を、黎斗はウインドウの奥から見下ろし、ほくそ笑む。不快なので、戦兎は黎斗を視界に入れないように努めた。

 

「私からの説明は以上だ。それでは、充実した聖杯戦争ライフを送れることを祈っているよ、桐生戦兎」

 

 ややあって、誇らしげにそう告げた黎斗の体は、空に溶けるようにピクセルの粒子へと変換され、霧散していった。

 

   ***

 

 黎斗が用意したホログラムウインドウは、いわばゲームの取扱説明書のようなもので、ゲームシステムの簡易説明以外の知識は与えてはくれなかった。だから、戦兎はまず、日が落ちる前に図書館へと赴き、この街の構造と簡単な歴史を学んだ。幸いにも聖杯戦争のマスター(ゲームのプレイヤー)として参加している戦兎には、予めある程度の市民権は与えられているらしく、拠点として使える安アパートの一室も貸し与えられていたので、図書館への入館と本の貸し出しも思っていたよりもスムーズに行えた。時代背景ゆえか、現実世界と違って警備が手薄であったことも大きい。

 戦兎の調べによると、冬木市は海と山に面した地方都市で、新都と呼ばれる開発が進んだエリアと、深山町と呼ばれる昔ながらの住宅街エリアに分けられているらしい。戦兎の拠点として用意された安アパートは、このうち深山町側に存在している。

 時刻がサーヴァントを召喚するに相応しい深夜帯に差し掛かるまで、戦兎は借りてきた本を自室で読み耽って過ごした。パソコンとネットが使えれば早かったのだが、この仮想世界における時代背景は()()()()()と設定されているらしく、戦兎の時代と比べてインターネットもさほど普及していなかった。それに気付いた時点で、戦兎はパソコンとネットに頼るという戦法に早々に見切りをつけた。

 幸いにも、ビルドドライバーとフルボトルはこの世界にも持ち込めているらしい。使用できるなら戦闘を有利に進めるキーアイテムとなるが、この聖杯戦争におけるサーヴァントシステムの特性上、外部持ち込み品のライダーシステムがどこまで通用するかはわからない。過信は禁物だ。

 

 人気のない山道を進み、開けた空間に出たところで、戦兎は立ち止まった。慣れない山道を歩く疲労からか、戦兎の息は既にあがっている。口から漏れる息は白く、その息を月明かりが青白く照らしていた。本来ならばぴりりと痺れるような寒さを感じる季節なのだろうが、この仮想世界において、戦兎の五感は寒さを感じてはいない。おそらく、暑さも感じない。

 くっつけた親指と人差指を空中にかざし、勢いよく指を広げる。同時に、戦兎の指先がちょうど触れる箇所に、半透明のホログラムウインドウが展開された。

 聖杯戦争に関する基礎ルールの画面をスクロールして、召喚画面をタップすると、ホログラムの枠内にサーヴァント召喚に用いられる魔法陣が表示された。画面を長押しすると、戦兎の目の前の地面に、選択した魔法陣が転写される。

 

「本来なら血や水銀が必要って聞くけど、これなら楽でいいな」

 

 流石にゲームでそんななまなましい部分まで再現されても困ると思いつつも、戦兎は宙に浮かんだ画面の左端に人差し指で触れ、勢いよく右へとスライドさせた。それだけで、画面がひとつ前へと戻る。再びスクロールし、召喚の詠唱画面を表示させる。こればかりは自分の口で読み上げる必要があるらしい。

 

「それじゃ、いきますか」

 

 両の掌を軽く打ち合わせ、意気込む。サーヴァントは、召喚を行ったマスターに相応しい英霊が自動的に選択されると聞き及んでいる。天才物理学者の戦兎がマスターになるならば、いったいいかなる英霊が召喚されるのか、想像を膨らませる。こういうとき、戦兎は湧き上がる好奇心を抑えられない。頭頂部の髪の毛が一房、ぴょんと跳ね上がる。かのニコラ・テスラか。それともトーマス・エジソンか。有名な発明家たちを脳内に思い浮かべるだけで、戦兎の心は昂揚した。

 定められた召喚の詠唱は、滔々と淀みなく読み進められる。詠唱が進みにつれ、魔法陣が輝きを宿し、マナの嵐が戦兎の視界を覆ってゆく。まっすぐに前方を見据え続けることが困難に感じられる程の魔力の乱気流に晒されながら、戦兎はそれでも、その大きな瞳に目一杯の力を注ぎ、魔法陣の中心を凝視する。

 

「――汝三大の言霊を纏う七天、抑止の輪より来たれ、天秤の守り手よ」

 

 やがて、詠唱の完了とともに、咲き乱れたエーテルの輝きは戦兎の視界を真っ白に染め上げた。直視し続けることは難しく、思わず両腕で視界を覆う。

 魔力の奔流が収束する。再び瞳を開ける。月明かりが淡く照らす静謐な夜の森林に、抑止の力の御座より来たりし英霊が佇立していた。黒いスーツの上に赤い外套を羽織った、細身の男だ。長い黒髪が、風に乗って揺れる。まだそう年老いてもいないはずのその顔には、若さに不釣り合いな皺が多く刻まれていた。

 戦兎は一歩、歩み寄った。

 

「あん、たは」

「サーヴァント、諸葛孔明。此度はキャスターのクラスをもって現界した」

「諸葛孔明~~~ッ!」

 

 戦兎の瞳が輝く。興奮のあまり、一房隆起した髪の毛ごと、己の後頭部を幾度も掻き毟る。

 諸葛孔明といえば、音に聞こえた天才軍師。発明家ではないが、その存在は戦兎とて当然知っている。身に纏う装束が思いの外現代風なのは予想外だったが、召喚される英霊には座から現代の知識がある程度は与えられると聞いている。なによりこの世界は仮想空間(ゲームエリア)だ。多少のディフォルメも気にはならない。

 ()()()を引き当てた。そう確信し笑みを深める戦兎に、キャスターのサーヴァントは静かに、その玲瓏な眼差しを向けた。

 

「問おう。君が私を招いたマスターか」

 

 明らかに舞い上がっている戦兎とは対照的に、キャスターは極めて冷静に、どこまでも冷淡に、戦兎にそう尋ねた。


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