仮面ライダービルド×Fate/NEW WORLD   作:おみく

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第17話「誰が為のヒーロー」

 切嗣が買い取った屋敷は、一般の人間が当たり前の生活をする上でなんら不自由がない程度には整備が施されていた。拠点としての意味しか持たない屋敷に生活水準を求めるほど切嗣は贅沢な性分ではないが、切嗣らはあくまでも()()()()この地にやってきて、()()()()この屋敷を買い取った一般人という触れ込みで冬木に留まっている。いつまでも廃屋のような屋敷のまま生活を続けることの方が、かえって不自然だった。

 とんとん、とん。新調したばかりの襖が、リズム良く叩かれる。あらかじめ取り決められていた通りのリズムだ。

 

「入れ」

 

 極めて単調に返答する。襖を開けて静かに入室したのは、切嗣にとって、ある意味ではアイリスフィールよりも安心できる相手だった。彼女のそばにいる限り、切嗣は己の卑劣さを恥じたり、冷酷さを憎んだりせずに済む。切嗣にとって、それは一種の安息だった。

 

「教会の動きが妙です。礼拝の時間を過ぎても、言峰璃正が姿を現しません」

 

 切嗣と舞弥の間には最低限の挨拶すらも必要ない。淡々と切り出された舞弥の報告を受けて、切嗣は黙考する。

 聖杯戦争の監督役の任を任されているとはいえ、言峰璃正は表向きにはまっとうな聖職者だ。敬虔な信徒である言峰璃正が、夕刻を過ぎても礼拝に姿を現さず、その影すらも見せないことは異常だった。

 昼間、石動惣一が去ってからというもの、その行動を訝しんだ切嗣は舞弥に教会勢力の監視を命じていた。その結果報告のため、舞弥は切嗣の指示を待たず、デコーダーをブラウン管テレビに繋いだ。舞弥の使い魔の蝙蝠に括り付けたCCDカメラが捉えた映像だ。冬木教会の今日一日の動きを、早送りで切嗣に見せる。映像に映し出された教会は、徐々に距離が近づき、大きくなってゆく。遂には小窓の内側の、無人の礼拝堂まで目視できるまでに至った。

 

「なるほど、これは確かに妙だな」

「ええ。仮にも教会は不可侵地帯だというのに、これだけ接近しても気取られないとなると、流石に」

 

 切嗣が抱いた感想を、舞弥は的確に引き継いで口にする。彼女の観察眼は、切嗣と同等のレベルで状況判断ができる程度には仕上がっている。そう育て上げたのは他ならぬ切嗣自身だし、切嗣もその点において舞弥を深く信頼している。

 だから切嗣は、彼女に問う。

 

「舞弥、君はこれをどう見る」

「可能性の話をするのなら……言峰璃正は既に始末されている、という見方もできるのではないかと」

 

 切嗣は頷いた。予測した通りの返答だった。

 

「僕もその可能性を考えていた。だとすれば、下手人は――」

 

 映像の中で、切嗣の見知った顔が、教会へと姿を現した。

 

「――石動惣一」

 

 石動惣一は無人の教会へと正面から堂々と入り、礼拝堂の奥へと消えてゆく。おそらくは、教会地下の私室へと戻っていったのだろう。監督役の言峰璃正は姿を見せないというのに、その協力者を自称する石動惣一は変わらず教会に出入りしている。

 なんのために?

 そもそも、璃正神父のいない教会に、石動惣一はいったいなんの目的で出入りしている?

 

 あの教会の地下で匿われている男は――。

 

 それを考えたとき、切嗣は肺の中に溜まった空気を一気に吐き出し、頭を掻いた。一瞬遅れて、自分が柄にもなく焦っていることを自覚する。

 

「……切嗣。今しばらくは教会の監視を続けます。なにをするにしても、今はまだ判断材料が乏しすぎる。功を焦るのは愚策です」

「ああ、そんなことはわかってる。ここで焦って行動を急くのは()()()()()のすることじゃない」

 

 脳裏に、あの男の影がよぎった。

 己の目的のために、聖杯戦争すら蔑ろにして切嗣に追いすがろうとした男の影が。

 此度の戦争において、切嗣が最も警戒し、最も恐れている相手が、切嗣を標的に見据えて動いている。あの男は、言峰綺礼は、あのとき確かに切嗣を標的にして動いていた。それが、切嗣には恐ろしかった。

 

「もしも仮に、監督役の言峰璃正が始末されたとするなら……もう誰も、言峰綺礼を止められるものはいなくなる」

 

 聖杯戦争のルールという枷から外れた綺礼は、必ずまた切嗣を襲撃するだろう。

 事実、あの男は聖杯戦争のルールなど関係なく、自らの意思で切嗣に会いに来たのだと、自分でそう言ったのだ。遠坂時臣の存在など、あの男はきっと枷とも判断しない。切嗣には分かる。言峰綺礼とは、そういう男だ。

 益体もない不安が、長年感じることのなかった恐怖を駆り立てる。ただ人を殺す機巧としてのみあり続けられた頃は抱かなかった類の感情だ。

 いくつもの可能性と、取り留めのない思考が浮かんでは消える。

 するりと、切嗣の首へ蛇のようにしなやかに腕が伸びた。柔らかい、女の腕だ。舞弥の腕は、気の緩んだ切嗣の後頭部を捉えて離さい。切嗣が二の句を継ぐ前に、艷やかな唇が切嗣の唇へとそっと押し付けられた。濡れた舌が、切嗣の唇を割って、その舌先を探り当てる。

 ほんの一泊程度の沈黙だったが、切嗣には実際の時間よりも長く感じられた。唇が離れる。まだ吐息のかかる距離で、舞弥は元来の怜悧な双眸を僅かに潤ませ、蠱惑的に切嗣を見つめていた。

 

「……切嗣。いま必要なことにだけ、意識を向けてください。余計なことは、考えないで」

 

 掠れた声に次いで、もう一度、切嗣の唇があたたかな感触に遮られる。微かな水音が跳ねる。

 いまのふたりに、言葉は必要なかった。最前まで抱いていた不安と恐怖が、薄れてゆく。今この瞬間だけは、どうでもよいことのように思えてくる。

 戦場で拾った、まだ少女だった舞弥をこういう女にしたのは、他ならぬ切嗣自身だ。その自覚が、また、切嗣の心の温度を冷ましていく。切嗣が冷徹な機械であり続けるためには、彼女という補助機械は必要不可欠だった。

 

 

 新調したばかりの真新しい襖に額を当てたまま、アイリスフィールは身動きを取れずにいた。心音が高鳴る。胸が内側から締め付けられるような心地のまま、アイリスフィールは物音を立てないように、そっと襖を離れた。中にいるふたりに気取られてしまうことだけは、避けたかった。フローリングの床を、音を立てないよう細心の注意を払って踏みしめ、ある程度離れたところで、アイリスフィールは足早に駆け出した。縁側に差し掛かったところで、足を止めた。

 はじめは、ほんの些細な好奇心だった。こと争い事において、アイリスフィールは自身がまるで役に立たないことを自覚している。だからせめて、襖の向こうで、切嗣と舞弥がどんな会話をしているのかが知りたかった。邪魔をするつもりはなかった。ただ、静かに聞き耳を立てれば、それでよかったのだ。

 襖の向こうのふたりがなにをしていたのか、本当のところはわからない。けれども、アイリスフィールとて乙女だ。ふたりの会話の温度や、息遣い、微かに聞こえる物音から察するに、男女の間でなにが行われていたのかなど容易に想像がつく。

 

「――なに考えてるんだろう、私」

 

 縁側にすとんと腰掛け、誰にともなくひとりごちる。

 アイリスフィールは、久宇舞弥という人間を切嗣ほど深く理解はしていない。裏を返せば、久宇舞弥は切嗣にとっても最優の理解者のひとり、ということにほかならない。今の切嗣にとって、舞弥は必要な人間であると、認めるしかなかった。

 切嗣の心から不安と恐怖を取り除き、かつての強靭な冷酷さを呼び戻すことができるのは、久宇舞弥だけなのだ。アイリスフィールでは叶えられぬ願いを、彼女が引き受けてくれている。

 たとえふたりがどのような関係であろうとも、切嗣がアイリスフィールに愛情を注ぎ、生きることの意味を教えてくれたという事実に嘘はない。ならば、自分もこんなところでへこたれている場合ではない。

 舞弥が舞弥にしかできないことをやっているのなら、アイリスフィールにはアイリスフィールにしかできないことをする必要がある。それが、妻である自分の役目だ。

 かぶりを振って眦を決したアイリスフィールは、すっくと立ち上がった。まずは、自分にもできる切嗣のサポートを考えよう。守られるだけではない。聖杯の守り手としてだけではない、自分だけの役目を探そう。

 思い直し、振り返ったところで、アイリスフィールはアーチャーと視線を合わせた。ちょうど台所から出てきたところらしい。濡れた手をタオルで拭きながら、アーチャーは口元を歪めた。

 

「アイリスフィールか。縁側で夕涼みをするには、些か時期を違えているようだが?」

「いや、ええと、そういうわけじゃなくてね。というかアーチャー、あなたこんなところでなにしてるの?」

 

 苦笑しつつ返答するアイリスフィールに、アーチャーはさも得意げに笑みを深め、踵を返した。アイリスフィールもその背に追従する。向かう先は台所だった。

 

「ああ、ちょうどいい、少し見てくれないか、アイリスフィール。水回りの整備を済ませたところなんだ」

「水回りって……そんな雑用みたいなこと、わざわざサーヴァントのあなたがしなくたっていいのに」

「いやなに、黙って見ていられない有様だったものでね。ひとまず最低限の生活水準には達したと思うが、どうだろうか」

 

 アーチャーに案内されるがままに居間に入って、アイリスフィールは目を見開いた。はじめ見たときは長年手入れすら施されていない古さびた台所、といった印象だったが、それが今では見違えるほどに整備が行き届いている。シンクは銀色の輝きを放ち、壁のタイルは新品同様に艶めいている。ビルトインのガスコンロと冷蔵庫はいずれも舞弥によって発注された最新式のものが設置されており、そのほか生活に必要と思われる食器や料理道具は一通り揃っていた。

 

「あら、すごいじゃないアーチャー! ひとりでここまで片付けたの? こんなにも家事が上手なサーヴァントがいたなんて、聞いたことがないわ」

「ふ、どうやらこの霊基に本能レベルで染み付いていたらしい。記憶が戻らないのにこんなことばかり得意というのも、まったく褒められた話ではないがね」

 

 アーチャーの苦笑に、つられてアイリスフィールも笑った。

 

「あなたって、きっと本当は優しい人なのね。切嗣の隣で、険しい顔をして戦っている姿よりも、こうして日常の些細なできごとで笑っている方が、なんというか……うまくいえないんだけど。本当のあなたの顔に近いような、そんな気がするわ」

 

 ほんの一拍の間だが、アーチャーは押し黙った。柄にもなく目を丸くして、アイリスフィールに見入っている。アイリスフィールは慌てて手を振った。

 

「ああ、いや、違うの。別にあなたを馬鹿にしたわけじゃなくて。気分を害したならごめんなさいね、アーチャー。自分の記憶を思い出せないのに、こんなことを言われても困るわよね」

「いや、構わない。特段困りはしないが……ただ、少し驚いた、とでも言うべきか」

 

 アーチャーは取り立てて表情の険しくすることもなく、むしろ穏やかな面持ちで深く息を吐いた。

 

「……驚いた?」

「まさかサーヴァントの身でありながらそんなことを言われる日が来るとは夢にも思わなかったものでね」

「あら、じゃあ私の評価も案外当たってたりして?」

 

 アーチャーは鼻で笑った。

 

「いいや、慮外も甚だしいな。まして、サーヴァントを捕まえて家事が上手だなどと、それでは本当の意味でただの使い魔(サーヴァント)だ。私の本分はあくまで戦うことだよ、アイリスフィール」

 

 ほんの僅かの間に、最前までの穏やかな表情は消えてなくなっていた。いつもと変わらぬ皮肉を込めた笑みを受けて、アイリスフィールもまた諦めたように笑った。

 アイリスフィールには、自分の心に蓋をして、わざと機械のように振る舞おうとしている夫と、眼前のアーチャーの姿が重なって見えた。

 きっと、本当は、戦いとは無縁の場所で、心から穏やかに笑っていられる場所の方が、彼らには似合うのだ。聖杯戦争の果てに、アイリスフィールと切嗣が夢想する世界が待っているのならば、やはりアイリスフィールは立ち止まってはいられない。自分にできることをやらなければ。しかし、今の自分になにができるのかがわからない。

 

「アイリスフィール。次の方針が決まった」

 

 不意に、背後から声がかけられた。切嗣に続いて、舞弥が居間に入ってくる。

 アーチャーの表情が引き締まる。アイリスフィールも一瞬遅れて気を張り、切嗣に向き直った。

 

「切嗣、なにか新しい作戦を思いついたの?」

「作戦というほどのものでもない。ただ、僕たちはひとまず“見”に徹することにした」

「ほう、穴熊を決め込むと? らしくない決断だな、マスター」

 

 切嗣はちらりとアーチャーに一瞥をやったが、それだけだった。アーチャーの軽口に応える素振りは見せない。

 

「石動惣一に話した通り、僕たちはキャスター陣営を標的とはしない。だが、それはランサー陣営に対しても同様だ。目下の最優先警戒対象を、言峰綺礼と石動惣一のふたりに絞る」

「どういうこと? 一番の強敵は遠坂のセイバーじゃなかったの?」

「ああ。純粋な戦力だけで語るなら、最大の難関はセイバーと考えて間違いない。だが、あのマスター……遠坂時臣の行動の根底にあるのは、どこまでいっても魔術師のソレだ。僕らの予測の域を出るものじゃない」

「対して、言峰綺礼……あの男には既に切嗣を襲った()()があります。今後もなにか仕掛けてくるものと見て警戒しておくに越したことはありません」

「……そして、言峰綺礼と石動惣一は裏で繋がっていると見てまず間違いはない」

 

 切嗣と舞弥の状況判断に、アイリスフィールはなるほどと頷いた。

 妙な因縁をつけて切嗣に接触を図ってきた言峰綺礼と、目的の見えない石動惣一。切嗣がこのふたりを最も警戒すべきと判断したのなら、きっとその通りなのだろう。

 

「でも、そうなると石動惣一との関係はどうするの? あの男、きっとこれからも私達に接触してくるわよ」

「そうだな。不要な接触は避けたいところだが、向こうから来るというのなら是非もない」

 

 切嗣はここで、はじめてアーチャーに向き直った。

 

「しばらくは石動惣一を泳がせ、その目的を探る。だが、あの男がスキを見せることがあれば――殺せ。手段は選ぶな」

 

 ほう、と。アーチャーは小さく唸った。

 

「仮にもやつは聖堂教会の人間だろう。殺してしまっても構わんのか」

「構わない。あの男が僕らと接触していること自体、聖堂教会からすれば慮外の事実だ。……いや、そもそも、今の聖堂教会が監督役としてまともに機能しているのかどうかも怪しい」

「それ、どういうこと?」

 

 アイリスフィールが問うと、切嗣は体の芯をこちらへ向けて、話し出した。

 

「今朝から言峰璃正が姿を現していない。知っての通り、言峰璃正といえば神に仕える敬虔な神父様だ。自分の役割を放棄した試しは、過去に一度もない。それが丸一日表に出てこないとなると、流石になにかあったと考えるのが妥当だろう」

「つまり、既にこの世にはいない可能性もある、ということか」

 

 切嗣はアーチャーをちらと一瞥するが、言葉での返答はなかった。

 己がマスターからの返答を待たぬまま、アーチャーは笑った。

 

「いいだろう。他ならぬマスターからの要請であれば、逆らう道理もない。その仕事、引き受けた」

 

 冷酷無比な宣言だが、その言葉そのものが、無理をして発せられているようにアイリスフィールには感じられた。

 アーチャーは、皮肉屋の仮面で心を覆い隠して、ただ目的を遂行するだけの機巧たらんとしている。そういう印象を抱いた。だとすれば、それははじめて出会った頃の切嗣と同じだ。

 

「それじゃあ、アイリ。僕はまた出かけるよ……そろそろキャスターたちも動き出す頃だからね。街中に監視の目を張り巡らせておく必要がある」

 

 やりとりはそれだけだった。アーチャーの返答を聞いた切嗣は、アイリにだけ微笑みを向けると、それきり能面のような無表情へと顔色を切り替えて踵を返した。舞弥もその背に追従する。ふたりの姿が廊下へ消えたところで、状況に取り残されていたアイリスフィールは弾かれるように駆けた。

 

「ねえ、ちょっと待って切嗣」

 

 玄関の手前で切嗣は立ち止まり、振り返った。その瞳からは、最前アーチャーに向けたような、冷徹な刃物のような剣呑さは感じられない。穏やかな表情で、切嗣はアイリスフィールに向き直った。

 

「どうしたんだい、アイリ。今後の方針で、なにか不安なことでもあったかい?」

「切嗣……――」

「たしかに先の見えない状況ではあるが、心配には及ばない。聖杯は必ず獲る。最後にやつらを出し抜くのは、僕たちだ」

「違うわ、私はそんなことを言いたいんじゃないの」

 

 アイリスフィールには、いま自分で自分ががなにを言おうとしているのかが判然としなかった。ただ、あの瞬間感じた違和感を、口に出さずにはいられない。胸の奥でざわつく不安を抑え込むように両手を胸元に添えたまま、アイリスフィールは問うた。

 

「ねえ、切嗣。アーチャーと、なにかあったの?」

 

 切嗣は眉一つ動かすことなく、優しい瞳のままこちらを見つめている。アイリスフィールにしてみれば、その仕草そのものが不自然だった。

 

「なにもないさ」

「嘘」

「嘘じゃない。甘すぎたんだ、今までが」

 

 ロングコートを翻して、切嗣は体の軸をアイリスフィールから背けた。

 

「僕らの理想には、英雄も英霊も必要ない。それは、あのアーチャーも同じだ。どんな精神の持ち主だろうと、あれが英霊などという存在である以上、僕らの求める世界には相容れない存在なんだ。そんなものと必要以上に言葉を交える必要はない」

「そんなの、寂しすぎるわ」

 

 アイリスフィールは切嗣の言葉に食い下がった。自分でも珍しいことだと自覚はしている。けれども、まだ、思いは伝えられていない。ここで引き下がることはできない。

 

「アーチャーの身になにがあって、英霊の座なんてものに召し上げられてしまったのかは、私にだってわからないわ。けど、あの子は私達と同じ、人間よ。あなたが嫌う英雄の類じゃない」

 

 切嗣はなにも言わない。ただ、静かに背を向ける。アイリスフィールはその背に言葉を投げる。

 

「お願い切嗣……ちゃんと、アーチャーと話をしてあげて。あなたがあの子と向き合わずに、誰があの子を理解してあげられるの」

 

 自分が突拍子もないことを言っていることは自覚しているつもりだった。けれども、アイリスフィールには、この世に数多ある伝説に祀り上げられる英雄豪傑と、あのアーチャーを一緒くたにされることに強い違和感を覚えていた。それを認め、アーチャーの在り方を否定することは、巡り巡って切嗣の在り方をも否定してしまうような気がしてならなかった。

 

「――それで、聖杯が獲れるのかい?」

 

 玄関口に差し掛かったところで、切嗣は首だけを回して振り返った。

 返答に詰まったアイリスフィールの二の句を待つことなく、切嗣は再び背を向け歩き出した。

 

「この戦争を人類最後の流血にする。そのためなら、僕はこの街の人間をすべて殺し尽くしても構わないとすら思っている……そんな男が、いまさら他人と向き合ったところで意味なんかない。僕らにはもう、そんな余裕は残されていないんだ」

 

 冷たい声音でそう言い残し、切嗣は玄関の引き戸を開け、夕闇の世界へと消えていった。呆然と立ち尽くすしかできないアイリスフィールの背を追い越した舞弥が、静かに振り返る。

 怒っているわけでも、悲しんでいるわけでもない、表情の読めぬ面持ちで、舞弥は伏し目がちに口を開いた。

 

「失礼ながら、マダム。私も切嗣とは長いつもりですが……私は、切嗣のあのような表情を見たことは、今まで一度もありませんでした」

「え……舞弥さん?」

「私には、切嗣にあのような優しい顔をさせることは、できません」

 

 舞弥が知っている切嗣とは、すなわち数多の戦場で畏れられてきた魔術師殺しとしての衛宮切嗣だ。より多くの命を活かすため、ただそれだけのために冷酷な機械となって、人を殺し続けてきたいびつな機械。アイリスフィールが知る切嗣とは、違う。

 

「切嗣にはあなたが必要です。どうか、これからも切嗣をそばで支えて欲しい」

 

 舞弥なりの精一杯の励ましのつもりなのかもしれない。

 

「え、ええ。それはもちろん、こちらこそ」

 

 舞弥は微かに頬を緩めた。平時の無表情とさして変化はないが、それでも、それが微笑みであることは理解できる。

 

「私は、切嗣の伴侶に真に相応しいのは、あなたのような女性だと思っています」

 

 それだけ言って小さく会釈をした舞弥は、切嗣の後を追うように屋敷の外へと駆け出していった。ややあって、庭先から車のエンジン音が響いた。

 粛然と項垂れるアイリスフィールの肩に、声がかかる。

 

「すまないな、アイリスフィール……妙な気を遣わせた」

 

 居間へと続く入り口の柱の影から、赤い外套が姿を現した。切嗣との会話も、すべて聞かれていたのだろう。振り返ったアイリスフィールは、いたたまれない気持ちに駆られて、苦笑するしかできなかった。

 

「ごめんなさい、アーチャー。なんだか私、空回りばかりで」

「いや、謝罪をするべきはこっちの方なのだろう、この場合は」

「そんなこと……」

 

 アーチャーは微笑んだ。平時と比べるとほんの僅かに柔らかい笑顔のように感じられる。一瞬遅れて、アイリスフィールは、いつの間にか自分がアーチャーの表情の些細な機微まで見分けられるようになっていたことに驚いた。

 

「案ぜずとも、マスターとはいずれ話をつけるさ。私もこのままでいいとは思っていない……だが、今はまだその時じゃない。ただ、それだけの話さ」

 

 アイリスフィールもまた、くすりと、柔らかく微笑んだ。

 

「ありがとう、アーチャー。やっぱりあなたって、優しいのね」

 

 アーチャーは不服そうに肩をすくめた。その仕草が可愛らしく思えて、アイリスフィールはまた笑う。もしも自分に年頃の息子がいれば、こんなふうに接するのかもしれない。そんな思考に意味がないことは自覚している。

 だけれども、ほんの少しの間でも、そんな夢を見たとしても、罰は当たらないだろう。せめて自分が人の形を保っていられる間は、このアーチャーと切嗣のそばにいてあげたいと、アイリスフィールはそう強く思い直した。

 

   ***

 

 もともと時臣の私室として使われていた部屋は、今では玉座の間へと変わり果てていた。

 部屋の最奥に誂えられた玉座を取り巻くように、真紅の薔薇の花弁がうず高く降り積もっている。時臣が召喚したサーヴァントは玉座に深く腰掛け、悠然とこちらを見下ろしていた。時臣は無礼のないように、眼前で傅き、頭を垂れる。

 

「――以上が、現状の趨勢にございます」

 

 まだ聖杯戦争ははじまったばかりだ。その戦いの趨勢を逐一セイバーに報告するのは、時臣の義務でもあった。

 ライダーはひとまずバーサーカーと一緒に行動しているが、ことによっては自陣営につく可能性もあること。アーチャーは未だ単独行動を続けていること。そして、キャスターとランサーが手を組み、遠坂の霊脈を次々と奪い取って回っていること。必要な情報はすべて、嘘偽りなくセイバーへと報告した。

 

「報告、ご苦労」

 

 玉座の周辺を飛び回る漆黒の蝙蝠が、セイバーに変わって時臣を労う。

 

「は。さしあたっては、王よ。我らが領地を荒らし回るランサー、キャスター両陣営には、いよいよもって王の誅伐を下す必要があるかと存じます」

 

 セイバーは玉座から微動だにせぬまま、冷ややかに笑った。

 

「構わんぞ。有象無象が手を組んだとて、所詮はか弱き烏合の衆。絶滅させるにはあまりにも容易い」

「ありがたきお言葉」

 

 時臣が思っていたよりも存外にあっさりと引き受けてくれた。その事実に、時臣は僅かに驚きつつも心中で安堵を深め、平伏を深める。セイバーは滔々と続けた。

 

「……時臣。この我が素直に誅を引き受けることがそんなにも意外か」

「いえ、そのようなことは……めっそうもございません」

 

 思考が読まれているのだろうか。時臣は僅かに肝を冷やしたが、それを態度に出すことは遠坂の家訓に反する。時臣は表情ひとつ崩さずに淡々と答えた。

 

「ふん。貴様の領地とは、すなわち我の領地でもある。それを土足で荒らし回る輩が相手となれば、いよいよもって黙って見過ごすわけにはゆかぬ」

「そういうことだ、時臣。ランサー、キャスター、両陣営揃って絶滅タイムだな」

 

 唄い上げるように言いながら、キバットはセイバーの玉座にとまった。反対に、セイバーは静かに立ち上がり、時臣へと歩み寄った。

 

「顔を上げろ、時臣」

「……は」

 

 時臣は僅かに頭を上げ、セイバーに己の顔を見せる。セイバーはまた、冷笑した。

 

「何度見ても、ほとほと面白みに欠ける顔をする男だな、貴様は。この我がじきじきに動いてやるというのに、些かたりとも表情を動かさんとは」

「畏れながら、それは王に対する無礼のなきようにと努めてのこと。偉大な王の助力を得られるという事実に感謝を抱かぬ道理などありますまい」

「あいも変わらず口だけは達者だな」

 

 セイバーはさも面白くなさそうに眉根をぴくりと震わせた。

 再び宙に舞い上がったキバットが、その小さな翼をぱたぱたと羽ばたかせ、セイバーの顔の隣で滞空する。

 

「まあ、そういうな、キング。この男はこれで案外と面白いところもある」

「ほう?」

「俺はこの男に期待している。ことによっては、この聖杯戦争も面白い方向に転がるやもしれん。なあ、時臣」

「……それはまだ、なんとも」

 

 思いもよらぬ呼びかけに、さしもの時臣も焦った。けれども、やはりそれを表に出しはしない。キバットは桜の話をしているのだろうが、これからキャスター、ランサー陣営との戦いが控えているというのに、時臣の個人的な事情でセイバーの気を揉ませたくはない、というところが大きかった。

 

「まあいい。この場は貴様の言う通りに動いてやるが、時臣――」

 

 セイバーの冷ややかな目が、時臣へと注がれる。それを直視した瞬間、王が放つ圧に、時臣は全身の毛穴が総毛立つような錯覚を覚えた。時臣の感情を知ってか知らずか、王は腰元の魔皇剣(ザンバットソード)を抜き、その切っ先を時臣の喉元へと突きつける。

 

「我を失望させるようなことだけはするなよ」

 

 それだけ言うと、セイバーは時臣を鼻で笑い、剣を収めた。時臣の返答を待たず、セイバーは自らの身体を足元から黄金の粒子へと変換し、姿を消してゆく。全身が消える最後の瞬間まで、セイバーの瞳は冷ややかに時臣を見下していた。

 セイバーが消え、張り詰めた威圧感から開放されると同時、時臣は一気に体が軽くなるような錯覚に見舞われ、微かに息を吐いた。残ったキバットが、時臣の傍らへと寄り、囁く。

 

「そう畏まるな、時臣。お前は、お前が心から望むことを優先すればいい……でなければ、キングの心は動かんぞ」

「私が、心から望むこと……?」

 

 キバットは再び羽ばたき、玉座の上に乗った。ほんの僅かの逡巡ののちに、キバットは時臣に背を向け、ぼそぼそと語り出した。

 

「キングは、王としての()()を果たした。だが、それしか出来なかった。だから、あの男は自分の妻と子にも、あんな接し方しかできなかった。――俺は、それが気に食わなかった」

 

 時臣には、キバットがなぜそんな話をするのかがわからず、返答に窮した。どんな言葉をかけても失礼に当たる気がした。

 

「俺には、なぜお前がキングを喚んだのかが分かる。お前はキングのようにはなるな」

「……それはいったいどういう意味かな、キバット」

「フ、少し喋りすぎたな。ともかく、お前は、自分の心が真に求めるものから目を背けるな。俺から言えるのはそれだけだ」

 

 キバットは問いには応えず、その小さな翼を広げ、羽ばたいた。

 

「――今度こそ、俺は最後までキングとともに戦いたいと思っている。だが、それが叶うかはお前の行動次第だ」

「キバット……」

「くれぐれも俺たちを失望させるなよ、時臣」

 

 セイバーと同じ言葉を残し、キバットもまたセイバーと同じように金の粒子へと姿を変えていく。小さなキバットの体が完全に姿をくらますのに、一秒とかからなかった。王とその盟友が消え去ると同時に、綺羅びやかな王威で満たされていた部屋は、途端になんの変哲もない、ただの玉座が置かれただけの部屋へと成り果てる。その部屋の中で、ようやくこの屋敷が自分の空間だという認識を取り戻す頃、時臣は立ち上がった。

 瞳を閉じて、黙考する。

 キングにはキャスターとランサーの討滅を頼んだが、キバットの察する通り、実のところ、今最も時臣の心を締めているのはそんなことではない。それは時臣とて自覚している。

 けれども、魔術師が聖杯戦争に挑んだ手前、その()()を放棄して、己の事情にかまけることは、憚られた。目先の出来事に気を取られ、真に成すべきを見失うのは、あの間桐雁夜と同じ落伍者のすることだ。そんなことは、できない。

 あくまで、第一に優先すべきは聖杯戦争だ。

 第二に、間桐の翁との会談を経て、桜が不当な扱いを受けていると判断できたなら、遠坂へと連れ戻す。次いで、今度は桜を遠縁のエーデルフェルト家へと養子に出すつもりで時臣は考えていた。格式高いエーデルフェルトならば、桜が野望の道具にされることもなく、まっとうな魔術師としての教育を受けることができるはずだ。

 桜の身を案じて、聖杯戦争そっちのけで間桐から強引に連れ戻すなどというやり方は、常に余裕を持って優雅たれという遠坂の家訓に反するし、なによりもスマートではない。やはりまずは遠坂の魔術師としての()()を果たす必要がある。

 思考の渦の中、屋敷の廊下を黙々と歩いていると、不意に甲高いチャイムが屋敷全体に響き渡った。誰かが、屋敷の呼び鈴を鳴らしている。

 例えば、アインツベルンのような敵勢力が相手ならば、正面から堂々と遠坂の屋敷を訪れることはないだろう。時臣は屋敷の周辺に配置している使い魔を通して、時臣は外の様子を伺う。

 果たして、来客の正体は――ライダークラスのサーヴァント、万丈龍我だった。

 

   ***

 

「はぁ~……美味し」

 

 猪口に入った日本酒を飲み干したランサーは、感に堪えぬといった様子で己の頬を撫でた。それでもまだ足りぬとばかりに、徳利からまた日本酒を注ぎ、飲み干す。戦兎が見ている限り、さっきからその繰り返しだった。

 

「お前、ちょっと飲みすぎだろ。これから遠坂の陣営に殴り込みをかけるってこと、分かってます?」

「もちろん分かっておりますとも。だからこそではありませんか」

「……あっそ」

 

 戦兎は己の感情を隠すつもりもさしてなく、特大のため息を零した。

 ふたりは今、冬木新都の市街地に位置する個室居酒屋の座敷席にいた。ことの発端は、ランサーが現代の人の世を知りたい、と言い出したことに起因する。人の心を知るにはまずその生活から、という判断だそうだが、今までずっとケイネスからの許可を貰えなかったらしい。それが、キャスターからこの世界の真実を聞いてからというもの、ケイネスにもなんらかの心変わりがあったのか、今になって突然許可が出た。もっとも、ケイネスは同席するつもりはなく、結局戦兎ひとりがランサーに同伴させられる羽目になったのだが。

 

「それにしても戦兎、現代のお酒もなかなか悪くはありませんねえ。これ、酒瓶で買って持って帰りたいのですが」

 

 ランサーは手にした猪口の酒をまた飲み干すと、上機嫌のまま徳利を掲げた。今のランサーは、いつもの霊衣を纏ってはいない。ノースリーブの黒ブラウスの上には、ややサイズ感の大きな白シャツをゆるめに羽織っている。シャツの両肩には大きくスリットが開いており、そこから、鍛えられた筋肉によって適度に引き締まった二の腕が描く健康的な曲線が垣間見える。日中、ケイネスのカードで買い物した私服だ。当然、この居酒屋の支払いもケイネスのカードで支払う予定だった。

 

「っていうかお前どんだけ飲むつもりなんだよ、まだ飲み足りないわけ?」

「なにを言ってるんです戦兎? まだ大して飲んでないでしょうに」

 

 目を丸くして驚いてみせるランサーだったが、テーブルの端には既に空になった酒瓶が五本は置かれている。それでいて、ランサーは顔色ひとつ変えず、酔っ払うこともなく酒を煽り続けているのだから感心せざるを得ない。

 

「酒というものはいくらあっても足りなくなるものですから。戦場で飲む分と、それから拠点にも予備をいくつか置いておきませんと」

「戦場で……ってまさかお前、戦闘の真っ最中にも飲むつもりかよ!?」

「はあ、なにを今さら。銃弾の飛び交う戦場で酒を煽るくらいは余裕ですが」

 

 この世界ではじめてビルドに変身し、ランサーと戦ったときのことを思い出す。たしかに、ビルドが放った銃弾はその尽くが軌道を逸れ、一発たりともランサーに命中することはなかった。おそらく、彼女に飛び道具は当たらない。実際にそういうスキルが作用しているのだろう。

 

「というか戦兎、こんな街中でひとをランサー呼ばわりするのはやめなさい。ほかの参加者に気取られたらどうするんです」

「そんなこと心配してるやつの行動とは思えねえけどな」

 

 戦兎はほとほと呆れ果てて、テーブルの上に積まれた空瓶に視線を送った。ランサーは戦兎がどうしてそんな顔をしているのかもわからず、笑顔のまま小首を傾げるだけだ。いちいち突っ込むのも馬鹿馬鹿しく思えてきたので、戦兎は早々に話題を進めることにした。

 

「いや、なんでもない。で、なんて呼べばいいんだよ」

「そうですね……私のことは“お虎”と呼ぶのがよろしいかと」

「お虎……?」

 

 ランサーはさも上機嫌といった様子でにこりを相好を崩す。

 

「はい、お虎です。親しみを込めて、お虎さん、でも構いませんよ」

「俺はいつの間に物騒な自称戦国武将と親しくなったんだ?」

 

 怪訝な面持ちで小首を傾げる戦兎とは真逆、ランサーは胸を張って笑みを深めると、また一杯ぐいと酒を煽った。猪口を勢いよくテーブルに置くと、今度はぎょろりと見開かれた大きな瞳で、正面から戦兎を見据える。口元は絶えずにんまりと孤を描いたままだった。

 

「聞けば戦兎、そなたは()()()()なる存在を討ち果たすことさえできるならば、この戦そのものに興味はないのだとか」

「まあな。エボルトを倒して、元の世界に帰れるなら、俺は正直、聖杯戦争の決着なんて、まっっったく興味ない」

「では、私と戦兎にはもう、争う理由はありませんね」

 

 感情の読み取れない笑顔のままあっさりと告げるランサーに、戦兎は微かな違和感を覚えた。

 

「お前は、それでいいのか」

「いいもなにも。ただ勝利して終わりの戦を当然のように終わらせるよりも、そっちの方がよほど面白みがあるでしょう」

「面白み?」

 

 さしもの戦兎も、ランサーの言葉には耳ざとく反応する。命を懸けて戦った仲間たちの姿を脳裏に思い描くと、エボルトとの戦いを“面白い”などという言葉で形容されることは、戦兎にしてみれば不愉快だった。

 

「……言っとくが、ランサー。俺たちは遊び半分で戦ってんじゃねえぞ」

「わかってますよ。そなたらの戦いを愚弄したいわけではありません」

 

 ランサーは猪口に次の一杯を注ぎながら、言葉を続けた。

 

「聖杯戦争の裏に潜む悪意。放っておけばこの世界すら滅ぼしかねない人類悪。それに立ち向かうはびしゃ……もとい、日の本最強の武将と名高いこの私。ただ戦をして当たり前のように勝利するよりも、民を、平和を守るために戦う方が、なんかそれっぽいではありませんか」

 

 満面の笑みでランサーは語る。戦兎には、ランサーがなにを言わんとしているのかがいまいち理解できず、当惑した。

 

「いやわかんねえよ。なんだよ、それっぽいって」

「んもう、話の分からぬ男ですね。ほら、なんて言うんでしたっけ? そなたの好きなアレですよ。愛と平和のためにー、みたいなやつ」

「……ラブアンドピースのことか?」

「そうです、それですそれ」

 

 ランサーは肩肘をつくと、どこか遠い目で窓の外の通りを眺めた。既に夕日はその大部分が地平線の向こうへと沈んでいる。強く差し込む西日も、この都市部では概ねビルの影に遮られ、今や空から振る光よりも、通りの街灯の方がよほどまばゆく感じられる夕暮れ時。ランサーは神妙な面持ちで僅かに目線を伏せた。

 

「なにぶん、私の時代にはなかった考え方ですので、最初はピンと来ませんでした。私の時代は、食うために奪う、生きるために殺す……そういうのが当たり前の世の中だったので。ラブアンドピースだなんて言われても、はて、この者はいったいなに言ってんでしょう、くらいにしか思わなかったものです」

「えー……そんなふうに思われてたの、俺?」

 

 窓の外から戦兎へと視線を戻したランサーは、またにこやかに笑った。

 

「今日一日、こうして天下泰平の世を見て回って、私は思いました。この世界にはもう、国を守るために戦う戦国大名などは必要なく、民は明日をも知れぬ身の上に怯える必要もない。人々は武士(もののふ)に守られるだけの生活から解放され、豊かになった暮らしの中で……こんなに美味しいお酒が造られるようになった」

 

 うっとりと頬を緩ませて、ランサーは徳利を揺らす。戦兎は思わず姿勢を崩した。

 

「――って、なんかいい話すんのかと思ったら、結局酒の話かよ!」

「なにを言いますか、お酒の話は重要でしょうに」

「言っとくぞランサー、そんな酒ばっかり重要視してんのはお前だけだ」

「むう、そうですかねえ……いえ、まあいいでしょう。お酒の話はさておき」

 

 ランサーは口元だけをけらけらと笑わせたまま、今度は戦兎の瞳をじいっと凝視する。

 

「私は思ったのです。戦兎の掲げる理想を叶えるために戦ってみるのも、これで悪くはないんじゃないかなー、と」

「ランサーが、ラブアンドピースのために……?」

「ええ。人が人を愛し、みなが各々の日常を謳歌できる天下泰平の世。そして、それを守るために戦う正義のヒーロー……それがそなたなのでしょう? ええ、よい話ではありませんか」

 

 相変わらず、戦兎にはランサーの考えが読めない。けれども、言葉の通りに受け止めて鼻を高くするほど、戦兎は能天気ではない。

 ランサーの瞳は、眉根を寄せて当惑を示す戦兎をしっかりと捉えたまま、幼子を安心させようとする母親のそれを思わせるほどの柔和さを湛えて、柔らかく微笑んだ。

 

「しかし、私は同時に疑問を抱かずにはいられません」

「疑問?」

 

 ランサーは、テーブルに肘をついた姿勢で、ずいと上体を乗り出した。

 

「――戦兎。果たして、そなたの掲げる理想の庇護対象に、この仮初の世界は入っているのでしょうか」

 

 表面上だけを見れば、ランサーの表情は、穏やかで、あたたかみに溢れた微笑みのように見えなくもない。

 だけれども、見開かれた大きな双眸の奥に、戦兎は底知れぬ()()を感じた。万人が想像する優しい微笑みというものをなぞってはいる。だが、それだけだ。

 ひとは普通、穏やかな心持ちになったとき、自然と笑う。けれども、眼前の女は、先に笑顔を作って、後から心を追い付かせようとしているように感じられる。心が伴っていない。

 戦兎はランサーの微笑みの異質さに気付きながらも、それについて触れることはしなかった。

 

「……なにかと思えば、くだらない質問だな」

 

 動揺はなく、務めて冷淡に戦兎は答える。

 対するランサーは、ほう、と唸った。場の空気が微かにひりつく。ランサーの口元は緩く孤を描いてはいるものの、目が笑っていない。

 

「そなたの言を信じるならば、ここは仮初の世界なのでしょう? そなたが守りたいと願うのは、あくまでそなたが生まれ育った本来の世界であるはず。此度の戦を終わらせて無事元の世界に戻れるならば、それで一件落着なのでは?」

「だから、そういう考え方がくだらねえって言ってんだよ」

「ふむ。私の疑問が、くだらない……と」

 

 見開かれた瞳は、さながら獲物を前にした猛獣(トラ)のように、戦兎を捉えて離さない。上っ面の言葉で取り繕うことは、無意味だ。だが、かえってその方が話しやすい。

 

「お前は今こうしてここで生きている。自分で考えて、行動してる。それはケイネスも、この世界に生きる人たちも、みんな同じだ……その命は、仮初なんかじゃない」

「だから外の世界を守ることも、この世界を守ることも、同等に価値のある行為だと……そなたは胸を張って、そう言えるのですか」

「言えるさ」

 

 即答した。なんの迷いも衒いもなく、戦兎は断言する。

 

「俺はそもそも、虚構から生まれた人間だ。桐生戦兎なんて人間は、この世界にも外の世界にも実在しない。そんな人間が、お前らの存在を虚構だなんだって否定するわけにはいかないでしょうが」

 

 桐生戦兎。それは、もともとエボルトの野望のためだけに創られた虚構のヒーローの名だった。

 野望のために生まれた虚構は、いつしか創造主であるエボルトの手を離れ、自分の意思で己の人生を歩み出した。自分の意思で生きたいと願うものの存在を、虚構だからと軽んじるつもりは戦兎には微塵もない。

 

「それに、俺が生まれ育った世界なんてものは、もうこの世のどこにも存在しない。だが……それでも俺は、みんなが笑い合える世界を望んだ」

 

 エボルトによって失われたすべての命が失われずに済む新世界。たとえ生まれ育った世界が消滅する道を辿ることになったとしても、戦兎は新たな世界の創造を願った。戦兎には、その責任がある。

 

「だから俺は戦うんだ。これからも、ラブアンドピースを胸に、そこに生きる人々を守るために」

「たったひとり世界から取り残され、己の身を犠牲にすることになってもなお、そなたは戦うと……そう言うのですか」

「ああ。虚構だろうが現実だろうが関係ない。たとえこの世界にひとりでも俺を覚えていてくれる人間がいるなら、俺はそいつらを守るために戦う……それだけで、十分だ」

 

 ほんの一瞬、両者の間に流れる沈黙。

 それを破るように、ランサーは目を剥き、また、笑った。

 

「よろしい。では、私も質問を変えましょう。仮にそなたがエボルトを倒し、世界を救ったとします。しかし、その代わりに聖杯戦争に敗れ、外の世界へと帰還する手立てを失ってしまったとしたら?」

 

 一瞬、脳裏に万丈の顔がよぎった。きっと今も外の世界で待ってくれているであろう馬鹿の顔を思い描いたとき、戦兎の中にある一本の柱が僅かに揺ぐ。けれども、その程度で戦兎の決意は折れはしない。

 懊悩を振り払い、今度は戦兎が微笑んだ。

 

「言っただろ。俺は、はじめから存在しない人間だって。今度こそエボルトを倒して世界を守れるなら……それ以上にかける望みなんか、俺にはない。だから、そのときは……――聖杯はお前にやるよ、ランサー」

 

 刹那、時間が停まったように感じた。

 ランサーの表情が、笑顔のまま停止する。絶えず酒を煽っていたランサーの手が、止まる。ただぎょろりと目を剥いたまま、暫し固まったランサーは、数秒の沈黙ののち、

 

「あっ……――っはははははははははははははははははっ!」

 

 その瞳に虚無をたたえたまま、ランサーは大口を開けて狂ったように笑った。

 なにを考えて彼女が笑うのかがわからず、戦兎は背筋が寒くなる思いに駆られつつも呵々大笑するランサーを凝視する。ランサーはひとしきり腹を抱えて笑うと、ひいひいと息を吐きながら、愉快そうに目を細めて戦兎を見やる。

 

「あは、あははははは、いや、まったく……馬鹿ですねえ、そなたは! 自分の先行きすら知れぬというのに、人の命を守るために戦う? あまつさえ、聖杯を私に寄越すですって? ええ、話を聞いてみたものの、私にはそなたが何故そうまでするのか、てんで理解できませんでした!」

「そんなに笑うことじゃねえだろ! ってか、わからないならわからないで結構。なんと言われようと、俺はこれからもラブアンドピースを胸に戦い続ける。……それが、仮面ライダービルドなんだよ」

 

 ランサーは、またしても声を上げて笑う。

 

「あっははははははははははははっ! やはりそなたは面白い! いえ、本当のところを言うと、もしやそなた、天才に見せかけた馬鹿なのでは? とは前々から思っていたのですが、さてもさても、馬鹿と天才は紙一重とはよく言ったものです」

「いやちょっと待てランサー、さすがにちょっと馬鹿馬鹿言いすぎだろ。そこまで言われる筋合いねえ……ってか、そういう役割俺じゃねえし!」

「ふふ、これはすみませんね。ですが、私は私で、そういう馬鹿は嫌いではないのです。そなたの在り方と、その理想……私は大変気に入りました!」

 

 ランサーは静かに立ち上がると、硝子窓の向こうに広がる冬の夜空を見上げた。話し込んでいる間に、いつの間にか日が沈んでいたらしい。ケイネスとキャスターが指定した作戦開始の時刻は近い。

 

「時代は移り変われども、人が懐く“愛”というものはきっと不変のもの。それを守るためにそなたが戦うというのであれば、おそらく、それこそが人としての正しい在り方なのでしょう」

「別にそんなに難しい話じゃねえと思うけどな。俺は、人としての当たり前を話しただけだ」

 

 戦兎にとって、ラブアンドピースというものは難しいことでもなんでもない。人が当然のように抱く美しい感情を、尊い命を、ただ守りたいと思っただけだ。いわば、誰しもが持つ素朴な正義感。それを貫くことに、難しい理由などは存在しない。

 ランサーはふう、と息を吐くように笑みを零した。

 

「それをさも容易く言ってのけられるその強さこそが、そなたの美徳なのでしょう。そんなそなたをこそ、私は信じたいと思ったのです。その進む道行きを見届けたい、と」

 

 その言葉を聞いた時、猛獣と同じ檻に閉じ込められたかのような威圧感から解放され、肩からどっと力が抜けるのを感じた。戦兎もまた息を吐き、ランサーの真意を確かめんと問いを投げる。

 

「ずいぶん簡単に信じてくれるんだな? 同盟組んでるとはいえ、本来なら聖杯戦争の参加者は敵同士だ。ここで話したのも全部、お前を油断させるための嘘って可能性だってないとは言い切れねえぞ」

「あははははははっ、なにを戯けたことを言ってるんです。その時は当然、私がそなたを殺します。ええ、徹底的に、完膚なきまでに殺し尽くしますとも。馬鹿は馬鹿でも、そういう救いようのない馬鹿ではないでしょう、そなたは」

 

 言葉が孕んだ物騒な意味合いとは裏腹に、ランサーはにっこりと破顔し、戦兎へと手を差し伸べる。ランサーのその剥き出しの刃物のような微笑みが、今は随分と頼もしく感じられる。戦兎もまた、つられて笑った。

 

「とーぜん。なにしろ俺はてぇえんさい物理学者だからな、……ってかそもそも馬鹿じゃねえし!」

 

 差し伸べられた掌を掴み、腰を上げる。立ち上がった戦兎の顔を見て、ランサーはまた、微笑んだ。

 

「では、その天才物理学者とやらの力、とくと見せて貰うとしましょうか」

「言われなくても。お前こそ俺の脚引っ張んじゃねえぞ、()()()()

 

 わざとらしくそう呼んで見せる。ランサーは僅かに瞠目したが、虚を突かれたようなその表情は、すぐに見慣れた笑顔へと変わった。戦兎には、ランサーの笑顔が、心なしかいつもよりも上機嫌そうに感じられた。

 

「あっ、それはそれとして、お酒は買って帰りますので、荷物持ちはお願いしますね、戦兎」

 

 戦兎はすぐに、最前の自分の考えを撤回した。わかりきっていたことだが、ランサーの笑顔には有無を言わさぬ威圧感がある。話の流れで頼もしさを感じてしまったが、それも戦兎の錯覚だったのかもしれない。

 結局、戦兎は、紙袋に詰めた酒瓶を両手に提げて、拠点までの帰り道を歩かされる羽目になった。




 TIPS
【桐生戦兎】
 エボルトによって創造された、()()()()()()()()()()()ヒーロー。
 本来の戦兎に与えられた役割は、仮面ライダーの力でスマッシュを倒し、抜き取った成分をボトルへと収集することだった。その行動がエボルトの復活に繋がるとも知らずに、戦兎はエボルトの掌の上で踊るように、秘密結社ファウストとの戦いに身を投じてゆく。
 やがて、かけがえのない仲間たちとの出会いと別れを経て、自身の原点たる()()()()を知った戦兎は、誰に仕組まれたものでもない己の意思で、ラブアンドピースのために起ち上がることを決意する。
 その思いは創造主たるエボルトの想定をも超えて、人類の新たな明日(みらい)創造(ビルド)する。

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