仮面ライダービルド×Fate/NEW WORLD   作:おみく

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第18話「嗤うプリースト」

 万丈から桜の惨状を伝えられたところで、遠坂時臣の顔色が変わることはなかった。

 屋敷の客間に通された万丈と向かい合うかたちで座った時臣は、一通り話を聞き終えると粛然と頷きはしたが、それだけだ。悲しむ様子も、憂いを嘆く様子もありはしない。

 

「――状況は理解した。ありがとう、万丈くん」

 

 時臣の口から出た言葉は、万丈が期待した言葉ではなかった。

 期待したのは、愛娘の現状を案じ、救い出すべきだと奮起する父親の姿だ。だというのに、時臣の表情に万丈が期待した変化はなく、義憤を胸に立ち上がろうとする気配も感じられない。あまりにも、時臣は()()に過ぎた。

 

「あ、ありがとうって……それだけかよ」

「ん? それだけ、とは」

「あんた、桜の父親なんだろ。あんな小っさい子供が、助けも呼べずに苦しんでんだぞ……! もっとこう、なんか言うことあんだろ!?」

 

 感情を隠すすべを知らず囃し立てる万丈とは裏腹に、やはり顔色ひとつ変えることなく、時臣は一息をついた。

 

「万丈くん。きみはひとつ誤解をしているようだ」

「五階も六階もねえッ! 俺はこの目で桜が苦しんでる姿を見たんだ! あんなモン見せつけられて、これ以上黙って見てられっか!」

「君の言いたいことはわかる。だが、その言い分は……悲しいかな、あの間桐雁夜と同じだ。魔術の世界では、それは筋違いと言わざるを得ない」

「なっ……」

 

 時臣の言葉の意味がわからず、返す言葉に窮した万丈をよそに、時臣は淡々と言葉を続ける。

 

「以前にも言ったとは思うが……魔導の家に生まれた時点で、その人生には常に死と隣合わせの宿命が付きまとうものだ。降り掛かる死の恐怖から逃げ出さず、己の秘術でもってそれを克服する。それが魔導を歩む者が背負うべき覚悟と責任だ。それらを背負うことで、はじめて魔術師は己の在り方に誇りを持つことが許される」

「ンだよ、それ……じゃあ、桜にはこれからもあの地獄で苦しめって、あんたそう言いてェのか!?」

「そうだ。修行の道筋は家系によって違えど、魔導を歩むというのはそういうことだ。その観点で見れば、桜が地獄の只中にいることなどははじめから織り込み済み。あの夜、間桐雁夜とそのサーヴァントが吠えた戯言は筋を違えているとしか言いようがない」

 

 万丈は絶句した。雁夜の言葉の意味が、いま始めて理解できた。

 遠坂時臣という男は、父親であることよりも、魔術師であることを優先している。それを理解したとき、万丈の肩からどっと力が抜けていった。雁夜の言葉は正しかったのだ。この男に頼ろうとした自分が愚かだったとすら思えて来た。

 

「だが、それは桜がまっとうな魔術師としての人生を歩めるならば、の話だ」

「あン?」

「――あのバーサーカーは言った。桜は今、ただ次代の世継ぎを産むためだけの苗床として育成されている……まともな魔術師としての教育など受けられるべくもない、と。それが事実であれば、私には、桜の進む道を矯正する()()がある」

 

 万丈は両手をテーブルにつき、身を乗り出した。

 

「そりゃ、桜のこと救ってくれる、ってことでいいのか」

「救う、という表現はいかがなものかとは思うが……そうだな。まずは、間桐の翁と話をつける。結果、桜が魔術師として己の()()を果たすためでなく、単に間桐の私利私欲のためだけに利用されているのであれば、私には桜を連れ戻す義務がある」

「……連れ戻して、そのあとはどうすんだ」

「もう一度養子に出すことになるだろうな。今度は、正しく魔術を修めることができる家系に」

 

 万丈は右手を勢いよくテーブルに打ち付けた。サーヴァントの膂力で殴られた木製のテーブルが、軋轢とともに微かに跳ねる。けれども、時臣の表情が揺らぐことはない。万丈は時臣に掴みかからん勢いでまくし立てた。

 

「ンなこと言って養子に出したせいで、桜は今あの地獄に放り込まれてンだろうがッ!」

「それも理解している。ゆえに、今度は繰り返させない。幸い、遠縁にアテがあってね。北欧はフィンランドに居を構える名門貴族だ。冬木からは離れてしまうが、かのエーデルフェルト家ならば間桐のような愚を犯すこともあるまい」

 

 万丈には、フィンランドという国がどこにあるのかなど想像もつかない。アメリカと同じくらい遠いのだろうか、北極とか南極よりは幾分近いのだろうか、そういう広漠とした感想しか沸いてはこない。だが、もはや距離がどうとか、行く先がどこであるとか、そんなことは重要な問題ではなかった。

 大切なことは、ただひとつ。

 

「――それで、桜はホントに幸せになれンのか」

「決まっている。これもすべては我が子の幸福を思えばこそだ」

「幸福? ンなもん、誰が決めたんだよ……! 家族と離れ離れになってでも魔術師になりたいって、一言でもあの子が自分で言ったのか!?」

「愚問だな。直接聞いてはいないが、聞くまでもあるまい。あの子は魔術師として稀代の才能をもって生まれてきた、いわば逸材だ。その才能を殺して、凡俗な生活に貶めることの不幸がいかほどのものかなど、君には理解も及ぶまい」

 

 表情ひとつ乱すことのない時臣の物言いを聞いたとき、万丈の中で、ずっと抑え込んできた感情がぷつんと音を立てて弾けた。いま、雁夜の言葉の意味が分かった。同時に、目の前の男を、ある意味では雁夜に似ていると感じた。

 

「あんたらは、みんなそうだ……雁夜も、あんたもッ! 凛や桜の気持ちなんかこれっぽっちも考えてねェ……! あの子達が本当に望むものがなんなのかも考えず、勝手に決めつけて押し付けてるだけだ……!」

「心外だな。私は父として、また魔術師として、正当なる()()を果たしたに過ぎない。魔術の世界を知らず、子をなしたことすらない君に言われる筋合いはない」

「なにが()()だ! そんなモン押し付けられて、ホントにあの子が幸せになれんのかよ!?」

「君の言う通り、たしかに、一時的につらい思いをすることもあるだろう。だが、いずれ、それが我が子の幸福に繋がると確信しているからこそ、私は愛する我が子に()()を課すのだ」

「それらしいこと言って誤魔化してんじゃねえ! 俺は、自分の人生を自分で決めらんねェで、それのどこが幸福なんだって訊いてんだよ……!」

 

 時臣は目を伏せ、静かに唸った。

 実際のところ、時臣も万丈の言葉がまるで理解できないというわけでもない。

 時臣はそもそも、凛や桜のように、魔導において天性の才能を持って生まれてきたわけではない。己の才覚の低さを受け入れ、血の滲むような努力を積み重ねることこそが己に課せられた()()であると信じて今日まで生きてきた。それは自分で選んだ道だ。誰に左右されたわけでもない、自分自身の人生。そう思えばこそ、つらい修練の日々にも耐え、己の体に魔を刻む茨の道を歩み続けることができた。

 だが、もしもそれが他者から一方的に押し付けられた責任であったとしたら、時臣は、己の人生に誇りを懐くことができただろうか。

 凛はいい。時臣の在り方を羨望の眼差しで見つめ、父の背中を追いかけることに誇りすら抱く彼女には、なんの憂いもあるまい。

 だけれども、桜は、凛とは違う。あの子は、自分の意思をはっきりと口にすることができず、親や姉の決めたことに逆らったことのない、内気な子供だった。ゆえに、桜が時臣の決断に異を唱えるわけがないと決め付けていた。

 当然、時臣とて愛する娘と離れ離れになるのはつらい。だがそれでも、それ以上に、桜には魔術師として成功する人生を歩んでほしかった。父の苦悩を、桜ならばいつか必ず理解してくれるものと、無条件に思い込んでいたのではないか。

 

「――なるほど、万丈くん。君の言いたいことは理解した」

 

 万丈の言葉は、魔術の世界の常識で考えれば、浅はかで凡俗極まりない妄言だ。まともな魔術師であれば耳を貸さないし、貸すべきではないとすら思っている。けれども、時臣が愛娘である桜を愛していることもまた、紛れもない事実だ。このまま一方的に言われたまま引き下がることは、時臣の誇り(プライド)が許さなかった。

 

「たしかに、君の意見にも一理ある。そこで、ここから先は私からの提案だ」

「あン? 提案だァ?」

「ああ。君の言う通り、桜には自分の意志で未来を決めさせる。今すぐに決断できないのであれば、己で決断することの《責任》を理解するまで待っても構わない」

 

 万丈は目を見開き、一瞬言葉を詰まらせた。時臣の返答が意外だったのだろう。

 

「……それでっ、もし桜が魔術師になんかなりたくねェって言ったら、そンときャどうすんだ!」

「そんなことはありえないが……そうだな。仮にそう答えたとしたなら、私も桜の気が変わるまで待とう。あの子の才能を思えば、真の幸福を得るための道筋は魔導にこそある……それは疑いようもない事実だ。あの子にはそれを理解してもらう必要がある」

「あんた、まだそんなこと言って……」

 

 時臣は万丈の言葉を遮り、畳み掛けるように口を開いた。これ以上の譲歩はないとばかりに。

 

「我が子の幸福を思い、私は父として、あの子に道を指し示す。その上で、我が子には己の意思で道を選んでもらう。それが父としての()()だと心得るが、それでも君は不服かな」

「そ、そりゃ……ッ」

 

 明らかな当惑を表情に浮かべながら、万丈は黙り込んだ。返す言葉が思いつかないのだろう。

 一見万丈に言いくるめられたように思えるが、時臣にしてみればどう転んでも結果は変わらない。魔術を始める時期が遅れる可能性があることは些か気がかりだが、最終的に桜が魔術師としての成功を収められるのならそれでいい。むしろ、桜がいま不当な扱いを受けていることを知り、今度こそ正しい道を指し示す機会が与えられたことは、時臣にとっても僥倖だと考えるべきだ。

 

「私は君の助言の通り、父として己の()()を果たすと約束する。これ以上、君に望みはあるかな」

「いや……そりゃ、桜があの地獄から救われるのなら、それが一番だけどよ」

「ならば、話は纏まったね」

 

 まだなにか言いたいことはありそうだが、ひとまず万丈は頷いた。頷くしかない、と表現した方が正確かもしれない。時臣に対し、これ以上なにかを要求するだけの知恵は万丈にはないのだろう。

 時臣もまた笑みを深め、頷いた。

 

「私は私の役目をまっとうする……君のお陰で、私は父としての本懐を思い出すことができた。感謝するよ、万丈くん」

「お、おおう……?」

「ところで、だ。私は己の()()を果たすと約束した。一方で、君は己の()()をどう心得る?」

 

 思わぬ切り返しに、万丈は自分自身を指差し、目を丸め、首を傾げた。

 

「君は此度の聖杯戦争において、ライダーのクラスをもって招かれたサーヴァント。であれば、君にも聖杯戦争を進めるという()()があるはずだ。素知らぬ顔でやり過ごすことなど許されはしない。そうだね?」

「……俺にどうしろってんだ」

「では、単刀直入に言おう――」

 

 時臣は僅かに口角を吊り上げ、微笑んだ。

 

「万丈くん。君には、今夜の戦いに我が陣営の同盟者として参戦してほしい」

「……俺に、あんたの味方して、どっか他の陣営と戦えって、そう言いてェのか」

「ああ。私は己の()()をまっとうする。そこにはもちろん、遠坂の当主としての()()も含まれている……それすなわち、聖杯の獲得だ。それはそのまま、遠坂の子たるあの子らの幸福に繋がるのだと、私は考えている」

「あー……難しいこと言われるとよくわかんねェが、つまりなんだ……そりゃ、凛と桜のために、ってことでいいのか?」

 

 時臣はくすりと微笑んだ。

 

「その通りだ。以前にも話した通り、君が協力してくれるなら、私は他のマスターを害することなく、サーヴァントだけを仕留める方針で戦うことを約束しよう。この条件ならば君の方針とも乖離しないはずだが」

「なーんか上手く言いくるめられたような気もするが、そういうことなら、俺だって断る理由はねェ。ただし、あんたがもしも誰かを傷つけようとしたなら……そんときャ俺があんたを止める」

「構わないとも。では、契約は成立だな」

 

 時臣は元より戦力に困ってはいない。セイバーの力をもってすれば、下手な小細工を労せずとも聖杯獲得は間違いのないことだ。加えて、ライダーをも己の戦力として取り込めるなら、マスター不殺の誓約など大した足かせにはなりえない。

 静かに立ち上がった時臣は、そっと右手を差し伸べた。

 

「私は君の決断に感謝の意を示す。ゆえに私も宣誓しよう。私は、この聖杯戦争に必ず勝利する。そして、凛と桜が幸福な未来歩めるように力を尽くすことを」

「約束だかンな。絶対ェ、あの子達を悲しませるようなことはすんな……それと、雁夜のことも」

 

 ふ、と。思わず失笑が溢れるのを、時臣はしかし、とりたてて隠そうとも思わなかった。

 間桐雁夜など、時臣からすればこの上なくどうでもいい相手だ。魔導を貶める恥晒しであるあの男を生かしておく理由もないが、あの男を見逃すことでライダーのサーヴァントを味方につけられるのであれば、安い代償だ。

 

「ふ。まったく、君は本当に愚直な男だ。もっとも、その愚かしさこそが、君の魅力でもあるのだろうがね」

「ん……んん? おい、それ褒めてんのか?」

「勿論。君のような男だからこそ信用できる、と言ってるんだ」

「……そうか? ま、それならいいけどよ」

 

 しばし混乱していた様子の万丈だったが、やがて差し出した手を勢いよく掴まれた。遠慮も礼儀も知らぬ乱暴な握手だった。

 ほんの一秒にも満たない握手ののち、互いに手を離す。二人しかいない筈の客間に、三人目の気配が現れたのはそれと同時だった。

 

「時臣様」

「うおっ!?」

 

 言峰綺礼のサーヴァントであるアサシンのひとりが、頭を垂れてその姿を現す。素っ頓狂な声を上げて飛び退いたのは、万丈だけだった。

 アサシンは構わず淡々と事実だけを報告する。

 

「キャスター陣営が動き出しました。狙いは、当初の読み通り“柳洞寺”かと」

「ふむ。あそこは冬木の霊脈全体の流れを左右する戦略上の要地。押さえられれば、我々は完全に地の利を失うことになるだろうな」

「既に相当数の戦力を向かわせております……おそらく、此度の戦場こそが我らの最後の戦いなれば、キャスターどもにはここで確実に墜ちて貰わねば我らハサンも報われませぬ」

 

 アサシンの言葉の端々から、不満の色が滲み出ているのを、時臣は肌で感じ取った。もはや本心を隠そうという気もないのだろう。眼前で傅いたアサシンの、髑髏に覆い隠された素顔がどれほど歪んでいるのかは想像に難くない。それでも、マスターである綺礼に命じられれば、逆らうわけにはいかない。今夜が、アサシンの最期だ。

 

「ああ、分かっているとも。柳洞寺には、すぐにセイバーとライダーを向かわせる。君たちの犠牲を、無駄にはさせないよ」

「……その言葉ひとつで、幾らかは報われまする――(しか)らば」

 

 これ以上の会話は無用とばかりにアサシンの霊体は大気の闇に溶けて消えた。

 音もなく消えた暗殺者の影を探すように、万丈は首を振り、室内を見渡している。時臣は万丈に向き直った。

 

「聞いての通りだ。敵はキャスター陣営、ならびにランサー陣営。目的は、この地の霊脈を簒奪し、我ら遠坂を破滅に追い込むこと……卑劣なやり口だ。このような手段を取る連中を野放しにするわけにはいかない」

「難しいことはよくわかんねえが、まあ、なんとなくわかった。要は、そのキャスターだかランサーだかいう奴らをぶっ潰しゃいいんだな」

「理解が早くて助かる。安心してくれ、万丈くん。私もすぐにセイバーも向かわせる。やつらを討伐する、その斬り込み隊長の役目を君に頼んでも構わないだろうか」

 

 万丈は、勢いよく手のひらに拳を打ち付けた。

 

「そういうことなら、俺に任せろ! ンなコス狡いやり方しか出来ねェやつらに、俺ァ負ける気がしねェ! あんたのセイバーが来る前に、俺が全部まとめてブッ潰してやるッ!!」

 

   ***

 

 冬木教会の主たる言峰璃正の消息は依然掴めぬまま、時計の針は夜の礼拝の時刻を回った。表向きには一般の教会を装っているからには、誰かが璃正の代理として礼拝の儀を執り行う必要がある。そうなると、その役目を果たせる人間は、綺礼をおいて他にはいない。

 目下、頭を悩ます懊悩の数々を振り払うように、綺礼は己の心を無にして、神へ捧げる祈りへと意識を没入させた。その静謐を引き裂くように、背後から声がかかる。

 

「いなくなっちまった親父の代わりとは、相変わらず真面目なこった」

 

 軽薄な声音が礼拝堂に響き渡った。声の主には、覚えがある。誰何は不要だ。無言のまま踵を返すと、整然と並べられた席の中ほどに、綺礼が思い浮かべた通りの顔がぽつんと座っていた。

 

「よっ、言峰」

「石動か。このような夜更けに、いったい何用かな」

「ああ、この前の質問の答えを聞きに来たんだよ」

 

 なんの話をされているのかは、すぐに分かった。あの日、衛宮切嗣が冬木ハイアットを襲撃した夜の会話のことを言っているのだ。それを分かっていながら、綺礼はくすりと笑みを零してみせる。

 

「はて、なんの話だったかな」

「おいおいとぼけんなよ。前に訊いたろ、お前が本心から求めるものはなんなのか、ってさ」

「ああ、そういえばそんな問答をしていたな。もっとも、問われたところで私の答えは変わらんがね」

「そうかい」

 

 石動は両手を後頭部で組むと、にこりと破顔してみせた。なにが面白いのか、綺礼にはさっぱりわからない。いつも通りの、感情の見えない上っ面の笑みであることは明白だった。

 

「……もう一度言うぞ、石動。私は神に仕える身。君の言うような俗物的な望みは、私には必要ない」

「それは、お前の本心からの言葉か?」

 

 石動の表情から、はたと笑みが消えた。

 当然だ、と返してやりたかった。自分は父と同じ敬虔な信徒であることを証明するべきだ。そう頭では理解していても、問われた刹那、綺礼は咄嗟に言葉を詰まらせた。

 綺礼の反応を見た石動は、得心が行ったとばかりに深く頷いた。

 

「やっぱりなあ。お前は鉄の鎖で何重にも縛られて、自分自身、どこに向かえばいいかわかんなくなっちまってるだけだ。で、その重た~い鎖のひとつが、いま、外れようとしている」

「……なにが言いたい」

 

 石動の手が、綺礼の肩に軽く乗せられる。不思議と、振り払おうという気にはなれなかった。

 

「いいか言峰。あんたにとって、父親の言峰璃正ってのは道標だ。清く正しい道標。あの人は、あんたが道に迷わないように、正しい道を指し示し続けてくれた」

「その通りだ。言峰璃正は我が人生における最良の模範。そんなことはお前に言われるまでもない」

「ああ、そうだろうよ。言峰璃正に関しちゃまさに理想の神父と言って差し支えはない。立派な人間だと思うよ。俺だって尊敬してるさ……けどな、息子に対する道標って意味では、あの人の在り方は間違いでしかなかった」

「なに?」

 

 石動は綺礼の肩から手を離すと、大股で悠然と歩き始めた。決して綺礼から視線を外すことのないまま。

 

「あの人はただ、父親として理想的な模範解答を息子に指し示し続けただけだ。息子がなにを望むかも知らずに、な。おめでたいことに、それが息子の幸福に繋がるものと信じて疑わなかった……その結果が、これだ」

「……その辺りにしておけ。そこから先は、我らへの侮辱だ。黙って聞いてやるわけにはいかない」

 

 石動は深く息を吐いて立ち止まると、じいっと綺礼を見つめる。真っ向から睨み返すことができず、綺礼は目線を伏せた。

 なぜそうしたのかは、自覚がある。図星を突かれたからだ。

 眼前の無神論者が言う通り、言峰璃正は神の信徒としてこれ以上もなく理想的で、模範的な善人だ。それは間違えようもなく綺礼も理解しているが、だからこそ璃正には、綺礼が理解できない。持つものには持たざるものの気持ちがわからない。息子の心を知らず、璃正は綺礼を自慢の息子だと宣って回る。綺礼もまた、そうあれかしと振る舞うほかなくなる。そういう意味では、石動の評した“おめでたい”人間という言葉もあながち的外れとはいえない。

 心の奥底に深く沈めた筈の迷いが、水面から僅かに顔を出す。石動は、その迷いを見抜いているかのようだった。

 

「なあ、言峰……お前はもう、子供じゃないんだ。誰かに敷いてもらったレールを走り続けて、それでも答えが出なかったのなら、そっから先は自分で考えて行動しなくちゃならない」

「お前に、なにがわかる!」

 

 綺礼の語尾は上がっていた。激昂せずにはいられなかった。

 あらゆる道を模索しても解を得られず、彷徨い続けてきた綺礼の苦悩が、こんな軽薄な男に理解できるとは思えなかった。理解してほしいとも思わなかった。綺礼は、石動に掴みかからん勢いで声を荒げた。

 

「自分の考えだと? それこそ、くだらない世迷い言だ! 言ったはずだ、そんなものは必要ないと……私には聖杯に懸ける悲願もなければ、妄信するに足る理想もないのだから!」

「いいや違うね。それがそもそもの間違いなんだよ」

「なにが間違いなものか!」

「だったら訊くが、お前、そうやって生きてきて一度でも自分を納得させられる“答え”を見出だした試しがあったか」

 

 綺礼はまたしても、即座に回答することができなかった。言葉を詰まらせ、目線を伏せる。そんなことは石動に問われるまでもなく、自分自身が一番よくわかっている。だから、答えられない。

 

「私は……」

 

 綺礼は片手で頭を抱えた。

 己のことがなにひとつとして理解できなかった綺礼だが、今まで積み重ねてきた求道の先に答えがないことだけは、心のどこかで分かっている。だから綺礼は衛宮切嗣に期待をかけたのだ。自分と同じ彷徨者であるあの男に。

 

「――ならば石動惣一、そこまで見抜いているのであれば、逆に君に問おう。私は、いったいどうすればよかったのだ。どうすれば、解にたどり着けるというのだ」

「いやあ、そんなモン、わざわざ俺に聞くまでもないと思うけどな」

 

 言葉の意味を測りかね、眉根を寄せる綺礼だったが、その意識はすぐに一点へ向けられることになった。

 

 ――ごツ、ゴツ、ゴツン。

 

 鈍い音が静謐な礼拝堂に響き渡る。

 木と鉄でつくられた重い扉を、一定間隔でなにかが叩いている。

 綺礼はいったん思考を中断し、訝しみながらも、扉へ向かって歩き始めた。

 

「なんだ? こんな時間に……礼拝目的というには些か様子がおかしい」

「どうかな。なんにせよ、教会を預かる身としては、訪ねてきた相手をそのまま追い返すわけにもいかねえだろ?」

 

 石動の言う通りだ。冬木教会は、魔術の素養の有無にかかわらず、万人に向けて広く扉を開いている。たとえ夜分の来訪であろうとも、訪ねてきた人間を無碍に追い返すことを、きっと綺礼が模範とする璃正はよしとはしない。

 綺礼が礼拝堂の扉に手をかけた、その刹那。

 

「――ッ!」

 

 膨れ上がった殺気とともに、轟音が響く。

 枠を鉄で縁取られた重たい木製の扉が軋みを上げ、熱した油に触れ、爆ぜた水のように勢いよく吹き飛んできた。

 ほぼ反射的に両腕を交差させ防御姿勢を取ったが、扉が丸ごと吹き飛んでくる事態など綺礼の想定にない。重たい扉は綺礼の腕をしたたかに打ち付け、そのまま倒れ込んでくる。

 綺礼は右腕を突き出した。手のひらに込められた圧が、扉の木造部分を木っ端微塵に粉砕する。扉を縁取っていた鉄枠ががシャんと音を立てて地に落ちる頃には、既に綺礼は八極拳の構えをとっていた。そこではじめて、綺礼は襲来した敵の姿を視界に捉えた。

 

「こいつは……ッ」

 

 鋼鉄でできた鋼の体に、今まさに扉を吹き飛ばしたのであろう巨大な豪腕。顔面には虚のような穴を三つ空けた、人間とも英霊とも明らかに質の異なる怪人がそこにはいた。

 鉄が擦れ合うような耳障りな異音が響かせながら、鉄の怪人が地を蹴り、駆け出す。

 

「さあて、綺礼ちゃん。相手は並のスマッシュとは一味違うぜ。このピンチ、いったいどう乗り越える?」

「スマッシュ、だと――」

 

 疑問符を浮かべる綺礼だったが、会話の隙などありはしない。八極拳の達人たる綺礼すらも息を呑むほどの速度で、鉛色のスマッシュは突撃を仕掛けてくる。

 瞬く間に両者の距離が詰められた。その豪腕が、綺礼を仕留めんと振り抜かれる。

 

「速い――ッ」

 

 人間の限界を遥かに超えた速度で繰り出された右の拳をすんでのところで回避しながら、綺礼は間近で見た拳の鋭さに肝を冷やした。ただの力任せの拳ではない。左足で踏み込み、大地から得た力をそのまま拳へと伝えて威力を生み出している。すなわち、異形ながらに全身をフルに活用した拳法家の拳にほかならない。迂闊に喰らえば、一撃で命を刈り取られることは明白だった。

 

「クッ」

 

 続く二撃目の拳を、今度は後方へと飛び退るように回避する。礼拝堂に並べられた木製の椅子を、スマッシュの拳が掠めた。決して安い作りではない椅子の背もたれ部分が、それだけで容易く木っ端となって吹き飛んだ。

 

「……なるほど、相当な威力だな」

 

 彼我の膂力の差を思い知らされながらも、しかし綺礼の戦意が薄れることはなかった。倒せないことはない。そういう確信があった。

 攻撃の威力は申し分なく、戦闘面の技術もなまなかなものではない。けれども、眼前の敵からは“意思”を感じない。確固たる魂を持たぬ拳では、八極拳を極めた綺礼を仕留めることは敵わない。

 

「やれやれ、こんなときにアサシン不在とは……いや、それとも、アサシンの不在を狙っての暴挙かな?」

 

 鋭い視線で、後方の石動に一瞥をやる。

 アサシンは、キャスター・ランサー両陣営の討伐のため、既に戦場へと向かわせている。いま、己の身を守ることができるのは、この拳ひとつだ。さしあたっては、迫りくるスマッシュを無力化させてから、石動を問い詰める必要がある。

 綺礼は拳を構え直し、眼前のスマッシュへと向き直った。

 

「その意思をもたぬ拳でどこまでやれるか、試してみるがいい」

 

 目前の敵に狙いを定めたスマッシュは、再度その豪腕を打ち合わせ、駆け出す。巨大な砲弾さながらの拳の嵐を前に、綺礼は逃げるでもなく、逆にスマッシュの懐へと飛び込んだ。

 

「ハッ!」

 

 攻撃の合間を掻い潜って、綺礼は手のひらをスマッシュのボディへと叩き込んだ。気の流れを集中させ、その鋼の体へと一気に流し込む。大木すらも容易に圧し折れる綺礼の発勁(はっけい)を受けたスマッシュは、大きくよろめき、後退った。

 すかさず距離を詰め、追撃に出る。綺礼の殺人拳は、敵の体を内側から破壊する。鋼鉄の装甲で身を鎧おうとも、綺礼の前では無意味だった。

 

「――ォォォオオオオオッ!!」

 

 スマッシュは、咆哮とともに豪腕を振り抜いた。予備動作のない、正確無比な一撃だ。綺礼は敵の腕に己の腕を覆い被せて軌道を逸らし、力を分散させると、そのまま無力化したスマッシュの腕を己の脇腹へと抱え込んだ。

 

「ッ!?」

 

 表情のないスマッシュの鉄のマスクが、驚愕に震える。

 綺礼に絡め取られた腕は、もはやどれだけ足掻こうともぴくりとも動かない様子だった。綺礼がそうさせている。腕力だけでは、技術を極めた綺礼のロックから抜け出すことは敵わない。

 

「フンッ」

 

 綺礼の肘打ちが、絡め取ったスマッシュの肘の、その内側へと入った。装甲に守られていない関節部を狙った一撃は、スマッシュの内部を骨格から粉々に打ち砕く。全身を痙攣させながら、スマッシュの右腕がだらりと落ちる。前のめったスマッシュの体を、綺礼の掌底が下方から弾き上げた。そのまま手のひらを押し付け、スマッシュの装甲の内側へと気を叩き込む。

 

「ガ……ァ」

 

 ふらつき、後方へ倒れ込もうとしたスマッシュの間合いの内側へと、勢いよく右足を踏み込み、綺礼は腰を低く構えた。

 

「終わりだ」

 

 死と隣り合わせの戦場で己の技を磨き続けて来た綺礼を仕留めるには、自我のないスマッシュでは些か力不足であったと言わざるを得ない。

 もはや体勢を立て直す隙など与えはしない。弾丸のように鋭く捻られた綺礼の拳が、スマッシュの胸部装甲へとめり込んだ。綺礼必殺の絶招が、スマッシュの肉体を内側から粉々に粉砕する。

 岩石すら粉々に粉砕する一撃だ。確かな手応えがあった。

 よろめきながら数歩後退したスマッシュは、糸の切れた人形のように膝から崩れ落ちた。全身の装甲が光の粒子となって霧散してゆく。

 

「ご……ふッ」

 

 スマッシュだったものがひとの姿へと戻ったと同時に、口元から血反吐が溢れ出す。自分自身の血を押し留めるすべを持たず、もはや受け身を取るほどの余力すらもなく、言峰璃正は前のめりに倒れ伏した。

 

「そん、な……馬鹿な」

 

 綺礼は、その瞬間、自分がなにをしでかしてしまったのかを理解した。

 攻撃を受けたわけでも、疲労しているわけでもないというのに、いやに意識が混濁する。足元がふらつく。

 

「ち……父、上……?」

 

 璃正は、スマッシュへの変身状態にあったにせよ、綺礼の渾身の絶招を総身で受け止めたのだ。綺礼の呼び声に応えるだけの余力など残されているはずもない。

 綺礼はこの日、この世で最も敬愛すべき人間を、自らの手で葬ってしまったのだ。

 

   ***

 

 誰にも理解されることなく、自分自身ですら理解の及ばぬ憐れな男を、それでも愛し、癒そうとしてくれた女がいた。

 女の想いに応えたかった。同じように愛したかった。だけれども、憐れな男には、女の気持ちが理解できなかった。

 愛情という言葉を理解するために、女との間に子を成し、これまでこなしてきた数々の修練と同じように、努力を積み重ねた。

 結局、その命が果てる最期の瞬間まで、男は女を愛することができなかった。

 自らの命を捧げてまで、女は男への愛情を示したというのに。

 

 ──ほら。貴方、泣いているもの。

 

 病床で自ら命を絶ち、死にゆく女が最期に残した言葉は、今でも綺礼の心の奥深くに残っている。

 あのときは、ただの勘違いだと思った。たとえ愛する妻が死んだとしても、人間として破綻している綺礼が、いまさら涙など流すわけがない、と。

 

 そう思い込もうとしていた。

 自分自身の感情から目を背けるように。

 

   ***

 

「なぜです、父上……なぜ……どうして、このような……ッ」

 

 死に体の璃正を抱き抱えて、綺礼は嗚咽した。

 綺礼の腕の中で、璃正は微かに瞼を持ち上げ、朦朧とした視線を向ける。

 まだ微かに意識が残ってはいるが、もう助からない。回復不能の致命傷を与えたのは、ほかならぬ綺礼自身だ。璃正は今、内臓のほぼすべてを破壊し尽くされている。それは、誰よりも綺礼が理解していた。

 

「が、ふっ……き……れ」

 

 もはや咳き込む余力もなく、血反吐を吐き溢しながら、璃正は最愛の我が子の名を呼ぶ。璃正は、震える左手を、綺礼の肩にかけた。右腕はもう、関節がひしゃげて、そこから先は使い物にならない。

 

「嗚呼……父上……私は、なんということを」

 

 璃正は、震える口角を不器用につり上げることで、努めて穏やかに微笑んでみせた。表情を見ればわかる。璃正には、綺礼を責める気がないのだ。

 腕の中の父の体を抱き起こし、強く抱擁する。璃正の口腔内に蟠っていた血反吐が、綺礼の肩に吐き出される。ぜいぜいと微かな吐息を零して、璃正は、なにごとかを呟いた。

 暗号めいたメッセージだ。それが最後まで紡がれることはなかった。だけれども、敬虔な信徒である綺礼には、璃正が今際の際になにを伝えようとしたのかなど、容易く理解できた。

 しばしの抱擁のあと、綺礼はそっと優しく、礼拝堂の床に璃正の遺体を横たえた。

 清廉にして潔白なる理想の神父。己の進むべき道に迷う綺礼を案じ、正しい道を指し示し続けた最愛の父の命を、綺礼はこの手で摘み取ってしまったのだ。父の愛情に、なにひとつ報いることのないまま。

 

「こんな……こんなことで……こんなにも、容易く」

 

 体が震える。父の血で汚れた己の両手を見つめ、綺礼はふらりと立ち上がった。

 ずっとそばにいてくれるものと思って疑わなかった。こんなにも容易く()()()()()()()なんて、思ってもみなかった。

 

 ――ぱち、ぱち、ぱち。

 綺礼の嗚咽に混じって、乾いた拍手の音が響く。

 涙を拭うことすら忘れて、綺礼は幽鬼のように振り返った。不敬にも礼拝堂最奥の講壇に腰掛けた石動惣一が、綺礼を見下すように手を叩いていた。

 

「貴様……貴様が父上を」

「その通ーり。俺からの贈り物さ。お気に召していただけたかな?」

 

 聖堂教会の神父を、その本拠地たる教会で殺すなどという蒙昧極まる暴挙に出たというのに、石動はなんでもないように笑っている。なぜそんなふうに笑えるのか、綺礼には理解が及ばない。

 

「なぜだ、なぜ笑う……なにがそんなに面白いッ!」

 

 問われた石動は、呆れた様子で大きく息を吐き出すと、ゆっくりとかぶりを振り、答えた。

 

「いやあ綺礼ちゃん。その言葉、そっくりそのまま返させてもらうよ」

 

「――は」

 はじめ、自分がなにを言われているのか理解が追い付かなかった。

 一瞬遅れて、自分の表情筋に違和感を覚えた。口角が、意思に反して引き攣っている。その不自然な痙攣を自覚してはじめて、綺礼は硝子窓に視線を向けた。

 

「馬鹿、な」

 

 呆然と立ち尽くすほかなかった。夜の硝子窓に映り込んだ自分自身のあまりにも歪な笑みを見てしまったとき、綺礼は戦慄した。

 笑っている。

 この手で最愛の父を討ったというのに。

 滂沱と流れ落ちる涙は真実のものだ。だけれども、父を喪った哀しみに反して、綺礼はこみ上げる笑いを堪え切れず、歯を剥いて笑っていた。

 壊れている。そう思わずにはいられなかった。

 

「私は、そんな……」

 

 己の頬を掌で掴み、無理矢理に笑みを抑えようとするが、それは無駄な抵抗だった。沸き起こる興奮が、綺礼の白いキャンバスのような心をどす黒く染め上げていくような感覚。

 

「父、上」

 

 二度と届かぬと知りながらも、綺礼は縋るように愛する父を呼んだ。死と隣合わせの修練の日々が、走馬灯のように脳裏を駆け巡ってゆく。

 綺礼の幸福を第一に願い、息子の心を理解できないながらも、それでも愛し、導いてくれた最愛の父。

 その父を、言峰璃正を、綺礼はこの手で()()()のだ。

 父の右腕を容赦なく粉砕し、内臓を破壊し尽くして、二度と助からぬ致命傷を与えたのだ。

 肉親殺し。許されざる罪。絶望するには十分過ぎる状況で、しかし綺礼が懐いたのは、心底からこみ上げる――ひとかけらの爽快感だった。

 それを認識してしまったとき、綺礼は絶句した。

 

 ──ほら。貴方、泣いているもの。

 

 死にゆく妻が最期に残した言葉は、今でも綺礼の心の奥深くに残っている。

 あのときは、ただの勘違いだと思った。たとえ愛する妻が死んだとて、既に人間として破綻している綺礼がいまさら涙など流すわけがないと、そう思っていた。

 だけれども、妻の言葉は正しかった。綺礼はあのとき、間違いなく悲しみ、落涙したのだ。

 そのとき懐いた感情が、心の奥底に封じ込めたはずのどす黒い染みがじわりと滲み広がって、綺礼の心に暗い影を落とした。影は、瞬く間に綺礼の胸中を埋め尽くしてゆく。

 

 綺礼は、愛する妻を喪った哀しみに涙したのではない。

 愛する妻を、この手で壊すことができなかった悔しさに、――

 

「――ち、ちがう! ちがうッ!!」

 頭を抱え、絶叫とともに、胸中で鎌首をもたげた思考を否定する。

 否定したところで意味のないことなのだと、心のどこかで理解しながら、それでも綺礼に残った善性が、理性が、全力で抵抗している。

 

「そんなものは度し難いほどに醜悪な悪性だッ! 私の中にそのようなものが宿っているなどと……!」

 

 綺礼は半狂乱状態で叫んだ。そんなことはありえないのだと、自分に言い聞かせたかった。そうでもしないと、綺礼の理性が壊れてしまう。

 

 だけれども、綺礼の心はもう分かっている。理解している。

 

 綺礼は、石動の罠に嵌められるかたちで、図らずして父の体を破壊した。自分の意思の介在しない破壊。結果、理性の心は壊せぬまま、あの愚かな父は、最後の最後まで息子の善性を信じ、帰らぬひととなったのだ。

 そのことが、悔しくて、悲しくて、腹立たしくて、感情のやり場を失った綺礼は慟哭するほかになく。

 

「――これは、違う。なにかの間違いだ、……かの言峰璃正の息子に、そのような歪みがあっていいわけが……」

「いいや、なにも違わねえよ。お前はそういう人間だ。お前は、俺が見込んだ通りの最低最悪なサイコ野郎なんだよ!」

 

 嬉々として快哉を叫ぶ石動に、綺礼は血走った目を向けた。

 

「貴様になにが分かる。自分自身ですら己を識る解を持たぬこの私の、いったいなにが――!」

「わかるさ。お前のことならなんでも」

 

 石動は、謳い上げるように、滔々と口を開いた。

 

「言峰綺礼。お前はこれから、自分の()()のためだけに敬愛する恩師を殺し、そのサーヴァントを奪い取る。そしていまから十年後、非道の限りを尽くしたお前は“正義の味方”に討たれて終わるんだ」

 

「――は?」

 胸の内からこみ上げる嗚咽と笑いが、ぴたりと止まった。

 あまりにも突拍子のないことを言われたせいか、綺礼の思考が一瞬、停止したのだ。だけれども、石動はそんな綺礼の感情になどまるで斟酌する様子もなく、言葉を続ける。

 

「それが後の世に語り継がれる()()()()という名の悪党の末路だ」

「……いったい、なにを言っている?」

「お前からすりゃ未来の話だが、俺からそりゃ過去の話ってことさ。なにしろ、この世界は所詮過去に起こった聖杯戦争を再現しただけの仮想世界。言峰綺礼なんて人間は、現実世界じゃとうの昔に死んじまってんだからな」

 

 石動の言葉は、やはりするりとは頭に入ってこなかった。

 あまりにも荒唐無稽な話だ。それを認めることは、自分自身のみならず、この世界のなにもかもが価値をなくすことに繋がる。

 ここにいる綺礼も、いましがた綺礼が殺した父も、なにもかもが虚構の存在であるなどと、そんな話は認められるわけがない。

 

「戯言を。そんな馬鹿げた話があるものか……!」

「ああ、まあそういう反応にもなるよなあ。安心しろよ、すぐに信じろとは言わない。信じたくないこともあるだろうからな」

 

 石動はさして残念がるわけでもなくぽつりと返すと、壇上から飛び降りた。緊張感に欠ける極めてゆったりとした歩調で綺礼の隣を横切ると、石動は去り際に間延びした声を上げた。

 

「綺礼ちゃん。お前にひとつ、いいことを教えてやるよ」

「な、に……?」

 

 礼拝堂の入り口手前で立ち止まった石動は、その場でしゃがみ込み、木っ端微塵に破壊された扉の残骸をつまみ上げ、顔を顰めてそれを眺める。追撃をかけ、仕留めるならいまだ。石動が油断しているいまをおいて他にない。そう頭では分かっているのに、綺礼の体は動かなかった。

 その綺礼の様子を眺め、満足気に目を細めた石動は、手にした破片を投げ捨て、にっと微笑んだ。

 

「お前の師匠……遠坂時臣は、もうすぐお前に家宝のアゾット剣を渡すことになっている。そンときが(やっこ)さんの最後だ。かわいそうになあ、愛弟子のお前に殺されるなんて考えてもみなかったらしい」

 

「デタラメを言うな!」

 反射的に怒鳴るが、石動は意にも介さぬ様子で肩をすくめるだけだった。

 アゾット剣の存在は綺礼とて知っている。英霊パラケルススが愛用したとされる、遠坂家に伝わる家宝だ。そんなものを、あの時臣が血縁者でもない綺礼に寄越すとは思えなかった。仮にその気があるとしても、綺礼の今後の人生の進退に関わる話を、あの慎重な時臣が、部外者の石動にするとも思えない。

 

「ま、デタラメかどうかはそのとき判断すりゃいいさ。だが、これが事実なら、ちったあ俺の言葉を信じる気にもなるだろ?」

 

 まるで“絶対に的中する”とでも言わんばかりに、石動は破顔した。

 綺礼の理性は石動の言葉を否定した。けれども、綺礼の心は、既に石動の言葉に耳を傾け始めている。その事実を否定するように、綺礼はかぶりを振った。

 もしもそんな話が真実なら、綺礼は、この世界を――。

 

「そんじゃ、チャーオ。また会おうぜ、綺礼ちゃん」

 

 ぞんざいに片手だけを掲げて別れの挨拶を告げ、石動は礼拝堂を出た。もはや綺礼に頓着する様子もなく、石動の背はさっさと足早に夜の闇へと消えてゆく。追いかけるだけの気力は、綺礼には残されてはいなかった。

 

 感情の奔流に翻弄され、思考が定まらない。

 石動曰く、この世界はただ過去を模倣しただけの仮想現実で、現実世界の綺礼は既に死んでいるという。真実かどうかは判然としないが、現時点で、たったひとつだけ、綺礼はひとつの解にたどり着いてしまった。

 自分自身の心根に破滅的な悪性が潜んでいる、という、あまりにも慈悲のない解に。

 認めるわけにはいかない。たとえ事実でも、認めてしまえば今まで築いてきたものが崩壊してしまう。

 

 綺礼は慟哭した。

 泣いて、嘆いて、感情のありったけを吐き出した。

 それも最初だけだ。綺礼の口から漏れる感情は、やがてすべてが笑みへと変わっていった。自分自身ですら感情の判然としない、狂った笑みだ。

 自嘲といえば、自嘲なのかもしれない。同時に様々な感情が濁流のように押し寄せてくるものだから、綺礼にもいまの自分の心はわからなかった。もう、自分が笑っているのか、泣いているのかも、わからなかった。

 やがて、綺礼の心の空洞に、ひとりの男がぽつりと浮かび上がった。

 

「衛宮、切嗣……」

 

 一歩脚を踏み出すことすらためらうほどの暗く静謐な心の闇のその奥に、小さく見える男の姿。右も左も分からない暗闇の中で、衛宮切嗣の立ち姿だけが、綺礼の心に光を灯していた。

 綺礼と同じく、己に過酷な修練を課し、自殺行為と見紛うばかりの極限状況の中、それでも生存し続けた男の、感情を感じさせることのない能面のような顔。それが、綺礼の心に希望をもたらした。

 

「嗚呼、そうか……お前も、そうだったのか」

 

 半ば錯乱した思考の中で、綺礼は次の解へと繋がる方程式を、仮に定義する。

 もしもあの男が綺礼よりも数年早くこの“答え”に辿り着き、凄惨極まりない巡礼の日々に終わりを告げたのだとしたら。

 あの男の目にはいま、いったいなにが映っているのだろうか。

 知りたい。識りたい。

 衛宮切嗣という人間の心の奥底に潜むものを、この目で見たい。それが綺礼と同質のものか否か、今はともかくそれだけが知りたい。

 今まで信じてきた自己が崩壊し、それを取り巻く世界すらも嘘偽りで塗り固められた無間地獄だとするならば、もはやあの男の存在だけが、綺礼にとってたったひとつ残された道標に他ならない。

 

「アサシンは……今頃戦闘中か」

 

 ふいに、時臣の命に従い帰らぬ戦場へと出撃したアサシンに思いを馳せる。時臣はアサシンを使い捨ての駒にするつもりだが、冗談ではない。アサシンを失えば、綺礼は二度と、聖杯戦争の中で衛宮切嗣と相対する機会を失ってしまう。サーヴァントを持たぬ綺礼など、衛宮切嗣からしてみれば有象無象の標的のひとりでしかない。それでは、綺礼の目的は果たされない。

 だが、今後衛宮切嗣との戦いは激化していくとみてまず間違いはない。その戦いを、アサシンだけで渡り合うには、戦力面で見て些か心許ないものがある。まずは戦力を確保する必要があった。

 綺礼は未だ己の右手に三画刻まれたままの令呪を見やり、次に眼前で横たわる璃正の遺体へと目を向けた。

 

「父上――」

 

 あなたの息子は、いまほんの少しだけ、真実へ向かって歩き出すことができました、と。そう告げたい思いを抑え込み、綺礼は父が最期に遺してくれた遺産を継承するため、その枯れ木のような腕に――自分が破壊してしまった右腕に、そっと、労るように指先を触れた。

 親子の間でのみ通じる聖なる祝詞を、粛々と謳い上げる。それだけで、監督役である璃正の全身に刻まれた無数の令呪は赤く輝き、息子である綺礼の体へと受け継がれてゆく。過去の聖杯戦争で持ち越された余剰令呪だ。

 父の遺産の継承を終えて立ち上がったとき、綺礼の顔から、迷いの色も、あらゆる感情の色も、ごっそりと抜け落ちていた。能面のような無表情を貼り付けたまま、綺礼は顔を上げる。

 破壊された扉の向こう側に、一匹の蝙蝠が見えた。足元にカメラを括り付けている。使い魔だ。

 使い魔がいるということは、教会が監視されているということだ。どの陣営の使い魔であるかなどは、もはや考えるまでもなかった。

 

「ふふ……はは、はははは」

 

 能面のような無表情のまま、綺礼の口元から笑みが漏れる。

 本来であれば、敵の使い魔など見咎めた時点で迷わず仕留めるべきなのだろう。けれども、今の綺礼にはもう、時臣から与えられた命令も、璃正から受け継いだ使命も、なにもかもがどうでもよかった。わざわざ追撃したところで、得られるものはなにもない。

 あの蝙蝠は、放っておけば飼い主の元へと帰る。あの男がいまの綺礼を見たとき、果たしてなにを思うだろうか。自分で自分が分からないのだから、衛宮切嗣の思考など理解できるわけもない。それでも、今はあの蝙蝠がいつか衛宮切嗣の元へ辿り着く瞬間を夢想する。それだけでいい。今は、それだけで。

 

「待っていろ、衛宮切嗣。私は必ず――お前にたどり着く」


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