APOCALYPSE accessiones lectorem 作:くつぞこ
寒い、と思った。
全身の汗腺から冷たい汗が噴き出している。手が震えている。体躯を巡る血液は1500万度に煮えたぎっている癖に、脊髄はマイナス396度に凍てついている。絶対零度のプロミネンスが爪の先から前頭葉までのたうっている。
身体にかかる負荷のせいではない。肺に突き刺さった肋骨の痛みでもない。肺に血液が満ちることによる呼吸困難でもない。
正面モニターに映る《ストライクE》が網膜の中で反射を繰り返し、後頭部の中で増幅した像が静脈を伝って心臓に流れ込み、全身へと流れていく。
またこの構図だ、と思った。
フルスロットルで天空に残光を描くは2機のMS。先を行く《ストライクE》、追従する《ハイペリオンⅡ》。レギナルトは口の中に溜まり始めた血液をまた膝に吐き捨て、操縦桿から離れたがっている手を必死に押し付けた。
いつ、再びクルビットが空を跳ねるのか。眼前で空の流れと戯れあう《ストライクE》の軌道には1gほどの重さも無く、背後から追われている逼迫など微塵も感じていないようだ。だから、まるでロバが等距離にある2つの牧草の片方にふらりと意味なく欲望を志向するように―――1秒後には、瑠璃の穹窿に翼が煌めくはずだった。
そして、もし背後を取られたなら。
今度は、あの強引な”技”で回避することは不可能だろう。機体への損傷も大きければ、パイロットへのダメージも大きい。最初は気絶しなかったが、今度は気絶するかもしれない。そうなれば、十分とは言えない高度で空戦を繰り広げる《ハイペリオンⅡ》はそのまま大地に直撃し、そのままMSの最も脆い部品は容易く崩壊するだろう。
全身の表皮が痙攣している。来るべき未来、繰られ得るアポカリプスの回帰はすぐ隣を並走し、レギナルトの首筋を蠱惑的に擽った。
音を鳴らす歯を顎で締め付ける。方法が無いわけではない。ただ、それには相手の動機を悟り相手の軌道を予測し相手の機動をトレースし己は行動を起動しなければならない。そのためには、一瞬の機微を見逃さぬための、研ぎ澄まされた注意力が必要だった。
だというのに、意識が全く指向を持たない。明晰さなど欠片も無く、ただひたすらに拡散し、ぼんやりとした官能がうっすらと身体を流れていく。意識を研ぎ澄ますどころか、あと1分もしたら気絶してしまいそうなほどだった。
酸素が上手く頭に回っていないのだろうか。それとも、別な理由なのか。綿菓子のように所在ない思惟が血流にのって軀を巡ったが、どうでもいいことのように思い始めていた。
レギナルト・シェレンベルガーは、絶え間ない微細な存在論的振戦へと浸されていた。
空の境界が楽し気に幽れている。《ストライクE》はその未来にて約束された原初の姿、時に穏やかで時に荒れ狂い時に怜悧で時に愚鈍な風と為りて、鳥の詩の調を演じている。甘く崩れるような権力への意思で描かれた血の文字の楽譜は、風という名の市場を辿って遍く流通していくのだろう―――。
何かが凝る。五感が一斉に励起して生じた情感が、身体の中を荒れ狂った。
目配せの先、《ストライクE》の高度が僅かに上がる。ディスプレイに表示されたそのデータを悟り、左手が、咄嗟にスロットルレバーを握りしめた。
絶技が放たれる。咽喉元からせり上がった嘔吐感を口に溜まり始めた血液で胃へとねじ込む。ベクタードノズルを反転させると同時にスロットルを開放、さらに連続してスロットルを絞ると、《ハイペリオンⅡ》の脚部が天空を翔けた。
全身に力が圧し掛かる。五体がそのまま見えない力で引き千切られてしまうのではないかと思う程だ。必死に身体を縮こまらせて抗い、口元から出力されようとする嗚咽全てを上下第三大臼歯で圧殺した。
―――それを誰かが見ていたら、きっと感嘆の吐息を漏らしただろう。
全く同じ時宜、全く同じ気勢の光芒が宵闇に瞬き、スラスターの朔の軌跡を刻む。
2機は、互いの舞を踊っていた。
―――Gの暴風が消えたコクピットの中、レギナルトは瞠目した。
《ストライクE》の予備動作を完全に見切ったうえでの同タイミングのクルビット。ただタイミングが同じというだけではない、スラスターの推力から四肢の稼働の一つですら完全に模倣してみせたはずだった。
もしそうなら、眼前には無防備を晒した敵の背があるはずだ。だというのに目前にはただ空が広がるのみで、眼下の茜を塗りたくったロストックの街並みが、ただ横たわっていた。
立て続けにロックオン警報の音が鼓膜を劈く。ディスプレイに背後からの赤外線照射を報せるウィンドウが立ち上がり、同時、モニターに背後の映像が閃く。
ラピスラズリの空、天体から墜落した斜陽がスラスター光と混じり合う。狗鷲が左右に鐵の羽根を広げ、静謐に満ちた双眸がレギナルトを射抜いた。
《ストライクE》は。
オクサナは、《ハイペリオンⅡ》がクルビットを模倣すると素早く察知するや、瞬時に同じ動作を反復した。
即ち―――ダブルクルビット。機体を宙返りさせた直後、再び宙返りさせる
主翼のパイロンに懸架されたミサイル、Mk438空対空ミサイル〈ヴュルガー〉のロケットモーターが唸りをあげる。相対距離は極僅か。赤外線誘導されるミサイルを至近で回避する術がMSに存在する筈も無く、主要部にTP装甲を装備するだけの《ハイペリオンⅡ》では、空対空ミサイルとは言えども数発の直撃はそれだけで致命傷だった。
ミサイルが飛翔する。安定翼で空を切り、バーニアで姿勢制御しながら、違えることなく〈ハイペリオンⅡ〉の肢体を食い千切ろうとしている。
指先が蠢動する。
慄いた左手の人差し指が、操縦桿の兵装選択スイッチをMAU-M3B連装レールガンへと切り替えた。
※
爆炎が落日を孕む。
計6発。空対空ミサイルではMSを撃破しきれないだろうが、この至近で連射すれば背面の飛行ユニット程度は捥ぎ取れるだろう―――オクサナ・アレンスカヤは巻きあがる炎に対し、そんな感想を抱いていた。
レギナルト・シェレンベルガー。かつてビクトリアで戦い、カーペンタリアで再会し、ヤキン・ドゥーエへと旅立つ背を見送った戦友。実際交わした会話はほとんど無かっただろう、重なる身体の経験は捉え難いものばかりだ。
それでも、戦場という極限の地にて肩を並べた人間は、たとえ言葉すら交わさずとも何よりも深い契で結ばれた友に他ならない。
だからこそ、オクサナは容赦などしなかった。たとえ1発でも至近距離でミサイルを回避するなど出来る筈がないとわかっていても、確実な撃墜を望むならばそれでは足りないと己の構成物質が囁いた。
爆光が拡散していく。宵の群青に炎が熔解し、視界が晴れていく。
―――あるいは、オクサナはその光景を予感していたのかもしれない。
晴れ行く焔の先、未だ、あの実験機はそこに居た。右の主翼を前腕ごと捥ぎ取られながら、左腕はあの光の盾〈アルミューレ・リュミエール〉で防ぎながら、あの機体はまだ稼働していた。
何故、という思惟は無い。一目瞭然だからだ。背部に懸架されていたレールガンが背面に銃口を展開していた―――つまり、背後に銃口を展開させ、迫りくるミサイルをCIWSの如くに迎撃したのだ。迎撃しきれなかったミサイルで右半身を吹き飛ばされながらも、白亜のMSは生き残って見せた。
右のマウントアームが砕け、レールガン1門が墜落していく。残った片翼を稼働させ、スラスターを焚いて半身を捩る。肩口に覗いた紅のラインが目に飛び込む。
左半身を覆っていたビームシールドがぐにゃりと歪んだ。袖口の発生装置が畳まれると同時に極光が収斂し、発散していた光の盾は虹色の刃へと収束した。
あ。
そう思った時には既に遅かった。右手に把持させたビームサーベルを振り上げる暇は既に無く、トンファーさながらに発振された光波の矛がコクピットに殺到した。
オクサナ・アレンスカヤは、縋るように利き腕の左手をモニターの端に貼り付けた写真に手を伸ばした。
ずっと昔の写真だった。CE.54年、23歳になるかならないか、という頃の写真で、生まれたばかりの赤ん坊が映った写真だ。
無垢な顔で満面の笑い顔を浮かべる赤ん坊。生きていたら、今は19歳だろうか。生まれてすぐ、当時流行していたS2型インフルエンザで呆気なく死亡した我が子、口蓋に
天体の爓が白く焼き付きしていく。コクピット内の計器も、ノーマルスーツも、オクサナの肉体も、古ぼけた写真も、1秒未満で全てを溶解させていく。エムペドクレスが地球の体液の中で消尽していくかのように。
漂白されていく視界の先、誰かが手を振っている。大人びているけれどどこか無邪気な残り香を漂わせている少女が、懸命に手を振っている。
伸ばした左手はそのままに、シートから立ち上がって、無限の大地を駆けだした。
1歩、1歩。走れども走れども、決して辿りつけぬ幻影の手招きを追って、オクサナはただひたすらに走り続けた。
だって、言わなければ。先に往ってしまった全てのものたちのために、言わなければ。ただ一つだけの言葉を、ただ一つだけ発話することを赦された禁忌の言葉を。
少女が破顔する。オクサナによく似た黒髪を一つ結びにした少女が、早くおいでと待っている―――。
ごめんなさい、また何の義務も果たせずに。
9話でした。
次で〈ハイペリオンⅡ〉の話は完結予定です。