「……」
ふ、と上昇した意識は、部屋の外を横切った人の気配を敏感にとらえ、数秒遅れて頬を撫でる空気が水を帯びてわずかに重いのを認識した。ベッドに横になったまま緩慢に瞬きを繰り返して、ひとつ溜め息を零す。再び目をはっきりと開けた時、視界に入ったのはまだまだ暗い、見慣れない天井だった。
サイドボードに置いて充電していたスマホの画面をタップすれば、いつも起きる時間より1時間は早い時刻だ。
雄英の寮の部屋は五階の真ん中の部屋だ。奥にモモ、手前に梅雨ちゃんの部屋があるが、両隣に空き部屋を挟んでいるため、互いの部屋の生活音はそれほど気にならない。だが、廊下を歩く足音は振動と気配で察知してしまうので、よっぽど疲れていない限り、過敏な神経は他人の気配を察知した途端に覚醒を促してくる。元々早起きで遅寝な人間なので、二人が起き出す前に起きていたから寮生活では対して気にならなかったし、寮生活になる前に住んでいたマンションはオールマイトが元々契約していただけあって、防音がしっかりとしていた。
が、今日泊まったここは事情が異なる。ここは、エンデヴァー事務所のビル上層――事務所に併設された宿泊設備の一室だ。
24時間、この街の安全を守るため、交代でサイドキックたちが昼夜を問わず出動している事務所だ。まだ道路にほとんど車が行き交わないほどの早朝であっても、事務所では人が動く気配がある。きっと、夜勤のサイドキックと早番のサイドキックが警備を交代し、夜勤の人が割り当てられた部屋に戻るところだったのだろう。
事務所が所有する宿泊施設といえど、その設備はホテル並みだ。廊下や部屋の内装も、部屋に備え付けのベッドも家具も、ただ寝泊まりするだけに使うには惜しいほど質がいい。当然、防音もかつてのマンション並みにしっかりしていた。
察知した足音も気配も、普段なら察知したか怪しいぐらいかすかなものだったにも関わらず、過敏に察知してしまったのは……昨日のインターンでの活動が、鈍った感覚をわずかでも研ぎ上げるには十分だった証拠だ。
「……こんな施設があるんなら、職場体験でもこっちに泊めてくれば良かったのに……」
バーニンに昨日案内された時、思わず顔が真顔になったのは仕方がないだろう。
妙だなとは思ったのだ。職場体験中に使用したのはこの高層ビルのうちでも限られていて、別のテナントが入っているわけでもないのに、何でこんなに高いビルを建てたんだ? と疑問に思ってはいたのだが……保須でのヒーロー殺しの件があって、エンデヴァーに聞いて確かめる機会もなく体験期間が終わり、聞きそびれてしまっていた。
だからますますエンデヴァーが自分の家に私を泊めたのが不思議で仕方なかった。赤の他人、しかも異性の子どもを、大事な息子と同じ屋根の下に泊めるなんて正気か? とエンデヴァーの常識を疑い直したのだが、昨日の活動を終えて事務所に戻る道すがらに本人に聞いたところ……無愛想に言われた言葉で、一応腑に落ちた。
『……家で職場体験の話になった時、冬美に君もウチの事務所に来ることを話したらたいそう喜んでな……』
それ以上エンデヴァーは言葉を続けはしなかったが、多くを語られるまでもなく察してしまった。
あ、この人冬美さんが喜ぶと思って私を泊めたな、と。
本来冬美さんと何も関わりのない……体育祭で轟と戦った以外に接点がなかったはずの私の存在を冬美さんが手放しで喜んだことで、恐らくは轟のお母さんこと、冷さんと私が病院で偶然出会ったことも冬美さんから聞いたんだろう。……私が意図しないところでバラバラの家族の
ゆっくりと身体を起こす。ぴったりと窓を覆うようにカーテンを閉め切った室内はまだ青暗く、カーテンの裾から射し込んだほのかな光が、カーテンの波打つ輪郭を浮かび上がらせていた。カーテンをかき分けて外を見ても、藍色に沈んだ街は静謐に包まれていた。雲が多い。
「……今日は雨が降るかな」
左の太腿の半ばから爪先に掛けてわずかに重い。背中の古いやけど傷が突っ張っているような、痛みとも呼べない鈍い違和感がある。こんな日は決まって雨が降る。今までの経験からも確かだった。
神野の一件でスマホが壊れて以来、冬美さんや冷さんに連絡は取っていない。エンデヴァーの事務所にインターン生として所属するのに距離を置くもなにもないのだが、スマホが壊れて、番号を覚えていないから連絡できないのを体の良い理由にしたまま、放置している。
些細なことまで覚え尽くすこの頭には、勿論二人の連絡先も入っている。連絡を取ろうと思えば今すぐにでも電話を掛けられるし、なんなら轟に忘れてしまったから教えて欲しいと訊ねれば、言い訳も立つ。
……それでも連絡するのにこれほど躊躇しているのは、彼女たちが一般人だからだ。
関わりがあった人間が、実はヴィランの手駒として動いていた過去があったなんて明るみに出て、それでもなおこれまで通りの付き合いが維持できるだろうか。……私がその立場だったら距離を置く。まして冷さんは病人だ。精神の安定と安全のためにも、これまで通り気軽にお見舞いなんて許されない。やんわり面会を断られるのが目に見えている。……というか、ナースさんたちに余計な精神的負担を掛けかねない。
ヒーロー科の子どもたちや、心操といった面々が受け入れてくれたのはむしろ稀なパターンだ。普通、仲が良かろうと動揺や戸惑いがついて回るものだ。腫れ物扱いで遠巻きに様子を窺われるのを覚悟していたのに、真っ先に心配したと笑顔で無事を喜ばれて、拍子抜けするほどに。
「……まぁ、雄英を追い出されずに済んだだけ、十分恵まれてる」
だからこれも仕方ないと、諦めもつく。今の自分は護衛無しに学校の外を出歩けないのだから、関わる機会もない。いずれは他のことに忙殺されて、互いのことなんて思い出しもしなくなるだろうから、と割り切って、ベッドの上でうんと身体を伸ばした。左足を重点的にストレッチしてから立ち上がり、手早く着替える。
少し普段よりも時間は長くなるが、うだうだとどうしようもないことを考えても意味が無い。二度寝する気にもならないのだから、折角のトレーニングルームを使わせてもらおうと、タオルや部屋の鍵を手に部屋を出た。