懐かしい、夢を見た。
「んだとテメゴラ魚類、やんのか!?」
「貴方はそれしかボキャブラリーがないんですか……本当に品性の欠片もないですね」
「ハァアァアア!?マジでつぶぐげぼっ」
「あ、チェインさん」
「おはようレオ、ツェッド」
「おはようございます、チェインさん」
「あいっだだだだテメコラ犬女どけ!」
「あら
「おーいチェイン、任せてた例の件、どうなった?」
「はい、ここに纏めた資料が」
「……おや、クリスティアナ。おはよう」
ツェッドに躍りかかろうとしたところを、存在の希釈を解いたチェインに頭を踏みつけられて
その頭をぐりぐりと踏みつけてから声を掛けてきたスティーブンの元へと、心なしか足取り軽く向かうチェイン。
床に沈んだままのザップを呆れたように、けれど生来の
ツェッドは自業自得だ、といわんばかりに溜息をひとつ。
そして、逆光を背にしながらも、ある種殺風景な事務所に空間に彩りを添えている観葉植物にいそいそと水遣りをしていたクラウスが、不意に顔を上げてこちらを見た。巨躯に見合う少し恐ろしげな顔立ちながら、真逆の印象を見せる眼鏡の奥のエメラルドを緩めて、とても懐かしい声が、懐かしい名前を呼んだ。
その呼び掛けに反応して、一斉に視線があちこちから飛んでくる。だがそれは、決して不快ではなかった。
「クリスさん、おはよーございます!」
「おはようございます。貴女が最後なんて、今日は珍しいですね」
「オウ、どうしたよ。ンなとこに突っ立って、まだ寝ぼけてんのかクリス?」
「おはよ、クリス。昨日は呑みに付き合ってくれてありがと」
「なんだ、昨晩は二人で呑んでたのか」
「え、いやええと、はい」
「クリスが作るつまみは美味いからなぁ、チェインが誘うのも分かるぞ、うん」
「え、クリスさんて料理以外につまみまで得意なんスか」
「そうだぞー、少年。今度ライブラでパーティーを開くときは頼むといい」
どんどん目の前で繰り広げられていく、テンポの良い英語。どこかの言語よりずっと平易で、明け透けで、罵詈雑言となれば気遣い無用の殴り合いみたいなやりとりになるそれは、私にとって馴染み深いもので。
「あらっ、クリスっちおはよー!……って、どしたの?入り口に突っ立って。気分でも悪いの?大丈夫?」
元気のいい声と共に背後からするりと蛇のように絡みついた黒革の腕にハッと後ろを振り仰げば、隻眼の青い瞳と視線がぶつかる。返事をしない私に、笑顔から一転して心配するようなものに変わった美貌が、顔を引き寄せられたことで近づく。頬に伸ばされた手に触れて、私はわらった。
「ううん、何でもないの」
心配するその一言に、私は
その一言が引き金だったかのように、一瞬にして事務所だった風景が崩れ、仲間たちもまた一緒に、バラバラの粉々の鏡の欠片になって、ぽっかりと広がる黒い世界に呑み込まれる。
ふれたはずのK・Kの手は、温度が無かった。
重い瞼をこじ開けたその先、薄青に染まった白い天井が、滲んで揺れていた。ピッ、ピッ、ピッ、と規則的な音が横から断続的に響くのを聞いて、ゆっくりとまばたきをすると、冷たい感覚が頬を伝う。目尻から零れていった雫で、頬が濡れていた。
次いで鼻を刺激した消毒液のかすかな香りに、私は自分が今どこに居るのかを察した。そして、気絶する前の出来事もビデオをリプレイするかのように頭の中で思い返す。
「病院か……」
ずっしりと頭も身体も重かったが、両腕をベッドに突いてゆっくりと身体を起こすと、左脇腹が鈍く痛んだ。隣で僅かな光を放っている電子モニターの波形と数字が変化するが、ゆっくりと呼吸をしていればすぐに落ち着いていく。白い小型の機械を目でなぞって、浅くため息をついた。
心電図モニターなんて、見るのは久しぶりだ。HLではさっさとミス・エステヴェスが外科手術で治してしまうし、異界技術のお陰で1日2日もすれば退院してしまうので、ほとんどお目にかからないのだ。
この世界に飛ばされて初めて見た病室と似た、白い個室。窓枠の外は暗く、月明かりが僅かに照らしているだけで、街並みは深い青に沈んでいる。月もまたHLでは見かけない空の景色の一つなので、目を細め、なんとはなしにぼうやりと眺める。
夢の内容は、世界を渡る前は毎日のようにあった、何気ない、特別でもなんでもない日常の風景だった。一瞬、戻れたのかと錯覚するくらいに懐かしくて、半年前と何一つ変わっていないそれに、涙が出そうになって動けなかった。
でも、夢はいつまでも見てはいられない。
月から視線を引き剥がし、心臓のあたりに手を当て、瞼を伏せる。感覚を鋭く研ぎ澄ませ、脈打つ血液の流れを強く意識しながら、私は自分の体の内側の声に耳を澄ませた。
「……内臓……は問題なし、肋骨は……やっぱり折れたか……息吸ってて痛いし……補整はしてあるし、リカバリーガールの“個性”で治してもらうとして……ストックの血をどれだけ使ったのか、聞くの怖いな……」
大体の自分のダメージを把握した私は、苦い顔をしつつもとりあえずベッド柵に吊り下げられたナースコールを押した。もう少し静かにゆっくりとしていたい気持ちもあったのだが、それよりもあの後事件がどうなったのか、他の子たちや先生に大事は無かったか、自分の身体の現状は医師から見てどうなっているかを知りたいと思う欲求の方が上回った。
医師の診察を受けながら、自分の腕に繋がれたままの輸血の管を時折眺め、時折引き戻されるように脳裏に浮かぶライブラの日常を掻き消す。
元の世界に戻る方法は依然何もつかめないまま、私は堕落王からのアクションを待ちながら、かりそめの日常という綱の上を渡っている。
「……しかし、目が覚めてくれて本当に良かった」
翌日。面会可能時間になってから、オールマイトが病室に見舞いに来てくれていた。
襲撃のあった日から、私は丸一日昏々と眠っていたそうだ。昨日は襲撃によって臨時休校となり、今日から授業が再開されているらしい。幸い相澤先生も13号も命に別状なし。私以外の生徒は無事だと聞き、落ち着かない心地だった私はほっと胸を撫で下ろしたのだった。
しょりしょりしょり、と綺麗にオールマイトの手の中で剥かれていく林檎に器用だな、相変わらず女子力高いなと思いながら、私は首の後ろに手をやった。
「はは、ご心配とご迷惑をお掛けしました……」
「緑谷少年に私が駆けつけるまでのあらましは聞いたよ、お蔭で生徒も相澤くんも助かった」
「それで無茶して自分が倒れてるんだから情けないですけどね……思ったよりも血を消費してたみたいで、無理しすぎだって主治医の先生とナースさんにカンカンに怒られました」
ぎりぎり脳虚血で後遺症や脳死を起こさないレベルを狙ってブレーキを掛けていたのだが、実際は生命維持に必要な血液量の限界に迫る勢いだったことを医師から聞いて、少し甘く見積もりすぎたと反省せざるを得なかった。
戦場で足手まといにならないことと、出来る限り攻撃を加えながらも、死なないこと。
神々の義眼を持つレオいわく、「永遠の
だから今は、何としてでも生き残り、堕落王のコンタクトを待つしかないのだ。こちらも何かと物騒な世界だが、相手が人間なぶん、磨り潰しても急速再生はしないのでいくらかは気が楽である。脳無のあの再生力も脅威ではあったが、どれだけ鍛えても内臓は鍛えられないように、内部からの氷結には弱かった。改造された同じ元人間といえど、たかが人間に改造された存在と、上位存在に直接DNAに術式を書き込まれ、物理現象すら凌駕する存在では脅威度も格も違う。
「……やはり全盛期から退行したのは痛いか」
「80%の力は取り戻せても、10年の研鑽は痛いですよ。肉体にかかる負荷が段違いすぎる」
オールマイトの気遣わしげな視線に、私は薄く笑って手のひらをゆっくりと握りしめた。
退行した10年間に鍛えた肉体と感覚はリンクしている。1ナノ秒の斬り合いを可能にするための爆発的な瞬発力も、それを支えるしなやかな脚の筋力も、すべてが退行により無かったことにされた。今動かせるこの肉体は、拷問まがいの実験で虐げられてボロボロに傷つき、一度治して再び築き上げたあの柔軟で強靭なものではなく、もっと柔らかくて脆い、幼いそれだ。
残り20%を取り戻すには、それこそあの命がけの死闘に身を浸す生活を、もう一度10年の歳月をかけて織り上げなければならないだろう。今の私は、感覚はどうあれ、肉体は「熟練」した部分を引っこ抜かれ、ようやく「一人前」になったくらいの練達度なのだから。
しかも具合の悪いことに、技ひとつ行使するのに消費される血液量だって肉体の退化に引きずられて増加している。それなのに感覚は全盛期の頃が抜けないのだから厄介だ。目算を誤って死の瀬戸際まで追いやられたのは、向こうの強さ以前に、私の油断と迂闊以外の何物でもない。
最悪、最大の武器であり己の剣である足さえ残れば、片腕が無くなろうと斗流のじっさまのように血法で欠損を補い、前線に立ち続けることも不可能ではないだろうから、いざという時は切り落とす覚悟もあるが、それも命あっての物種である。死んだら元も子もないのだ。
「幸い、10年前には既に血濤道の副作用で造血機能と循環機能が発達してたおかげで、こうして超回復できてますけども……あとは、何らかの形で全盛期の時に受けた異界技術が影響したのかもしれません。確証はないですけど」
ひた、と冷たい指先を、頭を抱えるように自分の額に押し当てながらぼやく。
血法の行使には属性のついた血液が必要不可欠である。そして、その技術の習得は、それこそ行使する相手が人外であり、技術そのものが人類の限界の埒外に迫る所業であるからして、困難どころか死ぬような思いをして牙狩りの誰もが身に付けるものだ。そんな苛酷な修業時代を、多くが成長期もまだ迎えていないような頃から思春期にかけて経験する。私は少々特殊ではあるが、例外とまではいかない。
そして、大体が思春期の終わりごろに師から一人前と認められ、世界各地にあるどこかの牙狩り支部に属し、求めに応じて各地の戦場に飛ぶのだ。過酷な現状だが、いつだって牙狩りは万年人員不足である。
そんな成長の過渡期に、超人的技術を習得するために肉体を虐め抜き、血液を大量に消費しながら修行を続ければ、一体どうなるのか。
答えは至ってシンプルで、肉体も与えられる変化と血法の魔術的な部分に反応して、技術を存分に振るうのに見合う身体に魔改造されてゆくのである。
血を大量消費するブレングリード流は、身に内包する血液量を増やすために大きく屈強な戦士の身体に。エスメラルダ式血凍道は氷の性質上、技の多くがどちらかというと攻撃よりも捕縛や防御に傾倒している。一撃の攻撃力が低い分手数を増やすため、武器となる両脚は長くなり、素早く心臓から末梢の足裏まで血液を届けるために、脚に纏う
平均身長などの人種的特徴は流石に凌駕出来ないものの、同じ人間のくくりとしては十分に超人的な機能を兼ね備えるのだ。牙狩りの戦闘員が人外の攻撃を受けようとも、簡単には壊れない頑強さはこの為だ。特に、生命線である血液に深く関わりを持つ造血機能と心臓機能の発達、そしてエスメラルダでいえば極寒の環境に対する耐性の発達は目覚ましい。
エスメラルダ式血凍道が消費する血液総量は、数多くある血法の中でも少ない方に分類される。しかし、私が開発した水晶宮式血濤道はまだ一代目で重ねた年月が少なく、血凍道同様に血液をトリガーに空気中の水分を支配して波濤を形成するだけでなく、斗流の考えから取り入れた血糸など、血液そのものを外に出して行使する技もあるので、まだまだ消費効率の悪い血法なのだ。それゆえに、造血機能の発達度は兄弟子のスティーブンより上だろう。
抉られた脇腹はまだ一日と半日しか経っていないにもかかわらず、内部からゆっくりと新しい組織がつくられていて、少し腑に落ちないほどの超回復を見せている。その早さは、異界技術による医療を受けた時にも似ている。異世界を渡って退行の影響があったように、私が気づいていないだけでまだ他にも変化が起きているのかもしれない。
「そうか……難儀なものだね、君も、私も」
オールマイトの溜息は深い。
なんでも、活動限界がさらに縮まり、50分前後になってしまったらしい。マッスルフォームの維持は一時間半が限界とのこと。雄英高校の授業は一限50分間だが、週2の実習と演習は3・4限の2限分を使うので、ヒーロー基礎学の演習授業を一人で受け持つのは難しくなったと言っていいだろう。
「君が倒れた時は胆が冷えたが……何にせよ、大事にならなくて本当に良かった。今日の検査の結果次第では、明日の午前中にでも退院できるそうだし」
「元の世界の異界技術も大概ですけど、こっちの世界の医療も大概凄いですよね……」
「ハハハ、そちらの世界のことは分からないが、こちらはリカバリーガールのように治癒活性に秀でた“個性”を活かした医者も多いからね。流石にリカバリーガールくらいになると、かなり数が少なくて希少だが」
少なくとも「外」の普通の医療の基準で言えば、HLもこちらの世界も、怪我の大きさに対して入院期間が圧倒的に短い。有用な個性は少ないそうだが、それでも最大限に生かせる場を見つけられれば大きく活躍できるのもまた、この世界の特徴のように思える。……その活用方法の一番悪いパターンが、
あらかじめ“個性”の関係上必要だからとこちらの世界に落ちてきた時に頼んで、病院で保管してもらっていた自分の血の輸血パックと発達した造血機能のお陰で、一時は瀕死だった血液量もすでに歩行許可が下りるまでに回復している。とはいえ少し貧血気味であることは変わりないため、激しく動くのはNGだそうだ。脇腹の傷の抜糸をして、血液データが完全に(私の普段の基準で)平常に戻るまでは基礎ヒーロー学の演習もドクターストップとのこと。……資格取得のための単位、間に合うかな。
あともう一つ、気になるのは。
「明日……学校行ったら謝らないとな……」
「うん?またどうして」
「いや……多分イズクや爆豪には、自分を助けたせいで私の容態が悪化したって、多少なりバレてそうだなと……イズクはお人よしですし、爆豪もああ見えてみみっちいというか、借りとかの類は気にしそうなタイプだと思って。……後味悪いじゃないですか、自分を助けた人間が目の前で倒れるって。
それでなくとも、轟や切島くんにも迷惑掛けてますし。自分でもちょっと、年上だから守らなきゃいけないって気張りすぎて突っ走ったのは反省すべきだなと」
あの時、今動かないと彼らがもっと重傷を負っていたり、下手したら死んでいたかもしれないと思って勝手に身体が動いたようなものですから、無茶したことについて後悔はしませんけど、と付け加えると、うん、とオールマイトも首肯した。落ちくぼんで影が濃い眼窩の中、宿る光はひどくおだやかにこちらを見据えていた。
「千晶くん。君もまた、私や緑谷少年に似ている。困っている他人の為に、無謀にも思えるほど自分を投げ出せる。君が今回の襲撃で示したのは、一番ヒーローに必要な素質だ。
君は以前、私にこう言った――自分は、世界を救うことはしても、ヒーローたりえないことをしてきたと」
果物ナイフを床頭台のテーブルに置き、ハンカチで軽く手を拭ってから、オールマイトの手がベッドに置かれていた私の手を握った。低血圧と血の特性上、少し基礎体温の低い私の手を温かい体温が包み込む。労わるような、慈しむようなその手つきに、オールマイトの優しさが表れているようだった。
この手は、血に
スティーブンのように異性と表面上の関係を結んで情報を得るようなことはスティーブン自身に禁じられた(これ以上自分を犠牲にするなと怒られたのだ)ため、情報や金の為に抱かれたことは無いが、義兄にそっくりだと周囲から言われるそこそこ華やかな美貌はとても役立った。
正義の為に拳を振るうのがヒーローなら、ライブラの私はとてもヒーローとは言い難い。秘書という職業柄、ライブラで二番目くらいに汚い仕事を請け負っている。しかも、半分ほどはクラウスには絶対悟られてはならない類の。
「だが、君はその手で、相澤くんや緑谷少年、爆豪少年の命を救った。強敵に怯むことなく立ち向かい、最後まで友人を護り、私のサポートをしながらも友人を害した敵に一矢報いてみせた。君が本来は25歳の女性だということを抜きにしても、その行動は誰に恥じることもない、立派なものだ。
……あの場所で、君に助けられた彼らにとって、間違いなく君はヒーローだったよ」
だが、何よりも感謝している恩人、それも
裏世界に属し続け、後ろ暗いこんな自分でも、表の明るい世界でヒーローを名乗ってもいいのだと、少しだけ許されたように思えた。