オールマイトが帰った後、しばらくは彼がお見舞いに持ってきてくれた本を大人しく読んでいたのだが、ずっとベッドに居るのが苦痛になってきた私は、あてがわれた個室を出て、ナースステーションへ向かった。
ナースステーションにはナースさんが数人いて、パソコンに向かって電子カルテを打っている姿が目に入る。ペタペタとサンダルの音を鳴らして近づいていくと、手前に座っていた事務さんが顔を上げた。
「あら、星合さん」
「すいません、中庭までちょっと散歩したいんですが」
「はいはい、ちょっと待ってね。看護師さんに確認するから」
そう言った彼女が背後のナースさんたちを振り返る前に、カルテに向かっていた一人のナースさんが顔を上げた。少し驚いたような顔をしながらも即座に近づいてきたその人は、朝に検温やら体調を聞きに来てくれた、今日の私の担当ナースさんだった。
「星合さん、どうされました?」
「中庭まで散歩したいんですって」
「あぁ……大丈夫ですよ、先生からも許可出てますし。じゃあここに時間と名前、書いてくれる?」
差し出されたのはバインダーに挟まれた一枚の紙で、表には他の患者の名前も書き連ねられていた。指示通り項目に今の時間と名前を記入すれば、ナースさんはちらりと確認した後、持っていた判をぽん、と押した。
「じゃあ、一時間以内に戻って来てくださいね。病院の敷地外からは出ないことだけ注意してください」
「はい、ありがとうございます」
いってらっしゃいと笑顔で見送られ、病棟の自動ドアをくぐる。東西で分かれているらしい病棟の間にエレベーターホールがあり、ボタンを押してすぐに丁度降りてくるところだったエレベーターが停まったので、私は少しがらんとしたそこに乗り込んだ。ドアが閉じ、ゆるやかに下降していく独特の浮遊感に身を任せながら、数を減らしていく液晶を眺めた。
入院……というか、病院にお世話になるのは実質2回目なので、中庭に出るのはそう難しいことではなかった。
中庭に繋がるドアを開ければ、ぶわりと風が吹いて、甚平タイプの病院着の裾をくすぐっていく。空気を身の内に循環させるように静かに
僅かに目を細め、サンダルでやわらかな地面の感触を楽しみながら中庭へと足を踏み入れた私は、不意に視線を向けた先に、一人の女性が少しふらつきながら歩いているのに気付いた。きらきらと陽光をはじいて輝く、白い長い髪。
少し線の細さが目立つその人の膝が突然、かくん、と沈んで髪が広がる様を克明に、スローモーションを見るような気分で目の当たりにした私は、転びそうになったその人の膝が地面に付いて胴体が前に倒れ込む前に、反射的に血糸を伸ばしてその胴体を支えることで怪我をするのを未然に防いだ。
そっと地面に降ろし、自分もその人の元に駆け出してから、普通に能力……“個性”と見做されるであろう力を使ってしまったことにはっとした。いかん、つい反射でやってしまった。雄英は個性使用特別許可の下りた私有地なので、他人に迷惑を掛けない範囲で個性の利用が許可されているが、ここは病院である。公共の場での“個性”使用はご法度なので、やってしまったと苦い気持ちになった。
「大丈夫ですか?」
しゅる、と胴体に巻いた血糸を解き、体内に戻しながら声を掛けると、座り込んだままぽかん、としていたその人はグリーンアイズを丸くしたのち、ええ、大丈夫と淡く微笑んでくれた。白い長い髪が、陽光を弾いて銀のきらめきを落とす。
「ごめんなさいね、久々に外に出てみようかと思ったのだけど、急すぎて身体がついていかなかったみたい。お陰で助かったわ」
「お怪我がないならなによりです。立てますか?」
「ええ、ありがとう」
そっと手を差し出すと、白く細い、たおやかな手のひらが乗せられた。あまり負担を掛けないよう、優しく手を引いて立ち上がる手伝いをすると、そのまま中庭に設置されているベンチまで支えながら誘導する。再びほころぶような笑顔でありがとう、と言われ、いえ、と手を振ろうとした私はその人の笑い方にふと妙な既視感を覚えた。動きを止めた私に、きょとりとその人は黒い目をまあるくする。
「どうかした?」
「ああ……いえ、すみません。笑った顔が誰かに似てるなって思ったんですけど」
「まあ、誰かしら?」
安いナンパのような言葉を口にする私に、女性は可笑しそうにくすくすと笑った。花のような笑みだ。
誰だったかと頭を回すも、こういう時に限って回転力のいい頭は答えを弾きだしてくれない。K・Kやチェイン、ニーカ。エステヴェス女史やミシェーラ、ビビアンにアリギュラも違う。誰だろ……?こちらの世界の女性陣の知り合いの顔も一通り脳内に並べ立ててみるのだが、いまいちヒットしなかった。一番近かったのはモモだが、彼女ではないような。
しばらく脳内検索をかけていたものの、いまいちヒットしないのを見て早々に思考をほうり投げた。そのうち思い出すだろう、という淡い期待を持ちつつ。
私の表情から、連想ゲームをやめたことを見て取ったのだろう。髪も肌も服も白く印象の儚い女性は、少女のようにほほえみながら手の平を合わせた。
「さっきから思っていたのだけれど、すごく日本語が上手ね。ハーフ……でもないでしょう?」
「ええ、スペイン人ですよ」
一応、たぶん、と心の中で付け加える。捨て子なので、厳密にスペイン人かはわからないのだ。遺伝子検査でもすればハッキリするのだろうが、そこまでする必要も無いと思い追求はしていない。牙狩りの血液検査に引っかかって今の自分があるので、これ以上自分のルーツについて藪をつついたら、蛇どころではない何かが出てきそうで非常に怖い。いまさら知ったところでどうこうしたいというわけでもないし。容姿の特徴も大体スペイン人……バルセロナのあるカタルーニャ地方の特徴と大まかに合致しているので、人種を尋ねられたときはスペイン人で通しているのだ。
「そうなの。綺麗な外国の方だと思ったら、流暢な日本語が出てくるんですもの。びっくりしたわ」
「よく驚かれます。日本語は独学で、未だに勉強中ですよ」
「とてもそんな風には見えないわ……日本に来てどのくらいになられるの?」
「9ヶ月くらいですかね。その前から日本語は学んでたんですが」
まあ。黒々とした瞳が驚きに開かれる。予想していた反応にすごいでしょう?とおどけて言えば、ぱちぱちと拍手が返ってきた。
「頭が良いのね、日本には留学で?」
「そんなところです」
本当は異世界から落ちてきました、だなんて突拍子も無いことをまさか行きずりの初対面の人に言うわけにもいくまい。留学生だと思われたのならそれはそれでいいか、と明言を避け、詳細はぼかしながら便乗する。
座ってからというもの、ぽんぽんと次から次へと質問が投げかけられてくるが、不思議と嫌悪感は沸かなかった。それは、彼女が相変わらず誰かの笑顔を想起させるような笑顔を浮かべていたからかもしれないし、何の打算も策略もない、素直で無邪気な質問であると分かっていたからかもしれない。スポンサーや取引先、新しく出来たライブラ以外の“友人”との会食のたびに、毒やらしびれ薬などの混ぜものの心配をしないで済むのは、胃と精神をすり減らす必要がないという点では大いにこの世界に来て良かったと思えることの一つだ。
その後も取りとめもない会話を続け、お互いの緊張もほぐれた頃、学校の話題になった。雄英に通っているのだと言ったら、その人は小さく息を呑み、わずかに表情を曇らせた。苦しげに変わったそれを見て、シンと出会った時のことを思い出しながら、何か気に触ったのだろうかとおろおろとする気配を察してか、ごめんなさい、と小さな声が謝罪を口にした。か細い声だった。
「私の末の息子も、雄英に通っているのよ。もう長いこと顔を合わせていないけれど……」
「えっ?」
彼女の息子が同じ雄英生であることよりも、息子の顔を長い間見ていないという方に意識が引っ張られた。かすかに
「あの子は何も悪くないの……私が、幼いあの子に酷いことをしてしまったから、私が、あの人の思惑通りに、あんな風に産んでしまったから」
深い悲しみに凍えた声は、いっそ不気味にも思えるほど静かだった。その懺悔を傍らで静かに聴いていた私は、はくりと小さく息を呑んだ。
彼女の息子のことは分からない。けれど、一人の母の懺悔が、遠い異世界の何処かに居るかもしれない自分の本当の母親も、もしかしたらこんな風に考えることもあるのだろうか。そう思い始めると、女性の悲痛に震える華奢な肩も、長年顔を合わせることも出来ずにいる彼女の息子のことも、到底他人事のようには思えなかった。所々重なる部分が多すぎたのだ。
無責任な両親が、目の前の彼女のように罪の意識に駆られている可能性が、エスメラルダの師に引き取られるまでの教会での生活の中で、それを疑うようなアクションが全くなかったことからも限りなく低いのだとしても。それでも、何処かで人知れず苦悩を抱えているのかもしれないと、望み薄の淡い期待を抱くことは止められなかった。ああ、やはり思考回路まで、着実に平和に毒されつつある。
初対面の私が、根深そうな彼女の家庭内の事情に踏み込むことは出来ない。あまりにもデリカシーに欠けている。それでも無言を貫くのは不誠実に思えて、なにかかけられる言葉を探し、思索の果てにようやく零れ落ちたのは、たった一言だった。
「でも、後悔するほどにその息子さんのこと、愛していらっしゃるのでしょう?」
長年避けられていようとも、それでも息子にしてしまった過去の出来事を悔い、息子に与えてしまった不幸を想って、静かに泣くことができるのだから。
はた、というかすかな音と共に、彼女の白い病院着に滴が数滴落ちて、色を変えてゆく。顔を覆う手の平からわずかに顔を上げ、こちらを惚けたように目を丸めるその人に、眉を下げながらも微笑んだ。白いまつげが水滴に濡れ、木漏れ日を受けてきらめくさまは美しい。儚げに俯き、繊細で可憐な百合のような
数秒の沈黙の後、かすかに頷いた彼女の黒曜のひとみは、水滴の厚みを増しながらも、かすかな希望をたたえていた。
「いつか……息子が成長する姿を、一番大事な時期を……間近で見てあげられなくてごめんね、って、生まれてきてくれてありがとうって、いつか直接伝えられたら、って」
生まれてきてくれてありがとう。
純粋な、我が子の命が在る奇跡を祈り感謝する姿は、終ぞ私に与えられることなく、心のどこかで焦がれていた言葉。長い別離の果てに在ってもなお、母に愛され、その生命と健やかな成長を喜び、それが続くことを祈ってもらえているその息子は幸せ者だろう。少しだけ、羨ましかった。
望んで産まれた子であるかどうかすら判然としない私には、望んでも得られなかったものだったから。
天に雲がかかって暖かな陽光が届かなくなり、風が強まったのを感じて、私と女性は体調を崩さないうちにと中庭を共に後にした。時計を見れば、そろそろ散歩の時間の期限も迫っていたところだった。
エレベーターに乗り込み病室の階を尋ねれば、なんと同じ階だった。しかも何の偶然か、同じ病棟だったことが発覚し、私とその人は思わず顔を見合わせてしまった。私は昨夜まで目覚めていなかったのだし、彼女は彼女でほとんど病室に篭りきりだというから、顔を知らなかったのも不思議ではないのだが。
再び女性がふらついて倒れないようにと細心の注意を払いながら病棟のドアをくぐると、出迎えてくれた看護師さんたちが皆若干驚きながらもおかえりなさいと声を掛けてくれた。その妙な反応にいぶかしみながらも、彼女の病室までエスコートする。私があてがわれた個室よりもややグレードの高そうな個室は、思いのほか物が少なくこざっぱりとしていた。長期入院なら、もっと物が多くても良さそうなものなのに。
ベッドに腰を落ち着け、どうもありがとうと笑みを向けられるのを、同じく笑みで返した私に、彼女は質問を投げかけてきた。
「怪我で入院って言っていたけれど……入院はいつまで?」
「ええと、今日の検査の結果次第では、明日の午前中にでも退院できるそうです」
「あら……そうなの。良かった。折角お話できたのに、すぐにお別れは少し寂しいけれど」
また良かったらお話を聞かせに来てくれないかしら、と少し遠慮がちに微笑んだ彼女の手をとり、私で良いなら是非、と笑う。理想の母親像というのはこんな感じなのだろうか、と羨望と親近感をひそやかに覚え始めていた私にとっても、その提案は願っても無いことだった。初対面の(中身はともかく)小娘が言い出すのは厚かましいだろうと、自分からは到底言い出せなかっただけに。
最近出歩いていなかったところを、急に中庭で風に吹かれながら一時間少々話をしたのだ。きっと疲れているに違いない。長居するのも悪いと思い、扉が閉まるその瞬間まで花のような笑顔を携えて手を振ってくれている彼女に微笑みながら丁寧に病室を辞した私は、数歩歩いたところで強制的に歩みを止めることとなった。
「ほ、星合さん」
「はい?」
何故か待ち構えていたらしいナースさん二人に距離を詰められ、その表情がどちらも切羽詰っているのに気付き、何事かと顔を引きつらせる。何かやらかしたとしか思えない剣幕の二人は、ちょいちょいと私を無言で手招きし、それにしたがって膝を折り、近づいた私の耳に内緒話をするように小さな囁きを落とすのだ。
「さっき、轟さんと散歩行ってたの!?」
「……へぇ?」
とどろき。
とどろき、さん?
突拍子も無い囁きに聞き間違いかと己の耳を疑った私は、惚けた表情と声を晒した上で、ゆっくりと背後を振り返った。今しがた自分がドアを開けて出てきた病室、そのすぐ傍の壁に掛けられたネームプレートを恐る恐る見遣る。
そこには、「車」がみっつ。
この世界に落ち来て、出会い、えにしを結んできた人々の中でも間違いなく五本の指に入るだろう、見慣れ、親しみ、幾度と無く声に乗せて呼んでいた響きの漢字が、そこに静かに存在していた。
そして、最初にあの人の笑顔に既視感を覚えていたことを思い出し、友人と彼女の顔がオーバーラップした。
いや、まさか、そんな都合のいいことがあるだろうか。
なぜ気付かなかったと冷静に責め立てる自分が心のどこかに居る中、混乱した頭は思考が堂々巡りするばかりだ。一度気付いてしまえば、あまりにも分かりやすいというのに。彼自身からも、彼女からも過ぎるほどにヒントを与えられている上、符合する点が多すぎて関係性が無いことを立証する方がよほど難しいくらいだというのに。
「……え?」
マジで?
「やあやあ諸君、堕落王フェムトが次回の予告をお送りするぞ。
最初の予告は主人公がやるものだと思っていたろう、バ――カ――め――!!!だから君たちはダメなのさ!もっと跳躍のあるポップな発想を心掛けたまえよ?
なに? 異世界に人を転移させておいてお前はなんで呑気に次回予告などやっているのか、だって? チッチッチ……そんなネタバラシをしたら面白くないじゃないか!全く度し難いほど普通すぎてつまらない、ナンセンスな質問だ。
彼女が飛ばされたことに意味があるのか、ないのか、世界と世界が変化を起こすのか否か……どう事態が転んでいくのか、はたまた堕落していくのか……こんなに面白いことを見逃さない手はないね、そうだろう?
次回、人魚姫は英雄の夢を見るか? は体育祭編をお送りするぞ。
中身は自分で確かめたまえ、次もせいぜい頑張りたまえよ、ヒーロー候補生諸君?」