USJでの敵の襲撃から、三日。全然気が休まらなかった臨時休校が明けて二日目。
教室に行くと、まだ始業まで時間があるのにほとんどの子が教室に来ていた。
「あ、麗日おはよー!」
「麗日さん、おはよう」
「おはよー!」
私に気付いた芦戸ちゃんやデクくんが声を掛けてくれて、それに挨拶を返しながらもつい、デクくんの前の席をこわごわ見てしまう。千晶ちゃんが普段座っているそこは空席で、鞄も何も引っかかっていないのを見て、流石に朝イチで来とるわけないよなぁ、と淡い期待が打ち砕かれてがっくりした。そんな私を見て、デクくんも苦笑いを浮かべていた。
昨日、顔と左腕を包帯でぐるぐる巻きにした姿で現れた相澤先生に、今回の襲撃で一番ダメージを受け、意識不明の重体だった千晶ちゃんが目を覚ましたこと、失った血液も自己輸血と自前の造血機能でほぼ元通りぐらいまで戻ったこと、検査の結果次第では早くて今日にでも退院できることを聞いて、クラスが歓声やら安堵やらに包まれたのは記憶に新しい。私もそれを聞いてやっと、安心することが出来た。一歩間違えば目が覚めないかもしれない、って聞いてたから、やっぱり怖くて、臨時休校中も心ここに有らずだったから。
セメントス先生が広場から階段を上がって千晶ちゃんを抱き上げて運んできた時、モヤみたいな
その後刑事さんに千晶ちゃんの思わしくない容態を聞いて、たぶん事情聴取を受けて自分で家に帰ったはずなのに、どうやって借りてる部屋まで辿り着いたんか、その間の記憶がさっぱりなかった。
ゾンビみたいにふらふらしながら作り置きのおかずといっしょにご飯を食べて、節約のために早々に布団に潜り込んで部屋の電気を消した時、閉じた瞼の裏に、ぼろぼろの千晶ちゃんの姿がよみがえって急に我に返って、怖くなった。
千晶ちゃんの目が覚めんかったらどうしよう。私はこうしてなんも大きな怪我もせんと、ごはんを食べて、布団にくるまって眠ることが出来る。でも千晶ちゃんは、白い病室で色んな機械に囲まれて死の瀬戸際にいると思ったら、やりきれなくて、悲しくて、くるしかった。できることなら、今すぐ駆け寄って、ひんやりとしているだろう手をぎゅっと握ってあげたかった。
あんなにいっぱい血を吐いて、痛かっただろうし、こわかっただろうし、つらかったと思う。私は私の事で精一杯やったのに、相澤先生やデクくん、爆豪くんを助けるために無茶をしたという千晶ちゃんが、どうか助かりますように、目が覚めて、また一緒に勉強したりご飯を食べたりできますようにと、きつく目を閉じて、身体を丸めて祈ったのだった。
結局朝の始業のチャイムが鳴っても千晶ちゃんは現れず、皆ドアと時計をチラチラと見比べていたけれど、ドアを開けたのが相澤先生で少しガッカリしていた。それは相澤先生にも伝わったみたいで、さっき保護者から連絡があって、午前中に退院した後そのまま警察に寄って事情聴取を受けてから来るらしいから、星合が来るのは午後からだ、と尋ねる前に教えてくれた。
良かった!と前の席の飯田くんやデクくんと笑顔で顔を見合わせた矢先に、相澤先生に「だからきちんと授業を受けろよ」とざっくり釘を刺されてしまった。途端に静まり返る教室内。オーバーリアクションで喜びを表現していた芦戸ちゃんや上鳴くんたちが少し恥ずかしそうにおとなしくなるのを眺めながら、好かれてるんやなぁ、と改めて再確認した。やっぱり、一人いないだけで浮き足立ってたみたいや、私たち。
お昼休み、若干そわそわしながらデクくんたちと食堂でご飯を食べて、食休みもそこそこに教室に戻る。もう来てるかもしれないと思うと居ても立ってもいられん気持ちになって、いつもはランチラッシュの美味しいご飯を噛み締めるように食べるのに、今日だけはその昼食もあんまり味を覚えとらんかった。
早く千晶ちゃんに会いたいなぁ、とぼんやりしていた私は、「む?あれは星合くんではないか?」と耳に飛び込んできた飯田くんの呟きに、窓の外のまぶしい青空から視線を引き剥がして、ぐりんと廊下の先にすばやく視線を走らせた。隣のデクくんを驚かせたような気がするけど、ごめん、許して。
それなりに人通りのある廊下の中、女の子にしてはすらりと高い身長の黒髪の子がA組のドアの前で立ち止まっていた。ウェーブの掛かった黒髪で俯きがちな顔は見えんくても、立っている雰囲気や持っている鞄、なにより鞄の紐を握る指のひとつに、きらきら光る銀色の指輪が嵌っているのを見れば、その子が千晶ちゃんで間違いないことはすぐ分かった。
ほんとうは、すぐにでも駆け出して、名前を呼びたかった。退院おめでとう、無事で良かったって声を掛けたかった。そしたらきっと、ありがとうお茶子、と笑ってくれるに違いなかった。
けれど、ドアの取っ手に伸ばした指先が、一瞬ためらうようにひっこんで、数秒宙をさまよってから、決心したみたいにもう一度取っ手に伸ばされるのをみたら、なんだか、胸が詰まるような衝動にかられた。
いつだって千晶ちゃんは堂々として、広い視野で穏やかにものごとを見つめられる。戦いだって上手で、相澤先生でも手に負えなかった
でも、それでも。どんなに強くたって、一日顔を出さないでいたクラスに飛び込むのに少し勇気がいる、ひとりのおんなのこなのだ。
ああ、とためいきがかすかに喉の奥でうまれて、目の奥がツンと痛んだ。熱を持って滲んだ視界の中で、黒髪が部屋の中へと消える。廊下まで聞こえていたざわめきが、とたんにしんとする気配がここまで伝わって来て、戸惑うような「おはよう」を耳にした私は、たまらずばっと駆け出した。背中に飯田くんとデクくんの戸惑ったような声と、追ってくる気配を振り切るように走って、走って、走って。教室に入ってすぐのところで突っ立ったまま、気圧されたみたいに一歩後退ったその背中に思い切り、頭突きするみたいにすがりついた。うっ、と衝撃に呻く声と少し反った背中を握りしめたブレザー越しに感じながら、そういえば脇腹のあたりを怪我していたことを思い出して手の力を緩める。
ちあきちゃん。必死に絞り出した声は、目玉とおんなじくらい水っぽかった。かわいくない声。笑って出迎えたかったのに、これじゃあまるでお別れみたいだ。
「……お茶子?」
どうしたの、と問いかける音階とおんなじ音で私の名前を呼んだ千晶ちゃんが首だけ振り返るのが、さらさらと私の頭や肩を撫でていく黒いカーテンの動きでわかった。心配するような、少しかさついた声に少し安心する。
私の腕の力が緩んだ隙をみて身体を反転させて、しがみついている私を正面から抱き留めた千晶ちゃんに、ぶつけるみたいにして言葉を吐き出した。
「良かった、ほんまに、千晶ちゃんが死なんで、目ぇ覚めてよかった……!!」
正面から抱きしめてくれたとき、一瞬目に映った千晶ちゃんの表情が閉じた瞼の裏にあざやかに蘇る。おどろいたみたいな、少しあどけない顔。急展開過ぎて、病み上がりの頭ではついていけていないのかもしれない。でも、一度吐き出した本音は呑み込めずに音になる。
「ぼろぼろで、怪我した千晶ちゃん見て、刑事さんから容態聞いて……もしかしたら助からんかもしれんって聞いたら、もう喋ったり、ご飯一緒に食べたりできんかもって思ったら、一気に怖なった……!」
傷に触らないようにと控え目に回した腕のせいで、鼻先が胸のあたりのネクタイを掠める。鎖骨のあたりにおでこを当てると、柔軟剤の優しい香りと、シャツの下でかすかにふくらんではしぼむ動きを繰り返す胸の動きが伝わってくる。
ぽろぽろと目尻からこぼれていく涙を止めないと、ブレザーやシャツを汚してしまうと思考の隅で考えても、蛇口が壊れたみたいにとめどなく水が溢れては、頬をすべっていく。
いきてる。
シャツの下で息をする皮膚も、骨のかたちも、しなやかに引き締まった筋肉の動く感覚も、かすかに伝わる心臓の音も。今この瞬間、星合千晶というひとが生きているのだと、リアルに伝えてくる。
生きててくれてよかった、というつぶやきは、ネクタイにぶつかって消えた。
それまでずっと黙って私の言葉を聞いてくれていた千晶ちゃんの手のひらが、ふいに優しく頭を撫でた。もう一方の手は泣き止ませようとしているのか、赤ちゃんをあやすような、時計が針を刻むリズムでゆっくりと背中を叩く。かえって涙の量が増えたことも、きっと千晶ちゃんは気付いただろう。
「……心配かけてごめん、お茶子。でもちょっと嬉しい、実は」
ごめんと謝る声は、確かに自己申告の通り、すこしだけ喜びを滲ませていた。うれしい。……嬉しい?自分の言葉をもう一度頭の中で繰り返してみる。
……喜ばれるようなこと、私、言ったっけ?
怪訝に思って埋めていた胸から顔を上げると、さらりと黒髪が濡れそぼった頬を撫でてゆく。少しだけくすぐったくて、こうして黒髪に上と左右を囲まれていると、世界から切り取られているみたいな心地になる。目を細めていると、くすぐったいと思ったんだろう。私に肘が当たらないように腕を持ち上げて、さらりと髪を耳に掛ける仕草は、光にぼやける中でもきれいに見えた。
「……?」
「いや、怪我して本気で心配されるっていう経験があんまり無くて」
あくまでも穏やかな笑声には、なんの痛みも窺えない。ただ嘘偽りなく事実を語る、まっすぐでのびやかな音だけが、根底に揺らめいていた。
呼吸が凍ったような、そんな錯覚を覚えた。熱がまたひとつほろりとまなじりからこぼれ落ちて、一つの音も震わせられない喉を滑ってシャツの中に消える。ぎり、とブレザーを掴む指に力がこもって、その下のしなやかな身体に食い込む。力が入って少し痛いだろうに、それでも見上げた彫の深い顔立ちは、眉一つ歪まずに私を見下ろしていた。透明なまなざし。
――お茶子。
耳の奥で父ちゃんや母ちゃんが、呼ぶ声がよみがえる。引力を消す個性を使えば、経営する会社は今よりずっと楽になるはずなのに、私が夢を叶える方がずっとうれしいと笑う声。たまに腹が立ったり、喧嘩したり、言いたいことを飲み込んだりもするけれど、いつだって私のことを思ってくれている、やさしい家族。
怪我をして怒られるのは、その下に自分への心配があると分かっているから、どんなに痛くたって、悲しくったって受け止められた。小さい頃はどうして怒るのと理不尽な怒りにかられたこともあったけど、振り返ればいつだって、両親の愛情が傍にあった。
「え……だって、両親とか……」
無意識に零れ落ちた言葉を、耳を介してもう一度自分の頭で噛み砕いてから、自分の失言に気が付いた。
千晶ちゃんの身体には、深い深い傷跡が残っている。入学したその日に、個性把握テストのために体操服に着替えようとシャツを脱いだその下に、なまなましい傷跡と、蔦のような赤い刺青が入っているのを見て、思わず目を疑った。自分の手が届かないような場所にまで書き込まれた切り傷や、殴られて紫に変色した痕、背中の肩甲骨のくぼみをなぞるように大きくつけられた火傷の痕。尋常じゃなかった。ただの暴力や虐待なんて言葉では済ませられないくらいの、ひどさ。見苦しくてごめんね、と眉を下げて笑った千晶ちゃんは痛くないと言っていたけれど、本当かどうかは本人しか分からない。それに、身体は痛くなくたって、心は痛いはずなのに。
児童虐待やって怒った耳郎ちゃんや八百万ちゃんに対しても、確かに少し微笑んでいた。あの時も、心配されてうれしかったのだろうか。
千晶ちゃんの両親は、千晶ちゃんを愛せなかったのだろうか。
静かにまつげの先をさざめかせた千晶ちゃんの呼吸はおだやかで、うっすらと微笑みを乗せた優しい表情のまま、親指の腹で私のこぼれおちる涙をすくうように、丁寧に撫でていく。無神経なことを言ったのに、いつまでも咎める声が落ちてこない。
沈黙が、なによりもの答えだった。
千晶ちゃん自身はちっとも辛そうじゃないのに、私の胸は縛り付けられたように苦しくなる。
そんな私の胸中を知ってか知らずか、千晶ちゃんはなんてことのない世間話をするみたいに、それでいてしみじみと感じ入るような、そんなやわらかな囁きを落とす。
「……だから、私の為に泣いてくれて、心配してくれてありがとう。それが、私は何よりも嬉しい」
だから、かえって私は苦しくなる。外国特有のストレートな物言いが胸に突き刺さって、喉の奥で重苦しい石が転がって、声が息絶える。何か言ってあげたいと、そう思うのに。
言葉には出来ないぶん、掻き抱いた指先から、押し付けたおでこから、今考えていることすべて伝わるように、強く縋り付く。私が、両親にそうしてもらったように。
千晶ちゃん。千晶ちゃんが自分で思うよりもずっと、君を心配して、泣いてくれる人はいっぱいいるんよ。
お通夜みたいにしんとして、普段通りみたいに振る舞ってても、どこかピースが足りなくて空回りしていた、千晶ちゃんのいなかった間のクラスのことを伝えたら、優しい嘘みたいに伝わってしまうだろうか。たとえそれがほんとうのことでも、上手く伝えられんかな。もどかしいなぁ。
しねない、と呟いた千晶ちゃんが、生きたいと願ってくれるその日が来るのを、私はずっと隣で祈るよ。
私が、隣にいるよ。