「あ、千晶ちゃんステージに上がってった」
麗日の言葉に周囲がお喋りをそこそこにステージに目を向けると、千晶が濡れたステージに上がり、ぱしゃぱしゃと音をさせながら中央へと向かうところだった。先ほどまで一緒に居たセメントスとミッドナイトはステージから降り、元の定位置に戻りながら千晶を見つめている。
何をするのだろうか、まさか濡れたステージで戦うわけもないし、と緑谷がブツブツと分析をする中、スタジアム全域にプレゼント・マイクの声が響き渡った。
『来場してるリスナーにお知らせだぜ!濡れたらマズい防水加工なしの電子機器や物品、飛ばされやすい帽子などは今のうちに仕舞うかそれぞれ各々ガードしてくれ!今から起こることで、もし故障したりモノが紛失しても雄英側は一切責任を負えねえので注意してくれ、YEAAAHHHH!!!!』
いつになくハイテンションの注意喚起に何が始まるのかとざわつく中、ステージ上では千晶が丁度中央に立ったところだった。
千晶の歩いた場所からいくつか波紋の残滓が残る中、中央で背筋をピンと伸ばし、薄く目を閉ざして静やかに佇む千晶の横顔を、何か起こると敏感に察知した各局のテレビカメラがこぞって映し出す。日本人のものとは別物の、すっと通った高い鼻梁と白い肌にウェーブを描くやわらかな黒髪が靡き、影を落とす様は、人形めいた造形の美しさと俗物的なものを感じさせない静謐な佇まいと相まって、どこか神懸かった空気すら醸し出していた。
観客席も何が始まるのかと誰もが固唾を呑んでステージを見守る中、それは始まった。
とぷん、とかすかな水音がした。
中央から一歩も動かず、鏡面のように空を映し出し、波紋ひとつ無い、凪いだ水面がふいに揺らぐ。千晶を中心に大きな波紋が生まれ、ステージ上の水面がさざめく。まるで、天から一粒の雨が落ちて、池の水面を揺らすように。
静かな異変はそれに留まらない。
さざめきが四隅に当たり、中心から波紋状に再び静けさを取り戻していこうとした水面のあちこちに、小さな波紋がいくつも生まれ消えていく。最初は一つだった雨垂れが段々とその勢いを強めてゆくように、円状のさざ波がぶつかり合い、複雑な紋様を描きながらステージ上を彩る。
その光景はまさしく、和を尊ぶ日本人の魂の根底に染みついた、侘び寂や情緒を掻き立てる光景だった。
そして、それまで黙して微動だにしなかった千晶の白い手が、緩やかに持ち上げられる。ゆびさきの一つまで神経が張りつめたような、優雅なその動きに多くの観客が視線を誘導される中。水面が大きくざわめき、手の動きに合わせるようにして、生命が宿っているかのように収束し、水柱となって大きく隆起した。四隅から立ち昇った水柱は、宙で弧を描いて中央で一つに収束する。滝のように激しく叩きつけるような濁流に、千晶が呑み込まれて観客からその姿を隠した。
物音ひとつ立てることすら憚られるような、痛いほどの静寂から一転して激しく変わった動きに、観客席から大きくどよめきが上がる。
誰もが息を呑む先、そこに居たのは。
「龍だ……」
光を弾いて青く内側から光るような、透明の長大な身体を持つ水の龍が、千晶に寄り添うようにして存在していた。濁流に呑み込まれた千晶はずぶ濡れかと思いきや、その服は水の一滴も含んでいないように見えた。どこかで落胆の溜息が落ちる。
3mはゆうにあるだろう長大な身体を、
「わっ、うわわ、こっち来る!」
「すごい……マジで龍だ」
「末恐ろしいほどの個性の制御だな……一体どんな修行を積めば、あれほどの領域に達せるのやら……」
水より生まれた龍は、髭の一筋を震わせ、緻密な鱗の生えそろった透明な蒼の身体をうねらせ、観客の頭上を流麗な軌道を自由自在に描きながら飛翔する。非現実的な光景に、誰もが目を奪われた。
優雅に泳ぐ想像上の生き物を水で再現してしまった少女への感嘆を溢す者、すぐ頭上を泳いでいく龍に触れようと手を伸ばす者、青天の眩しい日差しを屈折させて、体内できらきらと不規則なプリズムを生む透明な青の美しさに見惚れる者、こんな個性の活かし方もあるのかと目を瞠る者、反応は様々だ。だがステージ上に溜まっていた水を再利用して生み出された龍は、自分の身体の下で騒ぐ人間には目もくれない。
龍は一通りスタジアム全ての観客席を巡り終えると、フィールド中央のはるか上空まで飛翔した。美しい蒼が太陽の光を受けて綺羅やかに輝くのを、多くの観客がまぶしげに見上げた。上空の青を全身に浴びた龍は自分の身体で輪を作るように体を丸めると、突然弾けるようにしてその姿を霧散させた。
青く透明な身体が幾百、幾千の細かな水しぶきとなり、熱狂で体温が上がっていた観客の身体に降り注ぐ。誰もが反射的に顔を庇ったものの、思いのほか冷たく細かい水しぶきにおや、と顔を上げる。服や肌、頭に降り注いだ霧のような細かい水のシャワーは、晴天と言う天気も相まり、すぐに気化して体感温度を下げていった。
『観戦に夢中になるのもいいが、熱中しすぎて体調崩さねえよう気をつけてくれよな!星合の心意気で皆身も心もクールダウンしただろうが、適宜水分補給するのも大事なことだぜ~~~~~?そこかしこに経営科の売り子が飲み物やらなんやら売って回ってっから、バンバン利用してくれ!!
つーわけで星合、ステージの水撤去のついでに涼しいパフォーマンスお疲れさん!!試合前にあんがとな!!』
クラップユアハンズ!とマイクが叫ぶまでもなく、スタジアム全体から拍手の雨が降り注ぐ。千晶はそれらの賛辞に優雅に頭を垂れると、先ほどまで水が満ちていたとは思えないほどすっきりと乾いたステージの端へと歩き出した。
「……なんか……千晶ちゃん、やっぱりちょっといつもとちゃう……」
ぽつり、と両手を胸の前で組んでいた麗日が呟いた言葉に、隣にいた飯田と緑谷も頷いた。
昼休憩を終えてからの千晶の様子が普段とは少し違うことに気付いていたのは3人だけではない。星合千晶という人間の人となりを知っている者は全員、肌で感じ取っていたことだった。日頃から千晶を
「ああ……普段から星合くんは落ち着いているが……先程緑谷くんの試合を観ていた時も、もっとこう、ただならぬ静けさを全身に纏っていたな」
「そうなんだ……星合さん、一体どんな戦い方をするんだろう……」
通路からフィールドに現れた対戦相手の芦戸を出迎える千晶の表情は、とても静かだった。片方の手をポケットに入れ、どちらの足に体重を掛けるというでもなく、すっくと背筋を伸ばして立つ姿は、体操服姿だというのにどこか優美だ。
戦闘の前の千晶を見ると、緑谷はとてつもない巨大な敵と対峙しているような、そんな恐怖が静かに忍び寄ってくるような気がして、少し落ち着かない気分にさせられる。まるで普段とは別人のような、鋭く研ぎ澄まされた瞳、表情、気配。揺るぎのない精神の強さは、緑谷の憧れでもある。
普段の彼女は大人びてはいるが取っつきにくくはなく、むしろ気さくで穏やかだ。だが、ひとたび戦闘となれば無類の強さを発揮することを、この数週間で思い知った。現に緑谷はこの一月ほどで2度も命を救われている。そして恐ろしいのは、USJで見せた実力がほんの片鱗でしかないということ。
オールマイトにすら認められる実力。トーナメント戦はそれを存分に観察できる絶好の機会だった。
見ることで学べるものはきっとあるはずだと緑谷は心中で呟いて、ステージ上で始まろうとしている戦いを見ることに意識を集中させるのだった。
『ステージも乾いたところで次の対戦行くぜ!
2位・2位と圧倒的好成績をしれっとした顔して修めてるTHE・クールなシニョリーナ、ヒーロー科・星合千晶!!
「負けないよ~!」
気合十分、という表情で両手を前に出して準備運動のような動きをしている芦戸に、静かに立っていた千晶はふ、とかすかに笑んだ。表情はひどく穏やかなのに対し――目だけが臨戦態勢にあることに気付いた芦戸は、一瞬気圧されそうになる自己を叱咤するようにニヤッと不敵に微笑み返した。
レディ、と掛け声で両者は低く姿勢を構え、
START、の声の余韻が終わらないうちに、二人は駆け出していた。
弾丸が如く突進し、間合いを詰めんとした芦戸の背後を、圧倒的機動力で取った千晶のヒールの踵が、脳天に一撃を加えんと振り下ろされる――と見せかけて、空中で捻りを加えられた延髄蹴りが正確無比に放たれる。
「速っ……!」
だがしかし、芦戸三奈はA組の中でも千晶に次ぐ卓越した運動能力を誇る女子でもある。その身体捌きや体術は時に男子を上回るほど優れている。
この時も千晶の瞬間移動じみた高機動こそ見切れなかったものの、爆豪にも迫る反射速度で背後を取った千晶に反応した芦戸は、躊躇うことなく後ろ手に回した手から遠慮なく個性である“酸”を放出した。喰らえば間違いなく服や皮膚を軽く溶かすレベルの酸だったのは、千晶の実力ではそのカウンターも見抜かれると思ってあえて強力にしたのかは、本人のみぞ知る。
もちろん大人しく酸を喰らうわけもなく、その程度の反撃は織り込み済みだった千晶は地面に着けていた軸足から
そして、芦戸の首を刈り取りきれなかった黒いヒールが、代わりに芦戸と自分を隔てる氷の壁を蹴り砕き、砕け散った氷の細かい礫が振り向いた芦戸の視界を一瞬奪う。顔面に降りかかる礫に一瞬反射で目を閉じてしまった芦戸の隙を見逃さず、ポケットに入れられていない千晶の右手が虚空を奔る。握りしめられたその手のひらから
「水晶宮式血濤道、甲の舞――
降り注ぐ礫の隙間を縫い、赤い網がピンクの肌をしたその四肢を絡め捕り、自由を奪う。そして完全に穴が閉じたところで、千晶は綾取りでもするようにポケットから出した左手で右手から伸びる幾つかの糸を引き絞りながら、先程瀬呂が轟に行ったように、網もろとも芦戸の身体を遠心力で勢いよく投げ飛ばした――場外に向けて。
「あっまいよ千晶ちゃん!」
通常なら伸縮自在、網にも糸ノコにも刃物にも自由自在の血糸である籠目。本来の使用意図である網状の血糸は、対象を傷付けることなく逃がさず捕らえる網として機能するが、今回の相手は芦戸。葉脈のように張り巡らせ、脱出不可能なまでに細かく編んだ血の網を、手と靴裏から放出した“酸”で無理やり溶かし引きちぎって籠から逃れた芦戸が不敵に微笑む。
着地と同時に地面のコンクリートを溶かして場外を防ぎ、再び接近戦を仕掛けようと試みた――
がしかし、芦戸の靴底は地面を掴むことなくつるり、と滑った。
「へっ?」
圧倒的戦闘経験を積んだ人間が、たかだか15歳の少年少女が考えるのとまったく同じ作戦を取るわけがない。
予想とは全く違う地面の感触に、バランスを崩した芦戸が無意識に後ろに倒れ込むまいと後ろに突き出した手に触れたのは、皮膚を突き刺すような冷たさと、つるりとした感触。
「氷!?いつの間に!」
『ウッソオ、星合瞬きの間にフィールドの一部分だけツルッツルのスケートリンクにしやがった!芦戸、場外を防ぐための“酸”を逆に利用されて、氷と酸、二重で踏ん張りが効かない――!このまま場外か!?』
『いや……ギリギリ出ねえな、アレは。しかし、その辺も予想済みらしい』
一瞬遅れて、プレゼント・マイクが変わり果てたフィールドについて言及するが、マイクの予想を隣に座った相澤が否定する。そして、相澤が意味ありげに呟きながら視線を千晶に転じた時――歩くように踏み出されたたった一歩によって、次の一手は既に完了していた。
「……エスメラルダ式、血凍道」
その呟きはあまりにささやかで、風に紛れて消えていく。
バランスを崩し転倒しながらも、地面に張った氷を、現在出せる最大レベルの強酸で無理やり溶かした芦戸はぎりぎり白線の内側で踏みとどまる。なんとか場外負けを免れて、思わずホッと息をついたその瞬間、芦戸の周囲の氷が残った部分から、芦戸目がけて氷の剣山が出現した。
360度全方位、少しでも芦戸が身じろげば剣山のどれかが首の皮膚を裂くように隙間なくドーナツ状に現れた剣山に、思わず芦戸の表情が引き攣った。そのこめかみからつう、と一筋の汗が滴り落ちる。
「――
静かな千晶の宣言に、芦戸が観念したようにぎゅっと顔をしわくちゃにしながら天を仰ぐ。
「うう~、まいった……」
「芦戸さん降参!星合さんの勝利!!」
『瞬殺――!そんでもって星合、完封勝利!!お前のその数手先読んでいくスタイルは千里眼かオイ!?』
すかさずミッドナイトが宣言すると同時に、観客席がわっと大きく湧いた。
その歓声を受けながらも表情一つ変えず、千里眼じゃない、と
千晶が一歩足を踏み出すごとに氷が融け、水となり、それらは意志を持っているかのように集まり合い、コンクリートでできたステージから土の地面であるフィールドへと勝手に流れていく。その光景は、季節が冬から春へ移り変わり、雪解けを迎え澄んだ水が川へと流れ込むさまにも似ていた。
千晶が芦戸に手を差し伸べる頃には、その喉元に突き付けられていた氷の槍は全て形をなくしていた。
「大丈夫?」
「ん、へーきへーき。やっぱり千晶ちゃん強いや~、得意な接近戦でも後手に回っちゃうし、息つく暇なく攻撃繰り出してくるんだもん、対応しきれないよ~」
千晶の手を借りて立ち上がり、くやしー、と両手の拳を握りながら天を仰ぐ芦戸に、千晶は苦笑するしかない。そんなことを言ってしまえば、一応
「すげえなあの子……芦戸って相手の子の反撃を全部予想して動いてたぞアレ……」
「あの網みたいなやつで動けなくしてぶん投げた時、投げるのに踏み出した足で地面凍らせてたもんな……」
「脱出される可能性を考えてなきゃ、ああも効率よく動けないよ。よっぽど攻撃の息継ぎが上手いんだな」
「しかも離れてる相手の子の周りと、自分を繋ぐほんの少しの床しか凍らせてない……さっきのエンデヴァーさんの息子と違って、個性の使い方の工夫と繊細な操作能力をフル使用して最小限の労力で最大限の効果を、って感じだな。あの龍を作った直後だってのに、汗ひとつかいてねえ」
多くのヒーローが詰め掛ける観客席の一角でそんな会話が交わされる中、圧倒的な試合運びを目の当たりにした麗日は、少し強張った表情でステージを見つめていた。しかし、隣から聞こえてきたブツブツブツ、という微かな異音にん?と顔を上げる。不思議に思った彼女が隣に目を向けた先では、食い入るように目を見開きながらノートにペンを走らせ、同時に考察を呟いている緑谷の姿があった。
「芦戸さんの個性も身体能力も強力なハズだけど……星合さんは雄英のプロヒーローの推薦で入ったスカウト枠の実力者……前に血を水や氷に変換できる能力って言ってたけど、固体と液体をあれだけ自分の手足みたいに使えると戦闘の汎用性も高いんだろうな……個性抜きでもあの機動力と近接格闘の強さだ、氷で間合いが詰めにくい上、迂闊に踏み込んだら蹴りと個性の複合技であっという間に詰みまで持ってかれそうだ……星合さんの怖さは何が出てくるか分からないトリッキーさと圧倒的手数の多さだけど、本当に怖いのはどんな窮地でも絶対に揺らがない胆力だよな……動揺を誘って隙を作る戦法はほとんど通用しないだろうし、芦戸さんがどんな行動をするか全部読まないとあんな動きは無理だ。そういえばあの血の網は芦戸さんの酸なら破れてたけど強度はどうなんだろう、でもこの前自分と一緒に心操くんを持ち上げたり飯田くんやかっちゃんを引っ張って移動させたりできるくらいだから、場面に応じて強度を変えてるとしか思えないな……もしかして網の細かさと糸の強度には関係性があるのかな、うーん……」
目を血走らせ、ノンブレスでブツブツと呟いている緑谷の鬼気迫る様子は少々不気味ですらある。麗日はぎょっとしつつも、かなり集中した様子の緑谷にそっと声を掛けた。
「終わってすぐなのに先見越して対策考えてんだ?」
終わってみると一方的ですらあったほんの数分の戦闘。たったあれだけを見てよくそれだけの分析が出来るなぁ、と感嘆混じりに呟いた麗日の気配が近づいて、ようやく自分の集中ぶりに気付いたらしい緑谷はハッと我に返った。恥ずかしさからか口元を押さえながら、座席一つ分空いた距離感を座席に手をついて少しだけ身を寄せた麗日から離れようとするように、麗日とは反対側に同じだけ身体を傾けた緑谷は慌てて弁解する。
「ああ!?いや!?一応……ていうかコレはほぼ趣味というか……せっかくクラスメイトのすごい“個性”見れる機会だし……あ!そうそう、星合さんだけじゃなくて他のA組の皆のもちょこちょこまとめてるんだ。麗日さんの“
「……、デクくん会った時から凄いけど……体育祭で改めてやっぱ……やるなァって感じだ」
ぽかん、とした表情から眉を下げて笑った麗日の突飛な言葉に、緑谷はなにかしたっけ、と頭の上に疑問符を浮かべた。
その頃、ステージ上では芦戸と千晶は固い握手を交わし、一回戦第三試合は、危なげなく千晶が勝利する形で幕を閉じた。