踏み出す一歩。
なんてことのないその一歩が思いのほか重くて、ずっと立ち止まって進めなかった。
背中を押してくれたのは。
「え?びょ……病院?」
体育祭の翌日。玄関先で靴を履く俺の背中に、戸惑ったような姉さんの声が降る。当たり前だろう。時折母さんの元を訪れている姉さんと違って、俺はずっと、その場所を避け続けていたのだから。
「急にどした。ていうか焦凍、それお父さんに言わなくて良いの?」
「ああ」
おろおろとする姉さんの気配を感じながらも、玄関の戸を開いて、外へと一歩踏み出す。
「何で今更お母さんに会いに行く気になったの!」
戸惑う声を背にして、目指すのは、母の居る病院だ。
――時折、とても醜く思えてしまうの
小さい頃、目が覚めて目を擦りながら歩いた薄暗い廊下を思い出す。朧げな記憶の中、数少ない、ハッキリと思い出せるお母さんの声だ。ずっと縛り付けられるようだった。育てられない、育てちゃダメなのだと電話の向こうの祖母に訴えるお母さんの精神は、今思えばあの時もう、限界だったんだろう。
金でお母さんを囲ったクソ親父の思惑通り、半分ずつ受け継いだ俺が産まれ、個性が発現した途端虐待じみた訓練を親父から受け続けることに、責任感を、罪悪感を感じて、自分で自分を追い詰めて。
壊れてしまった。
俺は優しいお母さんが好きだったから、煮え湯を浴びせられてもお母さんを恨みに思うことは無かった。ただ、つたない個性でも自分の顔くらい冷やせたはずの俺が、目の周りをあえて冷やさずに放置したのは、幼心に「自分が悪い」と思っていたからなんじゃないか。大好きなお母さんが否定した
左側を忌避するようになったのは、親父の事が憎いとかいう感情以前に、母の嫌う半身など要らないと思ったのが、もしかしたらはじまりなのかもしれなかった。
自分の存在がお母さんを追い詰めてしまうから、会わなかった。……いや、会えないと思っていた。合わせる顔が無いと、お母さんにもう一度、親父の欲望の塊そのものと言っていい姿をしている俺を見て、俺の存在そのものを否定されるのが、怖かった。
けど、それじゃ駄目だと思った。
緑谷に氷も炎も俺の力だと諭されて、なりたいものになって良いと笑ったお母さんの言葉を思い出した。いつしか呪縛のような記憶ばかりしか思い出せなくなっていた俺は、昔、オールマイトのようなヒーローになりたかったんだと、昔の熱を思い出した。
でも、俺だけが吹っ切れてそれで終わりじゃ、駄目だ。
日曜の昼間、人もまばらな病院のエントランス。受付でお母さんの病室を尋ねたら、妙に驚いたような表情をされつつも、病棟と病室を教えてもらった俺は一人、エレベーターに乗り込んでスマホを出した。
必要最低限の機能しか殆ど使っていないそれの、まだ使い慣れている方のコミュニケーションアプリを立ち上げて、一覧の中から星合とのやりとりを呼び出す。
昨日の晩、家に帰ってからずっと考えた挙句、ようやく出た一つの結論。お母さんに会いに行く、という決心がぶれないように、自分への戒めのつもりで送りつけた端的なメッセージ。
それを夜遅くのかなり非常識な時間に送り付けていたことに気付いたのは、考え込みすぎて散々慣れない夜更かしをして、体育祭の疲労も溜まっていたのだろう、決心が一つ着いたとたんに、電気のスイッチを押すようにぷっつりと途切れていた意識が浮上した、昼前のことだった。
『明日、お母さんに会いに行くことにした』
『そう。頑張って』
たったそれだけ、7字分のこころ。
端的なメッセージだけを見れば、淡白すぎて冷たい返しに見られるのかもしれない。けれど、余計な言葉のついてない、たった一言に凝縮されたメッセージはゆるやかに俺の心を撫でてて通り過ぎる。思い切り悩めば良いのだと教えてくれた星合だ、この一言がそっけないものだとは思えなかった。そもそも、俺と星合のやり取りなんてこんなものだ。傍目には少し淡白にも見えるくらいのやり取りが俺たちの普通なのだから。
スマホの画面を、星合の短いメッセージをなぞるように指を滑らせる。
――もっと自由に生きなよ、ショート。
耳の奥に、小さな囁きがよみがえる。
星合との戦いの最後、空気が膨張しての爆風が吹き荒れる寸前に、星合が笑って告げたその言葉。風に紛れて掻き消されそうな呟きを残して気絶した星合に、しばらく茫然としていた。どんな意図でその言葉を言ったのか、何で今になって頑なに呼ばなくなった名前を呼んだのか、聞きたいという気持ちもあって、しばらく治療が終わった後も星合の傍についていた。
……結局、リカバリーガールが退室してしばらくしてひどく魘され始めた星合の姿に再び衝撃を食らって、そんな疑問も頭からすっぽ抜けて聞き逃したのだが。
だって、長い手足を縮こめて、自分の体操服の胸元を掴んで。眉根を寄せた星合の姿が、あまりに哀れだった。USJ事件の時の苦しみにも匹敵するような、眠っているはずなのにびっしょりと額に汗を滲ませて、もがき苦しんで宙を泳いだ手をはっしと掴んだのは、自傷行為を防ごうとしたのか、はたまた無意識だったのかは自分でもわからない。
いたい、あつい、いたい、こわい、やめて、ゆるして、ここからだして。かえして。
小さくうわ言のようにか細い声が英語で紡いだ悲鳴は幼かった。それだけに、悲しくて痛ましい。
びっしりと生え揃ったまつげを濡らして、ぽろぽろと涙を流す星合の手は驚くほど冷たくて、少しでも何かしたくて握りしめた左手の体温を少しだけ、熱くなりすぎないよう注意しながら上げた。
悪い夢にうなされて目が覚めた真夜中。まだ個性が出る前の幸せだった頃に、お母さんは怖くないようにと手を握って、抱きしめて眠ってくれた。温かい体温にくるまれると、怖いものが遠ざかるような気分になって凄く安心したことを思い出したから、悪い夢など醒めてしまえ、という思いで握りしめた。流石に、この歳になって付き合ってもいない同年代の女子を抱きしめるのはマズいだろうが、手を繋ぐくらいなら、俺にもできる。迷惑と心配を散々かけていたのだ、少しでも星合から悪夢が遠ざけられるのなら、少しの気恥ずかしさくらい忘れられた。
――私には、何もないんだよ、轟。
USJ事件の直前。悩みでもあるのかと、何を隠して、何を抱えているのかとキツめに訊いた俺に、そう悲しげに、無理やりに笑ってみせた星合は、「何もない」と言った。
あの時は、「悩み」が何もないと言ったのかと思った。表情と言葉がちぐはぐすぎて、それが嘘であることはすぐに分かった。
けれど、本当に星合が言いたかったのは。
相澤先生の「メディアには出来る限り映るな、用心しろ」という忠告。
研ぎ澄まされて、一部の隙も無く洗練された、水と氷の美しい“個性”。
よどみのない一投足。
何もないんだよ、轟。
もっと自由に生きなよ、ショート。
ばらばらのパズルのピース、ささやかな違和感、ハウリングする音。
繋がりそうで繋がらないそれらは、魘されるのが少し落ち着いたかと思った矢先にビクッと痙攣するように身体を震わせて、ぱち、と目を見開いた星合の姿を目にして霧散した。まどろみすらなく、寝ぼけた様子もなく、バチッと音でもしそうなくらいに一気に目を見開いたその仕草は、正直人間らしさを失って、瞼の動きまで制御されたロボットか人形のようだった。
宝石みたいな蘇芳が水気を含んだ膜の中でそろそろと小さく動いて、安堵するように細く、深く、ゆるやかに吐き出された溜息が、星合が現実に戻ってきたことを感じさせた。鷲鼻とまではいかないが、すっと通った鼻梁に刻まれた皺が、悪夢を思い返しているのではと思って、こちらに気付けとばかりに俺が強めに手を握るまで、星合は俺の存在に気付いていないようだった。いつもは、中学の時は、たとえ中庭のベンチでうたた寝をしていても、近づいてくる気配にすぐさま目を覚ますような奴だったのに。
それでも、悪夢の内容どころか、悪夢を見ていたことさえ自覚のないような星合のリアクションに、安堵したのもまた事実だ。悪夢は記憶に残りやすいが、それでも薄れていって、いずれ忘れてしまうようなものだ。何かを見た、という実感だけを残して。
目が覚めて忘れたんなら、それで構わない。その方が、きっと良い。
あんなに苦しむような悪夢なんて、絶対に碌なものじゃない。
ポーン、とチャイムが鳴って上昇が止まり、目の前の扉が開く。
瞬きをして、はっと見上げればお母さんの病室のある階に着いていた。一歩踏み出して、エレベーターから降りる。背中でドアが閉まり、ランプが再び上昇していくのを何とはなしに眺めて、もう一度メッセージを視線でなぞった俺は、暗転したそれをポケットに仕舞った。
10年間ずっと病院で過ごしているお母さんはきっと、まだ俺に……親父に囚われ続けてる。
だから俺が、この身体で。全力で「再び“ヒーローを目指す”」には。
315号室。受付で教えてもらったその部屋のプレートには、轟の文字。
ドアの取っ手に手を掛けようとした手が震えているのを見て、初めて、ここに来て緊張していることに気付いた。
10年分の空白を埋めるために来てみたは良いけれども、どうしても頭の中をぐるぐると悪い想像やこれで良いのかというような迷いが埋め尽くして、邪魔をする。
これが本当に、正しいことなのか。お母さんに会いに行くことが、お母さんをまた追い詰めはしないか。
俺の出した結論は、本当にお母さんにとって良いことなのだろうか?
――負けるな、頑張れ!
――頑張って。
はっ、と息を呑んで自分の手を見つめた。宙をさまよう右手の震えは、いつの間にか収まっていた。
一度自分を落ち着かせるために目を閉じて、深々と溜息をひとつ。下の階のエントランスに比べて静かな病棟の廊下に、かすかな溜息が溶けて消えてゆく。
俺が、この身体で。全力で「再び“ヒーローを目指す”」には……会って、話を……たくさん、話をしないと。
ドアを押した先、窓辺に座って格子の嵌められた窓の外を見ている後ろ姿が見えた。その手に握られているのは、写真だろうか。
ずっと長いこと見ていなかった後ろ姿なのに、どうしようもなく懐かしく思ってしまう自分に、離れていた年月の長さを想った。
「お母さん」
たとえ、望まれてなくたって、救け出す。
窓から洩れる昼下がりのやわらかな光に照らされた、雪のように白い髪がキラキラと輝く。
ゆっくりと不思議そうに振り返ったお母さんの黒々とした目が驚きに見開かれるのを見ながら、緊張で汗ばむ手で、ズボンの上からスマホに触れた。
絶対に、救い出す。
それが俺のスタートラインだと、そう、思ったからだ。
▼次回予告
「お前の敵はどこだ?敵は己の中にあり。……とか思ってるやつ居るだろ。
違うな。いつだって敵は外からやってくる。常にご油断めされるな!!思いもよらない連中が、今日もお前を脅かしに来るぞ!
次回からはヒーロー殺し編だとさ。
お前の立ち回り、足掻くさまを見せてもらうぜ――なぁ、
これにて体育祭編終了です。
次話にてPixivでも載せていた簡単な解説を載せますので興味があれば覗いてみて下さい。
また、近日入学編~体育祭編を紙媒体のオフ本として通販を行うので、どうぞよしなに。入学編はほぼこちらに載せたものに誤字脱字修正を行った程度ですが、体育祭編は大幅加筆修正+書き下ろし33Pがついてきます。
通販開始しましたらこちらでもお知らせいたします。