重たい夜は置いてきた
体育祭から三日。生憎の雨模様となったその日、雄英高校ヒーロー科A組は朝から賑わっていた。
何故なら――。
「超声かけられたよ来る途中!!」
「私もジロジロ見られて何か恥ずかしかった!」
「俺も!」
「俺なんか小学生にいきなりドンマイコールされたぜ」
「ドンマイ」
「たった一日で一気に注目の的になっちまったよ……」
「やっぱすげぇな雄英……」
そう、全国規模で体育祭の模様が中継放送されたために、明らかに変わった周囲の反応に、雄英体育祭の注目度と全国から掛かる期待の大きさを改めて実感したからだった。
そんな廊下まで漏れ聞こえる賑やかな声を聞きながら、諸事情で早めに登校したものの、職員室に寄っていたために普段よりも教室に入るのが遅れた私は、二日ぶりの教室に踏み入った。
「あ、おは…………ちょっ千晶ちゃんどうしたのその髪!!バッサリ!!」
「おはよう、トオル」
まず教室に入ってすぐ目が合った(透明なので本当に合ったか分からないがそんな気がした)トオルがガビン、と透明だからこそのオーバーリアクションで驚きの声を上げた。そんな彼女に私は通常運転で挨拶を返すものの、トオルと喋っていたミナや切島くん、瀬呂くんや、鞄の中から筆箱などを出していたお茶子、ぼーっと窓の方を向いていた轟が勢いよく振り向き、クラス中の視線が一斉にこっちを向いた。あれ、何だか凄いデジャヴ。そういえば入学初日もこんなことあったな。
何名か物凄く凝視してくる視線に若干の居心地の悪さを感じて、ドア付近で踏み込むのを躊躇っていると、ミナがぱたぱたと駆け寄ってきた。
「わぁ、スッゴイバッサリ切ったね千晶、失恋?振られた?」
「え、違うけど……お茶子もモモもハッ……!って顔しないで。違うから。ていうかミナはなんでちょっとワクワクしてるの。……ホントにそのネタ引っ張るね」
「てへ」
体育祭の数日前、何気ないやり取りが曲解され、A組女子の間で私とシンが恋仲ではと噂された件で、学校という狭いコミュニティの中では噂の真偽はともかく、適当に放置しておくととんでもなく話が大きくなることを学んだ私は、妙な勘違いが広まる前にと素早くツッコミを入れた。ピースと共に悪気のない笑顔でゴメンね!と謝られてしまえばそれ以上怒れるはずもなく、毒気を抜かれた私はやれやれと溜息をつく。顔を傾けても、いつもさらさらと顔の横を流れていた黒はもうない。
「ボブにしたのね。前のロングヘアも似合っていたけど、短いのも素敵だわ」
「Thank you. 梅雨ちゃん。短くするのは久しぶりだから、似合ってるかちょっと心配だったんだ」
「めっちゃ似合うよ!前下がりのボブで私とお揃いや~!」
「あ、言われてみれば確かに」
興奮気味にぶんぶんと両手を振りながらお茶子にそう言われるまで自覚のなかった私は、くるくると指に巻き付けるようにして横髪を弄ぶのをやめた。
体育祭、轟との一戦で勝敗を分けた最後の一撃。氷と炎という真逆の性質の物質が真正面からぶつかって生じた超爆風。それに混じって飛んだ火の粉で髪の一部が焦げたことに、気絶から目覚めた後、リカバリーガールから指摘されて初めて気が付いた。
火の粉が飛んだといっても、軽く身体が吹っ飛ばされるような爆風の中だったため、燃え広がらずに一部だけを焦がして鎮火したのは不幸中の幸いか。とはいっても、パーマを掛けずともウェーブする猫っ毛の細い髪質なので、焦げてチリチリと塊になって縮れた髪はいくら
雄英のカリキュラムは週六日制、中でもヒーロー科は土曜日も夕方まで授業で埋まっているハードな学科だ。別に何の願掛けもしていないが、中々切りに行く機会に恵まれないまま伸ばしっぱなしになっていたロングヘアだったので、タイミングとしても丁度良かった。
気分的にも、ずっと気掛かりだった轟の危うさが無くなりそうな
この世界で生きる覚悟を。
精一杯今を生きる、ということはUSJ事件の後、A組の皆にさんざん心配をかけたことを通して決意した。
けれど、人間の記憶は時と共に移ろうものだ。新しい記憶を積み重ねてゆくたび、呼吸を繰り返す一分一秒、そのどれもがひとつとして同じわたしではない。今この瞬間にも肉体の細胞は崩壊と再生を繰り返して、思考はわたしを未来へと連れてゆく。この世界に馴染めば馴染むほど、研ぎ澄まされた感覚はこちらでは過剰なものとして緩やかに衰えてゆくだろう。感覚だけではなく、ものの考え方さえも。
それでも、それは悪いことばかりではないのだ。
きっと向こうの世界に戻った時、調子を取り戻すのには苦労するだろう。全盛期の力を取り戻しても、感覚とズレが出来るに違いない。それでも、きっと私はそれを嘆くことはしない。大切な思い出と共に起きた変化を、懐かしく思えど否定しようとは思わない。かつて、今のこの姿の時には得られなかった、心の欠損部分を埋めるような優しい記憶を。
変わることは恐ろしい。それでも時間は、周囲は、立ち止まることを許さない。
だから。だからこそ。多少なり“私”という人間が変わることも覚悟の上で、イズク達みんなと歩むと決めた。堕落王がこの世界での生活に終止符を打つその時まで。いつか来る別れ、その日まで。
だから、引かれる後ろ髪を、過去ばかりに引きずられて未練がましい自分と決別するために、本当の意味で前を向くために、念の籠った重い髪を断ち切る踏ん切りがついたのだ。
とはいえ、腰まであった長い髪をショートヘアにするのは本当に久々で、退行で幼くなった顔がさらに幼くなった印象がある。横髪は鎖骨に触れない程度の長さで、後ろに行くにつれて短くなっていき、後ろ髪はうなじを辛うじて隠す程度の長さの、お茶子と同じ前下がりのショートボブだ。短くなったおかげで、髪を洗うのも乾かすのも物凄く楽になった。首の後ろがスースーして心もとないのと、短くなった分、毛先の癖っ毛が悪化してウェーブのふわふわ度がアップしているのは少し気になるが。
美容師さんに勧められるままカットしてもらった、十数年ぶりのショートヘア。違和感が強すぎて、似合わないかなと自信が無かったのだが、さっき立ち寄った職員室でも驚かれはしたものの概ね好評で、こちらでも梅雨ちゃんを筆頭に、お茶子や切島くん達も、似合う似合うと邪気のない笑顔で褒めてくれるので、良かったと胸を撫で下ろした私の表情も、自然とほころんだ。
「でもやっぱバッサリいったんは体育祭で髪の毛焦げたから?」
が、こてんと首を傾げたお茶子の言葉で、笑顔のまま表情筋が固まった。
「こ……」
「焦げた、……て」
「……」
あちゃー、と頭を抱えた私をよそに、クラスの視線は「焦げる」で連想される人物――「焦がせる」だけの熱エネルギーを持つ人物はA組には3人いるが、体育祭で私が戦った相手の中で「焦がせる」のは一人だけ――に自然と視線が集中した。
勿論その本人も思い当たりが無いわけがなく、こちらに視線を固定したまま「マジか」と常の無表情を愕然としたものに変えて、だらだらと冷や汗を掻いている。
「星合」
「…………ハイ」
アイタタ、と頭痛をもよおし始めた頭を抱えたまま、明後日の方角を向いて現実逃避していた私の手を、少し温度差のある両手が包み込む。ちらりと指の間から確認するまでも無く、目の前に立っているのはツートーン頭の我が友人である。
「せ……責任は取る」
「ちょっと待って何の責任だ」
「?髪だが」
髪の毛に対して責任を取るとはこれいかに。そもそもどうやってだよ。
私の脳味噌がおかしくなって日本語の意味を取り違えたかと思ったが、どう翻訳しても同じ意味になるので間違いではなさそうだ。
日本語は繊細だ。英語や他の欧米圏の言語で皮肉を言うより
冷や汗掻いたまま妙にキリッとした表情でとんでもないこと言うんじゃないこの天然ちゃんめ。君の天然はお母さん譲りだと思ってたんだが、突飛な言動はまさかの
体育祭の夜遅くに送られてきたメール(割と寝るのが早い轟が日付を超える時間に送ってきたあたり相当に悩んだのが窺える)でお母さんに会いに行ったのは知っているが、あの後どうなったのかは聞いていない。あの他人に興味が薄いマイペースさんが、憑き物が落ちたとまではいかないが、若干険の取れた顔つきでこうやってクラスの輪の中で天然発言を炸裂しているあたり、いい報告が聞けそうだが。その辺りは後で周囲に誰も居ない時に聞き出すことにしよう。
なので今は、ざわざわと何やら色めき立つ周囲のただ中で、私はとんだ天然発言に頭を抱えた。
根は生真面目な子なのだ。爆風に紛れた火の粉で髪を傷めたと知ったら間違いなく気に病むと思ってあえて言わなかったのに。そもそもわざとじゃないし、事故みたいなものだからと全く気にしていなかった。
お茶子さん別に言わなくて良かったのよ?普段はあんなに他人の機微に鋭いのに、なぜたまにこう、ぽろっと要らない一言も一緒に出てくるのだろうか。……素直だからか。素直が裏目に出るってのはこういうことか……。
「いや、轟?髪は近々切る予定だったから、君が気に病む必要はゼロだよ?そもそもあんなの事故でしょうに」
「つったって、女にとって髪は大事なもんだろ」
「いや、それは人によってそれぞれだろうけど……」
轟の両手を掴まれていない方の手で丁寧にほどいて、包まれていた手を引き抜く。長いこと誰かに握りしめられているというのは落ち着かない。主力武器の足に比べればまだマシだが、手も指輪で常に武装しているようなものだから、やっぱり武器を迂闊に動かせない体勢は落ち着かない。
妙に食い下がる轟の肩をぽんと叩いて、「髪に籠った重たいものを下ろせてホッとしてるくらいだから、気にしないで」とすれ違いざまに言いながら自分の席へと向かった。
予鈴はとっくに鳴っている。あと1分もすれば本鈴が鳴って、数秒もしないうちに相澤先生が入ってくるだろう。着席していないと後が怖い。心配そうにこちらの様子をうかがっていたイズクには、問題ないという意味を込めて肩を竦めてみせた。
ちなみに、鞄から教科書やペンケースといった授業に必要なものを取り出す間も、斜め後ろから視線が刺さっていたことは言うまでもない。