眩しくも青い空が、海が、千晶の目の前に広がっていた。
潮風に短い黒髪を遊ばせ、視線を水平線へと遠く向けて、色の違う蒼と青の混じり合う果てにぼうっと心を委ねていた。
少し前、突然無遠慮に足を鷲掴んできた轟の暴挙に対する報復と、あと天然タラシまがいの発言をそうとは自覚しないままつらつらと上げ連ね続ける轟の口を、半ば強制的に塞ぐ意味も兼ねて、長年の鍛錬を積んで、鍛え上げられた鋼の肉体──その無防備に晒された脇腹をくすぐるという仕返しをすることで、轟の思考回路を分断することに成功していた。ちなみに照れ隠し込みの確信犯である。
そこそこ優れた容姿を褒められることには慣れているが、その殆どを社交辞令やお世辞だとスルーしている千晶は、実を言うと真正面からのコミュニケーションにひどく弱い。人の欲望渦巻く夜会で二枚舌と豊富な人脈、情報を
だが逆にその鍛えられた観察力ゆえに、真剣に口説かれるとそれが本気だとまざまざと思い知らされ、途端に百戦錬磨のよそ行きの皮を剥がされてどう対応すべきか分からずうろたえる。その相手が普段から親しくしていて、なおかつ嘘やお世辞の
そうして半ば無理やりに雰囲気をぶち壊し終えた頃、タイミングを見計らったように──事実、珍しく年相応にじゃれているクラスきっての
ここでもまた泳がないのか、という話題になり、千晶は彼らにも切島たちに説明したのと似たような煙の巻き方をした。それに対し、クラスの中では比較的冷静な思考を持つ4人の反応は、追及を避けるのではなく、じゃあ足だけでも浸かって来たらどうだ、という、何とも彼ららしい、無理強いはしない譲歩案だった。荷物番はしておく、という障子の気遣いにより退路を塞がれ、足首を浸けるぐらいならコンシーラーも落ちるまい、と思考をプラス方面に切り替えた千晶は、ナンパとトラブルを心配し(口に出せば要らない心配だと断られるのが目に見えていたので言わなかったが)、付き添うと同じく腰を上げた轟と共に波打ち際に来ていた。
「……空が青いなぁ」
最初こそ、体温より少し冷たい水温に爪先を跳ねさせながら弾んだ声ではしゃいでいた千晶だったが、改めて視界に映る青を眺め、ぽつりと感傷的な声で呟いた。
まばゆいほどの光に照らし出された蒼穹は、抜けるように蒼い。水平線の彼方、海の青と空の蒼が混じり合う境界線と、光を受けてきらめく
さらさらと素足の足首をさらっては撫でて、打ち寄せては返す波間に立ちながら茫洋と呟いた千晶の言葉に、その数歩後ろで華奢な背中を見守っていた轟は、何を当たり前の事を、と首を傾げた。まるで、青ではない昼間の空を見上げたことのあるような口ぶりだった。
そんな轟の疑問に、千晶は肩越しに振り返ってから、また首を正面に戻して小さく笑んだ。
そう、当たり前のことなのだ。
空が青いのも、陽の光を全身に浴びることも。
けれど、白い闇が昼夜問わず、日光も月光も星の光も遮ってしまう境界都市に居た
HLに居た時、千晶はおいそれと「外」に出られる身では無かった。それは、毎日が狂騒の境界都市を放っておけば、不在の時に世界が転覆しかねない事案が発生する可能性も大きかったのもあるが、なにより、異界医療に侵された身で「外」に出れば、どんな副作用が起こるか分からないからだ。
とはいえ、年がら年中HLに軟禁されるわけでもない。近接格闘メインの戦い方をするザップや中距離攻撃型のツェッドに比べれば、超長距離攻撃が可能で、少し離れた場所から神々の義眼を用いて諱名を読み取る間、普段以上に無防備になるレオの護衛役を務めることも多いクリスティアナが、異界医療に頼らざるを得ないほどの大怪我を負うことは少ない。
その「外」に出たときの副作用が発現するリスクの低さから、同じく超ロングレンジからの精密射撃の使い手のK・Kと共に、『極限の14日間』……ライブラの活動に関するあらゆる迎接・会談・折衝・交渉・協定締結をたった二週間で世界中回ってやっつけるという、過密スケジュールというレベルをはるかに超えた無茶を敢行するクラウスを支えるために、その二週間だけはHLを離れる。
副官であるスティーブンではなく秘書のクリスティアナを連れていくのは、リーダー不在のライブラを回せるのがスティーブン以外に居ないことと、クラウスの補佐にクリスティアナが適役だったからだ。
人類が永遠に勝てないと言われる異界の顔役に、異界のボードゲームでギリギリの綱渡りをしながらも辛うじて生還できるほどの凄まじい頭脳を持ちながら、愚直なまでに人を疑わない性質がゆえに表情を取り繕うのを苦手とするクラウスは、権謀術数渦巻く交渉事にはあまり向かないタイプだ。その補佐に、“秘書”という肩書を持ち、スティーブン仕込みの交渉術を備えたクリスティアナはこれ以上ない適役だった。秘書ならば、ギルベルト同様常に隣に控えていても何ら不自然ではないし、K・Kの狙撃によるサポートが難しい状況下でも、水と氷という汎用性の高い血法が扱え、ザップと同様に針穴に糸を通すような神業まがいの血法の精密制御ができるクリスティアナは、万が一のことがあってもクラウスの足手まといにはならない。
そして、HLを留守にするリーダーの補佐にクリスティアナが据えられ、副官が残る
スティーブンが愛する(勿論親愛の意味で)親友と義妹、そして同僚がげっそりと生気と頬肉を削いだ様子ながらも、怒涛の『極限の14日間』を終えてHL最寄りのニューアーク・リバティー国際空港の到着ロビーに降り立つ頃には、スティーブン主導でライブラの表も裏も、(彼らが出発する前に比べれば)比較的綺麗さっぱり片付いていたりする。その事実を知らされているのは、スティーブンの私設部隊の存在を知るクリスティアナだけだが。
とはいえ、数多の魑魅魍魎とテーブルの上で論議を交わし、ラインヘルツ家のプライベートジャンボで世界各地を回る過密スケジュール中は、クラウスはともかくクリスティアナには殆ど気を緩める余裕がない。
HLの技術を外に持ち出して巨万の富や覇権を得たい連中にとって、目の上のタンコブ以外の何物でもないライブラ、そのリーダーであるクラウスがHLの外に出るというのは絶好の襲撃チャンスだ。そのため、どうやってかその噂とスケジュールを聞きつけた不逞の輩による襲撃が後を絶たない上、いざ交渉のテーブルに着けば、クラウスの頭脳とカリスマ性を存分に振るってもらいつつ、クリスは要所でアシストや資料を用いたプレゼンを行い、ライブラに一方的な不利を吹っ掛けようとしてきた相手には、前もって用意してきたカードを切って理路整然と説明しながらプレッシャーを掛けたりと、交渉の補佐も務めるからだ。
ある意味「秘書」という肩書が一年で最も発揮される期間であり、全てはライブラに有益な、もしくは現状続行の条件で交渉を終了させるために、『極限の14日間』の前後と期間中は、前準備と手札の確認、情報の更新、報告書作成で、オーバーワークどころか魂を削る勢いで働くのである。その鬼気迫りっぷりは、レオやザップといった賑やかな若手メンツに怖がられ、チェインも必要最低限しか事務所に居つかず、スティーブンでさえ迂闊に声を掛けるのが憚られ、時々見かねたクラウスが実力行使で眠らせる(物理)レベルである。
そんな事情のせいで、折角HLの外に居るにも関わらず、『極限の14日間』の間は青い空や景観の美しさに気を払う余裕は一切ない。だからこそ、五体満足で心穏やかに、HLではまず拝めない自然の雄大な美しさを眺めていられる幸せを、千晶は時折噛み締めていた。
そうやって忘我に浸ってたそがれていたせいか、普段は気配に敏感なはずの千晶はこの時、背後に近づく不穏な気配を直前まで察知できなかった。
至近距離────人の気配が自分のすぐ真後ろまで迫るまで、らしくなくぼんやりとしていた千晶が振り返る前に、ドン、と背中が派手に押された。それだけならばよろけはするものの、並外れたバランス感覚でコケる前に体勢が立て直せた。だが、ダメ押しとばかりに膝かっくんを食らっては、流石に超人的な身体能力を持っていようとも関係なくなってしまう。
うっ、と息が反射的に詰まり、膝の支えを崩された身体がバランスを失って大きく前につんのめる。咄嗟に踏ん張ろうとするが、やわらかい浅瀬の砂は足を取られやすく、足先に力を込めればかえって砂を蹴ってしまい滑りやすい。
やった、と後ろで聞き覚えのある声が快哉を上げ、近くから切羽詰まったような声と、少し離れた場所から女性の短い悲鳴が上がる。
大きくバランスを崩した千晶を見て、思い通りに事が運んだと歓喜している犯人にアタリを付けながらも、千晶は冷静だった。
確かに、普通の人間ならそのまま海の中に突き飛ばされてびしょ濡れになっていただろう。
だが、ここでタダでは転ばないのが牙狩りである。
不測の事態など、HLでは日常茶飯事。コンマ一秒、瞬きより短い間に、このままでは完全に立て直せないと瞬時に判断した千晶は、無理に踏みとどまろうとして身体を硬直させるのではなく、勢いのまま踏み出していき、一から体勢を立て直す方向に行動をシフトさせた。
2歩目はつんのめる勢いのまま踏み出したので大きく波立つが、3歩目から劇的な違いが出た。
足が
まるで、水面そのものがガラスの板を置いたか、地面そのものになったかのように。
そのままととと、と海面によろけつつ踏み込んだ千晶は、前のめりになって海面に手を着くと、その場でバク転し、空中で身体を捻って着地した。着地する時に勢い余って数メートル後ろに吹っ飛んだので、海面に二筋の白い筋が尾を引いて大きく波立った。
一瞬、時が全て止まったかのように、辺りには奇妙な沈黙が満ちた。
数秒ほど海の上に着地したままの体勢でしゃがみ込んでいた千晶が、深く俯いたままゆらりと立ち上がった。爛々と光る据わった赤目が黒髪のカーテンの間から妖しげに垣間見え、薄く開いた唇からは真夏だというのにハッキリと見えるほどの冷たい呼気が吐き出される。その背後にぶわっと膨れ上がった、すわ大吹雪かと思うような冷気の渦と合わせて見れば、さながらラスボスの風格である。正直あそこだけ季節が違う。
これに真っ青になったのは、千晶を突き飛ばした張本人──既にお分かりだろうが、
常に己の欲望に忠実な──ある意味典型的な思春期男子の二人は、「何であんなに嫌がってるかは分かんねえけど海ン中突き飛ばせば流石に気持ち悪くてパーカー脱ぐだろ!」という理由で、とてもヒーロー志望とは思えない、真夏の熱気に頭の中身が溶けていたとしても正気を疑うような思い付きを実行した。
そもそも相手が相手なので計画段階で勝算が低すぎる上に、流石に突き飛ばすのはヤバいだろ、と良心が働いた上鳴は一度ストップを掛けたものの、峰田の「星合なら上手く受け身取れるだろ!」という、どこからそんな自信が沸いたのか分からない無責任な予想に「それもそうか!」とアッサリ良心が欲望に食われている時点でアウトである。げに恐ろしきは欲望かな。
相手はクラスで一二を争う実力者。タイミングをじりじりと推し量り、清水の舞台から飛び降りる覚悟で(明らかに覚悟の使いどころがおかしいとツッコむ面々は残念ながらここには居なかった)実行してみたら意外にもあっさり上手くいき、拍子抜けしつつも「やった!」と心の中で万歳三唱していたところにこれである。ジェットコースターのてっぺんまで上がった後に地獄に叩き落とされるような急降下だったことは想像に難くない。
彼らの最大の誤算は、千晶がその気になれば「海の上を歩ける」と知らなかったことだろう。千晶は超人集団である牙狩りの中でも若手筆頭の双璧の一人。既存の血法の概念と理論を大いに取り入れながら、柔軟な思考で新たな血法を生み出した天才が、大きく行動に制限を掛けられる水上でも自在に動けるような技を編んでいても何ら不思議な事ではないのだが、この世界に生き、この世界の“個性”の概念に縛られる彼らが、そういった背景を知る訳も無い。
予想外の事態にあっけに取られて固まるその場を打破したのは、不穏な凍気を纏って踏み出された千晶の一歩ではなく、突如空気を切り裂いた悲鳴だった。
幸か不幸か──間違いなく峰田と上鳴にとっては幸いにも──その悲鳴によって、自業自得で哀れな氷像二体が波打ち際にオブジェとして放置される運命を回避した。
凍っていた夏の空気を切り裂いたその悲鳴に、波打ち際に居たヒーロー候補生が全員もれなく咄嗟に反応できたのは、日頃
特定条件下、しかも自然環境下における救助活動は、素人が行えば二次被害、つまり
溺れている人間を助けるというのは、実は訓練を積んだ救助のプロでも共倒れになることの方が多いとされるほどに難しい。溺れる者は藁をもつかむ、という言葉の通り、パニックに陥った人間が必死になって救助者にしがみつき、救助者も身動きが取れなくなって一緒に溺れてしまう危険性があるからだ。溺れている人間から離れる方法や、潮の流れの中でも泳いで引っ張ってくる方法を知っていなければ一緒に水死しかねない。
そのため、基本的に海水浴客が多く集まるビーチには必ず、水難救助の訓練を大いに積んだ、水辺に強い個性を持った監視員、もしくは近隣地域を任されているヒーローが常駐しているのだが、運悪くこの時に限って席を外していた。
「クソ、こんな時に限って監視員居ねぇぞ!」
そして更に間の悪いことに、A組はまだ、本格的な水難救助の演習を行っていなかった。
というのも、USJ事件で施設全体が工事でしばらく使えずにカリキュラムが少し後ろにズレ込んだことと、その遅れを取り戻すため、林間合宿の後半に、より実際に近い環境下……つまり
座学では水難救助の項目は終えているからこそ、波打ち際からボートまでの距離を考えても泳いで間に合うかも怪しく、救助活動を齧っているとはいえまだまだ素人に毛が生えた程度の域から抜け出せていないと自覚があるからこそ、迂闊に手を出せば危ない、と多くの生徒が無力感に唇を噛みながらも数秒、どうするべきかと二の足を踏む中。
「梅雨ちゃん!!」
「!」
「海に落ちたのは親子連れ、しかも男の子の方は落ちた衝撃で意識消失してる! 私がサポート入るから先行してほしい!」
「! 分かったわ」
いち早く動けたのは、A組でも“水”に特化した二人だった。
つい数秒前まで鬼気を背負って氷の女王になりかけていたのと同一人物とは思えないほど、冷静かつ的確に、最低限度必要な情報共有をした上で協力を仰いできた千晶に、少し離れたところで麗日や八百万たちと共にいた梅雨は一瞬、黒々とした目を瞠った。
千晶とて、水難救助の二次被害の危険性については、授業や牙狩りの訓練で重々承知の上だ。それでもなお梅雨に協力を願ったのは、自分なら梅雨が万が一巻き込まれても助けられるといった、力に驕った無責任な自信からではない。
たとえ身体は退行しても、
水の中を自在に動ける“蛙”の個性を持ち、なおかつ以前のプロヒーローの元に職業体験に行った際、沿岸部で活動するヒーロー事務所に行った梅雨が、一週間の体験の中で水難救助のトレーニングを積み、実際にパトロールにも同行したという話を以前、千晶は本人から聞いていた。水場に強い個性というだけでトレーニングの経験がなかったり、梅雨が土壇場で冷静さを失ってパニックになるようなタイプだったなら、そもそも協力は仰がなかっただろう。
どんな状況でも落ち着いた態度と判断力を兼ね備え、期末試験では教師陣に「危機的な状況下にあってもその冷静さで人々の精神的支柱になれる」と高く評価された彼女のためらいは一瞬だった。
赤と黒の視線が交錯したその一瞬で、想定されるリスクと救助者の緊急度を天秤に掛けた彼女は千晶の目を見てしっかりと頷くと、水中に潜り、“蛙”の個性で一気にボートが転覆している地点に泳いで向かった。水面に映る魚影のように、緑の水着の影が一気に遠ざかっていくのを見ながら、水上に立つ千晶もまた、足に力を込める。
「
────乙の舞、“水蜘蛛”。
水面を蹴り抜く瞬間、爪先に嵌められたトゥリングから射出された血が、千晶の立つ場所からボートへと至る最短距離の水面に効果を及ぼし、人一人の体重を瞬間的にでも支えられるレベルまでその表面張力を上げた。
溺れている親子連れの位置はボートを見ずとも把握できている。先ほど峰田達に突き飛ばされて“水蜘蛛”を発動する際に出した血で、千晶は誤っても人を蹴っ飛ばしたりしないようにと周辺の海中の生命反応を捉えるソナーを発動している。そのおかげでいち早く、千晶はボートから落ちた親子の存在を知覚できたのだ。
ただ、海という無尽蔵の水を湛える場所であることから、索敵をするにも“水蜘蛛”を扱うにも、打ち寄せる波で血液が拡散されて薄まりすぎないよう、効果の維持のために普通の攻撃技を使うよりもそれなりの量の血液を消費する。それでも技の使用を躊躇わないのは、人命にかかわる緊急事態だからだ。背に腹は代えられない。
海面を疾走するという荒業でもってボートの傍まで駆け寄った千晶は、“水蜘蛛”の効果を切って足から海中にダイブした。