「星合!」
あれほど頑なに泳ぐのを拒んでいた千晶が迷いなく飛び込んだのを見て、急展開についていけずに硬直していた状態からいち早く復活した轟は、思わず後を追いかけるように数歩、沖に向かって踏み込んだ。
しかし、数秒前まで千晶の体重を支えていた水面は既に血法の効力を失って、轟の足で掻き分けられ流れるだけだった。そのことに、轟は短く舌打ちする。これでは追いかけられない。
「(凍らせて道を作るか……いや、駄目だ。下手すると他の海水浴客や救助中の蛙吹や星合まで巻き込んじまう)」
「轟くん!」
「緑谷、飯田」
一瞬己の個性を使うかどうか思考するが、即座に轟の冷静な部分が自分の今の技量では更に被害を大きくしかねないと予想をはじき出す。轟はここでもまた個性の操作性の低さが足を引っ張ることにもどかしさを覚えるが、そんなことを考えたところで今すぐどうこうなる訳でもないと、思わずそのまま変な方向に流れそうな不毛な思考を遮断した。
今自分が二人に手を貸すのは難しいと判断した轟は、自己嫌悪を振り払うように小さく頭を振り、駆け寄ってきた緑谷と飯田に向き直った。
転覆事故が起こる寸前まで、二人は麗日や梅雨ら女子陣と一緒だったはずだ。が、いつの間にかさっきまで彼らが居た場所には誰一人居なくなっている。
そんな轟の訝しげな視線を辿った緑谷が、轟が疑問を呈する前に先回りして答えた。
「麗日さんたちは監視員の人を捜しに行ってくれたよ。八百万さんは人工呼吸が必要になるかもしれないから、必要になりそうなものの準備と場所の確保を耳郎さんとしてくれてる。上鳴くんたちはパラソルの方に戻って、他の皆に知らせるのと、念のために救急車呼ぶって」
「そうか……」
普段の授業の賜物だろう、誰かが仕切った可能性はあったが、それぞれが救助の後に必要になるものを用意するために動いたのを知り、緊急事態に一瞬視野が狭まっていた自分を、轟は少しだけ恥じた。
「大丈夫かな、蛙吹さんたちの方……」
緑谷の心配そうな声につられ、轟や飯田も改めて転覆したままのボートのあたりの海面に視線を向ける。
と、その時、海中から突如巨大な赤い手の形の鉤爪が現れ、ボートを掴んだと思うとひっくり返して元あるべき向きに直した。状況が状況なのと、色と形状のせいで禍々しく見えたそれに、よもや
ボートを元に戻したのに合わせるように、小さい男の子を舌で抱えた梅雨と、その母親らしき女性を抱えた千晶がぶはっ、と勢いよく海面に顔を出したのにホッとする。女性と男の子をボートの上に押し上げた梅雨と千晶はボートの縁に手を掛け、救助した二人を気遣いながら、ゆっくりとボートを押して浜辺へ戻ってくる。
近づいてくるボートに向かって、緑谷たちもざばざばと身体で波を掻き分け、足が付く浅瀬ギリギリまで近づいた。
「大丈夫ですか!?」
「げほ、わ、私よりもこの子が……」
ボートに座り込み消耗した様子ながらも、気丈に声を上げながら少し涙ぐむ母親。その腕に抱えられた5歳くらいの子どもは目を閉じてぐったりとしていた。幸い呼吸は出来ているものの、顔が青白い。手馴れた様子で梅雨が子どもの口元に頬を寄せて呼吸を確かめた結果を聞き、真剣みを帯びた表情で緑谷たちは頷きあった。
「今監視員の人と、救急車を呼びに行ってますから」
「お子さんお借りしますね」
「立てますか? とりあえず砂浜のほうに移動して、救急車が来るまで休みましょう」
手を差し伸べ、救助対象を安心させるような声掛けは救助の基本中の基本だ。13号という災害救助のプロから、人を救い出すこと以上に、助けた人のメンタルケアこそ救助に必要なものだと徹底的に教え込まれているヒーローの卵たちは、丁寧に母子を八百万たちが確保した休憩スペースに誘導した。
「どうぞこれを。救急車が来るまで羽織ってて下さいな」
「あ、ありがとうございます……」
八百万が個性で出した大判のバスタオルを母親にそっと羽織らせ、耳郎が他に家族は居ないかなどの確認を取る傍ら、梅雨と千晶は子どもの傍に付いていた。子どもが海に落ちたときに飲みこんだ水で喉を詰まらせて呼吸停止にならないよう、身体を横向きにした回復体位で寝かせる間、静かに呼吸と脈を計っていた千晶はほっと息をついた。
「ちょっと徐脈気味だけど、呼吸は安定してきたね」
「ええ、千晶ちゃんが水を抜いてくれたおかげだわ、流石ね」
「本当は医療行為に当たるからアウトなんだけどね……」
梅雨の褒め言葉を、千晶は手放しで受け取りはせず、苦笑いを零した。
というのも、母子二人をボート上から避難させて、梅雨が子どもをシートの上に下ろした直後。すぐに回復体位を取らせた千晶が子どもの口からごく少量の血糸を挿入し、喉や気管支に入りかけていた水を支配し抜いたからだ。ここでも、スティーブンをして神業だと評される血液の精密操作と、千晶が水属性を得意とする牙狩りだったことが幸いした。
千晶が気管に入りかけていた水を除去したため、陸上にいながら子どもが溺れ死ぬ危険性は極力減らすことができたのだが、本来この行為は微妙にルール違反になる。公共の場での他人に対する個性の使用は基本的に許されておらず、医療行為に個性を使用する場合は、ヒーロー資格同様、医療系の個性使用許可の免許が必要だからだ。
普段は医師免許を持つリカバリーガールの立会いのもとで患者の同意を得られた場合のみ、患者の身体に大きな影響を及ぼさないと判断された処置のみ雄英では許可されているが、今回は完全な自己判断による処置だ。
一刻の猶予も許さなかった緊急事態とはいえ、また水を抜くこと自体は子どもの身体に害を与えることなく、非常に効果的な応急処置だったとはいえ、事後承諾で溺れた子どもに個性を使用したことには変わりない。人によっては、血を飲ませたようにも見えたりと、不快な気分にさせただろう。我が子に何をしたんだと誤解を招いたかもしれない。
そのことも含めて、千晶はきちんと包み隠すことなく母親に謝罪と報告を済ませていた。
母親を助けるときも、瞬間的に”天網恢恢”で四肢を支配下に置き、暴れられないようにしてから確保した。必要だったからとはいえ若干手荒な真似で救助したこともあり、パニック後で混乱しているだろうという予想も含めて、多少の罵倒は千晶も覚悟していた。
しかし、千晶の予想に反して、リカバリーガール仕込みのきちんとした千晶の説明に母親はなんとか納得したようで、空元気であることが少し窺える様子ながらも、憤慨するどころか頭を下げられたのだった。
それでも自らのルール違反を自覚して、賛辞を素直に受け止められずに渋い顔をしている千晶に、その内心の葛藤を察した梅雨は優しく微笑んだ。
「でも、千晶ちゃんが居なかったら、この子もお母さんも、もっと大変なことになってたかもしれないわ。千晶ちゃんの情報とサポートがあるって分かったから、私も迷いなく救助に向かえたのだし」
だから恥じることなんてないと思うの。
歳の離れた弟妹を思い出しているのか、優しい手つきで子どもの頭を撫でながら、あまり変わらない表情を珍しくはっきりと笑みの形に変えた梅雨の言葉に、千晶もようやく、少しだけ肩肘張った身体の力を抜いて笑うことができた。
「監視員さん連れてきたよ!」
「そろそろ呼んだ救急車来るぜ、障子が救急車のサイレン聞こえたって」
ヒーローらしき壮年の男性を引き連れてきた麗日や芦戸らと、ほぼ同じタイミングで救急車の到着を知らせに来た切島と上鳴に、再度表情を引き締めた千晶は立ち上がった。
「よし。じゃあ梅雨ちゃんは監視員さんに先に状況説明と報告してて。私はレスキュー隊員にこの子にした処置の報告してから戻るから」
「分かったわ」
そう言いながらも、額を伝って顔に流れてくる水に顔をしかめながら、千晶は水を含んだ前髪を鬱陶しそうに掻き上げる。ヨーロッパでもセクシーな女性が多いとされるスペイン人のハッキリとした顔立ちも相まって、その仕草には高校生とは思えない多分な色気が含まれていたが、本人はそ知らぬ顔で子どもを抱き上げ、梅雨もニコニコとしていた表情を普段の真顔に戻しながら立ち上がった。
そして、千晶は緑谷や飯田、八百万たちと共に、駆けつけたレスキュー隊員に母子の身柄を預け、救急車が見えなくなるまで海岸沿いの沿道に立って見送った。その後、監視員や保安に当たっていたヒーローからは事情を説明した後いたく感謝され、どこの学生かと尋ねられ、雄英だと誰かが答えれば、流石雄英の将来有望な卵だと感心され、「君たちはいいヒーローになるよ」と笑顔でお墨付きをもらうのだった。
「……で。めでたしめでたしで終わる前に、ちょいとお二人さん面貸せや?」
バキボキ、と華奢な指から出てくるとは信じがたい音を手から鳴らしながら、最上級の笑顔を浮かべた千晶が、峰田と上鳴の二人に歩み寄る。既に長袖のパーカーも黒髪も全く水気を含んでおらず、つい十分ほど前に海の中に飛び込んだとは思えないほどからりとした姿だ。
それもそのはず、滴る水と肌に貼り付く髪やパーカーがうっとおしく、万が一でもコンシーラーが落ちないようにと、血法を使ってさっさと全身に纏わりついた水気をまとめ、ゴミでも捨てるようにポイと砂浜に放り投げたからだ。
氷の女王再び、といわんばかりの威厳と凍気を振り撒いて近づいていく彼女に震え上がった二人に、クラスメイトたちが「あーあ」という顔でそれぞれ目を背けたり苦笑したり、自業自得だとため息を吐いたりとバラバラの反応をする中、哀れな悲鳴が夏真っ盛りの青い空に溶けて消えるのだった。