「っていうか、人命救助で色々忘れそうになっとったけど、千晶ちゃんの個性って海の上も歩けるんやな?」
太陽が中天に差し掛かり、日差しが一番容赦なく照り付けてくる頃。焼けつくような光線から逃れるため、海の家の
そんな中、ストロベリー味を頬張りながら首を傾げたお茶子の至極当然な問いかけに、その隣でレモンのかき氷を、ストローを使ったスプーンで掬い上げようとしていた私は一瞬手を止めたものの、スプーンの上の氷の欠片が熱気で溶ける前にぱくついた。言葉の代わりに一つ首肯だけしておく。
そりゃ、海上であれだけダイナミックアクロバットかましておいて、気にならない訳もないか。その後すぐにそれ以上のインパクトの出来事があったせいで目撃者全員からの質問攻めを逃れたのは不幸中の幸いだったけれど。
そんなお茶子の疑問に、同じくカキ氷を頬張っていた男子三名も瞬きを繰り返した。
「あぁ……言われてみりゃ何だ、アレ」
「んー……有体に言っちゃうと、血で定義した範囲内の水を支配して、指定した部分の表面に海中の塩分を集めて表面張力を上げて、水を圧縮して弾性を高めて人体を瞬間的に支えられる状態を断続的に続けてるだけなんだよね」
4月の個性把握テストのとき、ボール投げで指を折ったイズクの指を冷やして固定するためにゼリー状の水で覆ったアレと原理は同じである。“水蜘蛛”はその水上版になる。
水はそもそも表面張力の大きい液体なのだが、塩分が水面近くにあると表面張力は増す。アラビア半島にある、塩分濃度の非常に高い湖である死海を思い浮かべてもらえれば分かりやすいだろう。塩分濃度が高い水は水面張力と浮力が増す。それでも海上を自由に歩いたり走ったりするには不十分(通常の海水の十倍の塩分濃度を持つ死海でさえ人体を顔や足先を出す程度に浮かばせるだけ)なので、自分と接地する海面を一時的に圧縮することで足りない支えを補っている。
これを発動する際の術式理論を斗流のじっさまに開示したら、相変わらず口は悪いものの、“血闘神”と呼ばれるあの人にすら若干の呆れと感心の滲むお言葉を頂戴したので、やっぱり牙狩りの”普通”を凌駕したキチガイ技であることは否めない。おおむね実験施設での経験のせいだが。
“水蜘蛛”は、操作に脳味噌のキャパをかなり取られる“
すると、お茶子を挟んで反対側に座るイズクがハッとしたような表情になったかと思うと、スプーンを氷の中に差し込んで、空いた手を顎に当てた。
「確かに個性把握テストの時に僕の指をゼリー状の水で固定してくれたときも、星合さんが離れたり自分の測定中でも効果は切れなかったな、今回は海っていう体積の大きい水が対象だったけど、そんな環境下でも存分に戦えるように個性を工夫するところは見習わないと……、あれ? でも血さえあれば水の中に含まれる塩分とかにも干渉できるってちょっと個性が影響する範囲が広すぎるような……でも体育祭で血をいろんな形にしたり巨大な龍を作ってたりしてたから個性も突き詰めていけば影響を及ぼす範囲も増えるのかなうーん」
「出たブツブツ……」
「かき氷が溶けるぞ緑谷くん!」
「あ、ホントだごめん、ありがとう飯田くん」
いつものイズクの高速独り言も最初こそ皆ぎょっとしていたものの、今となっては「ああ、またか」くらいにクラスでは受け止められている。……しかし、よくそんな長台詞をほぼノンブレスで言い切れるね。
ただ、日陰とはいえ気温が高いのには変わりない。イズクが思考の海に浸かっている間に彼の手の中のメロン味のかき氷はどんどん溶けていっている。それを見かねた飯田くんが思考をぶった切るように少し声を張り上げると、自分の世界から戻ってきたイズクが弾かれたように顔を勢いよく上げた。黙々と抹茶味を食べていた轟がちょっと貸してみろ、と右手でイズクの紙カップを冷やすのを眺めながら、内心少しだけ安堵していた。
やっぱりイズクは鋭い。簡単なギミックを言っただけでふーんそう、と話を流さず、一度疑問視して考察を繰り広げる柔軟で鋭い思考は、イズクの美点だ。一瞬ちょっとヒヤッとした。こちらの世界の“個性”では普通ありえないはずのバリエーションの広さに着目してくるとは。血法のことはいつか話そうとは思ってはいるものの、こういった他愛ないシーンで指摘されるとちょっとドギマギする。不意討ちは心臓に悪い。
そんな悪い大人の動揺を押し殺し、若干遠い目でちゅるる、とカップの中で氷が溶けて溜まってきたレモネードもどきをストローで啜っていると、そや、と何やら思いついたらしいお茶子が声を上げた。何事かと隣を見れば、悪戯っ子のような、晴れ渡る空のような、天真爛漫な笑顔が視界に映る。千晶ちゃん舌出してみて、と弾んだ声のお茶子に促されて、私はよく分からないまま明るい声に素直に従い、ストローをくちびるから離して舌を突き出した。途端に小さく噴き出したお茶子に、私はますます首を傾げる。
「わは、やっぱ黄色になっとる!」
「?」
「かき氷食べるとよく舌の色が変わるんよ、ほら、私は真っ赤になってるんちゃうかな?」
そう言ってんべ、と舌を出したお茶子の舌は、確かに中央が生理的なピンクより濃い、シロップの赤色に染まっていた。それにしぱしぱと瞬きを繰り返して呆ける私に、真向かいに座るイズク達もぺろりと舌を出して互いに見せ合い始めた。
「あ、飯田くん青いね」
「そうかい? そういえば昔、兄さんに夏祭りに連れていってもらった時、決まって二人でブルーハワイを一つ頼んで、真っ青になった舌を見せあいっこしたな。エンジンの調子が悪くなるから炭酸は飲めないが、ブルーハワイのソーダ味ならエンストしないから食べてみたらいい、と兄さんに勧められて食べたのが懐かしくて、ついかき氷はブルーハワイを選んでしまう」
「一人一つずつは頼まんかったんや?」
「かき氷は食べ過ぎると頭がキーンとするだろう? それに、まだその頃は兄さんも学生だったし、俺も小さかったから、かき氷を一つずつでは多すぎたんだ」
飯田兄弟の仲のいい、心温まるエピソードに私やお茶子、イズクがほっこりと笑顔を浮かべる傍らで、
「ああ、なるほどな。……緑谷のはなんだ、すげぇ真緑だな」
「こういうシロップの色って鮮やかだからなぁ……あ、流石に轟くんは色変わってないね、抹茶だから」
「俺だけシロップじゃないからな……」
色付いた四つの舌を見て、自分のカップを見下ろしたりと少しそわそわしていた(他の皆が気付くほど分かりやすかったかといえば多分ノーだ)轟が、イズクの何気ない言葉に平坦な声で返事をしながら、ひっそりと肩を落とした。その様子がらしくないくらいに子供っぽくて、そのあどけなさがなんともいじらしくて、ちょっと笑ってしまう。咄嗟に口元を覆った手によって、当人にはそんな失笑を知られずに済んだようだが、たぶんそれを口にでもしようものなら、この友人は拗ねてへそを曲げるに違いなかった。
けれど、一人だけちょっと仲間外れになってしまったのを残念がるようになったのが、そんなささやかな違いに目を留められるようになったことが、意地悪かもしれないが私は嬉しいのだ。孤独な修羅の道、かつて自分が歩んできた、幼少期から思春期に至るまでのさみしくて昏い、果てには奈落しか待っていない道を、よく似た性質の彼が同じ轍を踏まず済んだことに、安堵している。
親愛なる友人のきみよ、どうか健やかであれ。
きみは祝福されて産まれたいのちなのだから。
わたしと違って。
……なんてね。
おどけたように内心で呟くけれど、自然とほころんだ目尻が、いっそう紅茶色の瞳を垂れさせる。幼子を見守る年長者のような気分で目を細めていれば、お茶子がじぃっ、と上目遣いで見つめてくる視線に気付いて、私はまた小さく噴き出した。こちらにもまた一人、いとけなくてかわいい友人が居たものだ、と。
元からまあるいヘーゼルの瞳を、いっそうくりくりとさせてこちらを見上げてくる友人の、問い掛けるような視線につられて、「いやね、」と言い訳めいた、笑い声を含んだ声で言葉を紡ぐ。
「しあわせだな、って思って」
ゆったりと噛み締めた言の葉は、いつになく穏やかで。まるで、大切な宝物を愛おしげに撫でるような、そんな密やかさを持って響く。口元を覆っていた指先が顎先に添えられれば、蕾がほころぶような笑みが露わになった。けれどそれは、ただ周囲の目を奪うだけの美しい笑みというよりは、どこか泣き笑いにも見える、そんな表情と声だった。
ぽろり、と思わず口から零れ落ちたそれが、世間一般の常識と照らし合わせても、自分の過去が幸せだったとは到底言えないことを証明してしまうような気がした。そして、言うつもりも無かったそれと自分の表情を見た友人たちが、揃いも揃って動きを止めてこちらを凝視してくるのに気付いて、私は取り繕うように、こほんと一つ咳払いをして言葉を重ねた。
「日本でも舌が染まるくらい色のきつい食べ物ってあったんだね」
日本の食事は諸外国と違って合成着色料の少ないものが多いと思っていただけに、かき氷のシロップで舌が染まるとは思わなかった。接待で初めて懐石料理を食べた時は、その繊細さや素材の味を活かす調理法に驚き、感心したものだ。懐石だけでなくとも、和食は他の世界の料理に比べて脂っこくなく、やさしい味がする。こうして実際の日本で、飲食店やコンビニ、スーパーの食品を見ると余計にそう思う。日本食が欧米の富裕層を中心にもてはやされる気持ちも分かると言うものだ、なにせ、ヘルシーで見た目にも美しく、そして何より美味しい。
だからそんな日本で、しかも削った氷にシロップを掛けただけのかき氷なんてお手軽なもので、舌が染まる事態になろうとは思いもよらなかったのだ。実は今日がかき氷初体験だったりする。
動きを止めていたお茶子が、そんな私の場を取り成す呟きに、ことりと首をかしげた。
「スペインには無かったん、かき氷?」
「こういう感じのは無いな……一番近いのはグラニサードかな」
「ぐらにさーど」
「なんて説明すればいいんだろう……飲むシャーベットというか、スムージーというか……。スタバのフラペチーノが一番近いのかな、かき氷よりもっと細かい氷で、味は
「ほうほう」
「どっちかっていうとスペインじゃアイスクリームやジェラートの方が多い気がするんだよなぁ……グラニサードも大抵ジェラート屋にあるし、スペインじゃミルクの入ってないアイスってすぐ溶けてベタベタになるから、かき氷みたいなシャーベットに近いのは食べ歩きに適さないし」
「太陽の国と言われるほどだものな、スペインは」
「うん。……ただ、
「アイスで真っ赤になるの!?」
「うん。“ドラキュラ”っていう、結構子どもに人気のアイス。外側がコークで、中身が真っ赤っかのストロベリー味。最後にちょっとだけバニラ味があった気がする。黒に赤だから見た目がアレだけど、美味しいらしいね。ただ今は人工着色料無しだから染まらないらしいけど」
「コーラにイチゴにバニラって……日本じゃありえない組み合わせだな、想像できねぇ……」
だろうね、とひとつ、相槌を打つ。
らしい、という伝聞系の言い方になってしまったのは、なんてことはない。私自身そのアイスを食べたことが無いからだ。わりと人気商品らしいのだけれど、
中々サイケデリックな色合いのパッケージのアイスを思い出しながら、そういえばHLにはそれこそ
湿度の高い日本の夏は、とかく日差しが強く空気がからりとしていたスペインとはまた違う季節にも感じる。春の半ばに訳あって短く切り詰めたブルネットも、血法を頻繁に使っているせいか伸びが早い。肩を少し越す程度まで伸びたその襟足が汗で首に張り付き、氷を食べたばかりだというのにこめかみをたらりと伝う感覚に、小さく眉根を寄せる。
日陰に居ても篭るような熱気を振り払うように、くしゃりとうなじの辺りに手を差し入れたとき。
「行ってみたいなぁ」
千晶ちゃんの生まれた街。
夢見るような調子の声がふわり、昼下がりの熱を孕む風に乗って、何処かへと運ばれていった。
その呟きが最後の音まで消え去るのをなんとはなしに耳で追いかけていた私は、沈黙を一拍分置いて、そう呟き零した友人をまじまじと見下ろした。
海の家の日除けの下、日差しが遮られて、少し先を見晴るかせば目も眩むような、眩しい昼下がりに在るとは思えないほど柔らかな薄闇の中で、ヘーゼル色の瞳を縁取る睫毛が瞬く。
「……行きたいの? バルセロナ」
「うん! やって、いっつも千晶ちゃん、
指先をちょんと合わせ、照れたようにはにかむお茶子。確かに、と深々と頷く男子陣の反応も見て、私はそんな顔してたか、と苦笑する。
けれど、否定できない自分が居るのも、また確かだ。
血も肉体も見目も、全てのルーツはかの情熱の国に在って、そこで幼少期を過ごしたのだから思い入れもひとしおだ。まだ戦いを知らなかった、純真で愚かな幼い時期も、自らを流れる血のことを意識する切っ掛けを与えられて、今に至るまでの運命を導いた宿命めいた因縁も、「わたし」を形作った
それらの郷愁が呼び起こす切なさはそっと胸に秘めて、私は穏やかに目を細めて破顔する。
「案内するよ。バルセロナでも、マドリードでも、バレンシアでも、好きなとこ。隣のフランスやポルトガルでも、少し足を伸ばしてイタリアやドイツでも。大体の有名な国なら案内できる自信があるよ。今ならガイドと通訳がタダでついてお得だよ?」
「ぷふっ。千晶ちゃんが生きてきた足跡を辿れるんなら、どこでもいいなぁ。でもバルセロナは外せへんな!」
握りこぶしを作って力説する彼女に、ふはり、と空気を吹き出した。そんなわたしの反応を見てハテナを浮かべてみせたお茶子に、にんまりとチェシャ猫みたいに笑って、いたずらっぽく口ずさむ。
「私が生きてきた道筋ぜんぶを辿ろうと思ったら、きっと世界旅行になるよ」
「どんだけ!?」
「いろんなとこ行ったからなぁ……案外、行った事の無い国を挙げた方が早いかもしれない」
なにせ、世界中を任務やら交渉で飛び回っていたもので。純粋なバカンスや観光目的で訪れた国だけに絞るとぐっと少なくなるが、陸路と海路と空路、あらゆる手段で国を巡ったから、通り掛かった国も含めてしまうと、結構な数の場所を訪れたような気もする。ヨーロッパの主要国なら、国内に多数支部を抱えていることもあるので、あらかたの主要都市は押さえているだろう。
そんな風に頭の中に世界地図を思い浮かべ、指折り数える私に、マジか……! と驚きと感心が混ざったような顔をしているイズクたち。私の渡航遍歴はともあれ、故郷に興味を持ってもらえるのは純粋に嬉しいものだ。喜んで、彼らのためのツアーを組もうと思うくらいには。
「でも、そうだね。バルセロナは皆に一度見に来て欲しいかな。私が一番うつくしいと思う蒼が、あそこには在るから」
青と黄色、緑の調和する、荘厳でただひたすらに胸を突かれる、見事な薔薇窓。
聖なる家族に捧げられると同時に、父なる建築家の死を抱く、高く遥けき聖堂。
その頂点から町へ降る賛美歌、塔を繋ぐ橋より見下ろす愛しきバルセロナ、その彼方。
空も海も、透明で深い
世界にはまだ見たことも無いような美しい場所が在るのだと、知って欲しいと思う。国を巡ればそれだけ数多の発見があって、その数だけ人は深みを増す。そして、多くを知っているからこそ、帰る場所が在ることを、ありがたく思えるのだろう。人は誰しも旅立てば、いつかは疲れて、心落ち着く元の場所へ帰ろうと自然と口にするのだから。
そんな未来を脳裏に描けば、自然と笑みがこぼれた。他愛ない約束。時が経てば、目の前の忙しさに埋もれてしまうかもしれない。そもそもその時まで、はたして私がこの世界に存在しているかもわからない、不安定極まりない口約束だ。
それでも、いつか、叶えられたらいいなと思う。それだけは、この心だけは、唯一自由だ。
「そのためにも……ヒーローになって、お金稼がないとね?」
「せやね、お金稼いで父ちゃんと母ちゃんに楽さしてあげるのと、皆で旅行行くんと、両方の為にも仮免試験、頑張らんと……!」
少しうららかではない気張った表情で頑張るぞー!! と拳を突き上げるお茶子。
それに釣られて、生真面目にぴんと指先まで伸ばした手を高々と上げる飯田君。
その隣で少し戸惑った表情を見せた後、くすぐったそうな笑顔を見せるイズク。
そして、常の仏頂面に一目では分かりにくい薄い笑みをうっすらと乗せている轟。
そんな彼らと共に在れる
あと一話で海回終了です。長いな!