深い森の木々が飛んでいくように左右に流れていく中、徐々に見えた木々の切れ間に目を細め、少しずつ速度を落とす。魔獣はもういない。
林を走り抜けると、人工的に切り拓かれた場所に出た。急に開いた視界に視界がくらむ間もなく、どんと居を構える建物の前に立つ人影に気づいて駆け足程度のスピードで近づいた。
「やっぱりお前が一番乗りだったか……星合」
プッシーキャッツのマタタビ荘、という看板が印象的な建物の前で待ち構えていた相澤先生と、プッシーキャッツの赤と青のコスチュームに身を包んだ二人に軽く頭を下げ、土埃まみれの服を軽くはたきながら近づく。
疲労感はあるものの、血液も体力も余力を残していることが見て取れる私のしっかりとした足取りに、相澤先生が袖を捲り腕に嵌めた時計を見た。
「現在PM1:28……大体4時間か。ピクシーボブ、他の生徒は」
その問いかけに、ピクシーボブと呼ばれた青のコスチュームに薄青のバイザーをつけた女性ヒーローは耳元に手をやるように、頭部の大部分と耳を覆う独特な形のヘルメットに触れた。するとバイザーにレーダーらしき図形が表示される。どうやら、見た目のポップさ以上に高性能な機能を兼ね備えたヘルメットらしい。
何の前触れもなく、前準備も無く生徒を森に放り出すというサバイバルじみたことをさせるなんて思い切ったことをするなとは思っていたのだが、なるほど、最悪迷子になってもすぐ助け出せるような措置はきちんと取っていたらしい。よくよく考えれば、レーダーで把握していなければ、ここに居ながら離れた場所へ土で出来た魔獣を差し向けるなんて芸当は難しいだろう。
というか、その猫耳というには少々長く見えるヘルメットの角の形だと
そんな風に意識を投げている間に、レーダーで現在の皆の位置を把握し終えたピクシーボブがころころと笑った。
「いやー、まだまだだね。大体今五分の三ってところかな? その子……星合ちゃんだけがダントツ。スピード、瞬時の判断能力、スタミナ……全部一級品。もうプロ並みだよ、ホントに高校生? サクサク土魔獣片付けられるもんだから、段々楽しくなってラストちょっと意地悪しちゃったにゃん」
「アレ意地悪ってレベル超えてますよ……他の子にはやらないであげて下さい」
林間合宿最初の受難として突如押し付けられた、合宿所まで土で出来た魔獣を倒しつつ、合宿所までの方角も確かな道も分からない獣道ばかりが続く森の走破。単純なスタミナ勝負にはとどまらないそれは、私にとってはさほど苦にならなかった。一瞬の気も抜けない長時間戦闘も、見通しの悪い森林地帯でのサバイバル経験も牙狩りの職務と大いに重なるからだ。
HLでは専ら市街戦ばかりだが、HLが出現するまでの牙刈りは世界中に気まぐれめいた頻度で異界の裂け目から湧いてきたり、古来からこちらの世界に存在し、人に紛れて生活したりしていた吸血鬼に対して出動していた。吸血鬼の日光に弱く、招かれざる人家には侵入できない特性から、血界の眷属は多くが使われなくなった廃墟や閉鎖になった地下施設、日中でも日の届かない森の中を拠点とする傾向にある。そのため、こういった鬱蒼とした場所でも戦えるよう、牙狩りの精鋭はあらゆる環境下を想定した特別な訓練を十分に詰んでいる。特に日中でも日光を遮るほどの深い森林地帯は、日光を弱点とする吸血鬼が潜伏しやすく、かつ死角からの奇襲が容易な環境でもあるので特に念入りに訓練している。
とはいえ、今は10年の研鑽を丸々引っこ抜かれた状態。こっちの世界に落ちてきた直後だったら厳しかっただろうが、毎日ランニングと雄英高校の設備をフルに活用して、欠かさずトレーニングを積んでいたおかげで、なんとかスタミナ切れの心配もなく辿り着けた。
が、複数の土魔獣に左右前後同時に奇襲を掛けられるラッシュが続いたラスト5kmが特に厳しかった。足場の悪い長距離走より、最後のラッシュのせいで無駄に疲れた感覚がある。本来攻撃手段として使うシナトベを移動補助に使うなんていう繊細な訓練を併行して行っていたため、精神的に余計に疲れたのだろう。最初は思ったように体が着いてこなくて、スピードを上げるどころかそれ以前の問題になりかけたが、なんとか形にはできた。あとは無意識でもできるよう体に馴染ませるだけである。
ゴメンネ! と悪びれなくウインクしてみせるピクシーボブに肩を落としていると、相澤先生が背後の建物を親指で差した。
「星合、バスから荷物降ろして部屋に運んでおけ。本格的なスタートは明日からだ、他の連中が到着するまでは自由にしていていいぞ」
「はい。あ、じゃあ休憩したらもう少し鍛錬してていいですか? やりたいことがあるので」
「へー、まだ余力あるなんてタフネスあるんだねぇ」
マンダレイが感心したように呟く隣で、相澤先生は少し考え込むような仕草をした後、無茶はするなよと釘を刺された。
「そんだけ元気があるなら夕食作りも手伝え。一人暮らしだから料理は得意だろ、お前」
「分かりました。ピクシーボブ、何時頃戻ればよろしいですか?」
「んー、このペースだと全員到着は5時すぎかな~? 幸い全員多少の差はあってもほぼ一塊で走って来てるから」
「じゃあ、4時頃に始められるように来てくれる? 案内するから荷物持っておいで」
「はい」
**
────PM5:20。
夏になり日が長くなったとはいえ山間の合宿所にはどんどん夜の気配が近づいてきていた。山際に太陽の縁が掛かりかけた頃合、マタタビ荘の前で相澤、ピクシーボブ、マンダレイは鬱蒼と茂る森の中から近づいてくる複数の気配と足音を待ち構えていた。
「や~っと来たにゃん」
先頭は轟、爆豪、飯田、緑谷の活躍目覚ましい四人。そしてその後を追うようにしてA組全員がそれぞれ疲労困憊の体をひきずり、9時間掛けて合宿所前に到着した。
「とりあえずお昼は抜くまでもなかったねえ」
「何が『3時間』ですか……」
「腹減った……死ぬ」
「悪いね、私たちならって意味、アレ」
12時半までに着かなかったらお昼抜き、という朝の言葉を踏まえてのマンダレイの発言に、瀬呂が土埃と虫刺されで痒くなった肌を引っかきながら苦言を呈する。その横でゾンビのように口を大きく開け天を仰いでいる切島はもう無理、とばかりに悲鳴を上げ続ける腹部を押さえていた。
「実力差自慢の為か……やらしいな……」
「ねこねこねこ……でも正直もっとかかると思ってた」
砂藤の発言に全員が心の中で同意したその時、ピクシーボブが手に嵌めた巨大な猫の手を模した手袋で口元を覆い、奇妙な笑い声を上げて含み笑いをした。
「私の土魔獣が思ったより簡単に攻略されちゃった。いいよ君ら……特にそこ4人。躊躇の無さは
獲物を狙うように舌なめずりをして緑谷達を指差したピクシーボブが、水色のバイザーの奥の目を不穏に輝かせる。
「三年後が楽しみー!! ツバつけとこ──!!」
「うわっ」
本気で15歳ほど年下の少年たちに唾を浴びせかけるピクシーボブに、慌てて数歩その場から下がる4人。ある意味大人げない光景を後ろで見ていた相澤は、怪訝な表情で隣のマンダレイを見た。
「マンダレイ……あの人あんなでしたっけ」
「彼女焦ってるの、適齢期的なアレで」
「適齢期と言えば───……」
「と言えばて!!!」
ピクシーボブのナイーブな問題を脇に置くような緑谷の口ぶりに、ピクシーボブから優しめの猫パンチが飛ぶ。顔面の殆どを押さえられながらも、緑谷は視界の利く左目で先程から気になっていた人物について尋ねた。
「ずっと気になってたんですが、その子はどなたかのお子さんですか?」
「ああ違う。この子は私の
遠巻きに立って緑谷達のやり取りを眺めていた子ども。2つの金属の突起が特徴的な帽子を目深に被っている、やや目つきがキツめのその子どもに向かって、マンダレイが軽く手招きした。渋々、といった様子でゆっくりと近づいてきた子どもに、緑谷は軽く膝を曲げ、視線の高さを近づけながらおずおずと手を差し伸べる。
「あ、えと、僕は雄英高校ヒーロー科の緑谷。よろしくね」
が、小さな手が緑谷のそれに重ねられることは無く、容赦ない一撃が緑谷の急所を襲った。急所にクリーンヒットし、緑谷が白目を剥いてうずくまるその傍らに膝をついた飯田が、反論できない緑谷の代わりにスタスタと歩き去っていく洸汰と呼ばれたマンダレイの従甥に何故こんなことを、と苦言を飛ばした。
その一言に足を止めた洸汰が、ぎろりと鋭い眼光を帽子の陰にひらめかせながら口を開いた。
「ヒーローになりたいなんて連中とつるむ気はねえよ」
「つるむ!!? いくつだ君!!」
おおよそ子どもらしくない発言にいつになく的を射た飯田のツッコミが冴えわたる傍らで、「マセガキ」と鼻で笑った爆豪に轟が「おまえに似てねえか?」と茶々を入れ、「あ? 似てねえよ。つーかてめェ喋ってんじゃねえぞ舐めプ野郎」「悪い」という気の抜けるようなよく分からないやり取りも、相澤の溜息と共に発された言葉が終わりを告げる。
「茶番はいい、バスから荷物降ろせ。部屋に荷物を運んだら食堂にて夕食、その後入浴で就寝だ。本格的なスタートは明日からだ。さァ早くしろ、星合はとっくに着いてお前らを待ってる」
「!!」
「そういや空腹やらなんやらで忘れてたけど、星合イチ抜けしてたな……!」
唯一A組の面々でこの場に居ない千晶の存在を思い出した面々が、ハッとした顔をしたり渋面を作ったりとそれぞれの反応を見せる中、バスから荷物を降ろした切島が先を歩く相澤へ何時頃到着したのか尋ねた。その問いに、相澤は一瞬だけ黙した後に、彼らより4時間早く合宿所へと到達していることを告げた。
「あ、皆お疲れ。今ご飯よそうから手、洗ってきなよ」
速攻で荷物を部屋に置き、千晶が待っているという食堂へダッシュで向かったA組の一部生徒とそれを追うようにして食堂に辿り着いた面々を出迎えたのは、料理の乗った大皿を手にB組が着席するテーブルの間を縫うように歩いていた千晶だった。
体育祭後にばっさりと切ってから、少しずつ伸び始めている黒髪を邪魔にならないようハーフアップにしてバレッタで留め、私服の黒のVネックのシャツに細いスキニージーンズを履きこなした彼女がその上に纏うのは、ピクシーボブから借りたらしい猫モチーフの可愛らしいスモーキーピンクのエプロンだ。千晶の背が高いためエプロンが相対的に短く見えるのはご愛嬌だろう。
A組きってのクールビューティー、あるいはスパダリと称される千晶だが、似たような外見のタイプである八百万同様、見目のキツさに反してどこか太陽の国の気質を感じさせるあたたかさもあるために、少し可愛らしすぎるエプロンがちょうど良いアクセントになっていた。
そんな少し意外にも映る家庭的な一面に一部男子が胸のあたりをムズムズさせたり(そして一名は髪留めを見て妙に緩む表情筋を戻すのに苦労していた)、新婚みたいだとあらぬ妄想を繰り広げる間にも、空腹を抱えたA組の面々を痛いほど刺激する香りが漂う。それは千晶が手にしている大皿の上で、現在進行形でゆらゆらと湯気を立たせている四川料理だった。
「星合、コッチの
「あーこっちも麻婆茄子お代わり」
「エッちょっと早くない? 皆中華大好きだね!?」
「散々訓練して腹空かした後に肉と香辛料の匂い嗅がされたらがっつかずにはいられねぇだろ!?」
「くっ……箸が止まりません、後で体重計に乗るのが恐ろしい……!」
「白米に中華はズルいよね、分かるよ茨……」
次々とお代わりを所望するB組テーブルに供されるのは、とろりと飴色に光るソースに包まれた艶やかな豚肉と新鮮なピーマン、キャベツが食欲をそそる
空腹は最高の調味料というが、朝から約8時間、飲まず食わずで鬱蒼と茂る森を駆け抜けてきたA組の面々には、もはや鳴る腹を恥ずかしく思う思考回路の余裕すら無かった。食卓から香る湯気と香辛料の匂いなど、いっそ摂食中枢をいびる暴力でしかない。一発KO、ノックアウトは確実だ。
もはや空腹を抱えた獣と化しているA組一同が、B組にこれ以上美味しい思いをさせてなるものかと従順に(この時ばかりはあの爆豪でさえだ)食堂に併設された手洗い場に並び、言われた通りにきちんと手を清めてから席につき、普段よりやや激しいテンションでそれぞれ箸を引っ掴むと、我先に口を付けるのも無理からぬことだった。
食事を飲む勢いで食べ始めたA組を呆れ笑いで見守っていた千晶が、空になった皿の代わりに追加のおかずが乗った大皿をB組のテーブルに置くと、ふと視線を感じた。視線の方に顔を向ければ、興味深そうな青い瞳と視線とかち合う。先程から中華より洋食を優先して食べている物間だった。
「星合はスペイン出身なんだろう? なのに中華料理が得意とはね」
「うーん、中華が得意というか、いろんな国の美味しいものを再現しようと試行錯誤しながら作ってたら、気付いたら色々出来るようになってたってだけだけどねぇ。未だに和食は得意とは言えないし」
スポンサーとの会談が多い秘書職に就いていた
HLには異界から進出した飲食店も多く存在するが、
そんなモザイクが掛けられてもおかしくないHLの日常における惨状をひっそり脳裏に思い浮かべての千晶の答えに、ぐるんと青山が急に首を巡らせて勢いよく振り向いた。
「じゃあフランス料理はどうだい?」
「まぁ、凝ったものは作らないけど家庭料理なら一通りは」
「十分でしょ」
きみは何を目指してるのと呆れた視線を物間から頂戴する。失礼なと千晶も目を眇めて物間を見返した。
そもそも、千晶の料理の腕は遡ればエスメラルダの修行時代、兄弟弟子で毎日流派の共同ハウスの家事を分担して回していた頃から始まり、ラインヘルツにお世話になった時期に厨房を預かるシェフに頼み込んで上流階級に供されてもおかしくないレベルのドイツ料理や
「星合、おかわりくれ」
「俺も!」
「今行くよ」
それに、と千晶は密やかに微笑む。
料理に箸を伸ばし、会話に花を咲かせるクラスメイトたち。美味しいと言わんばかりの満面の笑みが見たくて、具の一つ、汁の一滴まで食べて飲み干される空の食器が嬉しくて、だから料理をするのが苦にならないし、腕を奮うのもやぶさかでないのだ。
受け取った茶碗を手に炊飯器のある独立型のアイランドキッチンのシンクに立つと、マンダレイに指示されて夏野菜のたっぷり詰まったダンボールを抱えた洸汰がすこしよろめきながら近づいてきた。懸命にダンボールの中身を見つめながら運んできた小柄な少年は、ふと頭上に差した陰に顔を上げる。
「ありがとう、重くない?」
食器を一度シンクに置いて千晶が洸汰の視線に合わせて屈むと、緑谷やヒーロー科の面々に対して辛辣な態度を取った彼はぷい、と顔を逸らした。
「……べつに。このぐらい持てる」
「そっか。コウタは偉いね」
キッチンの横にどすん、とダンボールを置いた洸汰に微笑みかけた千晶が、自然な動作でその小さな頭に手を伸ばす。緑谷を始めマンダレイや虎など、何人かがその手をはたき落としやしないかと内心ハラハラしながら事の成り行きを見守る中、彼らの予想を裏切って手はトゲの付いた帽子に着地した。帽子のつばで陰が差す三白眼は所在なく泳ぎ、ふつうだろ、とシャツの裾を指で弄びながらもごもごと口ごもる少年は明らかに照れが隠しきれない年相応の姿だ。……おとなしく撫でられている相手が、彼が毛嫌いするはずのヒーロー候補生でなければ、だが。