星合千晶は、八百万百にとって憧れの人だった。……いいや、正確なことを言うならば、今も。
文武両道、冷静沈着、練度も汎用性も高い個性に的確な状況判断力。授業で時折見せる鋭い観察眼からなされる考察には、毎回つい聞き入ってしまうほどの説得力がある。
成績こそ八百万の方が上だが、それは学校で計れる範囲の物差しの話。英語や数学、化学や物理に関する見識は専門家レベルで深く、時折英語や外国語で書かれた論文をスイスイと読んでいるのを休み時間などに見かけることから、本当は数カ国語は喋れたりするのではないかと思っていた。
そもそも彼女は多国籍の人間が集まるスペイン出身で、太陽の国とは縁もゆかりも薄いはずの日本語は、興味があったから独学で習得したといつだったか小耳に挟んだ。
日本語は覚える文字数が他の言語に比べて遥かに多い、複雑な言語だ。独学で、今のようにすらすらと喋れて書けるまでに、どれだけの努力と勉強を重ねたのか。それなのに国内最高峰を誇る雄英で6位の成績をキープしている。足を引っ張っている古典さえなければ、もっと上位に食い込むに違いなかった。……というより、学校の勉強で評価されない方面の知識が豊富すぎるので、単純に学力でその真髄を計れる人間ではないとも思う。
いつも穏やかな笑みをたたえて、周囲の変化にもよく気づく人。いざ戦闘となれば凛々しい表情で毅然と立ち向かう姿に、八百万は出会って早々に憧れを抱いたのだ。
けれどひとつだけ、気がかりだったのは。入学式の代わりにすぐに行われた個性把握テストのために初めて体操服に袖を通す時。
おもむろにシャツを脱いだ千晶の白い、引き締まった腕や腹、そして背中にいたるまでにくっきりと浮かぶ……青あざ、切り傷、縫い痕、背中にはただれて色が変色した、大きな火傷傷を見た時。まだ古傷と呼ぶにはあまりに生々しい傷だらけの身体に、八百万はみっともなく上げそうになった悲鳴を、なんとか呑み込むことしかできなかった。
それは他の女子も同じで、そんな彼女たちに気づいた千晶が浮かべた微笑みは、あまりにきれいで、そして、どうしようもなく脆くて、哀しいもので。何かを諦めたような目をしてほしくなくて、児童虐待ですわ、という言葉が知らず、八百万の口からまろび出ていた。
だって、まだ15歳の自分たちが殴られたり切りつけられたり、火傷を負わされているだなんて、どんな状況だというのか。ヴィランよりもたちの悪い、隠蔽がまかり通ってしまうような複雑な家庭の事情なのではと、八百万は溜め込んだ膨大な知識の中から、自分から最も遠いその可能性に行き着いた。
その時は家庭の事情に首を突っ込めるほどお互いのことを知らなかったから、誰につけられたのか、なんて問いただすことなどできなかった。掛けられた言葉がさぞ不思議だったのか、少し目を丸くしていた千晶が、ふんわりと困ったような優しい微笑みを浮かべたのを目にした時。八百万は密やかに決意していた。
ああ、つらくても笑えるこの人が、せめて学校では楽しく過ごせればいい、と。
なのに、どうして千晶さんばかり、傷ついてひどい目に遭っているのだろう。八百万は悲鳴とも呻きともつかない激情を、ついぞ喉から迸らせる事もできずに飲み込んだ。
USJ事件では相澤や緑谷を救け、腹部に傷を負い、大量出血で生死の境をさまよって。
そして今回は、大切な左足を奪われて、暴力を振るわれ続けて。挙句の果てには、後見人だというオールマイトへの嫌がらせと、その身に秘めた類まれなる才能に目をつけて、ヴィランにするためだけに、違法薬物を使って、トラウマを引き出されて、治りきってもいない心をズタズタにされた。
神野に向かう新幹線の中、峰田が見つけた週刊誌の記事に対する反応を集めたネット記事で、千晶の過去らしきことが書かれているのを知った。「これ、星合のことじゃねえか?」そんな一言が、知るべきではなかったはずの真実をつまびらかにしてしまうことも、知らずに。千晶への確かな悪意をもって綴られた、想像を絶する凄惨な過去を知ることとなった。神野へ救出に向かう全員が、しばらく言葉をなくすほどの、衝撃。
捨て子で家族はおらず、物心ついた時には教会で暮らしていたこと。7年近く、国際的ヴィランに拉致監禁され、悪事にむりやり手を染めさせられていたこと。オールマイトが後見人をしている理由も、その記事を見ればすぐに理解が追いついた。……週刊誌に載った記事だ、どこまで信憑性があるものか、普段なら正確かどうか吟味するところだが、その時、その記事を見て納得できることのほうが多すぎて、きっとこれは真実なのだろうと妙な確信が、その場の全員にあった。
けれど、彼女が内通者ではないかという民衆の心ない声には、驚き、疑念を抱きながらも──絶対に違うと反発していた。
拷問まがいの人体実験、と聞いてすぐに何の事か分かってしまった。あの身体中の傷は、人体実験でつけられた傷なのだと。あの少し困ったような微笑みは、この事だったのかと。自分たちを気遣って、あえて訂正しなかったのだと簡単に想像がついて、崩れた瓦礫の影で必死に息と気配を殺しながら、ヴィランのボスに対する恐怖感とは違う涙と嗚咽が溢れた。
……その後、無事に轟と戦場を脱出した八百万は、残してきた千晶が気がかりで、現場の中継を繋いでいるニュース配信を映し出すスマホ越しに、洗脳から無事に抜け出せた千晶の鬼神のような……いつもよりも必死で、どこか生き生きとした、普段の、それこそ合宿中の彼女とは比べ物にならない、星合千晶の本気の戦いぶりを、見守って、応援することしかできなかった。
『地獄など幾度も見た、人の我欲を、憎悪を、怨恨を。……この人生は地獄に満ちている』
あんなに綺麗に笑う裏側で何度泣いて、どんなに苦しんだのかと、自分のことのように胸が締め付けられて。
『生まれを呪った、親を憎んだ、血を疎んだ。ああそうだ、わたしに綺麗なものなどこれっぽっちもないとも』
世界や周囲の理不尽さ以上に、胸を掻き抱いて静かに呟く千晶のその言葉は、自分自身が、心底嫌いだと叫んでいるように聴こえて。
……ああ、だから。誰にだってやさしくて、それこそ自分に敵意を向ける爆豪や欲望を隠しもしない峰田のセクハラ発言すら、最終的にはやれやれと許してしまうような彼女が、唯一、自分を大事にできないのは、死ぬギリギリまで、いつも頑張ってしまうのは。きっと幼少期のつらい経験がそうさせてしまっているのだと思った。自分自身が死ぬほどゆるせなくて、嫌いだと叫ぶような、聞いているこちらが息ができなくなってしまいそうな悲鳴。そんなことはありませんと、すぐに声をかけたくて仕方なかった。
それでも、その人生が絶望としか思えない暗い道のりであったとしても。
たとえ千の挫折を突きつけられようと、私の生き方を捻じ曲げる理由にはならないと、あの恐ろしい存在と向き合って決然と、声高らかに叫ぶ姿に、理不尽や絶望を跳ね返すそのしなやかな強さに、胸が打ち震えた。
これが、彼女という一人のヒーローを形作り、支える強さ。
流されたのでも、選ばされたものでもない、自分の意志で選んだ道だと高らかに叫ぶ高潔さ。
何度闇に呑まれそうになっても負けない、光を目指して前進し続ける推進力。ああ、本当に。
「(千晶さんは、星のようなひとですわ)」
天上に星の架け橋が架かる日をなぞる名が示すとおりに、自分の力で輝きを放つ、夜空を彩る星のような、静かで力強い輝きだ。
でも、届かない孤高の人ではない。
絵に描いたような、完璧な人間だと思っていた。そんなつもりはなくても、オールマイトのように、どこか神聖視していた部分はあったのだろう。あの星合千晶が負けるはずないと。そんなふうに。
でもそれは思い込みで、憧れた強さも、優しさも、彼女が抱え込んで背負ってきた、無数のどろどろで重たい、つらい過去から来たものだ。それを隠してでも、他人に優しくありたいと願った千晶のうつくしさだ。
冬を引き連れて、周りを凍りつかせながら、醜悪な肉塊に、明確な殺意に凛然と立ち向かう千晶の鮮烈な輝きに、憧れた。
憧れると同時に、対等な友人としてそばに寄り添いたいと、そう思った。