人魚姫は英雄の夢を見るか?   作:一星

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ナチュラルに小説版のネタがちらっと出ます。


喉から手が出るほどひかりが欲しくても

「『手伝ってくれ』っていうから何事かと思えば、何処から見つけてきたの、これ」

 

 荷造りすること数時間。お昼には引っ越し蕎麦ならぬ、そうめんやら冷や麦やらを大量に湯がいて食べ(好物の蕎麦じゃなくてしょんぼりしたのが約一名居たが)、お腹も膨れたことで、クラスメイトたちは再び部屋に散っていた。

 荷物が少ないわたしは早々に部屋作りを終えてまったりしていたのだが、そんな折に新しく機種変更したスマホが震えた。連絡先は一応頭の中にもデータとしてたたき込んでいるとはいえ、ちまちま登録し直すのも入院中はおっくうで仕方なかった私は、昼ごはんの時に全員に声を掛け、連絡先を登録しなおしてもらっていた。誰かのヘルプコールかと思いスマホを引き寄せれば、相手は轟だった。

 

 寮の玄関前まで来てくれと呼び出されて階下に降りれば、まだ新しそうな畳、障子戸、立方体の木枠に和紙が張られた照明が台車に乗っかっていた。

 

「粗大ごみ置き場。フローリングが慣れねえんで困ってたら、まぁ色々あって……リカバリーガールが教えてくれた。授業で使ったもんらしい」

「なるほど。経営科か普通科辺りが使ったのかな。……まぁ確かにこの大きいのを一人で運ぶのは難しそうだね」

 

 普通なら二人で抱えて運ぶなり出来たのだろうが、松葉杖で手がふさがっている以上難しい。かといってこのまま台車にのせてエレベーターで一度に運ぶのも、縦幅横幅の関係で無理がある。

 

「私が地上から轟のベランダまで障子戸を持ち上げるか」

「悪いな、病み上がりに」

「いんや、むしろ身体がなまってるから動かしたいくらいなんだ。使うのは血腕だから足に影響ないし。まあ、まだ激しい運動は止められてるんだけど」

 

 何気ないやり取りを交わすものの、どこかぎこちない空気が漂う。

 それも当然だろう、あんなことがあった後だ。この大荷物を移動させるのに、松葉杖をついている自分は最適ではない。それこそ、轟と同じ階の瀬呂くんや砂藤くんの方がよほど適役だ。一声かければ快く手伝ってくれただろう。

 それでも轟が自分をわざわざ呼び出したのは、これを口実になにか話したいことがあるからだろう。

 足、刺青、建前ではあるが凄惨な経歴、オールマイトとの関係……心当たりがありすぎる。今回の件で明るみになった秘密は多い。一番知られたくない件について彼らも、AFOにも気づかれた様子がないのが不幸中の幸いだった。

 

 台車を男子棟側まで押していく轟の横をヒョコヒョコ着いて行くと、なんともいえない顔で轟が左足を見た。

 

 

「……その足、どうしたんだ。あの夜にはもう、お前の足は……」

「ヴィランに切断されて失くなったのに、かな」

「……ッ」

「綺麗に真っ二つだったからね、全部終わったあとに繋ぎなおせる望みもあった。だから切られた直後に足を冷凍して……ヴィランに人体実験の材料に使われないようにしてたんだよ。だからあの夜は血で補うしかなかった……」

 

 

 というか、私を拷問してでも懐柔しようとよく思ったなと思ったほどだ。死柄木や黒霧を丁重に全身冷凍してプレゼントしたことで私の脅威度は十分に知れていただろうに。言葉では絶対に屈服できない予感があったのかもしれないが、正直、私……いや、エスメラルダ流派の人間を拷問するなどハードルが高すぎる。

 

 なぜなら、私は手足を固められるとどうしようもない爆豪と異なり、血さえあれば能力を完全に封じられない。離れていても血液さえあれば発動可能なのである。AFOは気絶させた時に武器である靴や指輪を取ろうとしたのだろうが、脳無たちとの死闘中、脳無を操るために声だけはこちらに飛ばしてきたAFOの発言から、捕まってもすぐ殺されなさそうな気配を感じ、気絶直前に指輪も靴も凍結させていた。生きている私自身に利用価値があるなら、手足を強引にもいででも手に入れるほどの価値はあれらには無いからだ。そもそも、靴も指輪も、使用者である私でなければ使うどころか、分解すら出来ない魔術関係の代物である。

 

 唯一牙狩りにとって弱点である「血液を極端にサラサラにさせられる」点についても、抗凝固剤を打たれても毒耐性のおかげで即座に隔離・中和にかかるので意味がない。

 とはいえ、ナイフを作っても力を入れたらくにゃくにゃ曲がるレベルまで強度が落ちるので、拉致されてすぐの時は暴力を振るわれても大人しくされるがままになるしかなかった。無駄な血液を消費したくなかったし、暴力で吐いた血や傷口からの少量の血液で反撃には事足りる。目覚めて抗凝固剤の効き目が切れるまでそうやってしのげば、靴から技を繰り出して牽制できる。次の抗凝固剤を投与したくても連中は近づけない。こういう監禁で手っ取り早く心を折る強姦も、仲間にする趣旨と合わなかったことと、完全に大人しくさせる方法がなかったからこそ回避できた。

 

 一番気がかりだったのは、AFOに「個性を奪う」個性を使われ、血法が個性じゃないことに気づかれるのでは、ということだ。私の血法は血液そのものに術式を付加して発動する技術であって、個性ではないため奪えない。本人が近づいてきたときは駒にするのを諦めて個性だけ奪おうとする気かとヒヤヒヤしたが、これも死柄木の駒にする趣旨に合わないので使用されなかった。もしくは、私の血法は私という操り手とこの肉体あってのもので、個性を奪っても十全に扱いきれないとでも思ったのか、その点は不明だが。

 ……ただ、あの時すでにラグドールの「サーチ」を手に入れていただろうAFOが私を「視た」のか、視たとしてなんの情報を得たのか、そこについては不明なので少々不安はある。

 

 

「でも、シンリンカムイたちヒーローが瓦礫から足を発掘してくれた。今は私が個性でつなぎ直して、リカバリーガールの治癒で完全に癒合するまで待ってるところ。まぁ、寝たきりだった時間が長くって、胴体のほうが痩せ細っちゃってなかなか進んでないんだけど」

 

 最初のリカバリーガールの治癒の時、雄英から足を持ってきてもらって「繋ぎ直せるかもしれない」と話したときのオールマイトと相澤先生の唖然とした顔といったら。思わずシリアスな空気の中こらえきれず笑ったら、先生に八つ当たりと照れ隠しで拳骨で頭をグリグリされた。治癒系個性でもないのに、四肢欠損を繋ぎ直すという発想自体異常なのは承知だが、できるもんはできるのである。

 

 病院でもリハビリはしていたが、衰えた筋肉を取り戻すのには時間がかかる。今足がくっついているのは私が血糸で繋ぎ直しているだけなので、組織同士がつながっているわけではない。追々、少しずつリカバリーガールの治癒でくっつける予定だ。

 今回のダメージは中々深刻だったので、一度で治せるレベルじゃなかった。長いこと傷を不衛生な環境で放置されたため、感染で内臓へのダメージが洒落にならなかったのだ。牙狩りの上等な白血球だからこそなんとかなったが、身体が回復に専念させるほどの重体だったために、脚を真っ先に優先できなかった。

 だから今の左足はただ繋がっている状態なのでちょっとブラブラするし、大きく動かしたり荷重を掛けられないので、こうして慣れない松葉杖を突いているわけだ。めちゃくちゃ歩きにくい。

 

 そんな私の言葉に、目に見えて轟は顔をぱっと明るくさせた。

 

「! じゃあ、その足、元に戻りそうなのか」

「うまくいけば。断面がぐちゃぐちゃだったら、血なり義足なりで補わなきゃならないところだったけど、不幸中の幸いだった」

「……良かったな」

「うん。さて、着いたね」

 

 轟の部屋のベランダが見える位置にきた私は早速指輪から血液を出して大ぶりの腕に変化させ、障子戸をがっしり掴んだ。軽い障子戸なので2枚くらい一気に持ち上げられそうだったが、病み上がりなので自重し、一枚一枚持ち上げ、5階のベランダの柵の中に立てかけていく。畳も持ち上げれば、台車はすっかり軽いものばかりになった。

 

「ってことは、しばらく訓練には参加できねえ感じか」

「多分皆と別で、トレーニングルームでリハビリかなあ。足がくっつき次第合流することになりそう」

「……その赤い模様は? ヴィランになんかされたんじゃ……」

「ああ、ううん。それは元から。昔私に力の使い方を教えてくれてた師匠の流派の伝統で刺青を入れたの」

「師匠……」

「ヴィランに拉致監禁される前の話だよ」

 

 のらりくらりと嘘と事実を混ぜつつ喋りながら寮に戻り、運び込むのを手伝うために男子棟エレベーターで5階に向かう。上昇するエレベーターランプを見つめていたら、ぽつりと轟がそういえば、と呟いた。

 

 

「星合千晶、ってのは偽名なのか」

 

 

 さすがにこれには即答する答えを用意していなかった。

 

 

 私が持つもう一つの名前を知っているのは、あの場に居た6人だけだ。爆豪と救出組の5人。いいタイミングだからこれも皆に明かすべきなのか、正直なところ迷っている。名前一つくらい大した情報ではないが、ライブラの「クリスティアナ」とこちらの「千晶」を切り離して考えている自分にとって、どちらも特別な名前であり、「自分」だ。

 

 エレベーターのドアが開いても、数秒下りられずに立ち止まったままの自分を、オッドアイが見つめてくる。静かで、ひたむきな目だった。詰問する目ではない。好奇心ではない。素直で、純粋で、透明な湖畔と夜色の目をした彼に対して、今自分がどんな表情をしているのかだけが気がかりだ。

 

 

「……部屋入ろうか」

 

 結局、心の整理を付けるために先延ばしにすることしかできなかった。

 

 

 黙々と畳を敷き、窓の前に障子戸をはめ込めば、轟が持ち込んだ和ダンスや文机、盆栽や掛け軸も相まって立派な和室が完成した。盆栽や掛け軸は殺風景にならないように、と冬美さんに持たされたそうだ。職場体験で何度かちらっと見た、轟邸の轟の私室とほぼ変わらない雰囲気の中、足の不自由さから座椅子を勧められ、轟も引っ張り出してきた座布団に腰を下ろす。

 

「……週刊誌がばらまいた私の個人情報は知ってるね?」

「……ああ」

 

 

 あれは雄英記者会見で話に出した記者のせいで、公然の秘密状態になっている。回復してからあの会見を見たけど、まぁ好き勝手言ってくれていた。啖呵切ったおかげで世論は私を称える方向に向かっているが、そんなものは所詮結果論だ。手のひら返した後のそれを嬉しいと誰が思うか。

 

 とりあえず諸悪の根源である記事を出した出版社と、記者会見で記事の内容を発言しやがったマスコミは()()()()である。未成年で孤児だから泣き寝入りすると思ったか? 残念、むしろ徹底的にケジメつけさせてもらいますけど? と、ちまちまとあの手この手で広げていた人脈をフル活用した。全国レベルで名誉毀損しといて無傷で済むと思うなよ。

 

 私の真骨頂は戦闘よりも、いかに戦闘行為になる前に相手の刃向かう意思を折るか──交渉のテーブルの上、あるいは電子領域での盤外戦にある。HLでは正攻法はほとんど使う余地が無いというか意味がない無法地帯だったが、この世界での報復には正攻法、法的手段が何よりも効く。なにしろ相手の非しかない。

 わずかな情報を元手にあれほど妄想を膨らませてプライバシーを侵害して炎上させた報いは受けてもらう。最終的には示談になるだろうが、それが本当の目的だ。今後動きやすくするために色々便宜を図ってもらうつもりでいる。

 ……という数秒足らずで頭の隅で考えた物騒な思惑は置いておく。

 

 

「私が凝山中学に入学する数ヶ月前に、路地裏で倒れてるところをオールマイトに救けられて、私は私を監禁してたヴィランから身を隠すため、名前を変えたんだ。AFO……あのヴィランのボスは偽名って言ってたけど、『星合千晶』はべつに本名じゃないだけで、雄英の先生からもらった、新しい私のための名前だよ」

「……? まだそん時はオールマイト、雄英の教師じゃなかったよな」

「ああ……救出直後、私、ひどい傷を負ってたから。オールマイトがOBのツテでリカバリーガールに話を通してくれて、定期的に治癒してもらうために通ってたんだ。その時に先生方とも仲良くなって……私が学校に通うことになったときも、先生方に1ヶ月で日本の義務教育分の勉強を叩き込んでもらった」

「! そういうことか、というか……すげえな」

「はは。……じゃあ、改めて。わたしの本名はクリスティアナ・I(イグナシオ)・スターフェイズ」

 

 この名前を口にだすのも久しぶりだ。呼ばれるのも名乗るのも今の名前が舌に馴染むほどに、随分長い時間をこちらで過ごしているのだと想いを馳せながら静かに名乗れば、ぱちぱちと目をしばたたかせる轟。あどけない表情で、ぽつりと私の名前を呟く。

 

 

「クリスティアナ……」

「轟に呼ばれると変な感じだなあ」

 

 改めてしみじみ名前として転がされるとむず痒い。だが私のそんな呟きをどう取ったのか、む、と顔をしかめた轟にちがうちがうと手を振った。

 

 

「轟が星合って呼ぶのに慣れちゃったから、いまさら本名で呼ばれると違和感があるんだよ」

「……そうか。俺も、なんか星合って呼ぶほうが良いと思う」

「ま、引き続き星合千晶で通すから、そっちで呼んでくれたほうが助かるなあ」

 

 そうあっけらかんと漏らせば、急に轟が押し黙った。どうしたのかと視線で問い返せば、そろりと眼が泳ぐ。

 

「……本名で呼ばれたくなる時とか、ねえのか?」

 

 またも虚を突かれる質問に思わず轟をまじまじと見返す。考えもしなかった話になんと言ったものかと考えるあたり、別の名前を名乗ることに対する後ろめたさとか、そういった心理的ハードルの低さを思い知る。そうだなぁ。ぽつんと口を開いた私は、目を伏せて微笑む。

 

「……こっちで知り合った人たちに、そう思ったことはないかな」

 

 クリスティアナと星合千晶はそれぞれ違う「ワタシ」だ。この世界で概ね平和な──少なくとも仲間や友人の裏切りや権謀術数に常に神経質にならなくても済む生活を送る間は、せめて冷血女である己の酷薄さを隠し通したいとは思う。裏社会に生きたクリスティアナではなく、こちらで彼らと接してきた「星合千晶」でありたいと思うのは身勝手だろうか。今まで犯した罪から目を背けることも逃げることもしないけれど、せめて今は、つかの間の夢を。

 

 ……ああ、そうだ。色々なゴタゴタで忘れていた。

 

「轟」

「……?」

「目を覚ませって言ってくれて、ありがとう」

 

 夜闇を切り裂くような、必死さの滲む叫びがありありと思い出される。戻ってこい、帰ってこいと全霊を乗せて紡がれた言霊が、ほんの刹那、AFOの個性の重ねがけに屈服されかけていた意志を奮い立たせ、操り人形の(くびき)から逃れさせるきっかけになった。

 オールマイトの腕を掴むまではかろうじて、隙を突けば自分の意志で動かせた身体を蝕んだ個性によってオールマイトの腕を傷つけ──いや、切り落としかねない過ちを犯す前に、彼が自分の身の安全と引き換えに叫んでくれたことで、最悪の事態は免れた。

 

 

「あの一瞬があったから、私は戻ってこれたよ」

「そう、か」

 

 

 まあるくなった瞳が、ふわりとやわらかく伏せられた。目の前に座る轟から目に見えて、強張っていた肩の力が抜ける。ゆるゆると肩を落とし、かすかに俯いた轟の目元に影が差す。

 

 

 

「……俺は、お前の救けに、なれたんだな」

 

 

 あまりに安堵に満ちた、言葉だった。

 

 

「……お前が攫われたのに気づいた時、……生きた心地がしなかった」

 

 

 すべてが終わった後に気づいて、後悔に飲み込まれても、もはや自分に打てる手などなくて。眼前で拐われた爆豪や常闇のように、救けるために奔走することすら許されなかった。血まみれで細工の割れたバレッタだけが虚しく手元に残るばかりで、行き場のない苛立ちが頭の中を回り続けるだけで、居ても立ってもいられなかった。

 

 そうぽつぽつと語る、かすれた声。その声音がどれだけの苦悩を負わせたのかを如実に語っていて、私は押し黙った。黙って轟の胸の(うち)を聞いていたら、目の前の骨ばった手に手を取られた。かさついた皮膚は分厚くなっていて、ああ炎の訓練も続けているのだなと、立ち止まり続けた彼が、着実に前に進んでいる事実を実感する。

 

「お前に怒られてもいいから、お前が生きてて、無事なら、なんでもよかった。お前が俺を救けてくれたみたいに、今度は俺が、お前を救けたかった。……お前が生きてるって、確かめたかった」

「……ほんと、君たちは馬鹿だよ。一歩間違ったら、君たちのほうが死んでたっていうのに」

「かもな。……それでも、行かねえって選択肢はなかった」

「ばかだなあ、……でも、うん。全員無事で、帰ってこれてよかったよ」

 

 二人して向かい合って俯いて、互いの額がぶつからないギリギリの距離感でぽつぽつと言葉を交わすのはなんだか久しぶりだ。ここのところは轟のわだかまりが解けて、イズクたちも周囲にいて賑やかだったし、それ以前は妙な距離感の時も多かった。だからこうしていると、二人並んで静かに話をする事が多かった中学時代にまで戻ったようだ。

 

 

「……意外だな、ぶん殴られると思ってたんだが」

「……。お望みならやってあげたいところだけど、元凶の私が偉そうに言えることでもないし。それに相澤先生からすでにキツイ一言貰ってるじゃない、じゃあ私が言えるのはGracias(ありがとう)だよ」

 

 

 いやほんと、彼らの姿を戦場で見た時、本気で怒りかけた。でも、彼らが飛び出してきてしまったのは人質になった私や爆豪のためで、私達さえ捕まらなければ、彼らも死地に飛び込もうなんて蛮勇を犯すタイプでもないわけで。そして、怒るのは先生たちや大人の仕事。私は、今回に関しては怒る資格がない。……むしろ、感謝を尽くすべき立場なのだから。

 ちょっとばかりの間を置いてせり上がりかけた懊悩を何食わぬ顔で飲み下すと、轟も目を細めて笑った。お母さんや冬美さんに似た笑い方、目尻の笑いじわがそっくりだ。

 

「すぐには無理だろうが、外出許可貰えたら、バレッタの代わり買いに行かねえか」

「ほとぼりが冷めたら? 良いよ、行こうか」

 

 

 穏やかな日常が失われなかった事に感謝を。それがどれだけ稀有かを、願っても得られないことだってあるのだと知っている私は、静かに、しみじみと噛み締めた。

 

 

「……星合も、無理はすんなよ」

「……ああ、足のこと? うん、置いてかれない程度には頑張るよ」

「そうじゃなくて」

 

 

 付け加えられた端的な言葉の意味を捉えそこねて首をかしげると、轟は自分の左胸、心臓のあたりをトントンと指先で指し示した。こっち、とジェスチャー付きで示されてようやく合点がいった。

 

「お前、言ってたよな。哀しい時は、悲しんで良いんだって。今のお前がそうだろ。

 ヴィランに攫われて、甚振られて、辛い過去にもう一回直面させられて、世間に笑われて、……脚も切断されて。繋げられるっていったって、痛みまでなくなるわけじゃねえし、完全に元通りともいかないだろ。……辛くないわけない」

 

 

 ああ、と私はため息をつく。

 その優しさ、祈りが胸に刺さるようだった。理不尽を飲み込むのに慣れてしまった大人と多感な子どもとの差なのか、それとも育った環境による情動の違いなのか。無意識に仕舞い込んでいたストレスをひとつひとつほどくような声に、私は顔をあげるのが怖くなった。そうだねと相槌を打つ声が、自分でもどうかと思うほど空虚に響く。

 

 

「……俺でも、オールマイトでも、緑谷でも、飯田でも、麗日でもいい。辛いなら吐き出していい、……それぐらい、一緒に受け止める」

「……あんまり甘やかされると、困るなあ」

「甘えていいだろ、お前は」

 

 

 そういうことを臆面もなく言っちゃうところが、私はずるいと思うよ、轟。

 

 

 

 

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