「あれ、何やってるの、マシュ」
マスターは読んでいた本から顔を上げて首を傾げた。
マスターのマイルーム。物欲が薄い部屋主の性格に反して様々な贈り物で飾られた部屋で、ベッドに腰かけたマスターの対面では、備え付けの小さなデスクに栞を挟んだ本を置いたマシュがいる。
自分と同じように本を読んでいた彼女は、気がつけば手鏡を覗き込んでいた。
「リップクリームを塗っているんです、先輩」
視線を手鏡からマスターに変えたマシュは細やかにはにかんだ。
その手には小さく細長い筒状のモノ。先端にはつるんとした光沢のある固形物が伸びており、彼女の言う通りそれはリップクリームなのだろう。
「そっか、リップクリームか」
やけにぷるぷると潤っているように見える唇を凝視してしまいそうになる目線を逃しながら、納得したように呟いたマスターは、そこであれ? と疑問を口にした。
「マシュってリップ塗ってたっけ?」
思い出を辿ってみても、マシュがリップクリームを塗っていた記憶はない。
自分に見えないところでやっていた、というのも、今こうしてマスターの部屋で二人きりの状況で塗っていたのだから、その線もないだろう。
「最近塗り始めたんです」
「へえ、最近なんだ」
「はい、最近です。寒くなるので、唇のケアも大切だとメイヴさんに勧められて」
「そっか、カルデアは四季があるもんね。そっかー、もう冬になるのかあ」
「はい、冬になりますよ、先輩」
カルデアの外は一年中猛吹雪でも、カルデアの中は日本に合わせた四季が訪れる。
どういった技術かはマスターには知る由もない事だが、マスターはそれを気に入っていた。
そこで、ふと。くん、と鼻腔に微かに漂ってきた匂いにマスターはすん、と一度鼻を鳴らした。
「なんか、甘い匂いがする」
「甘い匂いですか?」
「うん。なんか、蜂蜜みたいな……」
「ああ、それはこれだと思いますよ、先輩」
そう言って、マシュは手に持っていたリップクリームを小さく掲げた。
「これ、蜂蜜の匂いがするんです」
「リップクリームって匂いがするんだ」
マスターの知っているリップクリームは無味無臭のモノだ。昔、母親が塗っているのを見た事がある。
それと、リップクリームは唇のカサつきを抑えるモノだったと記憶している。なら、匂いは必要ないんじゃないかと思った。
「無臭のものもありますよ。でも、匂いがついてる良いことがあるんです。唇に塗るものですから、たまに口の中に入ることもあります。そのとき、薬品っぽかったりするのは嫌じゃないですか?」
「確かに」
想像で薬品の独特の苦味が口内に広がって、マスターは後味を忘れようと小さく舌を出した。
何処か小さな子どものようなマスターの反応にくすくすと笑ったマシュは、「あと、もうひとつ良いことがあるんです、先輩」と言って、椅子を引いて立ち上がった。
「マシュ? ──んぅ!?」
無言でベッドへと歩いているマシュにマスターが首を傾げる。
直後、ぐんっと不意打ちのように距離を詰めたマシュとマスターの唇が重なった。
数秒、数十秒、あるいは数分か。ちゅっと小さな水音を立てて二人の影が離れた。
「──んっ。……ふふ、良いこと、分かりましたか? 先輩」
「──え、あ、え?」
「甘かったですよね? 匂いがついてるリップクリームは、キスすると甘いんですよ、先輩」
顔を真っ赤に放心したように譫言を呟くマスターを至近距離で見つめ、マシュは艶やかに微笑んだ。そして、自分の人差し指で唇を指して。
「リップクリームを塗ってから、私の唇をずっと見てましたよね、先輩。どうでしたか? ……ふふ、分からないなら……もう一回、してみますか?」
つぅっと人差し指がゆっくりと唇をなぞり。
ついそれを目で追ったマスターの脳内で、先ほどの感触がフラッシュバックした。
ぷるっとした柔らかい唇が、自分の少しカサついた唇に触れて。
冷たくて、でも熱い濡れた絹のような感触。そこに、マシュの匂いと蜂蜜のような甘い味が口内に広がって。
頭が沸騰するようだった。
初キッスはあまりにも突然で、思春期のマスターの脳はその情報量に早々に思考を放棄した。
なので。
「お、俺! 俺っ、レオニダスさんのとこで体動かしてくる!!!」
マスターが選んだのは逃亡だった。
今すぐにその場から離れないと、自分ではない自分に支配されてしまいそうだった。
何かを誤魔化すように、あるいは発散するように叫びながら廊下に飛び出したマスターの声が小さくなっていくなか、部屋に取り残されたマシュは、ぺろりと一度唇を舐めて。
「か、可愛いです、先輩……! 凄い、メイヴさんの言った通り……!」
すべての元凶はコナハト☆メイヴだったと、そういう落ち。