「おはようございます、先輩」
「おはよう、マシュ」
カルデア、朝。
レオニダス・ブート・キャンプを終えてシャワーで汗を流し、食堂へ向かうマスターとマシュはその経路の回廊でばったりと鉢合わせた。
「食堂に行くの?」
「はい、これから向かうところです。先輩もですか?」
「うん、朝ごはんを食べにね」
「あ、私もなんです。一緒に行きませんか、先輩」
朝の静けさに満ちた回廊を並んで歩く。
カツカツと靴音が染み込むように響き、映画のスクリーンのように大きな窓の外、吹雪色の空がぼんやりと光量を差し入れていた。
二人の間に会話はなく、しかし気まずまもなかった。
好ましさすら感じる心地よい清涼感に包まれ、ただ隣にいる大切な存在との時間を享受している。
そんな穏やかさがあった。
「ところで先輩」
が、一分ほど歩いた頃。
口火を切るようにマシュの唇が動いた。
「どうして、私の顔を見てくれないのですか?」
「うっ」
首を向けず、流し目でマスターを見つめるマシュ。
気付かれなかったと内心胸を撫で下ろしていたマスターは、不意を突かれ反射的に息を呑んだ。
「先ほどから不自然なほどに私の目を見て話してくれませんね。どうしてですか?」
「そ、そんな事は」
「ありますよ。……ほら、今も目を逸らしました」
スキップを踏むように一歩。マスターより一歩分前に進んだマシュは、横からマスターの顔を覗き込むように身体を倒した。
さらりと零れ落ちる薄紫の髪。紫紺の瞳に見つめられ、マスターがぷいっと顔を逸らす。
「何か、気になるものでもあるんですか? 例えば……」
そこで言葉を区切ったマシュは、ゆっくりと上体を起こし。
顔を背けているマスターの耳元に顔を寄せて。
「くちびる、とか」
「ひょぁ」
ゆっくりと、耳朶がふやけるような熱い吐息を溢した。
触れた吐息のこそばゆさと、ゾクゾクと背中を走るナニカ。意思とは関係なく漏れた声にしまったとマスターが口に手を当てるも、時すでに遅し。
顔を手で覆いながら振り向けば、薄い唇を三日月に歪めたマシュがマスターを見つめていた。
──甘い、甘い、蜂蜜のキスから二日。
考えないように、考えないようにと一心不乱に身体を動かしても、あの感触が、あの匂いが、頭に焼き付いて離れない。
悶々とした想いを抱えて過ごすマスター、思春期。
恥ずかしさや男の子的な感情、あと、もしかしたらまた……とちょっぴりの期待と、やっぱり恥ずかしさ。マスターはマシュの顔を見れなくなっていた。
当然、そんな事、自分を慕ってくれているはずの後輩に言えるはずがない。
「ほ、本当になんでもないから!」
ばっと身を翻しマシュから離れる。
マシュは一瞬その表情に寂しさを覗かせ──離れたマスターを引き寄せるように、その腕を掴んだ。
「うぁっ!?」
くんっと力強く腕を引かれ、動揺で揺れていたマスターの体感は容易く崩れて倒れる。
人体が硬い物にぶつかる鈍い衝突音。
床に手をついて頭が床とぶつかる事を阻止したマスターが、反射で閉じてしまった目を開けば。
「いつつっ……っ!?」
「やっと見てくれましたね、先輩」
転倒しかけたマスターを庇うように下になっていたマシュの顔が、息の触れ合うような距離にあった。
マシュの顔の直ぐそばに手をついたマスターが覆い被さっているような体勢。見る人が見れば、それは恋人がキスする直前のようにも見えただろう。
眼鏡の奥の濡れた大きな瞳も、形の良いスッとした鼻梁も、そして、やわらかくて熱い唇も、全部見える。
瞬間的にマスターの脳が、唇があの時の感触を鮮明に思い出した。
かぁっと一気に顔に集まる血液。身体中の血が昇ってるんじゃないかと錯覚しそうなほどに、頭と顔が熱い。
「ごっ、ごめんマシュっ!」
このままじゃ不味い。咄嗟にマシュから離れようとしたマスターだったが、それは叶わなかった。
首に回された手。
マシュの両手がマスターの頸の辺りで重なり、離れようとするマスターを引き止めている。
どうして、と言葉にする前に、マスターはそれに気がついた。
「こ、この匂い……」
「気付きましたか? ふふ、はい、その通りです先輩。……今朝も、リップクリーム、塗ってきてるんですよ」
至近距離。マシュの唇から微かに香るあの匂い。
ガツンと、頭を殴られたような衝撃。
お酒に酔ったみたいにクラクラした。
そんなマスターの内心を知ってか知らずか、マシュは妖艶さすら感じさせる微笑みを浮かべ。
「今度は、先輩から……キス、してみますか?」
少し頭を落とせば唇が触れ合う距離。
マスターの首が僅かに傾いた。
マシュが目を閉じる。唇がそれを待つように形よく窄まった。
一秒後。
「うわああああああああああ!!!! 俺の馬鹿やろ────!!!!」
受け取ったのは唇の感触ではなく雄叫びだった。
腰を引く事でずぼっとマシュの腕の輪から頭を引っこ抜いたマスターが全力ダッシュで走っていく。
ヘラクレスから逃げ切ったときに匹敵するほどの素晴らしい走りっぷりだった。
一瞬、何が起こったか分からず目を開けたマシュは二度、三度と瞼をぱちぱちとして。
「……先輩のばか」
どこか拗ねたように、そう呟いた。