「マシュの顔を見れないんだ」
マスターは極めて真面目にそう言った。
何言ってんだコイツ。エミヤは喉元まで出かかった言葉をぐっと飲み込んで、淹れてきた紅茶をマスターへ手渡した。
「ありがとうエミヤ。……どうすれば良いのかな、俺」
「先ほどの無言は会話を続けたくないという意思表示のつもりだったのだが」
「真剣に悩んでるんだ……」
「あくまで続けるつもりか……」
諦めたエミヤは聞き役の構えに。
元来の人の良さが滲み出ていた。
「三日前にさ、その、マシュとさ、ちょっとあってね。それからマシュの顔を見れなくて、でも寝ても覚めても考えるのはマシュの事ばかりで、マシュのことを考えると胸が苦しくなって、マシュに触れてマシュを感じたくなって。それに……その、イケナイ気持ちにも、なって。俺、おかしくなったのかな、エミヤ」
「何もおかしくないさ。その気持ちを恋というのさ、マスター」
「いやいや、マシュは後輩だよ? 大切な後輩にそんな気持ち抱いちゃいけないじゃないか」
エミヤに会心の一撃!
誰に責められたというわけでもないが、言い訳を試みる。
「……何も後輩だからと自分の気持ちに蓋をすることもあるまい。恋とは、時に立場さえ凌駕していくものだ」
「別に、俺も世の先輩後輩カップルを否定してるわけじゃないんだ。でも、マシュは別。ずっと外の世界を知らずに生きてきたマシュにとって、世界の全てが未知でしょ? 知識としては知っていても、体験したことはないんだから。新しい事に触れるのが楽しいって、マシュは本当に幸せそうに言ったんだよ……。だから、仮に恋だとしたら、俺のこの気持ちでマシュの邪魔をしたくない」
俯いたマスターは紅茶に映る自分の顔を消すように、湯気を立てるティーカップを持ち上げた。
揺れる瞳がエミヤを見つめている。エミヤは一度目を閉じて、言った。
「つまりマシュを性的な目で見てしまって辛いと」
「包んだオブラートを全部剥がすのはやめて欲しかった」
結局のところ、マスターの悩みはそこに尽きる。
マスターにとってマシュは純粋で、無垢で、大切な後輩だ。そんなマシュに自分の性欲を向けてしまう事に罪悪感を感じていた。
「難儀な性格だな君は」
「何がさ」
「フッ、なんでもないさ」
とはいえ、マスターはマシュの好意に気がついていないわけではない。
気がついた上で、自分がマシュにそういう感情を向ける事を理性で拒絶している。
カルデアの外の世界には自分より素晴らしい男性が沢山いて、自分より大切に想う人が出来るかもしれないと考えているから。
マシュの未来の足枷になりたくない。そんなマスターの心の奥底の思いを、エミヤは見抜いていた。
「しかし、根本的な解決策は無いに等しいと私は思うがな。マスターがそれをダメだと律するなら自制しかない」
「それはそうなんだけど……その、今までと違ってもう無理というか、限界が来てしまったというか……」
「……何があった?」
「……それはその、内緒の方向でお願いします」
頬を染め恥ずかしそうに視線を逸らしたマスター。
(キスでもしたか?)
その様子からエミヤは大体の事情を察した。
彼は目敏い。流石はアーチャー(女の子の心を射抜くという意味で)と言ったところか。
エミヤは自制しかないと言ったが、それは揺るぎない真実だ。
マスターの悩みは『キスの事をどうしても意識してしまってマシュの顔を見れない』事から起因する自身の感情の奔流。
問題がマスターの心理的要因なのだから、それを解決できるのもまたマスターの心に他ならない。
それはマスターも分かっている。分かっているが、マシュを見ると馬鹿みたいに胸が高鳴って、マシュのことを考えると心がきゅうっと締まって苦しくなる。
ずっと頭の中を占領しているマシュの顔が、マシュの匂いが、マシュの感触がどうしようも無くマスターにマシュを意識させる。
急にどうしたのだろうかという驚きはあった。
それ以上に、マシュに対する恋慕の感情が大きくなった。
他の何よりも、マシュの幸せを願う心があった。
マスターは今、マシュの事しか考えられないような精神状態になっていた。
現実はメイヴ教官に恋のレッスン過激版(年齢制限的な意味で)を受けたマシュのブレーキがぶっ壊れているだけなのだが、勿論マスターはそんなこと知らない。
キスをしてからマシュを避け続けている事が、マシュの心をチクリと刺していることも知らない。
ラブリー♡メイヴが更なる一手を面白半分応援半分でマシュに授けている事も当然知らなかった。
それはともかく。
「もう自分じゃどうすればいいのか分かんなくなって……」
「……まあ、マスターも多感な年齢だからな。その気持ち自体は悪いと一概に断ぜられるものでもない。自制が難しいのなら上手くその気持ちと折り合いをつけながら付き合っていくしかないだろう」
「そうだね……参考までにエミヤはこういうときどうしてたの……?」
「……」
ハッスルしましたとは言えなかった。
「ふむ、すまないが話は聞かせてもらった!」
「うわっ、ジークフリート!?」
「む」
自制の決心を固めたマスターの背後から響く低く良い声。
北欧の竜殺しジークフリートが眼鏡をクイッしながら立っていた。
「悩んでいるようだなマスター。眼鏡を掛けた俺のみなぎる知性が微力ながら助けになるかと声をかけさせてもらった」
「え? あ、ああ、うん、ありがとう」
「マスター。エミヤの言う通りマスターの悩みを解決するには自制しかない。だが、冷静に考えて答えて欲しい。マスターは自制出来そうか? マシュといつも通り接することが出来るのか?」
「それは……」
眼鏡クイッ。マスターの隣に座ったジークフリートの瞳がキラーンと光る。
マスターは自分の心に問いかけた。
──マシュに普段通りの態度で声をかけられそう?
──無理に決まってんだろキスしちゃった大好きな女の子だぞ。
即答だった。
「出来ないかもしれない……っ!」
「何も直ぐにいつも通りとは言わない。時間をかければマスターなら出来ると思うが」
「それは俺も同意見だ。しかし、マスター。俺に名案がある」
「名案……?」
「ああ。マスターの悩みを解決するには自制しかない。だから、自制しやすいマスターの精神状態をつくるんだ」
眼鏡クイッ。
溢れ出る知性の象徴、伊達眼鏡を掛けたジークフリートの頭脳が名案を弾き出す。
「マスターの悩みは感情の大きさも理由の一つだ。その感情をある程度外に出してしまえば多少は違うだろう。つまり……詩を詠めばいいっ!」
迷案だった。
「なるほど……! そうか、俺に足りなかったものは詩……! この気持ちを表現する手段だったんだっ!」
「馬鹿か?」
馬鹿だった。
そして一時間後。
一旦自室に戻ったマスターが食堂に戻る。
その手には一冊のノートがあった。
「会心の出来だよ……。俺のマシュへの想いを込められた」
「……」
エミヤはあちゃー、とでも言いたげな顔。アーチャーだけに。
現代日本を生きたエミヤには中二病の概念も黒歴史の概念もある。彼はこれがマスターの黒歴史になる事を確信していた。
一応止めたが止まらなかったのでもう好きにしろと投げやりになっているが、それでもこの場から去らないあたりに根っこの人の良さが見て取れる。
「マスター」
「うん。できれば、二人には聞いて欲しい。俺の心を……」
眼鏡クイッ。落ち着いた声音でマスターを読んだジークフリートに、マスターは片手を上げて応える。
場に満ちるのは静寂。唾を飲む音でさえ遠くまで響きそうな静けさが肌を舐める。
エミヤはだいぶキツいのが来そうだなと身構えた。
ぱらりとノートのページをめくる。胸の高さに持ち上げ、こほんと一度咳払いをしたマスターは、よく通る声で詩を詠みあげた。
「マシュ。君は俺の太陽だ」
「待てっ! ちょっと待てマスター!?」
「マスター! それは大火傷するやつだっ!」
「え? どうしたのさ二人とも。まだあと五十行はあるよ?」
「その先は地獄だぞ!!?」
「ハーイ! まぁすたぁー! 呼んだネー! マスターの太陽デース!」
「すまない! 本当にすまないが呼んでないんだ!」
せいぜいポエミーなぐらいだろうと想定していたエミヤの予想を軽く超えるやつがのっけから来た。
慌ててエミヤとジークフリートが止めに入り、生えてきたアステカの女神にお帰りいただく。
「ジークフリート。これはどうするつもりだ……!」
「眼鏡をかけた俺の知性でもマスターが『そっちより』の感性なのは見抜けなかった……!」
実を言えば、詩をしたためて感情を整理するという行為自体は悪くない。
いつの時代も、人間はそうやって自分の想いに折り合いをつけて生きてきた。
問題は、その手段の一つである詩を書く人間の感性が周囲を羞恥に悶えさせるものであるという事で。
「他のやつはないのかね?」
「マスター、俺も他のやつが聞きたい」
「え、そう? じゃあ……」
ぱらぱらとページをめくるマスター。その手が止まらない。
一体どれだけ書いたんだ……? と戦慄しつつも、二人はほっと息をつく。
あのクラスの爆弾はそうそう来ないだろうという予測だ。
が。
「君は風
とても速くて、僕を抜いて走っていく
とぅいんくる
とぅいんくる
ああ、この胸の高鳴りはなんだろう
とぅいんくる
とぅいんくる
君の背中を見るだけで僕の心は疼いてしまう」
「ストップ! ストップだマスター!?」
「すまない! 詩を進めた俺が間違いだった!! 本当にすまない!」
「主様のもとへ風のように駆けつける! 牛若丸、ただいま参りました!」
「すまないバルムンク投げ!」
「な、なにをー!?」
途中まで我慢した。我慢したがやっぱり無理だった。
床下からにょきっと生えたぽんぽこを弁慶に投げ渡し、ジークフリートは眼鏡をクイッする。
「眼鏡によって引き出された知性が囁いている。これ以上マスターに詩を詠ませると一生消えない傷が残ると……!」
大正解。
「さっきからどうしたの? あ、もしかして一番よくマシュへの気持ちを表現できたなってやつを取っておいたの分かった?」
大間違い。
バレちゃったかー、と照れ笑いするマスターの手からノートを取り上げ、さっと目を通したエミヤは真顔でノートを閉じた。
「これは私が預かる。異論は認めない」
マスターは文句を言ったが、あとあと色々と成長したマスターは死にたくなってベッドで身悶えたあと、エミヤとジークフリートに感謝したとかなんとか。
結局何も解決していない。何も解決していないまま、愛の伝道師(肉体的な意味で)メイヴちゃんに送り出されたマシュのターンが始まったりするかもしれない。