彼方の稜線が灼けている。代わりの灯りをそろそろ探してやらねばならない夕暮れ時。
丘の上には深紅の竜がうずくまっている。尻尾を丸めて、ひとまず落ち着いた風ではある。そこから竜の巨体一頭分も離れたところに銃器に挟まれた格好のビークルが着陸しており、後部のトレーラーからギルガメスが布袋を肩にかけて現れた。
優しき主人の姿が視界に飛び込んだだけで、深紅の竜は上半身を持ち上げ、ピンと首をもたげた。尻尾は先端をひょいと立てて小刻みに振ってみせる。
「ブレイカー、油っ!」
待ってましたとばかりに竜は甲高く鳴いた。早速ゴロリと横になる。
少年は竜の首元まで寄って喉仏を覆う装甲を軽く撫でてやると、装甲と首本体との間に隙間が空いた。そこに少年が手を突っ込み、引き戻してみるとその手には何やら彼の腕程の長さはあるカートリッジが握られている。それを布袋に突っ込み、また別のカートリッジを突っ込んでやる。この中には油が充填されている。
少年が手を戻し、装甲が蓋をした途端、竜は情けないぐらい気持ち良さげに鳴いた。竜にとって油は人の水分や血液のようなもの。補充されればご機嫌である。
この調子で竜の各部位に埋め込まれたカートリッジを取り替えてやる。竜はその度おかしな鳴き声を上げ、各部位を揺さぶる。少年も手慣れたもので、モノの数分も立たぬうちに竜の全身を練り歩き、カートリッジを交換してしまった。
今や雄々しき深紅の竜は、夢の中で散歩して四肢をばたつかせる犬のようにくつろいでいた。
少年は相棒が「いつものように」くつろいでくれたことに満足したかに見えた。ところがふと、その頬を竜の爪で軽く撫でられた。……深紅の竜は心配げにか細く鳴いた。どうやら気がつけば、憂いの表情を浮かべていたのかも知れない。
「ごめん、大丈夫だよ」
差し伸べられた長い爪を握り返しつつ、そう応えてやる。……心にもない事を言った。昨晩からついさっきまで、理不尽なことだらけだ。大丈夫な訳がない。だがそれでも、自分が強くなければと思う。
そんなとき、ビークルの方から凛とした声が聞こえた。
「ギル、支度できたから早く浴びてね」
彼女はいつだって、こうだ。気の毒なくらいに。
少年は相棒の爪をもう一度握ってやると微笑んでその場を立ち去った。その後ろ姿を眺めつつ、竜の方も今一度横になる。竜は確信していた、自分がすべき最善手は休むこと。こういう時、人でないことは圧倒的なアドバンテージだ。
女教師エステルはギルガメスと共同生活を始めるに当たって様々なルールを提示していた。……ゾイドウォリアーとして強くなるための訓練の数々は言うまでもない。だが少年をしばしば困らせるのが、家事の全てを彼女が引き受けるということだった。それだけではない、日常におけるかなりの部分で優先順位は常に少年にあると、彼女は定めた。
「お金を稼ぐ人がいつだって一番最初よ。ゾイドに乗るなら尚更ね」
例えばシャワーだって絶対に少年が浴びるのが先だ。彼女の尽くし方は徹底している。
今日もいつも通り、彼女は愛弟子が相棒の世話をしている間に料理の支度を済ませていた。
「つまんでて、良いからね?」
そう伝えてから彼女はシャワー室の扉を締める。
少年は一応頷くものの、余程のことがない限り彼女が同席するまで夕食を摘むことはない。……特に今日のような日は酷い不義理な行為を働いているのではないかと思えて仕方がないのだ。彼は胡座をかいてボンヤリしていた。
扉の向こうからシャワーの音が聞こえる。しかしそれだけだ。湯が跳ねる音は聞こえない。
そこに気付いてしまった少年は、唇を噛んだ。……きっと彼女は湯を浴びながらも微動だにせずどこか一点をじっと見つめているに違いない。昼間の強敵に対する彼女の反応を見る限り、何か因縁があるのは明らかだ。しかし彼女はそういう心情を、無闇やたらに吐き出すようなことはしない。
(話し、ちゃんと聞こう)
過去に何があったのか。何が辛いのか。
少年はほぼ痛みの引いた右腕をじっと見つめる。
極論だが、身体に受けた痛みは癒える。心の傷は、そうはいかない。誰かが受け止めなければいけない。……ある意味、凶悪なゾイドと戦う以上の決意を彼は心に秘めた。
(取り敢えず夕食はさり気なく。その後、かな)
そんな時、少年の左手首に巻かれた腕時計型の端末がアラームを鳴らした。……音ですぐにわかる。やんちゃな相棒が鳴らしてきたのだ。しかしながら少年は、端末に表示された内容を見て刮目した。
映像が表示されている。相棒が視認した光景が転送されているのだ。
人が立っている。見たこともない人だ。昔、故郷でよく見た軍警察の制服を着ている。
ほんの少しだけ遡る。
その足音は、深紅の竜が若き主人に油を注してもらっている時点で既に察知していた。……まさか、こんなところに来訪者などとは竜も想定していない。竜はくつろぎながらも慎重に、足音を伺う。
若き主人がシャワーを浴びに引っ込んだ辺りで、足音が蛇行しないことを察知した竜はちらりと首を傾け、丘の上から土煙の様子を見つめた。
あれはバトルローバーだ。ヘリック共和国軍が今昔変わらず多用する青い二足竜。自分の何分の一ほどの大きさもないが、乗り手の腕前によっては鬱陶しいことこの上ない。……いや、待てよ。深紅の竜は即座に記録されたデータを照合する。このバトルローバーを、自分は昼間に見かけているではないか。
さてこんな推察など知る由もなく、青い竜はふと歩行を止め、その場にうつ伏せた。
向こうから石ころを踏みしめるブーツの足音が近付いてくる。淀みない波長に深紅の竜は確信した。かなりの手練だ。深紅の竜は巨体を起こし、首をもたげた。
見渡す限りの荒野を、あえて相棒のゾイドから降りて唯一人近付くそれは、紺色の軍警察の制服・制帽を着た精悍な若者。……いつの間にか、若者と竜の視線が折り重なる。すると若者は、遥か彼方でうやうやしく一礼した。大声を張り上げるわけでもなく、目前に人がいるのと同じような声の大きさで、彼は話した。
「軍警察です。ギルガメス君にお会いしたいのですが、取り次いで頂けませんか?」
深紅の竜は内心、かなり驚いていた。昼間、結構な事件が起きていたのだからこの手の人間が来訪するのは決して不思議ではない。只、彼はこちらに近付くまでに敢えてゾイドから降り、単独でやってきた。遠目で衣服を観察しても丸腰であるのは明らかだ。
問題は、丁重だから、丸腰だからといって凶暴でないなどとは決して言い切れないことだ。徒手空拳でも人が人を殺すことは十分に可能だ。深紅の竜は判断に苦しみ、すぐに主人の端末に知らせたのだ。
「ちょっと行ってきます」
それだけ告げて、少年は外に出た。
駆け足で、相棒の真後ろから近付いてくる。既に先程のだらしないくらいのくつろぎ姿勢から打って変わっていた深紅の竜はすぐに気付き、ささやくように鳴いて応えた。
「ブレイカー、どこにいるの、その人?」
主人の声に応じ、顎をしゃくる。
丘の麓からざっと50メートル以上離れた位置(深紅の竜二匹分以上)に、軍警察の若者は立っていた。流石に遠すぎて目線を合わせることなど不可能だが、彼は少年の姿を発見すると端末を通じて安堵の笑顔を浮かべていた。
「ギルガメス君ですね? 声が届いているようなら頷いて下さい」
端末を通じて声が聞こえてきた。金属生命体ゾイドの五感は恐ろしく鋭敏で、これほど遠くの声など苦もなく聞き取ってしまう。少年は若者の意図が飲み込めぬまま、訳もわからず頷いた。
軍警察の若者は意思疎通ができていると確信し、浮かべた笑顔は子供のように無邪気だ。
「ああ良かった。当方の都合で、こんな会話のやり取りになることをお許し下さい。
ではキャムフォード宮殿から貴方に伝言です。
あのゾイドには、どんなゾイドでも最強の兵器に仕立て上げてしまう『モノ』が積まれています。
……それだけ、です。そう伝えれば『おわかり頂ける』と上司に言われています」
正味一分にも満たぬ、奇妙なやり取りだった。お互いの姿はちゃんと見えているのに、ゾイドの集音能力を前提とした通信で会話した……いや、多分少年から若者への声は届いていないはずだから(※そう判断したから若者は少年に頷くよう求めた)、会話というのも疑問だ。
だが少年は、若者の言葉を聞いて胸の内に炎が燃え上がるような感触を得た。……彼が告げた「モノ」には確固たる心当たりがある。そして彼を使者として寄越したのが他ならぬキャムフォード宮殿(※現時点でのヘリック共和国大統領官邸)だということも。一連の言葉は、彼をはっきりと揺さぶったのだ。
若者は一礼してきびすを返そうとした。……ところがふと手を叩いて向き直す。
「そうだ、ギルガメス君。今更ですがグラベル卿には要注意です。
彼の真実を知った時はできる限り、達観していた方が良いですよ」
そう告げて、今度こそきびすを返し自分の相棒である青い二足竜のもとへ歩き、鞍に乗り、そして立ち去っていった。……その間、一度も振り向くことはなかった。土が削れる音が数秒したところで、端末の映像は途絶えた。深紅の竜の耳には今も青い二足竜バトルローバーが遠ざかる音が聞こえているが、当座の心配はいらないと竜自身が判断した。
奇妙な時間が経過し、ギルガメスは大きな溜め息をついた。即、命のやり取りには結びつかないはずの距離なのに、わずかに交わした言葉がやけに重たく、緊張感が上回った。
取り敢えず、食事だ。それに……と彼もきびすを返したところで、表情は見る間に強張っていく。傍らの深紅の竜もちらりと振り向いたところで硬直してしまった。
女教師エステルが、トレーラーの入り口で寄っかかりながら待っている。湯上がりで、黒のタンクトップにジャージのズボンという何とも砕けた格好。彼女は無言で左手を掲げ、右手で指差す。……少年のものとお揃いの腕時計型端末。簡単な話しだ、二人のやり取りを彼女もシャワーに浴びながら聞いていたのだ。
「取り敢えず、食べてからにしない?」
イブに祈りを捧げて。バゲットを焼いて、肉やら野菜やらを挟み頬張り、スープをすすって。最後はコーヒーを淹れて。メニュー自体はいつも通りの(少年は美味しいと確信している)夕食が終わった。味の行き先がどこへ行ったかは別の話しだが。
いつの間にかテーブルに山と積まれた食器は流しに片付けられ、エステルは食器を洗っている。その間もギルガメスは胡座をかいたまま無言で、コーヒーの湯気を見つめていた。
「『胎児』が、積まれているんでしょうね。きっと私達のように刻印の力を使いこなせる……。
昨日のライガータイプ(※獅子のような風貌をしたゾイドの俗称)も、多分、同じでしょうね」
沈黙は、一通りの作業を終えた女教師が破った。少年はカッと円らな瞳を見開いたが、その一方で安堵もしていた。予想通りの答えで、でも言い辛いものがあった。
所謂古代ゾイド人の額などに浮かぶ「刻印」は、それを通じて凶暴なゾイドを完全にコントロールできる。かつて何度も繰り返された大陸間戦争における、戦闘ゾイド開発競争。その果てにしばしば起きた制御不能なゾイドによる自滅を防ぎ、その悪魔的能力を真に開花させるためには刻印の力が必要だった。
少年の額にも、それは隠されている。これを自由に操れるからこそ魔装竜ジェノブレイカーと呼ばれる最強最悪の深紅の竜を、友達として乗りこなせているのだ(その経緯は「魔装竜外伝」をご覧頂くとして……)。
要は、コントロールできるのなら誰が乗ろうが問題ない。誰であっても……。だから、例えば刻印が発動できるなら脳みそ程度でもよいのだ。あの紅蓮の竜にはそういうえげつない代物が積まれている可能性が高いと、エステルは推測する。
「テロリストに渡った奴が、どこかに残っていたんでしょうか」
「わからないけどね。
でもライガーならともかく『デスレックス』がそんなものでコントロールし切れるか、どうか……」
あの、死闘の際に紅蓮の竜に呼びかけた名前をまたエステルは口にした。
少年の只ならぬ雰囲気を察した彼女は、一言「ごめん」と告げると俯き加減で恐ろしく長く感じられる数秒の沈黙を破った。
「デスレックスも古代の諸帝国で崇められた『聖獣』よ。
いつの時代も『死』は辛い出来事だったわ。だから規格外の大きなゾイドは、地の果てに魂を運ぶ『聖獣』として崇め奉られたものよ。その名前には遠い星の民の言葉で『死』を意味する『デス』が冠せられた……デスザウラーとか、デススティンガーとか、ね。デスレックスもそういう『聖獣』の一種だった。
でも『聖獣』のはずなのに、『あの子』を乗りこなせる者は誰ひとり、現れなかった。乗れば誰もが例外なくひどく消耗したり、時には気が狂ったり、ね……」
彼女の眼差しは、いつしかマグカップに注がれたコーヒーに注がれている。映り込む表情に生気はなく、湯気が、水面が、小刻みに揺れている。
その姿を見て少年は絶望的な可能性を想像せざるを得ない。彼女もまた搭乗を試みたかも知れない。だがその顛末を聞く気には到底、なれなかったのだ。今の自分や、深紅の竜ブレイカーにどう接しているのかわかっているから。
「『あの子』はね……自分が望んでもいないのに、いつの間にか『呪いのゾイド』なんて、呼ばれるようになっていたわ。
それが辛くて、『あの子』は毎日、哭いていたわ。
パイロットを探し求める余り、『あの子』は暴走してしまった。
だから私と、ブレイカーが見つけ出して……殺した。ゾイドコアを完全に叩き斬った。でも……」
マグカップが揺れている。細く美しい手の甲に、数滴の涙。
「生きていれば、嬉しいはずなのにね……」
ふと手の甲に、ザラリとした感触が上乗せされた。ゾイド胼胝(だこ)でゴツゴツした両手が被さっている。
ハッとしたエステルは細面の顔を持ち上げる。
ギルガメスが上半身を乗り出し、カッと円らな瞳を見開いていた。視線が重なると気後れでもしたのか目を逸らしかけたが、すぐに意を決して見つめ直す。
「何とか、します。
僕はあなたにもブレイカーにも出会えて、本当に、嬉しかったんです」
エステルはコクリと頷くと、目と鼻の先にあるギルガメスの額に、己が額を重ね合わせる。瞼を閉じて、涙が流れ切るのをじっと待った。
トレーラーの外では、深紅の竜がしばし首をもたげていた。深刻な雰囲気とともに自分の名前が聞こえた時、少しハラハラしたが、それは取り越し苦労だったようだ。平和な成り行きにホッと一安心した竜は、今晩は疲れを癒やすべく腹這いでうずくまった。きっと、明日は忙しくなる……そういう確信があった。
もっとも、その確信こそ当たっていたものの、急変は想像以上に早く起きたのである。