死の王と蠅の王   作:マイクロブタ

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49話 御一行様、悪夢へ御招待

 

 クアイエッセ・ハイゼア・クインティアは神都でも最高級とされる宿屋から従業員の待避を指揮していた。

 この後、隊長が完全武装のカイレ様を伴い宿屋の前に到達したら、本作戦が決行される。その前まで従業員及び近隣住民の待避を完遂させねばならない。

 幸にして客は一組5人しかしない。

 傭兵崩れという王国人が2人。

 免罪された背教者。

 魔導国副王。

 そして妹だ。

 

 久々の邂逅では言葉を交わす時間も無かった。

 巫女姫と衛兵を皆殺しにした妹。

 神器を持ち去った妹。

 非道を尽くす結社に参加した妹。

 歪んでしまった妹。

 つい一月前までは拘束後殺さねばならなかった妹。

 その妹が免罪され、潜在的な敵の配下となって神都に帰還していた。

 

 クアイエッセは宿屋の白亜の外壁を見上げた。

 雲の向こうから月明かりが差す薄闇の中、照明が灯る窓は2階の2つのみ。

 そのどちらかに妹がいる。

 

 僅かに溜息が漏れた。

 

 クアイエッセの指揮の下、待避は順調に進行していた。

 第二席次と第四席次と第七席次はクアイエッセの後方に控えている。

 第六席次と第八から第十二席次までは所定位置で本作戦開始の合図を待っている。

 姿の見えない第三席次はどこかにいるだろう。

 侍女に料理人に清掃夫の待避は完了し、後は事務方と主人を待つのみ。

 数名の事務方と主人が大量の帳簿を抱え、息を殺しながら何度も事務所と屋外を行き来していた。

 所定の時刻までは残り10分を切っている。

 

 複雑だな……生きて、また会えると思いきや、いきなり殺し合いか……

 

 元々諦めていたとはいえ、望外に罪が赦免された直後に戦闘命令に等しい命令が下された。あの妹が抵抗しないわけがない。生まれてこの方兄妹をやっているのだ。理解できないほどに歪んでしまった妹ではあるが、さすがにその程度であれば確信がある。

 抵抗するのならば、排除せねばならない。

 他の者に殺らせるわけにはいかない。

 絶対に譲れない。

 他のメンバーを恨んでしまう。

 だから妹だけはこの手で始末する。

 

 クアイエッセは指輪だらけの拳を握り締め、大きく息を吐いた。

 クレマンティーヌから狂気を排除し、代わりに優しさを加えて、さらに整えたような顔が苦悩に歪んでいた。

 

 振り返れば宿屋の周辺から近隣住民を退避させていた軍の兵士達の姿が綺麗さっぱり消えていた。

 音が無くなり、空気が澄んで行く。

 そのタイミングで撤収完了の報告があった。

 宿屋の事務方と主人を連れて兵士達が去って行く。

 

 ……静かだ。

 

 ちょうど神都上空から雲が晴れ、月が顔を覗かせた。

 薄闇に包まれていた風景が鮮明な月明かりに照らされる。

 

 時間通り、隊長はカイレを連れて来るだろう。

 

 破局まで残り僅か……再度クアイエッセは深く息を吐いた。

 

 

 

 

 

 

 

 なるほど、そう来たか……「窮鼠、猫を噛む」ってところか?

 

 こちらの想像以上に法国を追い込んでしまったようだ。

 まさかの上層部そのものが暴走するに至ったわけだが、いまさら俺を殺しに来たわけではないだろう。連中には『傾城傾国』がある。悪手と理解していても、それ以外に選択の余地が無かったか、あるいは押し出される形で結論がそれに至ったか?……いずれにしても危険な賭けだ。俺を精神支配して、アインズさんの目を誤魔化しつつ、政治的に法国有利に立ち回るなど神業以外の何ものでもない。その破綻するのが目に見えている博打を打たねばならないほど、法国の人間至上主義が根深い証左でもある。

 つまり法国の理性を見誤っていたのは俺だ。

 強固な信念を持っていても、1500万国民の為に落とし所を探りつつ、妥協すると踏んでいたのは間違いだった。

 連中は選べなかった。

 戦うことも、膝を屈することもできなかった。

 いや、膝を屈しようとしたが、条件が飲めなかったのかもしれない。

 いずれにしても敵対行動を仕掛けてきたのは事実。

 こちらも対策すべきだろう。

 

 周囲に浮かぶ魔法陣の中心から肉腫蠅が次々と姿を現出させる。

 その数は100をはるかに超え、300に達しようとしていた。

 当然MPがカツカツになる。

 補充する術のないユグドラシル由来の高位MP回復ポーションを2本飲み干し、さらにもう1本飲み干して、ようやく満足した。

 過剰戦力かもしれないが、念には念を入れるべきだ。

 法国の作戦は失敗させる。

 そして誰も殺さず、完全に手足を奪う。

 今以上の絶望と敗北を感じさせなければならない。

 敵対を選択した以上、無理にでもこちらの思惑に従わせてやる。

 

 であれば、先手必勝。

 

 異変を感じたジットが王国の2人を隣室に閉じ込めた。

 もちろん召喚アンデッドの護衛付きだ。

 俺の知る『漆黒聖典』程度ならば、強襲されても数分は耐え切るだろう。

 ティーヌはこちらを見ている。

 既に臨戦体勢……ゴーサインでいつでも襲撃可能だ。

 指揮官は兄……その時点で殺る気が漲っていた。

 しかし現時点で前面に出てもらうわけにはいかない。

 奴等の切り札である『傾城傾国』の所在が判明していないのだ。

 手持ちのワールドアイテムは『天網恢々』一つだけ。

 リスクを考慮すれば、さすがに俺以外には渡せない。

 だからこそ眷属を大量召喚するという結論に至ったわけだが……

 

「……兄を配下に加えるんですね?」

「あー、まー、そうなるな。申し訳ないけど『傾城傾国』が出てくるのは確実な上に、その所在が確認できない以上、俺の方針に従ってもらうよ」

「……指示には絶対に従います。でも……」

「でも?」

「可能であれば、一度は私に殺させてもらえませんか?……多分それでスッキリすると思うんです」

「まだ殺すに至るかどうかも判らないけど、その機会があれば必ずティーヌさんにお願いするよ。それで満足かな?」

「はい、ありがとうございます」

「んじゃ、ゴーサインが出るまで待機……ティーヌさんには第一席次を牽制してもらう。他の10名の『漆黒聖典』の所在が確認できて、2人だけはこの場にいない。特徴は長髪、イケメン、槍なんだよな?……周辺にいない2人の内、それに該当するヤツが第一席次……『傾城傾国』と第一席次の所在を確認したら、眷属を通して指示を送る、以上」

「はい!」

 

 アベリオン丘陵を抜ける合間にコツコツと80レベルの腐蝕蠅を犠牲にしたレベリングを施してきただけあって、ティーヌはいまや確実に80レベルを超えていた……が『神人』である第一席次にどこまで通用するかは全くの不明。眷属軍団によるサポートは当然として、他にもフォローが必要な気がする。

 同じ『神人』で第一席次よりも強い番外席次を100レベル超と想定した場合、100レベル相当の純戦士職の可能性も捨てきれない。最悪のケースではどちらもレイドボスクラスであることも想定できるが、同時に相手にせねばならない状況に追い込まれ、2人とも120レベル超のレイドボス相当の相手となれば撤退するしかないだろう。少なくとも番外席次は法国外までは追ってくることはない……と思いたいが……逃げるだけならばいくらでも方法は思い付くが、法国を滅茶苦茶にする必要がある方法はなるべく取りたくない。これ以上追い込むのは相手の退路を断ってしまう。

 異形種80レベル超のティーヌは100レベルの人間種戦士職程度であればステータス上は対抗できるだろうし、全身神器級で、装備は確実に優っている自信はあるが、第一席次の見窄らしい槍が本当に『ロンギヌス』だった場合、神器級装備の優位は砂上の楼閣だ。

 その上、どうしても純粋な前衛職としては劣る。

 ここまで育てた以上、もはや失うには惜しい。

 ワールドアイテムによる2方向からの攻撃はあまりに厳し過ぎる。

 しかも精神攻撃と物理のダブルパンチだ。

 その内、物理はティーヌに対抗してもらうしかない。

 俺は『傾城傾国』を潰す。

 つまり対抗策のキモはいかに速攻で『傾城傾国』を無力化するか、だ。

 不意打ちの先制攻撃で、カイレを無力化、もしくは殺す。

 可能であれば『傾城傾国』を奪う。

 その為に『人化』を解除して、腐食蠅も10匹程度召喚する。ただしコイツらは現世に存在するだけで俺以外の者には危険なので、僅かに開けた窓の隙間から即座に上空に待機させた。通過した窓枠も室内の木製部分もあっと言う間にボロボロになっていた。どれだけ強かろうと生物であれば絶対に殺せる。腐食耐性に極振りするような対策でも講じられていれば別だが、俺の手の内を知らない以上、現時点ではこちらの優位は動かないはずだ。

 ティーヌの白銀の軽鎧を回収し、『えんじょい子』さんが俺対策に作成した腐食耐性特化の神器級鎧と交換する。これで最悪戦闘に陥っても初手さえ凌いでもらえば第一席次は殺せるが……となると番外席次が出張ってくるか? 

 法国も戦力の逐次投入など愚策と解っているだろうから、『漆黒聖典』の全メンバーと『傾城傾国』を投入しているわけだが……現時点で半分以上が寝返っていることなど知りようがない。

 まあ、番外席次であろうと生物である以上、こちらの手の内さえ把握されていなければ腐食蠅の攻撃で殺せるとは思うが……いちおう念の為……

 そして支配の完了した『漆黒聖典』達に『傾城傾国』の到来しても、そのまま退避するように厳命した。最悪、こいつらは死んでも蘇生させれば良い。

 

 ティーヌと話し、対策を講じている間にも周辺に展開した眷属が膨大な情報を送りつけてくる。

 同時に残る『漆黒聖典』のメンバーの内、第四席次と第五席次の簡易支配も完了していた。第二席次に支配を試すのは無駄……レベルが叛逆可能域に最初から達していた。支配した『漆黒聖典』にはそのまま任務を遂行する振りを継続するように命じる。支配できない第二席次と姿の見えない第一席次と第三席次に、ワールドアイテム『傾城傾国』という不安要素を抱えながらも、300匹の肉腫蠅で警戒網を築く。

 

 発見次第カイレは無力化、それが無理なら殺し、同時に第二席次も殺す。

 可能であれば第一席次も殺し、『傾城傾国』を奪う。

 念の為に第一席次の槍も奪う。

 その後に復活させれば、先に仕掛けてきたのは法国なのだから問題ない。

 なんなら『死者復活』で強制的にレベルダウンさせ、支配する。

 眷属300匹の監視網の中でも所在不明の第3席次はおそらく不可知化系統の魔法かスキルか魔道具を使用しているのだろう。しかし『完全不可知化』であっても眷属の複眼を完全には誤魔化せないのだ。存在していれば、いずれ発見するに至る。

 

「……てな、方針で行く。細かい取り決めは無し。想定外は臨機応変で……最悪、番外席次が出てきたら俺が『人化』解除して時間を稼ぐ。対応可能ならばその場で殺す。ヤバいと感じたら『転移門』で撤退する。殺せるようなら装備は全て奪う。質問は?」

「んー、つまり想定ではババアの護衛に隊長がいる。私の役目はゼブルさんがババアを殺る間の一瞬、隊長を牽制するってことですよね?……隊長の殺害も『破滅の竜王』を滅ぼした殺り方でゼブルさんが担当する、ってことで?」

「そっ、とにかく槍の直撃は避けて、ほんの僅かで良いから時間だけ稼いでくれると助かる。注意さえ引いてもらえば、不意打ちで第一席次は確実に殺せると思う。100レベル超までを想定すると対応も変化するけど……まっ、法国首都での市街戦だし……連中も宿の従業員だけだなく、わざわざ住民まで退避させている以上、こちらを取り囲んでから戦闘開始で間違いないと思う」

「なーるほど……納得しました。法国のヨーイドンに付き合うつもりは無い。だから兄も支配したってことですね?」

「そーゆーこと……んじゃ、即応するつもりで待機してくれる?……カイレを発見し次第、近くに『転移門』を開けるから」

「りょーかいでーす」

 

 ティーヌがニヤリと笑った。

 俺はさらにもう1本、MP回復ポーションを空けた。

 砂時計状のキャストタイムスキップの課金アイテムを取り出す。

 応戦準備は整った。

 

 『八欲王』に侵攻されて以来のスレイン法国の悪夢の夜が更けて行く。

 

 

 

 

 

 

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 ぞわりと背筋を撫でる何かの気配らしきものが周囲を取り囲んだ。

 

 神器の槍を構えた瞬間、守るべき気配が喪失する。

 慌てて振り返ると派手な包み紙に覆われた枯れ枝を彷彿させるカイレが茫と宙を眺めていた。

 年齢を全く感じさせなかったカイレだ。

 あまりに様子がおかしい。

 突然の痴呆……あまりにタイミングが悪過ぎる。

 国家の命運を左右する任務の最中なのだ。

 

「……カイレ様!」

 

 失態……第一席次は動揺を隠さず、カイレに駆け寄ろうとした。

 無数に浮かぶ気配らしきものの中に複数の悍ましい何かが紛れ込んだが、優先順位はカイレの方がはるかに高い。今この瞬間に限っては『神人』である自身の命よりも価値が高いのだ。

 しかし動きは止まった。

 止めざる得ない脅威が現出したのだ。

 

 何が起きたのか?

 偶然なんてことがあるのか?

 その可能性は排除できない。

 周囲に感じる妙な気配らしきもの……やはり敵だ。

 であれば、カイレのこの痴呆状態が敵の攻撃の可能性はあるのか?

 その可能性は高い……そう考えるべきだ。

 

 即座に結論に到達し、第一席次はカイレを庇いつつ、注意を周囲に分散して展開する気配に振り向けた。

 

 闇夜の奥を覗く。

 

 一際大きな気配が道を挟んだ街路沿いの外壁の影から感じる……確実に何かいる。

 

「誰ですか?」

 

 問い掛けに応えるかのように、月明かりの中、良く見知った顔が現れた。

 

「おんやー、これはこれは隊長じゃないですか?」

 

 髪色も装備も知ったものとは違う。

 気配も別人。

 纏う空気も以前とは桁違い。

 

 ……強いな……

 

 荒れ狂っていた頃とは違う。

 自分を前に怯えていた頃とも違う。

 自信に溢れる顔の造作だけは同じ。

 

「……『疾風走破』クレマンティーヌ……魔導国に拾われたようですね」

 

 クレマンティーヌか笑う……相変わらずの凶相だ。

 どこかネジが緩んでいる。

 クアイエッセと同じ顔なのに受ける印象が全く違う。

 

「余裕ぶっこいてると、死んじゃいますよー、隊長」

 

 安い挑発だ。

 しかしケラケラと笑うクレマンティーヌの前に気配とは違う違和感を感じ、前に進むのを躊躇ってしまう。

 

 ……罠か?……こちらの仕掛けを看破されたのか?……敵がわざわざ前面に出てくる以上、作戦は失敗。

 包囲は突破されたと考えるべきだろう。

 全面撤退まで視野に入れるべきだろうか?

 魔導国副王の護衛役と聞いていたクレマンティーヌがここに現れた以上、既に副王は安全圏に退避している可能性が高い。完全に無駄足を踏まされ、魔導国と敵対状態に陥ったと考える方が正しいように思える。

 であれば、一刻も早くレイモンに報告せねばならない。

 だがクレマンティーヌがここに現れた理由は十中八九足止めだろう。

 以前のクレマンティーヌであれば問題なく排除できた。殺すまでもなく、余裕で無力化が可能だった。拘束して、情報を吐かせるまでか適切な行動だったろう。しかし目の前のクレマンティーヌ相手では……

 

 素直に退いてはくれないか……?

 

 チラリと背後のカイレを見れば、相変わらず虚空を見て、呆けている。

 

 カイレも守らねばならない。

 いや、最低でも神器『ケイ・セケ・コゥク』を死守しなければ……

 クレマンティーヌが眼前に姿を現した狙いもその辺りなのだろう。

 となれば、カイレをこんな状態にしたのはクレマンティーヌ……?

 それよりも別の何かな気がするが……例えば闇に紛れる複数の気配のようなもの……これらは何か?

 

「ねー、隊長?……既に詰んじゃってるって、理解できてますかー?」

 

 ニィと裂ける大きな口。

 力による解決を望み、ゆっくりと接近してくる。

 

 ヤバいな……圧力が以前の比じゃない。

 

 不穏な空気を纏い、クレマンティーヌは抜剣した。

 細身の剣だ。

 剣そのものから力を感じる。

 それが月明かりを妖しく反射している。

 

 正面の巨大なプレッシャー。

 背後に身命を賭して守るべき神器とその持ち主。

 撤退は容易ではない。

 周囲に展開する無数の何か。

 安易に前にも進めない。

 自身は既に敵の術中……だが狙いは『神人』である自分の命か、真なる神器『ケイ・セケ・コゥク』か、あるいはその両方か?……敵方にクレマンティーヌが在る以上、こちらの情報は丸裸と考えるべきだ。

 

 クレマンティーヌは余裕を感じさせる足取りで接近してくる。

 

 まさか『神人』である自分が単なる人間でしかないクレマンティーヌに僅かでも怯え、見下されるとは……

 

 動けない。

 だがそれすら敵の狙い通りなのかもしれない。

 せめてクレマンティーヌの攻撃からカイレを庇う位置に立たねば……

 

 第一席次はやや右に体を入れ替えた。

 

 その瞬間、槍を持つ指先に激痛が走る。

 

 何がっ!?

 

 視線を走らした瞬間、握力を失った。

 槍が地に落ちる。

 遅れて激痛が脳に達した。

 

 ヤバい!

 

 なんらかの攻撃を受けたのは確実。

 右腕は失ったも同然。

 正攻法は捨てるべきだ。

 

 左手で予備武器の短剣を抜き、呆けたままのカイレを確認し、余裕綽々で歩み寄るクレマンティーヌを見た。

 

 その間にも激痛が脳を揺らす。

 右腕は完全に使い物にならない。

 右腕は断念し、左腕1本で短剣を構えようとして……短剣が地に落ちたことを知った。

 左手の指先から尋常でない速さで黒く変色していくのが見えた。

 遅れて想像を絶する痛みに顔を顰める。

 感覚を失っていた右腕が自重に耐えられず、千切れて地に落ちたように感じた。

 見れば腕でなく、黒い泥のような塊が地面に飛沫を広げていた。

 

 何だ、これは!

 

 武器を失い、両腕を失った。

 脚だけでどこまでやれるか……?

 

 激痛に混乱する脳の冷静な一部で失血量を確認しようと試みた瞬間、クレマンティーヌの大きな笑い声が響き渡った。

 

「アハハッ……本当にゼブルさんの言った通りになるんだ。牽制するだけで、あの隊長に勝てるなんてね……情報の勝利ねー……ちょっとゼブルさんの言っていることが理解できたよー……ありがとね、隊長」

 

 歪みが裂けたような嫌な笑いを狙い、必殺の蹴りを繰り出した。

 が……最期の抵抗虚しく、右の膝から下が明後日の方向に飛び、地面に放射状の泥を撒き散らしただけに終わった。

 

 脳を満たしていた痛みが消えた。

 左脚1本では体重を支えられなくなり、やけにゆっくりと崩れ落ちる自分を認識しながら、自身の首に食い込むクレマンティーヌの剣が第一席次が最期に見たものだった。

 

 第一席次の頭部が飛び、地面に落ちた時には泥と化し、飛散した。

 

 月明かりの下、全てが黒い泥と化す。

 

 高笑いするクレマンティーヌの背後に七色に蠢く闇が浮き上がり、そこから現れた男が泥の中から第一席次の装備を全て拾い上げた。

 

 呆けたままの老婆が唐突にぐしゃりと潰れ、チャイナドレスだけが残された。それを拾い上げると男は笑った。

 

「さて……第一段階は成功……しばらく汚泥は放置ってことで……回収は後程」

「はい、はーい……宿の周りの連中はどうしますって、敵のままなのは第二席次だけてしたっけ?」

「いや、第二席次はコイツらを見付けた瞬間に殺した……レイズデッドで強制的にレベルダウンさせて、もう支配済み」

「となると、残るは……」

「姿を現さない第三席次と……番外席次だ」

「いよいよですね……とうとうバケモノが出てくるかも」

 

 そう呟いたティーヌの表情から笑いが消えた。

 

 

 

 

 

 

 

 走る、走る、走る。

 自分でも似合わない行動なのは理解しているが、走らないわけにはいかなかった。

 神器まで持ち出しての最高戦力による包囲戦。

 『神人』である隊長まで駆り出されていた。

 負けるはずのない戦いだった……

 本来であれば、余裕で戦いを終え、拘束した敵を尋問しているような頃合いの時間だった。

 しかし現実は……

 

 所定の時刻はとっくに経過していた。

 いつまで経っても隊長も現れず、今作戦の主戦力であるカイレも現れない。

 同僚達は疑問すら感じていない。

 所定の位置で立ち尽くしている。

 いつになく大人しく、あり得ないほど指示待ちを貫いていた。

 統制が難しい連中なのに……それこそ『神人』である隊長か、レイモンの指示でなければ指示そのものを無視するような軍人にあるまじき連中なのだ。

 そして決定的な異変は第二席次が突然倒れ、唐突に起き上がったことだ。

 口から大量に吐血し、昏倒した第二席次が全身血塗れになりながらも立ち上がり、平然と周囲を見回した。その様子を第四席次も第七席次も退避作戦を指揮していた第五席次すらも当然の出来事であるかのように見ていた。誰も異変を確認もせず、第二席次に声を掛けることもなかった。

 

 初めから何事も無かった。

 

 第五席次の目がそう語っていた。

 第四席次も第七席次も無関心を貫いていた。

 昏倒した第二席次ですら、自身の異変に興味を持っていなかった。

 

 異常だ。

 全てが狂っていた。

 

 姿を隠し、一部始終を見ていた第三席次は恐れ慄き、ひっそりと所定の位置から離れた。先行侵入していた宿屋の建物の影に溶け込んでいたのだが、足音を忍ばせながら潜行可能な影を伝って敷地から離れた。

 

 恐怖で脚が竦まぬよう、慌てて失敗を犯さぬよう、最新の注意を払って影伝いに宿屋の敷地から遠去かる。

 最初は忍足で。

 10分も進むと速脚で。

 やがて振り返っても建物が視認出来なくなった。

 理解できない歪みから逃れた……そう思った。

 そこからは走った。ひたすら影伝いに走った。

 『飛行』は拙い……速度が増すことは理解していても、圧倒的な恐怖が『飛行』を断念させた。

 とにかく走る。

 息が上がる。

 それでも脚は止められない。

 報告の為……言い訳だ。

 と言うよりも、逃げていた。

 一歩でも遠くに行きたい。

 どこかに入り込んで隠れたい。

 逃げる。

 そう、逃げなければならない。

 

 あんな異常な場所にいられるか!

 

 本音を心中でぶちまけ、ようやく第三席次は脚の回転を緩めた。

 目的の土の神殿が視認できたこともある。

 油断なく影の中に潜んではいるが、ようやく真面に息が吐けた。

 

 土の神殿の神官長室へと向かう。

 自身が命令を下した作戦行動中はさすがにレイモンも神官長室に留まっているはずだ。

 急ぎたいが、影の無い中央を進むのは拙い。

 大きく迂回することにはなるが、壁際の植込みの影の中を慎重に進む。

 心中の騒めきを無理矢理圧し殺し、第三席次はゆっくりと本殿の中へと向かう。建物の中にさえ入ってしまえば……

 

 やがて最後の関門に到達した。

 壁の影から本殿の影までおよそ10メートル……思い付く限り、ここが最短距離だった。月明かりが捻じ曲がらない以上、ここを通過するのが最も安全なのは解っている。

 植込みに身を潜め、闇色のローブの中でビクビクしながら左右を入念に確認し、みっともないと解っていても、さらに上下から背後まで丁寧に見渡した。

 

 少し羽虫の類が多いな……レイモンに告げて、奉仕者達に改善させよう。

 

 かなり気に触ったが、虫などに気取られて敵に発見されるわけにはいかない。

 第三席次は改めて気を取り直し、再度落ち着いて周囲を見回した。

 日中と違い、全く人影の失せた広大な神殿の敷地の中はどう見ても無人だ。

 人っ子一人いない。

 植込みから立ち上がり、本殿に向けて一歩踏み出した。

 残り50メートル程で本殿の中……安全地帯だ

 月光の下を走る。

 足音は立てない。

 本殿の影まで残り5メートル……後4歩も進めば……

 

「……お前が第三席次か?」

 

 唐突に声を掛けられ、第三席次は急停止した。

 本殿の影に走り込みたいのに、脚が出ない。

 何かが脚に「動くな」と命じていた。

 自身の意思と関係なく、身体が背後を向いた。

 しかし誰もいない。

 ジワジワと恐慌が脳裏を占める。

 手足に限らず、首も動かない。

 唐突に視界を影が覆った。

 それは上空から降りてくる。

 辛うじて動く眼球を巡らせ、第三席次は声の主であろう影を見た。

 自身の闇色のローブとは別種の、砕いた星々混ぜ込んだような闇が舞い降りてくる。

 それはコートだ。

 コートの主は……今作戦のターゲットで間違いない。

 神都のこの土の神殿の中で確認した男……魔導国副王ゼブルだ。

 

 完全にゼブルの足が地に着く。

 異様に整った美貌が覗き込むようにこちらを見ていた。

 どこか作り物のような顔だ。

 完璧に整っているのに、少しも羨ましいとは思えない。

 パーツの一つ一つまで完璧であり、配置も完璧なのに全くの無個性。

 日中に見た時も印象が酷く薄かった。

 無個性過ぎて、それが逆に個性のように感じる。

 死を覚悟するような状況なのにそんなことを考えている自分に驚いた。

 

「もう一度問う……お前が第三席次か?」

 

 即座に回答すべきだ。

 いつ殺されてもおかしくない。

 しかし喉が渇き、声が出ない。

 頷こうとしても首が動かない。

 全身が爆発しそうな程、鼓動が高鳴っていた。

 しかし動けない。

 どうしても動けない。

 力を振り絞り、無理矢理口を開く。

 

「……は、い……」

 

 ゼブルが頷く。

 少し余裕ができた。

 ほんの僅かでもコミュニケーションが可能になったのだ。

 もはや敗北は受け入れる。

 どうにか死を回避することに全神経を集中すべきだ。

 

「……お前はレイモンに状況を報告しようとしたのか?」

 

 頷く。

 ゼブルに肯定の意が伝わる。

 また少しだけ余裕ができた。

 

「では、レイモンは神殿の中にいるわけか?」

 

 答えるには抵抗を感じる問いだが、頷かないわけにはいかなかった。

 

「そうか……では、お前に命じる。レイモンに自身を含めた今回の首謀者全員を俺の前に連れてくるように伝えろ……良いな?」

 

 第三席次は頷いた。

 心が澄み渡っていた。

 そうすることが正しいと確信していた。

 感じていた恐怖が嘘のように霧散していた。

 

「かしこまりました、ゼブル様……必ず伝え、我が責任において全員を御前に引っ立てましょう」

「そうか……では、2時間以内に宿に出頭させろ。時間厳守だ」

「承知!」

 

 第三席次は意気揚々と月下を進む。

 それまで隠れていた自分を否定すらしない。

 初めから何も無かった。

 当然の任務をこなす為に彼は土の神殿の中へと脚を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 

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 臨時の指揮所である土の神殿の神官長室から第三席次と共に飛び出し、土の神官長レイモン・ザーグ・ローランサンはグチャグチャになった事態の収拾に乗り出した。手近にいた部下の全てに号令し、最高執行機関のメンバーを土の神殿に緊急招集した。

 最奥の部屋など使う為の手続きの時間すら惜しい。

 第三席次の話の内容がおかしいのも含め、周囲の誰もが信用できなかった。

 番外席次を除き、考え得る最高の戦力を惜しみなく投入したのだ。

 時間的に作戦は完了したものと思い込んでいた。

 逐一報告が無いのはいつものこと……状況を整理した後に第一席次が取りまとめた文書が届くものと思い込んでいた。

 第三席次が神官長室に飛び込んで来たのも、大事に至らない程度の偶発的な事態の発生の報告の為だろうと、いつになく堂々と来訪した第三席次に間抜けな出迎えをした程だ。

 第三席次曰く、そもそも定刻になっても作戦が開始されていないと言う。

 隊長もカイレも姿を現さない、とも言った。

 他の『漆黒聖典』はどうしたのか?……待機を継続しているらしい。

 それを聞いただけで状況の破綻は理解した。

 

 まず『神人』はどうしたのか?

 そして神器『ケイ・セケ・コゥク』は?

 その所持を許されたカイレは?

 何故『漆黒聖典』は動かない。

 どうしてそうすることに疑問を抱かない。

 全てが狂っていたが、それらは最悪では無かった。

 

 真の最悪は第三席次がもたらした、あまりに予想外な次の言葉。

 

「魔導国副王ゼブル様が宿泊先で最高執行機関の面々をお待ちするそうです。早急に招集し、全員揃って出頭すべきでしょう。1時間以内です」

 

 当たり前の事を当たり前に話しているような表情の第三席次。しれっとゼブルの命令の内容すら改変していたが、レイモンに知る由は無い。

 その様を見たレイモンは狂気を疑ったが、喋っている内容以外は平素よりも真面に見えた。堂々と姿を現し、胸を張る姿はいつになく逞しく見えたぐらいである。

 

「第三席次よ……貴様は忠誠は祖国にあるか?」

「当然だ、レイモン!……だからこそ早急に出頭せよと申しておる」

 

 やはり第三席次はおかしい。

 しかし自覚は無いようだ。

 まるで神器『ケイ・セケ・コゥク』を用いて精神支配したかのうなチグハグな反応だ。

 

 ……まさか!

 

 嫌な想像が脳裏に浮かぶ。

 それは魔導国副王ゼブルの逗留する宿屋の周辺で『漆黒聖典』が動かない理由とも矛盾を感じさせなかった。彼等にはそれなりに精神攻撃耐性を底上げする『六大神』由来の秘宝を持たせているが、魔導国副王ゼブルが耐性突破が可能なレベルの精神攻撃能力か魔道具の持ち主であれば事態の説明はスッキリと腑に落ちる。

 

 そこからレイモンは躊躇いを捨てた。

 第三席次にすら命じ、深夜に残っていた部下達にも命じ、最高執行機関メンバーの招集を急がせた。

 自身は神殿内を駆け回り、緊急会議を手配する。

 とにかく一刻も早く決断をせねばならない。

 こう言った時は絶対王政が羨ましくなる。

 鶴の一声が通用するのだ。

 法国ではそうはいかない。

 だからとにかく早く決断をしなければ……魔導国に完璧に膝を屈するか、これ以上の抵抗を続けるか……後者を選択するのであれば、あの子を出す覚悟をせねばならない。その場合魔導国だけでなく、アーグランド評議国とも雌雄を決する覚悟が必要となる。それはエルフの王国を含めて同時に3方向の戦線を展開するということと同義だ。後先考えずスレイン法国の軍事リソースの全てを投入しても荷が重過ぎる。たとえ勝利を得ても国家の滅亡は目に見えているし、普通に考えて全国民が滅びのマーチに乗って、奈落の底に突き進むようなものだ。とても正気の沙汰とは思えない。

 

 ジリジリと焦れる気持ちを誤魔化す為にレイモンは神殿正面のホールを歩き回っていた。

 時間は刻一刻と進んで行く。

 残念ながら後戻りはしてくれない。

 会議の手配が終了してから永遠とも思える15分が経過した。

 やがて正面入口が騒がしくなる。

 最も早く現れたのは最高神官長……国家の最高意思決定者であるだけに今作戦の間も寝ずに報告を待っていたようだ。

 次いで昼夜逆転の生活を送ることが多い研究機関長が顔を見せた。

 直ぐに続いたのはジネディーヌ老と大元帥。ジネディーヌは身支度が早く、大元帥は元々自身の命を張っていたのだ。緊張が眠りを妨げていたようで、目の周りに疲れが浮いていた。

 その後、司法、立法、行政の三機関長にマクシミリアンの馬車が同時に乗り付けられて案内役の数が足りずに混乱するも、その直後に人員不足を予測して大勢の部下を引き連れて現れたドミニクとイヴォンが混乱を収拾した。

 最後は女性だけに身支度に時間が掛かったベレニス……これは予想通りであったが、想像していた時間よりははるかに早かった。

 

 しかしここまでで45分程浪費していた。

 故にせっかくせっせと準備した会議室には移動せず、周囲から人員を排除する形で会議はホールで開始した。

 タイムリミットまで15分……さすがにタイムオーバーは確実な状況だが、それは先行した第三席次に上手く取り繕うように伝えてある。

 

 挨拶も、緊急招集に応じてもらった感謝の言葉もすっ飛ばし、会議の開始を宣言することもなく、レイモンが口火を切る。

 

「皆様に作戦失敗をお伝えせねばならない事を深く謝罪します……」

 

 薄々良くない知らせであることは予測していただろうが、現実にレイモンの言葉を聞き、彼を除く最高執行機関メンバーはもれなく固唾を飲んだ。

 現在確認されている事だけを早口で語るレイモンに誰も質問を投げ掛けることはなかった。

 想定されていた最悪の事態が現実となっただけ……では済まず、想定以上の最悪が現実のものとなっていた。

 

 まず第一席次とカイレの安否が不明であった。

 作戦開始の所定の時刻に間に合わないだけならば想定内だが、大幅に経過した現時点でも所在が掴めない。

 なんらかのトラブルという可能性もある……むしろそう信じたい。

 しかし法国の誇る『神人』と神器『ケイ・セケ・コゥク』の2つを同時に失った可能性すら捨て切れないどころか、そちらの方が真実に近いと考えた方が良いだろう。

 そして宿を取り囲むだけに終始する『漆黒聖典』の異様な行動。

 まるで精神支配を受けたような第三席次の様子。

 最後に拘束もしくは精神支配が完了していなければならない魔導国副王ゼブルから最高執行機関メンバー全員への出頭要請。いかに権力者とはいえ、異国の者が神都で最高執行機関メンバー全員に事実上出頭を命じているのだ。

 何があろうと簡単にできる事ではない。

 つまりゼブルにはそれだけの裏付けがあるのだ。

 

「……私としては早急な出頭を皆様にお願いしたい。事態は急を要します。これ以上の抵抗は国家を滅ぼします。意味は理解していただけると」

「いや、徹底抗戦に際するリスクを皆に説明すべきだろう。我々の間に認識の齟齬があってはならん。事態が事態だけに急いでいるのは理解するが、そこは周知徹底すべきだろう、レイモンよ」

 

 ドミニクが指摘し、レイモンは素直に頷くも、謝罪は割愛した。

 

「我々は現時点でエルフの狂王と戦端を開いております。そして潜在的に評議国とは薄氷一枚の危うい関係性で均衡を保っています。その一枚の薄氷とは番外席次であることは皆様もご存知の通り……今回、これ以上の魔導国副王に対しての抗戦は、あの子を出動させる必要に駆られる可能が非常に高いと思われます。最悪を想定すれば同時三正面作戦を強いられることとなるでしょう。エルフの狂王はまだしも、評議国と魔導国は同時に戦線を構築できるような甘い相手ではございません。一国だけでも勝利を得るのは難しい……強国中の強国と考えるべきです。しかも神器『ケイ・セケ・コゥク』と『神人』の1人である第一席次の安否が一切不明の現状では、我々の選択肢は一つしか残されていないのです」

 

 レイモンが話し終えた瞬間、唐突に大元帥が全員の前に立ち、深々と頭を下げた。

 そして頭を上げる。

 死を決意した者の穏やかな視線が全員の顔をゆっくりと見回す。

 

「……私の首を刎ねていただきたい。それを持ち、副王の前へ……後始末を皆様に押し付けるのは気が引けますが、全ては私の暴走という事で、事態を収拾していただきたい」

「大元帥よ……おぬしの覚悟を否定するわけではないが、もはや遅きに失したのだよ。いや、事態がこちらの想定をはるかに超えたと考えるべきかのう。おそらく、であるがお前の死は無駄になる。事実上、魔導国副王はここにいる全ての者に出頭を命じたのだ。それが意味することは、現時点で状況をコントロールしているがわしらでなく、魔導国副王ということだ……残念ながら」

 

 年嵩のジネディーヌが大元帥を無駄死をやめるように諭した。

 ベレニスが続ける。

 

「あえて嫌な言い方をするわ……我々全員の命を対価としてでも『神人』と神器『ケイ・セケ・コゥク』の返還を求める必要が生じる可能性まで考慮すれば、貴方は現時点で死を選択すべきではないと思う。我々は同志であり、一心同体……ここに至っては全員で従うか、否かしかないわ。もはや我々の命は交渉材料でしかないのよ」

「あの子を……番外席次を動かすのが大きなリスクを伴うのは理解していますが、どうにもならないのですか?」

 

 マクシミリアンが状況を理解した上であえて反問する。

 誰かがせねばならないことではあるが、状況に直面し、焦るレイモンにはどうにも煩わしい。

 口は開きかけた瞬間、イヴォンが手で制した。

 

「マクシミリアンよ……我々は既に選択し、その結果として状況をひっくり返されたのだ。昔日の『六大神』の御言葉に照らし合わせれば、ここからは敵のたーん、というものに相違あるまい」

「たーん、とはどのような?」

「光の神の口伝である為、闇の神官長であるお前が知らぬのも無理はない。正確な意味は不明だが、文脈を考慮すれば、おそらく……たーん、とは主導権に近い意味で間違いあるまい」

 

 おおっ、とイヴォン以外のその場の全員が感嘆した。

 緊迫した状況を感動が一瞬支配したが、直ぐに平静を取り戻す。

 

「つまり魔導国副王に主導権に握られた、と」

「完璧に、な……ここで無理を通して、あの子を駆り出しても、我々に浮かび目は無い。考えたくはないが.……最悪の想定はすべきだろう。我々は第一席次とカイレ様を既に失ったと考えるべきだ。であれば、第一席次と神器を纏ったカイレ様を滅ぼした者がいるはず……この状況下、それは1人しか考えられない。実行犯は『疾風走破』かもしれん……しかし『疾風走破』が単独で『神人』を撃破できるはずがない。単なる人間と『神人』の能力差を埋めて余りある何かがある。それを見極めない段階であの子を駆り出せば、待っているのは『神人』を2人も失う未来だ。我々が国家を失っても守ろうとした宝を全て失うのだ。我々の全員の命程度で代用可能であれば、実に安い買い物だ……復活はさせてもらえないだろうが、な」

 

 イヴォンの言葉に全員が頷いた。

 そのまま土の神殿を立ち去る。

 彼等の目にもはや迷いは無い。

 

 

 

 

 

 

 

 最高神官長を筆頭に6名の神官長達が並び立つ。

 その背後に大元帥と4名の機関長達が整列していた。

 最高執行機関の面々だ、

 最高級の宿屋とはいえ、政府機関ではない。

 まして客室でもなく、ただのホール兼食堂。

 料理の皿も無く、誰も着席していない10を超える食卓の一つ、高級ではあるがただのテーブルセットの木製の椅子に腰掛ける男が1人。

 入口の横で扉の枠にもたれながらニヤニヤと笑いを浮かべる女が1人。

 腰掛ける男の背後にオカッパ頭に無表情の男が1人。

 室内には合計15名がいた。

 敷地の外はスレイン法国最高戦力『漆黒聖典』の面々が固めている。

 客室には2人の王国人がいるが、彼等は状況を知らない。

 

 誰も喋らない。

 長い長い沈黙が続く。

 レイモン以外の法国最高執行機関の面々は魔導国副王のあまりに若く見える外見に面食らい、その人外レベルに整った容貌に、外見通り人外である可能性すら疑っていた。そうであれば、十中八九返り討ちされた第一席次の現況も想像可能になる。彼等の認識では単なる人間が『神人』を返り討ちにすることなど不可能なのだ。

 

「発言を許してもらえるだろうか、ゼブル殿?」

 

 黙り込む一同の認識を再確認すべく、ドミニクが斬り込んだ。

 とにかく状況を探らねばならない。

 限りなく高い可能性とはいえ、最高執行機関メンバーの認識は全て想像の産物である。僅かな可能性だけでも排除しなければ迂闊に話すこともできない。

 

「許可しましょう……えーっと、どちら様?」

「これは失礼した……私はドミニク・イーレ・パルトゥーシュ。風の神官長を務めている」

 

 ドミニクに倣い、既知のレイモン以外のメンバーがそれぞれ名乗る。

 最後にゼブルが名乗り、食堂の空気は幾ばくか弛緩した。

 その流れのままドミニクが発言を続ける。

 

「このような深夜に、ゼブル殿よりもはるかに老齢な我々を出頭させた意図を教えてもらえるとありがたいのですが?」

「意図?……それは貴国の経済的窮状を打開すべく、貴国より招かれた我々が宿泊する為に、貴国によって指定されたこの宿が、この深夜に無人である為に、貴国の意図を問い正したいと考えるのは不都合である、と?」

 

 どうやら魔導国副王ゼブルは現状認識を素直に話すつもりはない。

 白々しさが言外に意図を伝えてくる。

 質問者であるドミニク以外の面々にも明確に伝わった。

 第一席次は?

 カイレは?

 彼等が所持していた2つの神器は?

 それらの深刻な疑問に対する回答は藪の中だ。

 

「……それは不都合をお掛けしたことを謝罪させていただきましょう。決してゼブル殿御一行を蔑ろにするつもりなどございませんでした。何かの手違いでございます。早急に改善させましょう」

「では、そうしていただきたい。質問はそれだけでよろしいか?」

 

 ドミニクが頷くと再び沈黙が訪れた。

 ゼブルは状況説明する気が無い。

 その上、呼び付けた側が用件を話さない。

 最高執行機関メンバーはジリジリと焦れるしかない。

 いずれにしても初手は完全に失敗していると考えた方が良い。

 出方を見て、対応するしかない。

 

 ゼブルは自らティーポットで茶を注ぎ、一口飲んだ。

 少々芝居じみているが、香りを楽しむ風を装って、最高執行機関の面々をじっくりと眺めている。

 そしてティーカップを空にすると、息を吐いた。

 同時に虚空に浮いた暗黒洞に手を突っ込み、一振りの短剣を取り出し、茶器セットの置かれたテーブルに置く。

 その短剣を見てレイモンが小さな声を漏らした。

 

「……そ、それは?」

「これをお返ししようかと……それが用件です。持ち主を呼んでいただきたい。長髪に黒い鎧の槍を持った青年です」

 

 食堂が騒然とした。

 短剣を見せた瞬間に勝敗は決した。

 落胆の溜息が口々から漏れ、レイモンの肩が落ちる。

 深刻な現実を突き付けられ、想定だけの覚悟が脆くも崩れたのだ。

 

「……ゼブル殿。その短剣の持ち主は?」

「さあ……こちらが質問しているのですよ。拝借した短剣を返す為に」

 

 はたして第一席次は生きているのか?

 仮に第一席次が討ち取られていたら、カイレも討たれているだろう。

 しかし判然としない。

 おそらく2つの神器は奪われた。

 これも真相は闇の中。

 この深刻な状況で動かない『漆黒聖典』は何をしているのか?

 第三席次のおかしな様子が最悪の解答へと導く。

 だが単なる想像に過ぎないのかもしれない。

 ただゼブルは深夜に全員を呼び付けた。

 この事実から推測するしかないのだ。

 

「……悪魔か……」

 

 当たらずとも遠からず……レイモンが漏らした呟きは正解に掠っていた。

 食堂には12人しか人間がいない。

 

「まっ、いずれにしてもこれはお返しする……こちらの話は以上……解散していただいて結構……明日中には先の申し出に対する途中経過を報告していただけるものと期待していますよ」

 

 それだけ言い残すと魔導国副王ゼブルは2名の御付きを伴い、上階に上がった。申し付けの内容が言葉通りの意味であれば、わざわざ最高執行機関12名全員を呼ぶ意味は無い。それどころか配下の1人でも使いに寄越せば良い程度の内容だ。

 

 残された最高執行機関の面々は沈黙していた。

 国家の存亡に命を賭けた取引などではなかった。

 ただ状況を匂わされ、微かな希望のみを提示された。

 第一席次とカイレが生きている可能性。

 2人と共に2つの神器が返還される可能性。

 手札は読み取れず、底知れない恐怖だけが提示された。

 イヴォンの言葉に倣えば「たーん」を取り戻せなかったのだ。

 

「……我々は誤ったのかもしれない。手を出してはならない相手に手を出し、国の宝を失ったのだ……しかも真相が解らない。無事か否か……これが確定しないことには我々も責任の取りようがないどころか、番外席次が出張ったところで手も足も出ない。むしろ第三席次の様子を鑑みれば、カイレ様が奴の術中に嵌り、逆に番外席次が『ケイ・セケ・コゥク』の精神支配を受ける可能性も捨て切れない……」

「そうなればスレイン法国は終わりね」

 

 イヴォンの後悔と疑念にベレニスが同意した。

 暗澹たる未来しか見えない。

 こうなれば交渉は魔導国優位になるしかない。

 その流れを覆すこともできない。

 カラクリを解明しようにも、何故こうなったのかが判らない。

 そもそもどうなっているのかすら判らないのだ。

 襲撃対象だったゼブルの一見して寛容な態度は悪辣そのものだ。

 結論の見えない恐怖が12名の脳裏に刻まれた。

 絶望して自暴自棄になることすら許されない。

 彼等はただゼブルの思惑に従うことを強要されたのだ。

 脱落は許されず、従い続けて思惑通りの結果に至っても彼等の望む未来に至らないことだけは確定していた。

 確定した被害は0であるにもかかわらず、スレイン法国は醒めない悪夢の中で足掻き続ける未来しか得られなくなったのだ。

 




お読みいただきありがとうございます。

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