スネイプ(♀)の一人称はなぜ我輩なのか? 作:ようぐそうとほうとふ
スネイプはほとんど走るようにしてクィレルの研究室まで行った。ドアをノックしても返事はない。緊急事態、と心の中でつぶやいてドアを解錠(アロホモラ)し部屋に押し行った。
部屋の中には大きな大鍋が怪しげな煙をたてていて、他にも複数の香が焚きっぱなしになっていた。変色した包帯やガーゼが床に散乱し、ターバンの替えらしき紫色の布が絡まり落ちている。その奥から獣のような生臭い臭いが漂ってきて、頭がくらくらする。
机の上に放置されている何枚もの羊皮紙は文字とも紋様ともつかないのたうったインクの跡が残されていた。手に取りよく読むと、いくつか材料の名前が拾えた。そこから見るに苦痛を和らげる魔法薬の作り方のようだが、あまりに汚い文字と鍋から立ち上る水蒸気でよくわからない。
スネイプは足元にクシャクシャに丸まって落ちていた黒いローブを拾い上げた。そこには乾いた銀の液体が付着していた。分析するまでもない。ユニコーンの血だ。
いずれにせよ、クィレルはこの部屋にいない。
スネイプはクィレルの研究室を飛び出して、禁じられた廊下へ走った。真っ先に頭によぎったのはあの廊下でコソコソ嗅ぎ回っていたハリーたちのことだ。
スネイプは守護霊を飛ばし、ダンブルドアに伝言を託した。
禁じられた廊下の前は、以前森で感じた寒々とした空気が漂っている気がした。
スネイプは扉に手をかけた。鍵はすでにあいていて、薄く開く。隙間から漂うのは閉じ込められた獣の匂いだ。ハロウィンの時は不覚を取り片足を怪我するという失態を演じたが今回は対策を講じている。
三頭犬はかつて非常に優秀な番犬として重宝されていたが、現在繁殖、飼育されている個体数は極僅かで、資料も不全だ。だが文献を探ればきちんと彼らの生態について知ることができる。
スネイプは杖を口に当て、呪文を唱えた。杖先から美しい笛の音色が響き、扉の向こうで何かが動く音がした。
そっと扉を押すと、三頭犬はすやすやと寝入っていた。隠し扉は開きっぱなしだった。明らかに誰かが侵入したことを示していた。
スネイプは迷わず扉へ飛び込んだ。
ハーマイオニーはロンを抱えて羽つき鍵の部屋の扉を開けた。その扉の向こうにいる人物を見て、思わず悲鳴を上げてしまった。
そこに立っていたのは、先に泥棒に入っていたはずのスネイプだったからだ。
「グレンジャー…」
スネイプも同じく驚いていた。手には箒を持っていて、これから鍵を探すために飛ぼうとしていたのかもしれない。
スネイプは怪我をしているロンを見るといつもの不機嫌顔に戻り、そっと手を伸ばしてきた。ハーマイオニーは思わず恐怖で目をつぶってしまった。
しかしスネイプの手はハーマイオニーを攻撃するでもなく、ロンの頭にそっと当てられていた。
怪我の具合をみるように頭を撫で回したあと、例のコウモリみたいな長いローブからガーゼと小瓶を出した。瓶の中身の液体をガーゼに染み込ませ、頭の傷に当てて包帯をひと巻きした。
治療したのか、とハーマイオニーはホッとした。
そしてハリーが何度もスネイプ犯人説を否定したのにもかかわらず彼女を疑い、一瞬でも恐怖した自分が急に恥ずかしくなった。
「で、ポッターは」
スネイプの声にはあまり余裕を感じられなかった。というか、スネイプが泥棒でないのならば自分たちよりも先にここに侵入したのは一体誰なのだろう。
ハーマイオニーは青ざめた顔でスネイプに説明した。
「私達、先生の罠のところまで行ったんです!でも、ロンがチェスで怪我をしてて…それでハリーが先に行って…私はロンを助けて、人を呼ばないと…!」
ハーマイオニーの若干支離滅裂な説明にスネイプは苦々しい顔をした。しかし事態はすぐに飲み込めたらしい。手に持っていた箒をハーマイオニーに押し付けると、早口で言った。
「では君たちはこのまま戻り助けを呼びたまえ。ポッターは私が救出する」
そう言って駆け出すスネイプに、ハーマイオニーは大声で尋ねた。
「一体誰が泥棒だったんですか?!」
スネイプは答えなかった。
ハリーは炎の向こう、みぞの鏡の前に立つ人物を見て絶句していた。
そこにいたのはハリーにとっては予想外の人物、クィレル先生だったからだ。
たしかにクィレルはスネイプに脅されていた。あれはもしかして盗みをするなという警告だったのかもしれない。けれども誰がどうしてあの臆病者のどもりのクィレル先生が“賢者の石”を盗み出そうとしている、なんて思いつくだろう。
「ポッター、ひょっとしたらここで君に会えるんじゃないかと思っていたよ」
クィレルの言葉はつっかえることなく、声もやけに低く、落ち着いていた。
「ぜんぶ、あなたが?」
ハリーの端的な質問に、鏡に映るクィレルの顔がニヤリと笑った。
「全部とは、どこからどこまでのことかな。君を箒から落とそうとしたこと?トロールを城に入れたこと?それとも森で襲いかかったことかな、ポッター」
ハリーは絶句した。
事実に驚愕したのではなく、クィレルの顔が悪意に満ち溢れていたからだ。一年間授業を受けていたし、廊下で何度もすれ違った。晩餐の感想について二、三言葉を交わしたことだってある。あの弱気なクィレルと、盗人としてここに立っているクィレルとが頭の中でうまく結びつかない。
「スネイプを疑ってたんだろう?あいつはいかにも怪しいからな。それに…お前を嫌ってる」
「確かにぼくは先生に嫌われてる。でも先生はそんな事しないってわかってた」
「ほう?親からあいつの思い出話でも聞いていたのか。ああ、それはなかったな…お前の親は死んでるんだから」
クィレルはなおも挑発的だ。ハリーは怒りに駆られて叫ぶ。
「先生は森で僕を守った!理由はそれだけで十分だ!」
クィレルはそんなハリーの強がりを聞いて高らかに笑う。ハリーの怒鳴り声は恐怖の裏返しに他ならなかったからだ。
「ふっ。確かに箒のときにしろ、あいつはお前を守っていたな。…バカな女だ。私の背後に誰がいるかも知らずに邪魔ばかりしおって…」
「いつまで無駄話をするつもりだ?」
急に、ここにいない誰かの声が聞こえた。鏡のそばからだ。ハリーはよく目を凝らすが、鏡のそばにはクィレル以外誰もいない。
声を聞いた途端クィレルの顔が急に歪み、いつも校内で見かけていた怯えた表情に戻った。
「ご主人様…ですが私にはこの鏡が何なのかわからないのです」
「その子を使え。その子を…」
「ポッター!こっちだ。早く来い」
ハリーは足がすくんで動けなかった。だがクィレルが杖を振るうとたちまち鏡の前に引きずり出されてしまう。
「何が見える?言え!」
「な、何も…」
鏡の中のハリーは現実のハリーと同じ怯えた顔をしている。特別なものは見えず、ハリーは困惑した。
しかしクィレルが狼狽し苛立ち始めると、鏡の中のハリーが突然こちらへウィンクをした。その手には赤く輝く石を握っていた。鏡像はいたずらっぽく微笑むと、ズボンの右のポケットをぽんっと叩いた。
ハリーは自分のポケットになにか固いものが入ってるのに気づいた。
“賢者の石”だ!
ぼくが手に入れた!
危うく歓喜の表情が出るところだった。しかしハリーはぐっとこらえ、見えもしないご馳走について説明をした。クィレルは当然苛立つ。しかしその苛立ちには先程見せた挑発的な表情と違う何かが潜んでいた。
「埒が明かんな」
また、誰かの声が聞こえた。今度は出処がはっきりわかった。クィレルの頭から聞こえたんだ。それがわかりハリーは足がすくんだ。クィレルも泣き出しそうな顔をしていた。
「わしが直接話す」
「ですがご主人様!あなた様はまだ…」
「くどいぞ!」
逃げ出したいのに魔に魅入られたように足が動かない。クィレルはターバンを解く。そしてゆっくりと体を後ろに向けた。
ここでようやく、ユニコーンの血をすすっていた“何か”がずっと森で暮らしてたんじゃなくて、ハリーのすぐそばに潜んでいたんだと気づいた。
ギラギラと光る赤い瞳。蝋のように白い肌。蛇のように縦に裂けた鼻。これまで見たことのない、醜悪な異形がそこにあった。
「ハリー・ポッター…」
ハリーは呼ぶまでも無くそのものの名を直感した。
「貴様のおかげで、この有様だ。今のわしは影と霞に過ぎない。だが賢者の石さえあればわし自身の体を創造することができる。……さあ、ポケットにある石をいただこうか?」
ハリーは後ずさりした。石の在り処はお見通しだった、それだけで彼の強さはわかった。ハリーが震える手で杖を掲げると、彼は高らかに笑った。
「馬鹿な真似はよせ。両親のようになりたいのか?」
ハリーは何か呪文を唱えたかった。けれどもこの悪魔に効く魔法なんてハリーは知らない。ただ杖先がか細く震えるだけだ。それを見て彼はますます顔を醜く歪め、裂け目のような口から毒のような言葉を吐き出す。
「わしはいつも勇気を称える。お前の両親は勇敢だった。わしはお前を殺しに行った。母親はお前を守って死んだ。死ぬ必要はなかったというのに」
「だまれ!」
ハリーは先程くぐってきた炎の扉へ駆け出した。
「捕まえろ!」
しかしクィレルが杖を振るうとフロアが一面火の海に包まれた。
退路を絶たれたハリーの腕をクィレルが掴んだ。そのとたん、ハリーの額の傷に鋭い痛みが走った。その痛みに悲鳴を上げながらもがくと、クィレルの手があっさり離れた。
「あ……」
クィレルが間抜けな声を上げる。呆然とした表情で、ハリーを掴んだはずの手を見ていた。その手はみるみるうちに炭のように焼け、灰のように崩れた。
「わあああああーーッ!ご主人様!手が、私の手が!!」
「愚か者ッ!ならば殺せッ!!」
クィレルの悲鳴にやつの頭の後ろから罵声がなる。クィレルは血走った目を見開いて、ハリーへ襲いかかった。
クィレルはハリーを押し倒すと迷わず首を絞めた。炭化した指が喉に食い込む。ハリーは手を突っ張ってクィレルをどかそうと足掻いた。
するとクィレルがハリーに触れたところからみるみるうちに炎で炙られたかのように、皮膚が焼け爛れ組織が崩れ落ちていく。
ハリーはがむしゃらに手のひらにあたるクィレルの顔を掻きむしった。悍ましい悲鳴が聞こえ、新雪を踏むような奇妙な感触があった。途端抵抗がなくなり、指先に灰が絡みついた。傷が割れるように痛み、体が真っ二つにされるような感覚がして、ハリーの頭の中が真っ白になった。
チカチカする視界の端、炎の扉のむこうから黒い何かが転がるようにしてやってきたのを見て、ハリーの意識は途絶えてしまった。
次にハリーが目を覚ましたのは医務室のベッドの上だった。瞬きをすると視界がはっきりして、自分のベッドを覗き込むようにしてダンブルドアがそばに座っているのがわかった。
「おはよう、ハリー」
ハリーは飛び起きて慌ててこれまで起きたことを説明した。
「先生!石が…えっと、クィレルが!クィレルが犯人だったんです。そして頭の後ろに…あいつが…」
「ハリー、落ち着きなさい。何が起きたかはみんな知っている。実はあれからもう3日経っとるからのう」
ハリーはびっくりしてダンブルドアを見つめた。ダンブルドアは半月メガネの向こう側で優しく微笑んだ。よく見るとベッドの周りには色とりどりのお菓子や花が飾られていて、窓際では魔法で作られた黄色い小鳥まで囀っている。
「なにが…なんだか」
混乱するハリーに、ダンブルドアは優しく微笑んだ。
「ふむ。なんでも質問しておくれ、ハリー」
ダンブルドアは丁寧に、ロンとハーマイオニーの無事と賢者の石の行く末について説明した。石はニコラス・フラメルと話し合い砕くことに決めたらしい。
そして次に、クィレルのやった悪いことと、彼が死んだことを話した。
「クィレルが死んだなら…ヴォル…例のあの人は…」
「ヴォルデモートじゃよ。ハリー、名を恐れてはならない」
「ヴォルデモートは…死んだの?」
「いや、退いただけじゃ」
ハリーはあのときの恐怖を思い出した。そして杖を構えて結局何もできなかった不甲斐なさも蘇ってきて、拳を握りしめた。
「ヴォルデモートは…どうして僕を殺そうとしたんですか?」
「ハリー、それを語るには早すぎる。もう少し大きくなれば、きっとわかるじゃろう」
「クィレルは僕に触れられなかった」
「そうじゃ。ヴォルデモートに理解できないものが君を守ったのじゃよ。君の母上は君を守るために死んだ。母上の深い愛が、欲望に溺れたクィレルのようなものから君を守ったのじゃよ」
「お母さんが…」
「そうとも、ハリー。君は深く、深く愛されていたんじゃ。そして今も、その印は刻まれている」
ダンブルドアはそっとハリーの額に触れた。なんだかようやく、両親がここにいないという事実と向き合ったような気持ちだ。ハリーは目から溢れた涙をそっと拭った。
ダンブルドアは小鳥を眺め、ハリーが泣き止むのを待ってくれた。
「あの…最後の質問です」
「どうぞ」
ハリーは鼻をすすってから、ずっと気になっていたことを尋ねた。
「スネイプ先生は…ひょっとして、僕の両親と友達だったんですか?」
「ああ。同級生じゃった」
「どうしてスネイプ先生は僕のことを嫌いなのに、僕を守ったんでしょう?」
「おお、ハリー。誤解が誤解を呼んでおるようじゃのう。確かにスネイプ先生はご両親と同級生で、君のお父さんに命を救われたことがある。…じゃがある決定的な出来事があり、二人は犬猿の仲じゃった」
「じゃあ…先生が僕を嫌うのは父さんのせい…なんですか?」
「いや。人の感情とは時として複雑な層をなし、どこに向かうのかわからないものでの」
「ええっと…つまり?」
「ハリー、わしに言えるのは好きの反対は嫌いではなく、無関心だということじゃ」
ダンブルドアは例のいたずらっぽい笑みを浮かべ、ハリーの見舞い品の百味ビーンズを一つつまんだ。
ハリーが医務室から開放されると、寮を挙げてのお祭り騒ぎが始まった。浮かれ気分は学年度末パーティーまで続いた。
寮の点数が最後の最後、大逆転したところでグリフィンドール寮の興奮はピークに達し、みんな帽子を投げ捨てて祝いに祝った。
帽子や花火が広間の天井を埋め尽くす中、ハリーはスネイプの方をちらりと見た。
スネイプはスリザリンから優勝トロフィーを奪われたせいか、ものすごく不機嫌そうな顔をして肘をついてむくれていた。
火花が降り注いで、銀食器が光を反射させていた。ふいにスネイプがハリーの方を見た。
しっかりと目があった。
ありとあらゆる音が消え去ったみたいに感じた。
ハリーは眩い光の雨に、みぞの鏡の広間で見た炎を重ね合わせた。
ハリーは気絶する前に確かに見た。
とても必死な顔をして駆け寄るスネイプを。
あのときの彼女は顔は青ざめていて、走ったせいかそれとも炎のせいか、頬だけがほのかに赤かった。
スネイプはほとんど転ぶようにしてハリーに覆いかぶさり、クィレルのローブと灰みたいな残りカスを振り払った。
ハリーの目には彼女の黒いローブが炎に煽られ踊ったように見えた。
そしてスネイプは、痛みで火照るハリーの額に冷たい指でそっと触れた。
先生が本当に僕を嫌いなら、どうしてあんな表情をするんだろう。
どうして助けにきてくれたんだろう。
どうしてあんなにおっかなびっくり、僕に触れたんだろう。
父さんと昔、何があったんだろう。
母さんとは知り合いだったのかな。
知りたいことだらけだ。
スネイプがぷいっと顔をそむけた。
そうしてやっと周りの音が戻ってきた。横にいたジョージが飛びついてきて、ハリーの意識は喧騒へと戻っていった。
胸に僅かな、炎のような熱を残して。