ぼたりと汗が落ちた。
目が眩むような太陽の光と、蒸し暑さで息が詰まる。少年は小さな手で汗を苛立たしげに拭った。
(こんな暑さで遊ぶなんて、どうかしてる)
少年――雲雀恭弥はついさっき、並盛幼稚園から32回目の脱走を果たしたところだった。
季節は夏。
ビニールプールで遊ぼう!なんて保育士の声に、嫌だと言ったのは自分だけだった。
恭弥にとって、群れの中にいることは苦痛だ。プールなんて周りの子供が余計にうるさくなる。耐えられない。
小さな体でフェンスを乗り越え、誰にも見つからないように走る。
向かう先は、最近見つけた小高い山だ。そこは見通しが悪く、ひんやり涼しい絶好の隠れ場所だった。
また家に連絡が行くだろうが、そう簡単に捕まるつもりはない。
麓に辿りつき、獣道すらない斜面を登っていく。先日雨が降ったせいか、湿った土の匂いが強い。
土を踏み、草をかき分ける。
しかし中腹あたりまで進んだところで――冷風がピリッと頰を撫でた。
(つめたい……つめたすぎる?)
山の中は涼しいとはいえ、こんな、氷水のような風が吹くだろうか?
肌が痛くなるほど冷ややかな風が……吹くだろうか。
恭弥は異変に気づき、息をひそめて耳を澄ませた。
すこし上のほうからパキン、カシャンとガラスの割れるような音が響いている。
足音をなるべく立てないようにしながら、音のした方角へ向かった。近づくにつれ音が大きくなる。
ひらけた場所に出たとき、ついに音の正体が視界に入って――息を吞んだ。
薄暗い森の中に、何本もの氷像が立っている。
どの像もスーツを着た男の形で、驚いているような、何かを避けようとしているような格好をしていた。
あまりに精巧すぎて、人間がそのまま凍ってしまったように見える。
目を疑うような光景の中心に、恭弥より少し背の低い、フードを被った子供がいた。
子供は小さな手を伸ばし、ノックするように氷像を叩く。その途端、氷像は大きな音を立てて砕け散った。
先ほどから聞こえていた音の正体はこれのようだ。
次々と氷像が壊される。地面に散らばった氷は、ありえないことに一瞬で蒸発するように消えていった。
何が起きているのか分からない。それでも、目を逸らす気にはなれなかった。
氷像が残りひとつになったところでようやく呼吸の仕方を思い出す。大きく息を吸った恭弥は、思いきって声を掛けた。
「ねえ」
「っ!?」
呼びかけに反応し、子供が勢いよく振り向く。その拍子に被っていたフードが外れた。
――ライオンみたいだ。
とっさにそう思った。
振り向きざまに舞った肩まである髪は薄い金色で、大きな瞳も琥珀色にギラギラと輝いている。金色の子供から放たれたのは殺気だった。
幼稚園にいる他の子供たちとは明らかに違う。これは、強い生きものだ。恭弥と同じ。
恭弥は無意識に笑みを浮かべていた。
金色の子供はこちらを見て驚いたように目を丸くした。
「……きみ、みてたの?」
「うん。ふしぎだね、なにをしてるの?」
「えっと……」
焦ったように子供が視線を泳がせる。
「べつに、だれかに言ったりしないよ」
そう言った途端、子供はぱあっと明るい笑みを浮かべた。どうやら安心したらしい。
さっきみたいな迫力のほうが好きだったのに、とすこし残念に思う。でもこれはこれで、まあ……かわいいからいいか、とも思った。
子供は恥ずかしそうに手を後ろに隠し「ぜったい、ぜったいだれにも言わないでね」と囁く。
「わるい人をね、たいじしてるの」
「……それ、人だったの?」
「うん。こおらせて、えいってしたら消える。いいでしょ」
いいでしょ、と言いつつも子供の瞳は不安げだった。しかし、恭弥は人だったからといって特に思うことはない。
強そうな同い年くらいの子供がいる、同類がいる、それだけが嬉しかったのだ。
「それはどーでもいい」
「えっ……」
「ねえ、だれにも言わないかわりに、僕といっしょにあそんで」
「あそぶ?」
首を傾げた子供の前で、恭弥の体に合わせて作られた木製のトンファーを取り出す。
相手はしばらく訝しげな顔をしていたが、恭弥が構えたところでようやくトンファーが武器であると分かったらしい。
「……たたかうの、すきなの?」
「うん」
「おれ、こおらせることしかできないよ」
「おしえてあげる」
この生きものなら絶対に強くなる、そう確信しながら笑った恭弥に、子供は目を輝かせた。
「おれも、つよくなれるってこと?」
「そうだよ。つよくなって、たたかうんだ、僕と」
「やる、おしえて。ともだちになろ」
最後の氷像を視線すら向けずに叩き壊したあと、子供は頬を緩めて恭弥へ手を差し出した。
「……いいよ。僕は、雲雀恭弥」
「きょーやくんね。おれは沢田
「……僕も、恭弥でいい」
小さく言って手を握る。
それは、雲雀恭弥に初めて友達と呼べる存在ができた日のことだった。
▽
恒例の集合場所となった山の中で、沢田家継は緊張しながらそっと新しくできた友達を見上げた。
何回か会ったあと、恭弥がどうやって人を凍らせているのか聞いてきたのだ。
むしろ今まで尋ねられなかったことのほうが不思議ではある。
家族には絶対に言えない秘密だが、彼なら聞いてもいつも通りの顔で遊んでくれる……はずだ。
そう思っていても緊張する。
自分でもまだよく分かっていない能力を、彼はどう思うのだろうか。嫌われたりしないだろうか。
きゅっと唇を引き結んだあと、興味津々で覗き込んでくる友人におそるおそる声を掛ける。
「もうちょっと、離れたほうがいいかも……」
「いやだ」
「あ、あぶないから! 火が当たったら、きょーやが凍っちゃうよ」
「……火? 氷じゃないの?」
「火がでて、凍るんだよ。ね~、ほんとにあぶないから……」
彼はむすっと不服そうにしつつも、1歩、2歩と後ずさった。
安心できる距離になってやっと、家継は自分の両手に視線を落とす。
そこには小さな箱が載っていた。
――それは白い石のような素材で出来ている。
四隅に金の装飾が施され、そのひとつから金のチェーンが伸び、家継の手首に巻きついていた。
強く目を閉じ、箱全体に炎を纏わせるようなイメージをする。
カチリと小さな音がして、箱の1面だけが開く。ひっくり返すと中から白いおしゃぶりが転がり落ちてきた。
片手で受け止めた家継は「ほら、これだよ」と恭弥に見せる。彼は黒い瞳をすこし丸くして、周囲にうっすらと白い炎を纏うおしゃぶりを眺めた。
「なんでおしゃぶりなの?」
「わかんない……」
おしゃぶりは赤ちゃんが使うものだ。5歳になる家継でも知っている。
けれど、こういう形なのだから仕方がない。自分が選んだわけではないのだ。
「それで、凍らせられるんだ」
「うん。この火を広げていったら、みんな凍るんだ。さわっちゃだめだよ」
「わかってる。これ、誰にもらったの」
「……変なおじさん?」
首を傾げると、恭弥は眉間に皺を寄せた。
「変なひとにはついていくなって、教えてもらわなかった」
「知ってるよ! ちがうの、家の中に出たの!」
まるで虫やオバケのような表現をしてしまったが、本当にそうとしか言えない状況だったのだ。
家継が覚えているのは、3歳になったころ、妙な帽子と仮面を付けた男が家の中にいたこと。彼がおしゃぶりと箱をくれたこと。そして――
『――おはよう、3代目ネーヴェ。これは君を、君として生かすものだ。……時がくるまで好きに使うといい』
そう告げた男が、その場で煙のように消えてしまったこと。
身振り手振りを交えて恭弥に伝えると、彼は「ふぅん」とだけ言った。説明しているうちに飽きてきたらしい。
何から何まで怪しいおしゃぶりだ。けれど、使わざるを得ない状況だった。
なぜなら家の周りで黒い服を着た不審者によく会うからだ。それも父がいないときに限って。
彼らは見た目だけでも怖いのに、武器まで持っている。
……だから、この力をもらって良かった。
人を殺すことが悪いことだということは知っている。けれどそれより家継は、自分と家族の命のほうが大切だった。
揺らめく白い炎を眺めていると、恭弥がゆっくり立ち上がり「ねえ」と口を開いた。
「そろそろ戦おう。おしゃぶりはもういいよ」
「きみが見たいって言ったのに」
「見たからもういらない」
新しい友達はわがままだ。家継がどれだけ緊張しても心配しても、彼はいつも平気な顔で好きなように暴れ回っている。
ただ戦ってくれる遊び相手がほしいだけなのだろう。
そうやってなんでもないように接してくれるのが、家継にとってすごく嬉しいことだった。
だから何度ボコボコにされても、頑張ろうと立ち上がれる。引きつる傷を押さえて大きく深呼吸をする。
はやく、と急かされた。
おしゃぶりを箱に戻してポケットに仕舞う。それから「いーよ、たたかお」とのんびり返事をして、家継は朗らかに笑みを浮かべた。