<プロローグ>…涼水 玉青視点
<お昼休みは大忙し>…涼水 玉青視点
<お願い>…涼水 玉青視点
■人物紹介
・涼水 玉青(すずみ たまお)
ミアトルの4年生。ルームメイトの渚砂とはお互いにちゃん付けで呼び合っている。名前にも『青』が入っているように腰の辺りまで伸びた青い髪が自慢で、普段は邪魔にならないようにシニヨン(ポニーテールを丸くまとめたようなもの)という髪型にしている。
・蒼井 渚砂(あおい なぎさ)
ミアトルの4年生。両親の海外転勤という事情により急遽このアストラエアの丘にやってきた編入生。少し小柄だけど赤茶色のポニーテールが目立つ元気溢れる活発な少女。
・竹村 千早(たけむら ちはや)
玉青たちのクラスメイトで料理部所属。小さいおさげを2つ結んでおり、紀子とは1年生からず~っとルームメイト。
・水島 紀子(みずしま のりこ)
おなじく玉青たちのクラスメイトで弓道部所属。動きの邪魔にならないようにと髪型はボブ。千早との仲をミアトル随一と自負している。
第0章改訂版「ただいまとおかえり」
<プロローグ>…涼水 玉青視点
「あぁ~渚砂ちゃんたら、今朝の寝顔も………可愛いくって素敵ですわ~」
両手で頬を挟みながら私は感嘆の声を上げた。毎朝見ているというのに、こうしてため息が漏れてしまうのは今日も変わらない。それもひとえに渚砂ちゃんが可愛すぎるのがいけないのだ。
朝の静けさの中、規則正しくすぅすぅという寝息を立てる少女はまだ夢の中。枕もとの目覚まし時計に目をやると起床時間まではもう少し猶予がある。ならこのまま寝かせておいてあげよう。どのみち、この幸せそうな寝顔の前では私は無力なのだから。
そう考えブランケットを掛け直してあげながら耳元で囁いた。
「渚砂ちゃんがルームメイトで本当に良かった。大好きですよ渚砂ちゃん」
「この丘って本当に広いよね~。私まだ慣れないや」
『いちご舎』と呼ばれる寄宿舎での朝食を済ませ、学校へと向かう道の途中で渚砂ちゃんが小難しい顔をして呟いた。一歩踏み出すごとにぴょこぴょこと揺れるポニーテールがなんとも可愛らしい。
「そうですね。幼稚園から通っている私でも行ったことのない場所が結構あるくらいですから」
「ええっ!? そうなの?」
「ふふふっ。驚いちゃいますよね」
私たちがいるのは通称『アストラエアの丘』。3つの女学校と3校共通の寮であるいちご舎を内包する広大な丘だ。私と渚砂ちゃんが通う『聖ミアトル女学園』も当然この敷地内に存在している。ちなみに4年生というのは、この丘の女学校が中高一貫の6年制を採用しているからで、普通で言うところの高校1年生に該当する。
「玉青ちゃんがルームメイトで良かったよ。初めは寮生活って聞いて、意地悪な人と同じ部屋だったらどうしようってずっと不安だったもん」
「じゃあ私と渚砂ちゃんは相思相愛ですね。私もそう思ってましたから」
「もぉ~~~、玉青ちゃんてばすぐそういうこと言う」
照れ臭そうに顔を赤らめ、歩く速度を上げた渚砂ちゃんの後を追いかける。朝の心地よい日差しの中、こうして渚砂ちゃんと一緒に登校できるのは私にとってこの上ない喜びだ。
大袈裟だって思われるかもしれないけど、それには私の事情も絡んでいたりする。
あれは1年生の時。寮生活の希望者が奇数だったこともあり、1人で生活する生徒をくじ引きで選ぶことになった。後はみなさんのご想像の通り、私はものの見事に外れくじを引き当てたというわけである。
一人だと気楽でいいじゃないと言われることもあったが、そりゃあ生活は一人でも出来るかもしれないが寂しいことに変わりはない。みんなが嬉しそうに相部屋生活を送る中、一人寂しく過ごしていたのもあって私のルームメイトへの憧れは特別なものへと昇華されていった。
そして迎えた4年生。今年も一人で過ごすのかと諦めかけた時、私は渚砂ちゃんと出会った。運命なんて言葉を軽々しく使いたくはないけれど、それでも私はこの出会いを運命だと信じている。
「こうやって登校するの、ずっと夢だったんです。他の子がルームメイトと歩いている姿が羨ましくって。やりたかったことリストでも必ず上位にランクインしてた念願が叶っちゃいました」
今はもう、周りを見ても悔しくなんてならない。だって私には渚砂ちゃんがいるんだから。また1組、他の子たちを追い越しながら私が心の中で喜びに浸っていると、袖がクイクイッと引っ張られ、渚砂ちゃんが私を見上げていた。
「ねぇ玉青ちゃん、校舎まで競争しようよ」
「渚砂ちゃんは朝から元気いっぱいですね」
「うんっ! だって玉青ちゃんといるの楽しいんだもん」
「あ、ずるいですよ渚砂ちゃん。そんな風に言われたら断れるわけないじゃないですか」
「よ~し。それじゃあいくよ~。よーいドンッ!!」
合図を機に二人そろって校舎までの道をパタパタと駆けていく。カバンは脇に抱え、髪は風に靡かせて。シスターに見られたらきっと怒られちゃうだろうけど、楽しくて笑いが止まらない。
ここはアストラエアの丘。私と渚砂ちゃんの物語が、今始まろうとしていた…。
<お昼休みは大忙し>…涼水 玉青視点
昼休み。ミアトルの校舎内にある食堂兼カフェは、授業の疲れを癒そうとオアシスを求める生徒たちでごった返していた。3校にはそれぞれこういった食堂やカフェが設けられているが、おそらく他の2校も今頃はこんな風に戦場と化しているだろう。
人気メニューや窓側の席など、そこには上級生や下級生の垣根もなく、とにかく早い者勝ちのシビアな世界。私たちも授業が終わると同時にダッシュでやって来たのだが、あいにく行列に巻き込まれてしまっていた。
(ああ、もう。今日は天気が良いから、絶対に窓側の席にしようって決めてたのに)
恨めしそうに眺めていても行列はなかなか進まない。次々と席が埋まっていく様子にもどかしさばかりを募らせていると、渚砂ちゃんがヒソヒソ声で話し掛けてきた。
「もうちょっとくっ付いても良いかな? なんだか詰めた方が良さそうだから」
後ろを見ると、行列はさらに伸びて食堂の入り口付近まで続ている。どうやら授業の終わるタイミングが重なってしまったらしい。
「そうですね、列もかなり長くなってますし」
私の言葉に頷いた渚砂ちゃんが前に進もうとしたその時。
みんな同じことを考えていたのか、行列の中盤から前方向へと波が発生し、おしくらまんじゅうのように伝わったそれは、あれよあれよという間に渚沙ちゃんのところまで届き、そして━━━。
「わわわっ」
「渚砂ちゃんっ!?」
バランスを崩した渚砂ちゃんに抱き着かれてしまった。偶然だったとはいえ、ちょっぴりドキッとする。
「ご、ごめん玉青ちゃん」
「いえ、私は大丈夫ですから」
こんな嬉しいハプニングがあるなら、行列も悪くないかもしれない。そう思った一瞬だった。
その後無事に日替わり定食が乗ったトレーを受け取った私はお目当ての席へと急ぎ、残り僅かとなっていた窓側の席を確保すると後ろを振り返った。
「渚砂ちゃ~ん。こっちですよ!」
「さすが玉青ちゃん」
手を振りながらの呼びかけに渚沙ちゃんが少し遅れてやって来る。トレードマークの赤茶色のポニーテールはこの混雑でも視認性抜群だ。
「私もうお腹ペコペコ」
「ふふふ。今日の食堂は激戦区でしたからね。私もペコペコです」
「それじゃあ、いただき━━━」
「━━━ダメですよ、渚砂ちゃん。食前のお祈りをしますから箸を置いて下さい」
待ちきれずに箸を持った渚砂ちゃんを嗜(たしな)める。うぅ~、と悲しそうな顔を浮かべたもののきちんと箸を戻すあたり、ここでの生活にもだいぶ慣れたようだ。
少しでも早く食べさせてあげようと、本当はよくないんだけど2倍速くらいでお祈りを済ませ、さぁお待ちかねの。
「「いただきます」」
二人分の声が重なりいざお昼ご飯。渚砂ちゃんの手前、毅然と振舞ってはいたけど私も空腹で限界だった。
私は日替わり定食で、渚砂ちゃんはボリューム満点のハンバーグセット。
アツアツのそれを美味しそうに頬張る姿は実に幸せそうで、見ているだけで私の心を満たしてくれる。私も負けじと自分の分に箸を伸ばすと口に放り込んでいった。
毎日食べても飽きないようにと期間限定メニューがあったり、同じメニューでも少しずつ改良が加えられたりとミアトルの食堂はなかなかに侮れない。今日の日替わり定食も付け合わせの小鉢が新作でとても美味しかった。後でアンケートを出しておこう。評判が良いと復刻だったり、定番化されたりするので、意外とメリットがあったりする。
「ねぇ玉青ちゃん。そろそろ…」
半分くらい食べ進めたあたりで渚沙ちゃんが声を掛けてきた。恒例のアレだ。
「ええ、いいですよ。渚砂ちゃんは何が欲しいですか?」
「唐揚げ、もらってもいいかな?」
「分かりました。代わりにハンバーグを少しもらいますね」
おかずの交換っこである。知ってる味でも相手からもらうと妙に美味しく感じるのはどうしてなんだろう? 食事前のつまみぐいに通ずる何かがきっとあるに違いない。
(それにしても…)
渚砂ちゃんは食欲旺盛なわりに華奢な身体つきをしていて、栄養はどこに行ってるんだろうと不思議に思うことがある。今日だってご飯大盛りなのに茶碗に残っている量は私とあまり変わらない。
「ゆっくり食べないと消化に悪いですよ」
「えへへ。分かってはいるんだけど、ついついおいしくって」
「はい、これ。渚砂ちゃんの分の唐揚げですよ」
お皿に乗っけてあげるつもりで持ち上げたのに、渚砂ちゃんは『あ~ん』と口を開けてスタンバイ状態。
「もう、渚砂ちゃんったら」
仕方ないんだから。口ではそう言いつつも、その可愛さに負けて持ち上げた唐揚げをそっと口の中に入れてあげる。満面の笑みを浮かべて唐揚げを頬張る渚砂ちゃんは、どこか餌を待つ雛鳥を連想させた。そんな姿に私の母性本能もおおいにくすぐられ、おまけでもう1個あげたくなってしまう。
動物園の飼育員さんってこんな気持ちなのかもしれない。
「玉青ちゃんてさ、同い年なのに凄くしっかりしてるよね。時々お母さんみたいだなって思うことがあるんだ」
「えっ? おかあ…。えっ?」
ニコニコ笑いながら言うから渚砂ちゃんに悪気はないんだろうけど、私はちょっとだけショックを受けた。自分なりに精一杯優しくしてあげた結果が、同い年の子にお母さんって思われてしまうだなんて。
「あ、違うよ? お母さんみたいってのはあくまで例えで。安心できるとか、落ち着くなって意味で。ほら、玉青ちゃん私のお世話たくさんしてくれるし」
私の反応を見て慌ててフォローを入れてくれたけど、あまりフォローになっていない気がする。友人からの何気ない一言に傷付いた私は、せっかくなので意地悪をすることにした。
「渚砂ちゃんは次の数学のミニテスト、準備ばっちりですか? たしか数学は苦手って言っていましたけど」
うっ、という呻き声と共にこれまで快調に飛ばしてきた箸がぴたりと止まった。よく見ると箸の先がプルプルと震えているのが分かる。チラリと顔を窺うと、助けを求める子羊のような目でこちらを見ていた。どうやらミニテストの存在自体を忘れていたらしい。
「あのね玉青ちゃん。お願いが…」
「ダメですよ、自分で勉強しないと」
「そ、そこをなんとか」
涙目で訴えかけてもダメなものはダメ。今日の私は渚砂ちゃんのお母さんなわけだし、厳しくしないと。勉強して欲しいと願う親心というやつだ。
「もしかして、さっきお母さんみたいって言ったの、怒ってる?」
「ふふふっ。さあどうでしょう?」
「そうなら謝るから。ねっ? ねっ?」
「まぁ、渚砂ちゃんがそこまで言うなら…考えなくもないですけど」
ちゃんと気付いてくれたから意地悪はこれでおしまいにしてあげよう。一応、今回だけですよといった雰囲気を醸しつつ助け舟を出してあげる。
「教室に戻ったら範囲を教えますから。一緒に確認しましょう、ね?」
「ほんとに? やったぁ」
顔をパァッっと輝かせ救世主でも崇めるような勢いで私を見つめている。私にとっては渚砂ちゃんの方がよっぽど救世主なんだけど、それは内緒。
それにしたって喜怒哀楽の中でも、渚砂ちゃんの喜は本当にずるい。こんな顔をされたら誰だって優しくするに決まってる。
(あ、でもちょっとだけ意地悪もしたくなるかも…)
「玉青ちゃん! 早く食べて教室に戻ろ」
元気を取り戻した渚砂ちゃんの声に急かされるようにして私も箸を動かすのだった。
「いいですか渚砂ちゃん。ここからここが━━━」
教室に戻ると授業までの時間を使って早速ミニお勉強会が開催された。渚砂ちゃんとは席が前後同士なのでこうゆうときに気兼ねなくやり取りできてとても助かっている。ルームメイトが近くにいれば何かと相談できて安心できるだろうと担任の先生がこうしてくれたのだ。
ちなみに渚砂ちゃんが前で私が後ろ。だから私の席は一日中渚砂ちゃんを見ていられる特等席である。
「あれ? 次の数学ってミニテストあるんだっけ?」
「えっ? 朝に部屋で言ってあげたじゃない。もう忘れちゃったの? 呆れた…」
私と渚砂ちゃんの様子を見て話しかけてきたのはクラスメイトの紀子さんと千早さん。
忘れていたうっかりさんが紀子さん。弓道部所属なだけあって姿勢がとても綺麗で、髪も短くスポーティな印象だ。注意した方が千早さん。料理部所属で小さいおさげを2つ結んでいる。
二人は1年生の時からずっとルームメイトとして生活しており、そのやり取りは夫婦漫才さながらといったところ。いちご舎での部屋が私たちのお隣さんということもあり普段から仲良くしていて、渚砂ちゃんが早くからクラスに馴染めたのは二人が積極的に話しかけてくれたおかげだ。
ただ、二人には困ったこともあって…。
「渚砂さんいいな~。玉青さんに勉強教えて貰えて。玉青さんって頭良いから教えるのも上手でしょ? 誰かさんと違って」
「その誰かさんってもしかして私のこと? そりゃあ玉青さんには勝てないけどあんたよりはずっとマシなんだからね、紀子」
「この前教えてくれたやつ全然答え違ったじゃない。千早のバカー」
「バカって何よー。もう勉強教えてあげないわよ」
(また、ですか…。お二人とも本当によく飽きないというかなんというか)
喧嘩するほど仲が良いを地で行く二人はしょっちゅうこんな感じで、ひどい時には一方が部屋から追い出されていちご舎の廊下に座り込んでるなんてこともあった。それでも翌日にはケロッと仲直りしているんだから羨ましい限りである。
(この様子だと昼休みが終わるころにはすっかり元通りでしょうね)
正直、ちょっと妬いてしまう。私もいつか渚砂ちゃんとこんな風になれるだろうか? 結局二人が来てからはあーだこーだと盛り上がり、碌に勉強しないまま授業開始を知らせるチャイムが鳴り響いた。
「あっ。ミニテストの勉強、全然…してない…」
今更後悔したってどうしようもない。楽しくお喋りしたのだから自業自得だ。私はにっこりと微笑むと渚砂ちゃんに告げた。
「さぁ前を向いてくださいね渚砂ちゃん。授業が始まってしまいますから」
「玉青ちゃんのいじわる~~~~」
<お願い>…涼水 玉青視点
「はぁ~今日も疲れたー」
数学のミニテストを乗り越え その後の授業もやり遂げた渚砂ちゃんはどうやら電池切れのようだ。ぐったりと机に突っ伏すとそのまま動かなくなってしまう。今日は所属している文芸部の活動もないし、帰ったら渚砂ちゃんにお茶とクッキーでも出してあげようかな。
そんなことを考えていると教室の窓から銀髪の生徒が歩いているのが見えた。その手には花瓶を持っている。
(温室のお世話…でしょうか。エトワールの仕事も大変そうですね)
しばらく目で追っていたが今の私には渚砂ちゃんをいちご舎に連れて帰るという大事な使命がある。その生徒から目を離し、未だに机に突っ伏したままのルームメイトに声を掛けた。
「渚砂ちゃん。この間もらったクッキーがまだ有りますから帰ったらお茶にしましょう。ミルクとお砂糖をたっぷり入れて飲むと疲れが取れますよ」
「ほんとっ? 玉青ちゃんが入れてくれるお茶ってすっごく美味しいから、いっつも楽しみなんだ~」
食いしん坊なんだから。食べ物に反応しガバッと飛び起きたその瞳は、キラキラと輝いていてエネルギーに満ち溢れている。先程までのグロッキーはどこへやら。あっという間に元気を取り戻した渚砂ちゃんに引っ張られるようにして私は教室を後に━━━。
「って、ああ。渚砂ちゃん、カバンを忘れてますよ」
「あ、しまった。またやっちゃった。えへへ」
机に掛けられたカバンを手に今度こそ教室を出て家路につく。家とはもちろんいちご舎の事だ。正式な寄宿舎だけあって元々そう大した距離ではないが、渚砂ちゃんと話しながらだとその帰り道もことさら短く感じてしまう。
普通なら名残惜しさを感じるのだろうけど、いちご舎で暮らす生徒にはそんなことは関係ない。それは寮生活を行う生徒の特権でもある。
だってベッドにカバンを放り投げたら、すぐに会いに行けばいいのだから。誰かの部屋でもいいし、くつろぐための談話室や休憩スペースだっていちご舎には存在している。
そして幸運なことに私と渚砂ちゃんはルームメイトなのだ。朝出掛ける時も素敵だけど、こうやって帰ってきた時の方がその実感がより鮮明になり、この部屋が神聖な儀式を行うための特別な場所であるかのように錯覚してしまう。
ううん、錯覚じゃない。だってこれからするのはとても神聖な儀式なのだから。頭の中で訂正をしつつ声を掛けた。
「さぁ渚砂ちゃん」
私はその手を取るとお姫様をエスコートするように部屋の中へ誘(いざな)った。二人でしずしずと部屋の中を進んでから手を離し、踊るようにくるりとターンをすれば準備完了だ。
渚砂ちゃんは恥ずかしそうに少しはにかんだ顔を浮かべた後、私に向かってとっておきの言葉を言ってくれた。
「ただいま。玉青ちゃん」
「はい、おかえりなさい。渚砂ちゃん」
たったこれだけのことで私の心は簡単に満たされてしまう。だってこの言葉は一人で過ごしていた時にはどうやっても手に入らなかったもので、誰もいないガランとした部屋には、ただいまを言ってくれる相手も、おかえりを言う相手もいないのだから。
胸の奥がじんわりと熱くなり、思わず涙が浮かびそうになる。もう何度か繰り返したやり取りだけど私にはまだ新鮮だった。
笑みを浮かべた渚砂ちゃんが私の言葉を待っている。今度は私の番だ。
「ただいま。渚砂ちゃん」
「うんっ。おかえり玉青ちゃん」
以前私たちのことを、新婚さんのようだ、と隣室の二人は評したけれど、やっぱり照れ臭い。でもあながち間違っていないのかも。出会ったばかりだし、こうやって一緒に住んでいるわけだし。
今なら分かる。ルームメイトって誰でも良いわけじゃないんだって。他の誰かじゃなくて渚砂ちゃんだから、私はこんなにも幸せなんだと。他の誰かじゃ、きっともう私は満足できない。そんな渚砂ちゃんが私と同じ部屋にいて、夜になっても、朝目が覚めても私の隣に居てくれる。これ以上の幸せが、他にあるだろうか?
だから何年も待ったのは決して無駄じゃなかった。これは強がりなんかじゃない。
「お茶を入れますから少しだけ待っていてくださいね」
「は~い」
ティーポットに2杯分の茶葉を入れお湯を注ぐ。クッキーを小皿に出して、もちろんティーカップも2つ。ああそうだ、お疲れの渚砂ちゃんのために砂糖も多めに用意しておこう。ミルクも忘れずに用意してっと。
「いただきまーす」
「どうぞ召し上がれ」
渚砂ちゃんと一緒に私もカップに口を付ける。うん、おいしい。渚砂ちゃんに少しでも美味しいお茶をと淹れ方やお湯の温度を工夫するうちにだいぶ上達したようだ。
お隣の二人からも高評価だったし、次は誰に飲んでもらおうか。
「朝も言ったけど私ね、玉青ちゃんがルームメイトで良かったと思ってるんだ」
クッキーを食べていた手を止め渚砂ちゃんがポツリと呟いた。置かれたカップから漂う湯気が二人の間をゆらゆらと彷徨い、渦を描く。そのうっすらと白いカーテン越しに見えた神妙な面持ちに私も手を止め言葉を返す。
「どうしたんですか、改まって」
「いやほら、玉青ちゃんはしっかりしてるから私じゃなくても大丈夫そうでしょ? でも私は玉青ちゃんじゃなかったらこんなに早くここに馴染めなかったよ。こうして笑っていられるのは玉青ちゃんのおかげ」
「渚砂ちゃん…」
「だからね、玉青ちゃんに恩返ししたいなって」
感謝するのは私の方だ。渚砂ちゃんが来てからというもの、私の生活は色鮮やかになった。今までどこか白黒写真のようだった毎日が色を持ち、鮮明な輝きを放ちながら私を迎えてくれる。渚砂ちゃんが傍にいてくれるだけで今の私には充分過ぎるくらいのプレゼントだ。
「いいんですよ渚砂ちゃん。私はもう渚砂ちゃんからたくさんのものを貰いましたから」
「ええっ? 私何にもあげてないよ?」
「貰ったんですよ。目には見えないものを、いっぱい」
「ねぇ玉青ちゃん、私から貰ったものって何? 教えてよ~」
「さぁ何でしょう?」
必死で追及してくる渚砂ちゃんをクスクス笑いながらやり過ごす。あなたがいるだけで幸せだからなんて、それはまるでプロポーズの言葉みたいでちょっと恥ずかしくて口に出来ない。考えただけで顔が少し熱くなっているのが分かる。
「もぉ~玉青ちゃんのいじわる~。ダメだよ。私ちゃんと恩返ししたいもん」
納得のいかない渚砂ちゃんがどうしてもと言うので私は1つだけお願いをすることにした。その方がすっきりするのか渚砂ちゃんも嬉しそうだ。
「ただいまとおかえり」
「えっ?」
ちょっと言葉足らずだったせいで渚砂ちゃんの頭にはてなマークが浮かんでいる。私の中ではイメージが出来ていたんだけど流石に伝わらなかったようだ。
「ただいまとおかえりを私に言って欲しいんです。私が部屋にいたらただいまって。私が帰ってきたらおかえりって。それが私のお願い」
「本当に…それでいいの? そんなのお願いじゃなくても私…ちゃんと言うよ?」
ルームメイトなんだから挨拶して当然。そう言いたいんだと思う。けど私は渚砂ちゃんの申し出を頭を静かに振ってやんわり断りながら、重ねて言った。
「いいんです。これが私のお願いです。その代わり1回だけじゃ嫌ですよ。この先…色んな事があると思うけど、出来る限り長く。だから渚砂ちゃん…これからも一緒にいて下さいね」
「うんっ。約束するよ玉青ちゃん。そうだ指切りしよう!」
差し出された手にそっと小指を絡めると触れたところから体温が伝わってきた。
それはなんだか渚砂ちゃんの心みたいにじんわり温かくて心地が良い。
そういえば指切りしたのなんていつ以来だろう? でもきっと、これほど大切なことを約束したことはなかったはずだ。
「渚砂ちゃん、約束ですからね」
「うん、約束」
「ふふふっ。これでもう渚砂ちゃんは私とルームメイトの解消出来ませんよ? 嫌だって言っても離しませんから。覚悟してくださいね、な・ぎ・さ・ちゃん」
机に置いた文芸部のノート。その見開きの1ページに私は新しい文章を記した。
渚砂ちゃんをこの丘の女神様に例えた、新作を。
あなたはご存知ですか?
この丘の名前の由来となっている心優しい女神様のことを。
女神である彼女は最後の最後まで人間に正義を訴えながらも、ついには失望し地上を去ったと言われています。
私の前に現れたあなたが、もしその女神様であるというならばどうか私を見放さないで。
そしていつまでも私の傍で星のごとく輝いてくれますように。
逆にあなたが誰かに奪われてしまいそうになったら、私はあなたを覆い隠そうとするでしょう。
星乙女たるあなたの輝きが強すぎて、それが無理だと分かっていても、私の全てを投げ出してあなたを守ります。
相手がたとえ…怖ろしい悪魔であったとしても。