昨夜の出来事がまだ頭にこびり付いている。あの柔らかな感触。そして甘いくちどけを。隣に眠る少女にしてしまったとある行為の残滓が私を絡めとり苦しめていた。食堂へ向かう途中で得た直感から来る導きは救いとなるのか?
■目次
<重たい枷>…涼水 玉青視点
<あなたの罪は何ですか?>…南都 夜々視点
<隠れ住む異端者>…涼水 玉青視点
<重たい枷>…涼水 玉青視点
「んっ…」
いつもと変わらない天井の模様。起床時間にはまだ早く、隣を見ればこれまたいつものように眠る渚砂ちゃんの姿が目に入った。ベッドから身体を起こし頭に手を当てる。どことなく頭が重い気がしたからだ。そのまま少しの間その状態で過ごし、次第に意識がはっきりとしてくると今度は憂鬱な気分が襲ってきた。原因はただ一つ。昨夜の出来事に他ならない。
渚砂ちゃんへのキス。あの時の感触を思い出そうとするかのように、指は自然と唇をなぞり、何度も確かめるように往復した。
(私…したんですね。渚砂ちゃんと…)
徐々に記憶が鮮明になるにつれて、キスをしたんだという実感も大きくなっていく。柔らかくて、それでいて弾力に満ちた唇。そして最も大事なことは…唇が甘いということ。静馬様が言った通りだった。いや、それ以上かもしれない。瑞々しい唇に触れた瞬間、私はそれを知ったのだ。
本来であればキスと同様に甘い思い出となるべきはずだったにも関わらず、先程述べたようにすっきりとしない気分が私を支配している。
(ごめんなさい。ごめんなさい渚砂ちゃん)
隣のベッドの方へと身体を向け心の中で謝罪を繰り返す。私はとんでもないことをしでかしてしまった。許されないことを、裏切りにも似た行為を。
寝ている渚砂ちゃんの、無防備な唇を奪った。同意することも、拒否することも出来ない状態の渚砂ちゃんのだ。私がしたことは、嫌悪していた静馬様がしたことよりも遥かに悪質で、非難されるべき行為である。
「最低ですね…私」
渚砂ちゃんは何も知らない。それに考えもしないだろう。自分が眠っている間にキスをされていたなんて。どうしても我慢出来なかったから、というセリフをまさか私が言う側の立場になろうとは思ってもみなかった。そういった軽薄で無責任な言葉を吐くような人間は唾棄すべき存在だったというのに、今や自分がその一員の仲間入りとは…。
でも本当の事だ。私は我慢出来なかった。唇の甘い誘惑に、唆す悪魔の囁きに抗う術を持ち合わせていなかったのだ。けど渚砂ちゃんだって悪い。私を信用しているから? それともそういった対象としてまるで意識されてないからなの?
あんな風に無防備にしているなんて…。
こんなことを言ったら渚砂ちゃんはどんな顔をするだろうか。きっと軽蔑するに決まってる。どの道キスした時点で言い訳出来る段階はとっくに通り越していることに変わりはないのだけれど。
「触れた時に目を覚ましてくれればよかったのに…」
そうすればあんな過ちを犯さずにいられた。とめどなく湧き上がる罪悪感に苦しむことも…。
(なら…なら言うの? キスをしたって、寝ているあなたの唇を弄んだと正直に)
出来ない。出来っこない。そんな怖ろしいこと私にはとても無理だ。嫌われるようなことを自ら進んで行えるほど、高潔な人間じゃない。
━ピピピッピピピッピピピッ━
「んっ、んん~。ふわぁあっ。おはよ~玉青ちゃん」
「お。おはようございます渚砂ちゃん」
「相変わらず早起きだね」
持ち主である私によって起床時間よりも5分早くセットされたアラームが生真面目に鳴り響き、渚砂ちゃんを起こす。今日に限って言えば、規則正しく動くそれが鬱陶しく感じられる。セットするんじゃなかった。
ベッドの上で軽く伸びをした渚砂ちゃんは普段と変わらない様子で眠たそうに目を擦っている。一瞬、もしかして渚砂ちゃんが昨夜起きていたら?という考えが頭をよぎったが、他愛ない朝の会話をやり取りしているうちにそれは有り得ないと思い直した。
「さあ支度をしましょう渚砂ちゃん。今日もいい天気ですよ」
「うんっ」
顔を洗い、着替えをするいつも通りの朝の光景。違っているのは私が浮かべているのが作り笑いであることくらい。今日も滞りなく支度の時間が過ぎていくことに内心ホッとしていたそんな矢先…。
思っていたよりも眠りが浅くてボーッとしていたのか、ちょっとした気の緩みだったのかは分からないが、珍しくバランスを崩した私は小さな悲鳴を上げて床に尻餅をつく羽目になってしまった。
大丈夫?と心配そうに顔を覗き込む渚砂ちゃんにひとまず無事を伝えると、立ち上がろうとするよりも早く小さな手が差し出される。丁度部屋の明かりを後ろに背負っていたのもあってか、その姿は慈愛に満ちた聖母のようにも見えた。早く手を掴むようにと、さらに僅かに私に向かって伸ばされた手がゆらゆらと揺れている。
「どうしたの? ほらっ早く早く~」
「は、はい…」
遠慮がちに伸ばした手が引っ張られ身体がふわりと浮く。重力なんて存在しないみたいにびっくりするほど軽やかに引き上げられた私は、少々勢いが強すぎたのかそのまま渚砂ちゃんの元へ。自分よりも身長の低い渚砂ちゃんを見上げるような体勢で胸元に着地した。すぐ近くに渚砂ちゃんの唇があって、容易く触れられそうな距離で視線が交錯する。一瞬時間が止まり、僅かな時を置いてからハッとしたように互いに顔を背けた。
「ご、ごめんごめん。ちょっと強く引っ張り過ぎちゃったみたい。大丈夫、玉青ちゃん?」
「ええ、私は」
「そっか、よかったぁ」
渚砂ちゃんに抱き締められている。優しく…しっかりと。耳をくすぐる照れた笑い声を聞きながら身体を預けているのはとても幸福なひと時でずっとそうしていたいと思わずにはいられないほどでした。けどやっぱり間近で見る微笑みは私には眩し過ぎて、もう一度視線を交わそうなどという勇気はなく顔を背けたままでいるのが精一杯。
(こんな気持ちになるのであれば、キスなんてしなければよかった)
もっと純粋に、自由に、幸せな気分になれると信じていたのに…。私のファーストキスはごちゃまぜになった感情に支配され今や『負い目』へと変貌していた。あの悪魔の囁きは、ものの見事に私の中に楔を残すことに成功したというわけだ。厄介なことに簡単には取り除けない…重たい枷を。
「ごめんなさい、いつまでも抱き着いていて」
「そんなこと気にしなくていいのに」
「髪をセットしたら食堂に行きましょうね」
浮かべた作り笑いが顔に馴染んでいく。私の意志なんてどこにも存在しないみたいに。
「あ、玉青さんに渚砂さん。おはようございます」
「よかったら朝ご飯、ご一緒しませんか?」
食堂へ向かう途中であったのはお茶会でもお馴染みの夜々さんに光莉さんペア。相変わらず仲良さそうで何より、そんな風に最初は思っていたけれど…。少し一緒に歩いただけで、私は上手く言えないむずむずとした違和感に襲われた。常に光莉さんの事を気にして、エスコートするような素振り。もちろんそれは些細なもので、傍から見れば心配性だとか、大袈裟だとか、そんな一言で笑い飛ばされることかもしれない。
(どうして
以前にも二人に違和感を覚えたことがある。その時は気のせいかと思ってすぐに頭の片隅へと追いやってしまったのに、今日はなぜだか気になって仕方がない。それはあたかも小さな種子が、時間をかけてようやく花を咲かせたかのような不思議な感覚だった。
この二人になら相談出来るかも…。特に
<あなたの罪は何ですか?>…南都 夜々視点
コンコンッと控えめなノックに気付き扉を開けてみると、そこにいたのは今朝一緒に食事をした玉青さんだった。扉を少し大きく開けても隣に渚砂さんの姿はなく、一人で訪れたらしい。一瞬、お茶会のお誘いだろうか?などと呑気に考えた自分を責めたくなるほど
思い詰めた表情をしているのを見て、ただ事ではないと理解した。
「どりあえず中へどうぞ」
「すみません、突然お邪魔して」
「いえいえ。今お茶淹れます。………えっと、光莉はちょっと外出しちゃってて」
とりあえず光莉がいないことだけを先に伝えておく。用事があるのが私か光莉か、それとも両方なのか。それが分からない以上は言っておいた方が親切というものだ。
「大丈夫です。
私に………か。それにこの言い方だと光莉がいなくてむしろ丁度良かったって感じかな。一体なんだろう?
「インスタントですけど」
「ありがとうございます」
いつも茶葉で淹れた美味しい紅茶を飲んでる玉青さんに出すのは気が引けたけど、あいにくとそれしか用意がない。せめてたっぷりの砂糖とミルクで調節してもらおうとテーブルに容器ごと並べて勧めておいた。
「それで相談というのは?」
「あの…それが…その。変なことを聞くようですけど」
話しにくい内容なんだろうなってことはすぐに分かった。砂糖を少しカップに入れてはスプーンでかき混ぜ、今度はミルク。そしてまた砂糖を入れては………とこれの繰り返し。3度目の投入にも関わらず一向に紅茶の色が変わる気配はない。最初に一気に切り出さなかったのが仇となり、完全にタイミングを見失ったようだ。
(渚砂さんのことかな…)
この段階になると私も薄々勘付き始めたものの、まさかこちらから切り出すわけにもいかず、ただじっと玉青さんの手元を眺めるしか出来ることはない。食堂で静馬様によるキスが行われた時、私と光莉も当然そこにいた。それから何度か玉青さんたちに会ってはいるが、その話はタブーであると理解していたので話さずにいたのだ。相談を持ち掛けられない以上は、それは二人と静馬様の問題なのだから口を挟むなんておこがましいと…。秘密の関係にある私たちだからこそ他の人よりもその思いは強く、そっとしておくのが一番だと考えていた。
だから今も我慢強く待つ。話を切り出すのはあくまで玉青さんでなければ意味がない。
「夜々さんは…どなたかと…キスしたいって思ったことは有りますか?」
砂糖とミルクのルーティンが5度目になろうかという頃、ようやく玉青さんがポツリと呟いた。
「きゅ、急にすみません。夜々さんって年下なのに大人びてるから…こういった話も出来る気がして…」
「ふふ。ちょっと驚いちゃいました。玉青さんもそういうこと考えるんですね」
きたのはストレートではなくやや変化球気味の問いかけ。ひとまずは様子見するために話を合わせておく。
「私だって…女の子ですから」
「ああ、別に玉青さんがそういうのに縁遠い存在って言ってるわけじゃなくて。それにしても玉青さんがキスしたいって思うなんて一体どんな人なんだろう。芸能人とか~アイドルとか? 玉青さんくらい美人だと釣り合う人を探すの大変そうだなぁ」
「そういうんじゃなくて…」
「えっ? 違うんですか? じゃあどういうんです?」
「そ、それは………」
再び言葉に詰まってしまった玉青さんは場を繋ぐように先程のルーティンを始めてしまう。ちょっと回りくどかったかも。微妙なところだけど、少しだけ助け船を出した方が良さそうだ。けど、あまりにも直接的ではまずい。匂わせるくらいに留めておかないと。この辺の繊細な匙加減は私には向いていないんだよなぁ。
「この丘って
笑いながらカップを傾け喉に紅茶を流し込む。上手いこと乗っかってくれると良いんだけど、失敗だったかな…。
「あの…たとえば、たとえばの話ですけど、この学園の中で…とかだったら夜々さんは」
「それって…
強いイントネーションで飾られた言葉にビクッと身体を震わせるのが見えた。やっと色の変わった紅茶をかき混ぜるのをやめた玉青さんがこちらを向くことなくカップに視線を落としたまま小さく頷く。
「夜々さんはありませんか? 女の子と…その…」
あるに決まってる。というか私は最初からそっち専門で、気付いた時にはそんなことばっかり考えていたような人間だ。あの子が可愛いとか、あんな子とお付き合いしたいなんて妄想は数えきれない。
「あ、あははは。へ、変ですよね…私。何聞いてるんだろう。あの…やっぱりいいです。今日の事は忘れてください。それとお茶ご馳走様でした。もう戻りますね」
ぬるくなった紅茶を残したまま、玉青さんが慌てて部屋を出て行こうとする。まずい、なんとかして引き留めないと…。
「ん~そうだなぁ。 あっ! 光莉なんていいかもしれませんね。ルームメイトで気が合うし。光莉って結構人懐っこいっていうか、身体とかしょっちゅうくっつけてくるんでそういうの大丈夫かも」
どうにか間に合ったみたい。一目散に扉へと向かっていた足がピタリと止まり、私を気にするように振り返る。無理もない。今の玉青さんには無視できないはずだ。反応するなって言われても不可能に決まってる。とりあえず玉青さんの肩越しに交わされた視線で着席を促しておいた。
「この前も光莉がそそっかしくて躓いたんですよ。たまたま私が近くにいたから支えようとしたら、私まで一緒に倒れこんじゃって。覆い被さるって言えば良いのかな? あんな感じの体勢で。 ほんと笑っちゃいますよね」
おもしろおかしく喋り始めると私の前に戻ってきた玉青さんが着席してくれてひとまずセーフといったところだろうか?
(それにしても…)
落ち着かない様子でそわそわと指を動かし、上目遣いで私のことを見つめる姿はどこか儚げでドキッとしてしまいそうだ。素材が良いから何をしても絵になるけど、こういう表情をされると女の子専門の私としては多少となりとも心が昂ってしまう。私ってちょっとSっ気があるのかも…。
(でも仕方ないじゃない。玉青さん、ミアトルでもトップクラスの美少女なんだもん…)
拗ねた顔をする想像上の光莉に心の中で謝罪しておき、私はなるべく玉青さんの興味を煽るような内容の光莉とのハプニングを続けた。
「お互い身動き取れずに抱き着いたまんまになって。それなのに光莉が抜け出そうと手を動かして身体のあちこち触って来るもんだから」
途中幾度となく唾を飲み込んだ喉が動き、何かを喋ろうと口が開きかけるのを確認し、私はいよいよ…。
「━━つい
少し軽いノリのふざけた感じで喋っていたのを突然やめ、トーンを落としたそのセリフは効果てきめんだった。ガタッと音を立てて椅子から立ち上がった玉青さんは興奮冷めやらぬ様子で私にたたみかける。
「ほ、本当ですかっ!? 夜々さんは…本当に」
「ストップ。ストーーーップ! 私ばっかり話すのはフェアじゃないですってば。そろそろ玉青さんも話してくれないと」
「私の事はいいですから教えてください」
「どうしたんです。いつもの玉青さんらしくないですよ、そんなに焦って」
「ご、ごめんなさい」
喉が渇いたのか、すっかりとぬるくなってしまった紅茶に口を付ける玉青さん。砂糖とミルクが小刻みに何度も投入されたそれはやはり美味しくはなかったようで飲み干すのは難しかったみたい。私が代わりの紅茶を淹れるか、それとも水がいいか尋ねると間髪入れずに水がいいという返答がきた。こんな時はやっぱり熱々の紅茶より水の方が嬉しいか、と納得しながらガラスのコップに水を注いで戻ると玉青さんは一気に水を飲み干してしまう。飲食店にあるようなピッチャーでもあればいいんだけどないものは仕方ない。何度も往復しないで済むようにと2杯持っていったものの、そのうちの1杯は瞬く間に消えてしまったので結果として2杯分用意したのは正解だった。
「落ち着きました?」
「ええ、少しは…」
「それならよかった。あ、一つだけ言っておきますね。私は結構…
髪を手で梳く仕草と共に、恥ずかし気な表情を作ることで言葉に説得力を持たせる。恥ずかしいけど信頼してるから喋ったんですよって空気を醸し出すことが大切だ。どう受け取るかは玉青さん次第だけど、ひとまず私の方から出来るアプローチはこんなところだろう。これで何も返ってこなかったら今日のところはお手上げして光莉と一緒に別の手段を考えるしかない。
「誰にも…言わないでくださいね」
胸の前でキュッと手を合わせ、私の言った言葉を吟味するかのように目を閉じていた玉青さんがポツリポツリと語り出す。
「昨日の夜のことなんですけど………」
昨日? それはまたえらく最近の話でちょっと驚いた。入ってきた時の思い詰めた顔からしてもっと長い間思い悩んだ末のことかと思っていたから。つまり昨日の今日で私に相談しようと思ったというわけで、それだけ切羽詰まっているということだ。
「渚砂ちゃんは静馬様との件で疲れてしまったのかすぐに眠ってしまって。触れてみても全然起きる気配もないんです。だから近くで寝顔を見ていたら…」
せっかく喋り始めた玉青さんの邪魔をすることのないように口を挟まず頷くだけに留め、自分はおかわりを淹れたカップに口を付けた。僅かな変化も見逃さないように意識をはっきりと保つため、あえて砂糖もミルクも入れずにおいたストレートの紅茶の苦みが舌に伝わってくる。
「その…変な気になってしまって。それでキスしたいなって…」
「見ていただけで…ですか?」
「たぶん、いいえ、絶対にあの人のせいです。あの人が私に変なことを教えたからっ!!
張り上げた声が部屋に木霊する。あの人というのが誰を示しているのかは予想がつくが、今はそれどころじゃない。太腿に置いていた手で頭を抱えるようにした玉青さんがなおも言葉を続けてた。
「渚砂ちゃんの唇は甘いって、そう囁いたんです。言われた時は何をバカなことをって思ってたのに、いざ渚砂ちゃんを前にしたら頭から消えなくて」
なんだろうこの例えようのない違和感は。声を絞り出すようにして話す玉青さんの言葉から伝わってくる臨場感は常軌を逸している。最初に玉青さんが尋ねたのは『キスしたいと思ったことは有りますか?』だった。まるで噛み合ってない。質問の内容と玉青さんの態度がっ!この鬼気迫る感じはまさか…まさか。
「だから…だから私ッ!!」
強い口調でそう言い放ちゆっくりと顔を上げた玉青さんの頬は、制御できずに零れた涙で濡れていた。
「あ、あれ? 私…なんで…泣いて」
慌てて涙を拭っても、大きく揺れる瞳からは次から次へと涙が溢れていく。
「玉青さん…あなた…まさか」
「ッ!? ち、違います。違います」
しまったという顔をしてサッと顔を背けた玉青さんが少しでも見られないようにと顔の前に手の平で壁を作った。私はまだ肝心な事を言ってない。なのに何でそんなにも強く否定するの? そんなの…そんなの。そうだと言ってるようなものじゃない。
つい乱暴に置いてしまったカップがカチャンと耳障りな音を立て、その振動で中身の紅茶が大きく揺れる。テーブルに手をついて勢い良く立ち上がると紅茶はさらに揺れてカップから溢れそうになった。
怯えた目で私を見る玉青さんの前に立ち、思わずその肩を掴みながら叫ぶというよりかは尋問するような声で…。
「
「してません。私キスなんてしてません。夜々さんが勝手にそう思っただけで…」
肩を掴んで揺さぶるように問い詰めても、玉青さんは否定した。だけど私には分かる。玉青さんはしたんだ。寝ている渚砂さんに、
ごめんなさい玉青さん。そう謝罪の気持ちを込めて玉青さんを抱き締めた。身体を震わせながら次々と涙を零すその姿を見たらそうせずにはいられなくて。
「玉青さん、休日ですけど明日お時間をくれませんか? とても大切なお話があるんです」
「夜々さんから?」
「ええ。朝食が終わった後、必ず私の部屋に来てください。光莉と一緒にお待ちしていますから」
その後、部屋に戻ってきた光莉に玉青さんとの出来事を話しすと、キスのあたりで驚きはしたものの静かに聞き終え、それからは私たち二人での話し合いとなった。
「ごめんね光莉、相談もせずに私の一存で決めちゃって。どうしても玉青さんの力になりたくてさ」
「ううん。いいよ夜々ちゃん。玉青さんは友達だもん。それで…どうするつもりなの?」
「それはね━━━」
作戦会議と呼べるほどのものではなかったけれど、少しでも力になるべく私と光莉は知恵を出し合うのだった。
<隠れ住む異端者>…涼水 玉青視点
夜々さんに指定された時刻に二人の部屋の前へと向かう。彼女は一体何を話してくれるんだろうか? 何かは分からないが、例の出来事を知られてしまった以上は来ないという選択肢は私にはない。もっとも、どこか信用できる空気を夜々さんが纏っていたのは事実で、すぐに渚砂ちゃんにキスしたことに気付いたあたり、相談相手としてベストな人材であったようにも思えた。
軽くノックをして来訪を告げると扉が開き、中から出てきた夜々さんが少し周囲を見回してから部屋へと招き入れてくれる。昨日言った通り光莉さんもスタンバイしていて軽く会釈をしてから席に着く。話をするということだったがお茶の用意はしていないみたいだ。気持ちがそわそわして落ち着かないのでお茶を淹れさせてもらおうかと提案したけれど、夜々さんは首を振りそのままでいるように私に命じた。なぜかは気になるところではあるが二人の表情を窺ってみても特に何かを読み取ることは出来ない。
「玉青さんようこそ。お話は夜々ちゃんから聞きました。少しでもお力になれればと思っています」
「よ、よろしくお願いします」
改めて挨拶した光莉さんにこちらも応じておく。
「早速だけど、
「うん。私はいつでも大丈夫だよ」
「じゃあベッドに腰掛けて」
「分かった」
えっと…これは? 首を傾げる私の前で光莉さんが言われた通りにベッドへと腰掛ける。立ったままの夜々さんもそちらへと向かいテーブルには私一人が残された形となった。目をぱちくりさせながら眺めていることしか出来ないので仕方なく観察させてもらう。目が合った時の光莉さんのはにかんだ笑顔が印象的なこと以外は、これといって何かが起きる気配はない。
「あの…夜々さん?」
「ああ、ごめんなさい。すぐに始めますから」
じれったくなって尋ねるとそんな返事が返ってきた。これから何かが始まるらしいがさっぱり事情が分からない私は「はあ」だか「はい」だかどっちともつかない気の抜けた返答をするのがやっとだった。
「光莉。
「うん。来て…夜々ちゃん」
光莉さんの隣に座った夜々さんが声を掛けそれに光莉さんが頷くと、テレパシーで会話でもするみたいに互いのおでこをそっと触れ合わせた。そこだけを切り取れば見ているこっちが気恥ずかしくなって顔を背けたくなるほど仲睦まじい光景で、血の繋がった姉妹か、あるいは天使同士が気持ちを通じ合わせている瞬間にも見える。そう、それだけならば…。
差し出された手の平が鏡のように合わさり、僅かな間を置いて指と指を絡ませながら両手が繋がれると辺りは急に妖しい空気に包まれ出す。至近距離で交わされた視線は、絡み合う指のごとく濃密に感じられた。二人の舞台の観客となり下がった私は息をするのも忘れ、ただただ魅入られるばかり。そうだ。今この瞬間、私は二人の目に映ってさえいないんだ。流れているのは二人だけの時間。存在しているのは二人だけの世界。
そして目の前で、二人のキスが始まった。するのが当然だと言わんばかりに、何の躊躇いもなく引き寄せられた唇が触れ合い、競うように互いの唇を押し付ける。それは私の知る口付けとはまるで別物で…、いや、映画や小説では知ってはいたけれどもどこか遠い世界のお話で、自分には縁遠い存在のはずだったものだ。
「光莉…」
「んっ………夜々ちゃ……」
時折漏れ出すくぐもった声と共に、留めようとしてなお零れた吐息が鼻にかかったような艶めかしいノイズをもたらした。本来であれば一人きりで部屋に鍵を掛けて行うべき行為でしか聞くことのないそれは、傍にいる私をも昂らせる。二人に声を掛けられなかったわけではない。まぁ考えようによってはそうとも言えないこともないが、声を掛けることでキスが中断されるのはとてつもなく無粋な行いであると頭が自然と判断していた。こう言うとお上品に聞こえるかもしれないけれど、低俗に言えば続きが見たかった、というのが本心だ。
私は紛れもなく興奮していた。知らない人が見ても一目瞭然なほどに。だって今では口内で擦り合わせていたであろう舌を光莉さんが突き出し、それを貪るように夜々さんが吸い付いているのだから。
蕩けた顔で行為に没頭し、滴り落ちた唾液がスピカの純白のスカートにシミを作って濃い色へと変色していることにも気付いていないらしく、部屋中に響き渡る卑猥な水音がその激しさを物語っている。
(そんなに気持ちいいんですね)
見ればきつく握られた手には赤い痕がくっきりと刻まれていて、私にはそれが勲章のようにも見えた。きっと二人は終わった後でその勲章を見て、互いの愛の深さを確かめては笑い合うに違いない。「強く握り過ぎ」だとか、「そっちだって」だなんて表面上は言い争うフリをしながら…。
(でも…。お二人は
とてもそうは思えない。これだけ求めあう二人がこれだけで満足するなんて…。その先の光景を想像し、自分でも気付かないうちに喉を鳴らした。そうだ。きっと…きっとあの人のように…、静馬様のように
けれども残念なことに今日はキスだけのようだ。制服は着たままだったし手は愛撫したりなんかしない。それでも私には刺激的すぎる光景が私の前で繰り広げられていた。
私の方からは夜々さんの身体に隠れてよく見えない一方で、首筋や鎖骨へのキスを漆黒の黒髪の隙間からチラチラと覗き見る状態となったため、むしろ淫靡さが際立ち、インモラルな雰囲気を醸し出している。ベッドのシーツの上で入り乱れる濡れたようなその黒髪と、光莉さんの輝く金髪もまたコントラストとなって二人を彩り、私に得も言われぬ感情を抱かせ苦しめた。
ベッドから垂れ下がる光莉さんの足は、太腿まで捲れたスカートのせいで陶器のように透き通った白い肌を惜しげもなく晒し、激しい接吻に合わせて不規則にゆらゆらと揺れ出す。夜々さんの身体に大部分が隠れているにも関わらず、誘うように動く光莉さんの足だけが見えるのが余計にいやらしく見える。その扇情的な姿にスカートの裾を握りしめ、内腿をもどかし気に擦っていたのは、後から言われて初めて知ったことだった。
キスと呼ぶにはあまりにも官能的過ぎる儀式が終わり、二人を繋ぐ唾液の橋を指で掬うようにして取り除いた夜々さんが、未だに炎を宿したままの瞳で私を貫き感想を問う。
「どうでした? 玉青さん」
「どうと言われても…その…」
目を奪われていたせいで何も考えていなかった。今必死で思い浮かべて出てきたのは、羨ましいというひどく欲にまみれた感想だったので、それをそっくりそのまま伝えるのは少々憚られるほどだ。他にもっと言うべきことはあるんだろうけど、これだけの行為を見せられては言葉でどうこうというのは無意味に思えてしまう。二人が付き合って………ううん、愛し合っていることは疑いようのない事実だし、それについて感想を求められても正直困るだけでしかない。
「私と夜々ちゃんは付き合っているんです。真剣に…本気で」
「お二人は大人なんですね。これほど深い仲だというのに、表にはほとんど出さないでいたなんて」
「それは違いますよ玉青さん。出さないんじゃなくて出せないんですよ。ご存知かと思いますが、この丘で堂々と同性愛をひけらかしているのは静馬様と千華留さんくらいのものですから」
それにしても…だ。こんな身近に女同士で愛し合う二人がいたとは想像していなかった。
「私が玉青さんに伝えたかった事はいくつかあります。まず一つ目に私たちが交際している事。玉青さんの気持ちを理解出来る人間であると証明する意味もありました。二つ目は周囲に秘密にしている事。親しくしている玉青さんが気付かないほどに、私たちは慎重に学園生活を送っています。もし玉青さんが渚砂さんと付き合うことになったとしても、周囲にそれを宣言して理解が得られるとは限りません。となれば私たちと同じように秘密にする必要があるという現実をお伝えしたかったんです」
「げん…じつ」
「ええ。渚砂さんにキスして、その後玉青さんはどうするおつもりだったんですか? 想いを伝えるんですか? 伝えたとしてそれだけで満足するんですか?」
「私は…」
「きっと付き合いたくなりますよ。キスして、次にはそれ以上の事も…」
「そうでしょうか? 自分がその…そんな行為まで望んでいるとは思えないんですけど」
私の答えに夜々さんは目を閉じ、それから説得するように話し出した。
「伝えたかったことは三つ目まであるんです。その三つ目の事から多分そういった行為を望むのではないかと推測したんです。率直に言います。
━━玉青さん、
「それは…だってっ! 当たり前じゃないですか」
あんな姿を見せつけられて興奮するなという方が無理に決まってる。
「そうですかね? 目の前でいきなり女同士であんなキスを始めたら、普通はもっと驚きますし、逃げ出す子だっていると思いますよ」
「あっ…う…」
驚いた。たしかに驚きはした。けれど私の心を支配したのは驚きではなく他の感情で…、目が離させなかったというのが事実だ。逃げ出すなんて考えは全く浮かびもしなくて、用意された特等席からの眺めに見惚れていた。
「なら…、なら夜々さんは私以外の誰かの反応を見たことがあるんですか? お二人を見たら誰だって目を奪われるに決まってます」
「否定したい気持ちは分からなくもないです。私だって初めて自分がそうだって気付いた時はあまりいい気分ではありませんでしたから」
「一体何が言いたいんですかっ?」
「玉青さんは私や…静馬様と同じなんですよ。女の子を愛してる………」
「それは渚砂ちゃんを好きですし…」
夜々さんは言った。自分と静馬様って。ここにはあと一人光莉さんがいるのになぜかその名は挙げられていない。『私や』ではなく『私たち』と言わなかったことがどうにも引っ掛かった。
「光莉さんは違うんですか? 夜々さんと交際してるのに」
失礼だとは思ったが光莉さんを指差してそう尋ねる。
「私は…女の子は夜々ちゃんしか好きじゃなくて…」
「だったら私だって好きなのは渚砂ちゃんだけですっ!」
「よく考えて下さい玉青さん。好きでもない女の子たちがキスしてるのを見て興奮するなんて
「だからそれはっ! お二人のキスが激しかったからで」
おかしくない。私はまともなことを言っている。論理も崩れてはないし、なにより冷静だ。私は正常。そう思いたかった。
「━━光莉の足。綺麗だったでしょう?━━」
「っ!?」
「真っ白な足がキスの度に揺れてるの、すっごく興奮しますよね。私も光莉の足…大好きですよ」
ズバリと指摘したそれは核心をつき過ぎていた。言い返すための言葉をあれこれ必死で考えていた私の思考は一瞬で崩壊させられ、ありありと浮かんだ動揺が指摘の正確さを表してしまう。夜々さんの隣に立つ光莉さんに目をやり…、正確には光莉さんではなく光莉さんの足にだが、スカートから伸びるそれを見て唾を飲み込む。ほらやっぱり、といった顔をされたのが悔しくて一度は顔を逸らしたものの、夜々さんに太腿を撫でられ、小さな吐息を漏らした光莉さんの艶めかしさに視線は再び吸い寄せられた。
「玉青さんは女の子のあられもない姿を見て興奮しちゃう
「な、なにかの間違いでたまたま今日そうだった可能性は…。そうですよ、そうです! 私こんな気持ちになったのは今日が初めてで、こんなこと…今まで一度も…」
「今から試してみましょうか? いいですよ、私は」
「試すって…どうやって?」
「簡単ですよ。少しスカートの中に手を入れさせてくれればすぐに終わります。決して痛いようなことはしませんから」
夜々さんは唇に真っすぐと伸ばした人差し指を宛がいながら、普段と変わらない笑みを湛えつつ平然と言ってのけた。その仕草はどこか静馬様を彷彿とさせる色気に満ち溢れたものだ。ううん、仕草だけじゃなくて口調や態度も強気そのもので1つ年下の後輩とはとても思えない。
そんな彼女の視線が私の身体の上から下まで這いずりまわり、なんだか値踏みをされている気分になる。思わず気恥ずかしくなって身体をよじり視線から逃れようとしたが、なおも眼差しは容赦なく浴びせられた。羞恥心で身体がカァッと熱くなり、顔が火照っていくのが自分でも分かってしまう。仕方なく片手でスカートを握り、もう片方の手で胸を覆い隠すようにしてガードすると幾分気持ちが楽になった。
「もぉ~冗談ですよ。玉青さんに手を出すわけないじゃないですか。私には光莉がいますし、何より私は玉青さんを応援するつもりですから。ただ知っておいて欲しかったんです。自分がどういう存在なのかってことを」
「あの…夜々さんから見て渚砂ちゃんは…どっちに見えますか?」
「渚砂さんは普通の子なんじゃないかな」
「そう…でしょうね」
夜々さんの答えは多少遠回りな言い回しではあったが予想の範疇のもので、特に驚きはしない。渚砂ちゃんは普通の女の子。きっとさっきみたいなシーンに居合わせたらきっと顔を真っ赤にしてあたふたすることだろう。素っ頓狂な声を出して部屋を飛び出していってしまうかも。
(私とは…違うんだ)
自然と零れた笑みはそんな渚砂ちゃんの姿を想像したからであると共に、突き付けられた現実とやらに諦めにも似た不思議な気持ちが舞い降りたのも関係していたかもしれない。
「それでも…静馬様は渚砂ちゃんを手に入れてしまうんでしょうね」
「勝てばいいんですよ静馬様に」
「無責任なこと言わないで下さいっ! もし光莉さんが静馬様に狙われたら、夜々さんはあの人に勝てるんですかっ!? あの花園静馬に!?」
ヒステリックな悲鳴にビクッと身体を硬直させた光莉さんの横で夜々さんが拳を握りしめ唇を噛み締めた。ほら見たことか。反論出来やしないじゃないか。夜々さんは自分に達成できない夢物語を口にしただけだ。無言の返答を勝手にそう解釈したことで僅かながら留飲が下がる。あの人に勝てるわけない。それくらい…私にだって。
「渚砂さんへの愛で負けてるって認めちゃうんですか?」
「そんなわけ…そんなわけないじゃないですか。負けてるわけがない。私の気持ちがあの人に負けてるなんて、そんなこと」
気持ちだけなら勝てる。賭けてもいい。その点においては自分を信じられる。けど静馬様との勝ち負けは気持ちだけじゃなくて他の要素だって…。
「私だったらそれを武器に戦いますよ。
「今…なんて?」
「腑抜けてるって言ったんですよ。それとも別の言い方の方が良かったですか? この………負け犬ッ!!」
「ッ!?」
━パンッ━
部屋に響いた乾いた音。気付けば私は夜々さんの頬に思いっきり平手打ちをしていた。噛み締めた奥歯がギリギリと軋みフゥーッフゥーッと抑えきれない呼吸で怒りを露わにする。
「夜々さんに何が分かるんですかっ? 私がどれだけ渚砂ちゃんを好━━━」
━パシンッ━
「えっ…?」
すぐには自分が平手打ちにされたとは理解できなかった。遅れて伝わってきたヒリヒリとした鋭い痛みでようやくそれを悟る。
「や、夜々ちゃん…」
「光莉はどいてて」
「でも…」
「いいからっ!」
宥めようとする光莉さんを押しのけた夜々さんが、頬を押さえた私の前に立ちはだかる。
「そんなに好きなら静馬様にもそうすればよかったんですよ! あの日だって、ビンタの一つでもくれてやればよかったんだ」
「夜々さん…」
「戦えますよ玉青さんなら。渚砂さんのことでそれだけ怒れるんですから」
鏡映しのように、私と同じく頬を押さえた夜々さんの笑み。さっき唇を噛み締めていたのは私に歯がゆい思いを抱いていたからだとその笑みが言っていた。侮辱の言葉だって私に発破をかけるためのもので…。
「私…夜々さんにひどいことを」
「お互い様ですよ。私も結構本気でやりましたから」
「負けたくないです。渚砂ちゃんのこと諦めたくない。だって…だって、私の方がずっと渚砂ちゃんのこと好きですから」
再び泣きながら嗚咽を漏らす私を介抱してくれた二人はとても優しくて。一人じゃないんだって実感出来たことが嬉しくて、そのことに私はまた泣いた。
私の友人はこの丘では異端者だった。そしてこの私も…。
━━アストラエアの丘の異端者だ━━
いかがでしたでしょうか? キスしたことに後悔してみたり、友人にキスシーンを見せつけられたり、しまいにはビンタしてみたりとてんこ盛りの章になってしまいました。6章から9章にかけての4回分を使って夜々と光莉の話をしたのは今回のためというのが大きかったので無事に回収できてホッとしてる部分もあります。
あらすじに載せた「キスシーンどんなのか気になる方は~」ってので最初にこの章を見にきてくださった方へ。だいたい毎章こんな感じです。肌に合わなかったらごめんなさい。