開かれてしまった禁断の扉。踊ろうと約束したダンスの演奏は遥か遠く、ミアトルの校舎には響かない。哀しみが交差する少女たちの泣き声で満たされた生徒会室はまるで牢獄のようで…。笑うは花園静馬ただ一人。
ダンスパーティ編の最終章! 引き裂かれた玉青と渚砂、そして夜々と光莉に舞踏会の幕が下りる。
■目次
<最悪の再会劇>…蒼井 渚砂視点
<許せない>…南都 夜々視点
<王子様とぬいぐるみ>…剣城 要視点
<哀しき舞踏>…六条 深雪視点
<周回遅れのサプライズ>…蒼井 渚砂視点
<慟哭>…涼水 玉青視点
<最悪の再会劇>…蒼井 渚砂視点
ドアノブを押し込み、扉が僅かに開いた瞬間に耳へと飛び込んできた玉青ちゃんの声。もちろん聞こえてはいたけれど、既に勢いのついてしまったドアは止められなくて…。本当であれば青い髪を見ただけで「あっ玉青ちゃんだ!」と嬉し気にパッと咲かせるはずだった笑顔は、目に映った光景を前に咲くことなく枯れていった。
「たま…お………ちゃん?」
もし部屋で着替え中の玉青ちゃんにばったり遭遇したら、私は「ごめん」と言って慌てて後ろを向いただろう。けれど私はそうしなかった。ううん、出来なかった。だって玉青ちゃんは、泣きそうな顔をして身体を震わせていたから。
単なるお着替えの途中ではないことは私にもすぐに分かった。ミアトルの制服の影に隠れてはいるけど、あまりにも多い肌色の面積。そう、玉青ちゃんは何の衣服も━━━下着さえ纏っていなかった。着替えで全部脱ぐなんて水泳の授業くらいのものだ。そしてそんな状態の玉青ちゃんを後ろから抱き締めている静馬様もまた、制服がほとんど脱げかけていた。
「二人とも何…してるの? なんで玉青ちゃんはお洋服…着て…ないの?」
「い、嫌………。見ないで。見ないで渚砂ちゃん。お願いだから…見ないで」
制服をキュッと抱え込み、少しでも見えないようにと身体を丸め込んだ玉青ちゃんは涙声でそう言った。何度も何度も「見ないで」と呟いた声が私の耳に木霊して、いつまでも頭の中で反響する。その声に導かれるように、覚束ない足取りでふらふらと前に進んだ私は、床に散乱した白い布の切れ端のあたりで足を止めた。
(なんだろう…これ?)
ただの布切れだと思って拾い上げた一片に、可愛らしくあしらわれたフリルの飾りを見つけた途端、私は「ひっ」と悲鳴を上げて身体を竦ませた。
「これって…もしかして………」
震える手の中で踊る白い布と、床のあちらこちらにある白い布とに視線を彷徨わせる。それは紛れもなく、
「う………そ」
「ごめんなさいね渚砂。私と玉青さんは特別な関係なの」
「違いますっ! 静馬様が…無理矢理」
呆然とする私の前で静馬様はおもむろに手を伸ばすと、玉青ちゃんの抱える制服を掴み奪い取ろうとした。
「嫌ぁっ!? やめてください静馬様。嫌っ…もう許して」
玉青ちゃんは必死に制服を守り抜こうとしたけど、静馬様の方がずっと有利な体勢で…。抵抗も虚しく奪い取られた制服は放り投げられた先でドサッと音を立てて着地した。
「あっ…、あ、あ…」
身体を隠すものを失った玉青ちゃんは咄嗟に制服に向かって手を伸ばしたものの、後ろから押さえつける静馬様に阻まれ動くことは出来なかった。玉青ちゃんの白い肌が露わになって、それを隠そうとする腕もやっぱり白い肌をしてるから、どうしたって玉青ちゃんは肌色で、泣き出した顔を見た瞬間に色んなものが私の中で壊れていった。
「や、やめ…やめて…ください」
「なあに渚砂? よく聞こえなかったわ」
「やめてくださいッ!! 玉青ちゃんにひどいことしないでッ!!」
頑張って叫んだつもりだった。間違いなく静馬様の耳にだって聞こえていたと思う。けれど静馬様は無視して玉青ちゃんの身体に触れると強引に腕を広げさせた。身体をバタつかせて嫌々する玉青ちゃんの胸や太腿が惜しげもなく晒され私の視界に映り込む。
「嫌よ、これはもう私のものだもの」
少し見られただけで思わずゾクッとしちゃうようなとびっきりの流し目。色っぽいとかそんな次元じゃなくて、妖艶というか、とにかく女の人の色んなものを詰め込んだ視線に射抜かれ、私はぺたんと床に尻餅をついた。そして見せつけるように玉青ちゃんの首筋に唇を宛がい、「そういえば前にキスマークのことでやり取りしたこともあったわね」と
懐かしそうに言いながら、私の見ている前で赤い痕を刻んだ。
「うそ…だよ。こんなの…悪い夢…だよ」
玉青ちゃんを迎えに来ただけのはずなのに、なんでこんなことになっちゃったんだろう。本当なら今頃は二人でダンスを踊って、それから━━━。
「私、玉青ちゃんに…告白…する…つもりだったのに…」
「へぇ? 良かったわね玉青さん。あなたたち、両想い
「ごめんなさい、ごめんなさい渚砂ちゃん。私がもっと渚砂ちゃんを信じていれば」
「ふふふ、今からでも告白してあげたらどう? きっと喜ぶわよ。ねぇ、玉青さん?」
「私にはもう…渚砂ちゃんに好きでいてもらう資格なんて…」
両手で顔を覆った玉青ちゃんの嗚咽が静かに生徒会室に響き渡り、それを追いかけるように加わった私の声が重なって二重奏となる。
何もかもがグチャグチャだった。濁流に飲み込まれた小さな集落みたいに、圧倒的な力で蹂躙された私たちの関係は、懸命に伸ばした手も虚しく、ひたすらに壊されていた。全部。全部。何もかも。
情けないことにこの後の記憶は一部が抜け落ちていて、なんだか朧気にしか覚えていなかった。ただ最後に聞こえたのは、夜々さんの怒気の篭った叫び声だった。
<許せない>…南都 夜々視点
静まり返ったミアトルの校舎。聞こえるのは走る自分の足音と、遠くから聞こえる微かな話し声だけ。高まる嫌な予感に突き動かされるようにして身体を動かし、扉が開かれたままの生徒会室へと飛び込んだ。
「渚砂さんっ!」
床に座り込んだ渚砂さんの姿が見えた時点で最悪の展開を予想していた。それでも一縷の望みを抱いていた私の期待は、渚砂さんのいる先で繰り広げられていた光景によって粉々に打ち砕かれたのである。
千切れたドレスの切れ端、裸で震える玉青さんとそれを抱き締める静馬様。
それはまさに惨劇と言っていい有様で、この部屋でなにがあったのかは誰の目にも明らかだった。身体の底から湧き上がってきた怒りをエネルギー源とした言葉の矢が、自然と叫び声として放たれ静馬様目掛けて飛んでいく。
「ッ~~~。花園静馬ッ! あんたって人は!! 何がエトワール様よ。よくも…よくも玉青さんを…。こんなことをしてただで済むと思っているの!? こんなっ無理矢理…」
「無理矢理…何かしら?」
「犯したんでしょう? こんな状況見れば誰だって━━━」
そこまで言って、私はハッとして言葉を飲み込んだ。いくら事実とは言え玉青さんの傍で言うべきではなかったと、そう思ったから。案の定、私の言葉を聞いた玉青さんはビクッと身体を震わせると、目を瞑って項垂(うなだ)れた。
「あっ、ごめんなさい…私」
慌てて謝った私の声を打ち消そうとするように、静馬様は玉青さんの耳たぶを口に含んで舐(ねぶ)ると、
「ふふふ、そうよ、あなたのいう通り。
と敢えてその事実を強調しつつ囁いた。次いで唇が耳から離れた時に奏でられたリップ音。それに切ない吐息を漏らした玉青さんの反応の生々しさに私は唾を飲み込んだ。その反応は二人の間で行われた情事がどんなものであったのかと、私に想像を掻き立てさせるには充分なものだったから。
「みっともないわよ、夜々さん。でもそうね…あなたも玉青さんのことタイプだものね。悪い事しちゃったかしら」
「黙れッ!」
「あらそう? 今の私は機嫌が良いから、味見させてあげようかと思ったのに」
「そうやってあんたは人を見下し━━━━━━ッ!?」
言葉の途中で反射的に頬を覆い隠したのは、グニャリと歪められた邪悪な視線が未だ頬に残る赤い痣を射抜いたからだ。一目でビンタによるものだと分かるそれを、静馬様は面白がるように視界に捉えクスクスと笑みを零した。
そうだ、この人は光莉から話を聞いているんだ。なら私と光莉のすれ違いの理由だって知ってるかもしれない。ううん、『かも』じゃなくて知ってる。そうじゃなきゃこんなに背筋がゾクッとしたりなんかしないはず。得体のしれない薄気味悪さと戦いながら私は相手との戦力差を覚悟した。
「威勢がいいけど…そういえばいつも一緒にいる光莉さん、今日はいないのね?」
「白々しい。あなたが唆したくせに」
「あら? 光莉さんは自分の意思で私に相談しに来たのよ。理由には…心当たりがあるんじゃない?」
わざとらしく玉青さんを一瞥した目に侮蔑が込められていた。やっぱり知ってるんだ。何が『味見』だ、ふざけやがって。光莉のやつ、なんでよりにもよってこの人なんかに。
「玉青さんと渚砂さんだけじゃなく、私たちの仲までめちゃくちゃにして…」
「
「くっ…」」
「光莉さんから聞いた時は驚いたけど、でもまぁ、あなたなら手は出さないだろうと思っていたわ」
さらりと髪をかき上げながらそう告げた瞳にはやたらと確信めいた何かが窺えた。
「何なんですか、その言い方。まるで自分には全部分かっていたって、そう言いたいんですか?」
「全くもってその通りよ。あなたは友達想いで、そしてなにより…光莉さんを大事にしてるもの」
「そこまで………そこまで分かっておきながら、光莉を利用したんですかッ!?」
この人は壊れてる。どうかしてる。だって…分かっていたなら、一言でいい、光莉に優しくアドバイスしてくれたら、こんな悲劇は起きなかったのに。
「悪い? でも光莉さんは私に相談して、どこかホッとしていたわ。ずっと言いたくて、でも言えなくて。我慢していたんじゃないかしらね。遅かれ早かれ光莉さんは誰かに打ち明けていたはず。今回はたまたま相談相手が私だったというだけよ」
言外にあなたのせいだと揶揄する言葉は、まるで喉元に突き付けられた剣のように私の声帯を圧迫し黙らせた。
「ふふ、光莉さん…『イイオンナ』になったじゃない。あなたのことが好きで、それ故に嫉妬して、そして相手を排除せずにはいられなくなってしまった。恋人としては至上の悦びではなくて? 私ならよくやったと抱き締めてあげるわ。少なくともあなたよりずっと恋愛に真摯だったと言えるわね」
「うるさいっ!」
「でもね…ふふふ、褒めてあげたら光莉さんたらちょっと嬉しそうな顔してたの。滑稽でしょ?」
「光莉をバカにするなッ!! あんたという人にはつくづく反吐が出る」
「そっくりそのままあなたにお返しするわ。1年以上も付き合ってその程度なら、そろそろ潮時だったってことよ」
静馬様の言葉にカチンときたのは少なからず思い当たる節があるから。本当なら私が一番じゃなきゃいけないのに、なんだか負けたような気がして…。自分が正しいと思っていたのにそれが間違っていたと知らされて、ムキなって反論する小学生のように私は言い返していたのかもしれない。
思う以上に頭に血が上っていたのか、玉青さんを取り返すついでに静馬様に一発くれてやろう、とそんなことを考えながらズンズンと歩み寄っていったその時だ。静馬様は不敵に笑うと、囚われの身となっていた玉青さんを私に向かって突き飛ばした。小さな悲鳴と共によろめいたその身体を無視することは出来ず、咄嗟に抱き留めているうちにさっさと移動した仇敵は、制服の乱れを正すと優雅に振り返った。
「茶番はもう充分に楽しんだから、後はあなたに任せるわ。あなたならこの後どうすればいいか分かるでしょ」
「逃げたって無駄ですよ」
「逃げる? どうしてそんな必要があるのかしら。笑っちゃうわね。別にダンス会場に戻るだけよ。きっと今頃、私とのダンスを楽しみにしてくれている子が首を長くして待ってるだろうから」
腕の中の玉青さんの身体は予想以上に軽くて、中身が燃え尽きてしまったんじゃないかと心配になるほどだった。揺らしたらきっとカランッて乾いた音がするに違いない。
(可哀想に。涙を流しすぎたんですね)
本音を言えばこの人の行った悪事を知らしめてこの丘から追放したい。けど、悪事を知らしめるという事は玉青さんが受けた仕打ちも広めるということだ。ただでさえこんな状態の玉青さんが被害を学園中に知られたらショックで立ち直れないだろう。目の前の女王様は、それを痛いほど分かっている。玉青さんの人質としての価値を充分に理解しているからこそ、こんな舐めた態度を取れるのだ。いわば玉青さんは静馬様にとっての矛であり、そして同時に盾でもあった。
「返事が欲しいわ。イエスか、ノーか」
「卑怯ですよ、こんなやり方」
「イエス…ということでいいのかしら? いやだわ、そんなに怒らないで頂戴。そろそろ姿を見せないと怪しまれるでしょ。だから私がダンスを踊りに行って目立つのは玉青さんにとっても最善の行動なのよ」
理由はどうあれ、たしかにそれが一番ではある。部外者に知られないうちに玉青さんを連れていちご舎に行くには、このまま誰も来ない方が都合がいい。けど…、心情的にそれが許せるかは別の話ではある。玉青さんをこんな目に遭わせておいて自分だけダンスに戻るなんて、そんな非道がまかり通るのは釈然としない。でも玉青さんを人質に取られた状態では打つ手は一つも残ってなかった。
「期待してるわ。頑張って頂戴ね、南都夜々さん?」
もう一度玉青さんを見て、次いで渚砂さんを見る。どう考えたって二人より大事なものはこの場にはない。
「言っておきますけど、あなたのためではなく二人のためですから。それと━━━」
「なにかしら?」
「全部が全部、思い通りになると思わないで」
意外そうな顔をした静馬様のいる先。開かれたままの生徒会室の影に向かって私は呼び掛けた。
「いるんでしょ…光莉」
全員の視線が集中する。けれど中からは文字通り、影も形も見えない状態だ。それでも私はもう一度光莉に呼び掛けた。
「お願いだから出てきて。今は助けがいるの」
しばしの沈黙の後、
「夜々ちゃん、私…あの…こんなことになるなんて…思わなくて」
と声を詰まらせながら光莉は姿を現した。
「なるほど…たしかに予想外のゲストね。まさか裏切り者の分際でここに来る勇気があったなんて、思いもしなかったわ」
「いつか絶対に謝らせてやる。玉青さんに…渚砂さんに…それから光莉にも!」
「殊勝な心掛けね。報われることを祈っているわ。それじゃ、私はもう行くから」
スカートを両手で摘まみ、ふわりと持ち上がって膨らんだシルエットを見せながら、御大層に「ごきげんよう」とだけ告げて静馬様は去っていった。後ろ姿には悔恨の気配一つなく、ただあるがままに生きる意志だけをその背に宿しながら。
<王子様とぬいぐるみ>…剣城 要視点
「よぉ! 桃実」
「あら要。どうしたの?」
喧騒から少し離れた場所でくつろいでいた桃実に声を掛けた。その傍らには桃実の小さなガールフレンドである籠女、通称
「営業はもういいの?」
「ああ、踊りっぱなしでへとへとだよ」
「これ買っておいたらよかったら飲んで。ちょっとぬるくなっちゃったかもしれないけど」
「おっ! 気が利くな。それじゃありがたく」
手渡された紙パックタイプの牛乳にストローを差し込み口で吸う。すると何とも言えない甘~い味のする牛乳が口の中に流れ込んできた。
「これこれ。この小さいパック牛乳が持つ独特の味は何度飲んでも形容しがたいな」
「あっそ。こっちは何度見ても、スピカの王子様がパックの牛乳をチューチューしてる姿がシュールで仕方ないわ。好物のミルクキャンディーといい変わった趣味してるんだから」
「そうか? というか桃実には言われたくないんだが…」
視線を隣に座る桃実のさらに隣に移し、じっと眺めながら控えめに抗議の声を上げると、桃実は顔を真っ赤にして反論してきた。
「ちょっ、籠女は関係ないでしょ。それにいいのよ、将来は超絶美少女確定なんだし」
そのあまりにも分かり易い反応に、クックッと思わず喉を鳴らして笑ってしまう。分が悪いと思ったのか、桃実は話題をダンスパーティの方へと切り替えた。
「で、手応えはどうだったの?」
「まぁ上々かな」
私と天音はエトワール選に向けての知名度アップのために、ホームであるスピカはそこそこに、ミアトルやルリムの生徒たちと積極的に踊る作戦を展開していた。さっき桃実が『営業』と言ったのはこれのことで、成果については多少謙虚に答えはしたが、桃実は私の浮かべた笑顔から目ざとく営業の成功を悟ったらしい。「良かったじゃない、上手くいって」と讃えつつ、もう一個手にしていたパック牛乳を乾杯のグラス合わせのように軽く触れさせた。
「ただ…」
「なにかあったの?」
「いや、ミアトルの方へ行ったんだがまだエトワール様はお戻りじゃなくてね。それで六条会長と踊ろうかと思ったら詩遠と忙しそうにしてたものだから結局踊れず仕舞いだったのが心残りだな…と。静馬様や六条会長とは純粋に踊ってみたかったし、詩遠はほら、私が自由に動けるようにってかなりの仕事を受け持ってくれただろ? だから感謝の念を込めてエスコートしたかったのさ」
「そう言われると私も詩遠には頭上がらないわね。後で何かプレゼントでもしようかしら」
私についてはエトワール選のため。桃実にはお嬢ちゃんとの時間を作ってあげるため。生徒会で役職持ちの私たちがこうしてのんびりしていられるのは詩遠のおかげだった。それに加えて他の生徒会役員に対しても相当便宜を図っていたはずだ。自分の自由時間を削ったうえで…ね。
(六条会長もおそらく同じだろうし、やはり会長をやるほどの生徒となると尊敬に値する人物が多いな。千華留会長は謎が多くて把握しきれないが…)
「じゃあ、詩遠の好意を無駄にしないように籠女とまた踊ってくるわ。こっちの牛乳は天音さん用に買っておいたやつだから来たら渡して頂戴」
「ありがとう。━━━っておいおい。まさかパーシヴァルも一緒なのかい?」
小さな手を引いて立ち上がった桃実は私の言葉にキョトンとした顔を浮かべ首を傾げた。この反応から察するに、「何を言ってるんだろう?」状態なんだろうが、不思議に思わないのだろうか…。すっかりパーシヴァルがいることに慣れてしまって感覚が麻痺しているのかもしれない。
「桃実。私が来るまでも
「当たり前じゃない。ねぇ籠女?」
「うん…。一緒だと…たの…しい」
頭に思い浮かんだのは、3人が円になってくるくる回る、ダンスというよりもお遊戯的なえらくのどかな風景だった。それはそれで楽しそうではあるけど、お嬢ちゃんはまだしも桃実はそれでいいのか…? 正式に恋人なんだし、もう少しロマンティックでも、と願うのは親友としての思いやりもあった。
仕方ない。ここは少しだけ援護射撃してやるか。
「お嬢ちゃん。ちょっといいかい?」
「………?」
桃実には聞こえないように思いっきり耳に顔を近付け、ひそひそと話し掛ける。
「あのな、桃実お姉ちゃんはお嬢ちゃんと二人で踊りたいと思ってるらしい。だから少しの間だけでいいから、パーシヴァルを私に託してくれないかい?」
尋ね返すお嬢ちゃんも私に倣って耳打ちするものだから、息が当たって耳がこそばゆい。
「桃実…喜ぶ?」
「もちろん。お嬢ちゃんはどうだい? 桃実お姉ちゃんと二人で踊ってみたいと思わないか? きっと楽しいぞ」
迷う瞳が、あらん限りのあどけなさを伴って桃実を見上げその顔を覗き込む。よし、もう一押しだな。
「せっかくなんだ。恋人同士、楽しんでおいで」
「ッ………」
そう言うと、お嬢ちゃんはピクンッと身体を震わせてからサッと頬を赤らめ俯いてしまった。ちょっとやり過ぎてしまったかもしれない。
「ちょっと要! あんた籠女に何言ったのよ? 顔真っ赤じゃない。もう…」
「いや、私は良かれと思ってだな…」
たじろぐ私、それに詰め寄ろうとした桃実の足が不意に止まる。見るとお嬢ちゃんが華奢な手でキュッと袖口を掴んで桃実を引き留めていた。
「パーシヴァル…お留守番。要さん…お願い…」
両手でズイッと差し出されたパーシヴァルを受け取り、桃実にウィンクを一つ。桃実は私がどんなことを言ったのかだいたい想像がついたらしく、お嬢ちゃんに負けず頬を染めてそっぽを向いた。どうやら保護者としての責任感と、女の子としての嬉しさがせめぎ合っていたようだが、最終的には嬉しさが勝ったのか、小声で「ありがとう」とお礼を呟いた。
「やれやれ…。世話が焼ける。なぁ、パーシヴァル?」
漆黒のつぶらな瞳で二人を見つめるクマを撫でると、もこもこした手触りが心地良い。少しだけ頭頂部を押すと、パーシヴァルは頷くように身体を傾けた。「おお、お前もそう思うか」とこっちを向かせて頷き合っていたら、遅れてやって来た天音が「何をしてるんだい?」といった感じで戸惑いながら話し掛けてきた。
「………。いや、なんでもない。忘れてくれ」
流石に恥ずかしくなって咳払いで誤魔化しながら平静を装う。王子様がお人形遊びというのはイメージ戦略的にもちょっといただけない。視線の先では今まさに桃実とお嬢ちゃんが楽しく踊っている最中だった。
(なんだ、お嬢ちゃんしっかり踊れるんじゃないか)
意外と、と言うと失礼かもしれないが桃実と踊る姿はなかなか
「これ、桃実から」
「助かるよ。ボクも喉が渇いてたから。………。ボクの顔に何か付いてるかい?」
「いや…」
桃実はシュールだと言ったが、こうして見てる分には爽やかなCMのようにしか見えないし、別に牛乳を飲んでても変ではないと思うが…。まぁいいか。
「こういうの…なんかいいな。最初はエトワール選に利用出来れば、くらいに思ってたのに今は来年もやりたいと思ってる。エトワールになれたらぜひパワーアップさせて開催したいものだ」
踊る桃実とお嬢ちゃん。それに周囲で踊る人。私たちにダンスを申し込んでくれた生徒たち。会場に溢れていた笑顔を思い浮かべしみじみと思う。こういった機会があれば、もしかしたら桃実とお嬢ちゃんのように結ばれる子たちも出てくるかもしれない。そうしたら二人も、もう少し気楽に恋人でいられるようになるだろう。
ぼんやりしてたら桃実がこっちに向かって何か叫んでいることに気付いた。どうやらエトワール様がお戻りらしい。
「行こうか、要」
「ああ!」
頷き合い立ち上がった我々は、桃実とお嬢ちゃん、それにパーシヴァルの3人に見送られて女王様の元へと歩き出した…。
<哀しき舞踏>…六条 深雪視点
スピカの光莉さんから事態の顛末を聞いた私は、膝から崩れ落ちそうになるのをどうにかこうにか堪えながら、ダンスを踊る静馬の姿を見つめていた。我ながらよく泣き出さなかったなと思う。生徒会長としての誇りが支えとなっていたのか、静馬へ恋慕する想いがそうさせていたのかは定かではないが、とにかく私は気丈にも、しっかりと二本の足で立っていた。
静馬が戻ってきたのは少し前のことだ。遅れた理由についても特に触れることはなく、ちょっと遅れただけと言って何食わぬ顔で踊る生徒たちの中へと紛れていった。その顔は至っていつも通りで、何かを隠しているようには見受けられなかった。
これほどの行為をしでかしておきながら、よくもまぁ。
ポーカーフェイスと言うには些か躊躇われる、ともすればややサイコパスな面と評さざるを得ないかもしれない。とにかく花園静馬という人間は、今こうして檀上から眺めていても平然としているように見えた。
目を輝かせてダンスを申し込む女生徒を優しくエスコートし、優雅に舞うその姿は実に煌びやかというほかない。慈愛に満ちた笑みを浮かべるその顔は、思い通りの表情を映し出す仮初のモニターとしての役割を忠実にこなしているらしかった。
(そういうことだったのね、静馬)
今更になってようやく、静馬の言った『さよなら』の意味を理解し━━━といっても朧気であって完璧にとは言い難いが、それでもその意味を知ってやり場のない無力感に苛まれた。もっと早く気付けていたら、こんな暴挙を許しはしなかったというのに。
(でも私は気付けなかった。だからこうして蚊帳の外にいるわけだけど、あれはあなたなりの、私に対する決別の言葉だったのね)
知らず知らずのうちに握りしめた手がそのあまりの強さに震え、綺麗に切り揃えられた爪が手の肉に食い込んで、薄い三日月状の痕を残していた。
静馬のいる場所とこの場所はたいして離れていないというのに、その間には鉄で作られたカーテンよりも分厚い何かが城壁のように立ち塞がって私たちを隔てている。そして彼女は笑うのだ。そのカーテンらしき物体の向こう側から。
出来る事なら今すぐ傍に駆け寄って問い詰めたい。「なんで? どうして?」と疑問符ばかり並べた問い掛けをぶつけ、肩を揺さぶってしまいたい。けれどそうしたら、私はその後で静馬の胸に顔を埋めて泣いてしまうだろう。子供のように縋りつき静馬の顔を見上げる自分の幻影が見えたような気がした。
「今は夜々ちゃんが付き添って二人をいちご舎まで連れて行ってます。六条様もすぐに━━━━━━六条様? あの、どちらへ?」
「ちょっとやることがあるから少し待ってて」
「ろ、六条様…」
「ごめんなさい。なるべく急ぐから許して頂戴」
私は壇上から降りると、真っすぐに静馬の元へと歩いていった。そこでは丁度、静馬にダンス勝負を挑もうとするスピカの要さんがギャラリーを煽っている最中で、初めのうちはそれに多少なりとも乗り気な様子を見せていた静馬も、私の姿が見えるや否や、要さんから視線を逸らし私だけを見据えて待ち構えていた。
「どいてもらえるかしら。その人とは私が踊るの」
「六条会長、静馬様に先に声を掛けたのは私ですよ。困るなぁ、順番は守っていただかないと」
おどけた態度の道化師役に、もう一度だけ「どきなさい」と告げ有無を言わさず静馬の前に立つと、勢いに気圧されたのか後ろへと退いた。だけど私にはもう一人、どかさなければならない人物がいる。目の前で静馬に抱き着いたままの自分の幻影。今も泣いているそれを掻き消すように私はもう一歩踏み出した。
「お相手願えるかしら、エトワール様」
「ええ、いいわよ」
応じた手を取りその甲に軽く口付けをすると、恭しく一礼して手を手繰り寄せた。
「どういうつもり? まさかあなたがリードするというの?」
静馬が構えるよりも先に男性役としての姿勢を取った私に静馬が疑問を投げ掛ける。
「そうよ。たまには気分転換も良いかと思って」
「………。そうね。たまにはいいかもしれないわね」
左手を伸ばして静馬を迎え入れた私の足元で、オロオロと戸惑っていた幻影は跡形もなく四散していた…。
「あなたのリードで踊るのは初めてね」
「なんでだか分かる?」
「さぁ? なんでかしらね。考えたこともなかったわ」
「花園家のご令嬢に恥を掻かせないためよ」
「ぷっ、くふふふふ。真剣な顔して冗談言うから笑ってしまったじゃない。玉青さんに稽古をつけている時に見させてもらったけど、あれなら千華留の方がずっと上手いわよ。六条家のご令嬢さん?」
――――――――
―――――
――…
別に誰かに優劣をつけてもらう必要はなかった。最悪、私と静馬の間でだけ分かればそれでよかったのだ。実際、一般の生徒たちは私たちの踊りを見てもどう評していいのか分かっていなかったと思う。いくら教養のためにダンスを学ぶと言っても、私たちと彼女たちでは求められるラインに大きな線引きがあったのだから。上辺だけの「素敵」とか「カッコいい」といった黄色い歓声が飛び交う中で、スピカの王子様二人組や千華留さん、そういったほんの一握りの者たちだけがえらく真剣な眼差しで私たちを見つめていた。もしそのことに気付いたら、きっと浮かれた生徒たちは温度差みたいなものにさぞや驚いたことだろう。
たしかに事態は既に手遅れで、私は当事者になれなかったけれど、これは私なりの静馬への復讐で。単にダンスがあなたより上手いですってことを示すためじゃなくて、かといって嫌いになったと突き放すつもりなんて全然なくて。私を見て欲しかったという悔しさと、相変わらず『あなたを愛している』という想いがごちゃ混ぜになった、そんな複雑な心境。
「深雪、あなた…泣いてるの?」
踊り終わった後に掛けられた声は、予想と違って優しい声色の旋律だった。
「泣いてない」
「でも…」
「泣いてないわ。それよりもどうだった? 私はダンスが上手いのよ。あなたにだって負けないくらい、いいえ、あなたよりずっと」
「そうね。上手だったわ。惚れ惚れするくらいにね。それは認めてあげる。でも…私の本性はもう分かったでしょう? いい加減に諦めなさい」
くるりと踵を返して向けられた背中が私の呟いた「静馬…」と呼ぶ声を拒絶して、跳ね返された声は歓声に溶けて消滅した。
「待たせてごめんなさい。行きましょう光莉さん」
「は、はい…」
<周回遅れのサプライズ>…蒼井 渚砂視点
「もうちょっとで着くからね」
「はい…」
夜々さんに制服を着せてもらい、さらにその上から毛布で身体をくるんだ玉青ちゃんの身体を支えながらアストラエアの丘を歩く。その顔は血の気が引いていて真っ青で、足取りにしたってヨタヨタと覚束なく時折引き摺るようにしていた。大丈夫なわけなんてない。だから「大丈夫?」って聞くことさえ出来ず、ようやく掛けてあげられた言葉は
誰にでも分かる事実を伝えるだけのありきたりなものだった。
ちょっと歩いては立ち止まり。また歩いては立ち止まりの繰り返し。普段ならすぐに着いてしまう距離が、今はもどかしく感じられる。いちご舎に着きさえすれば、シャワーを浴びて、着替えて、あったかい飲み物を飲んで、それからフカフカのベッドで休めるのに…。身体を支えて歩くことしか出来ない無力な自分が嫌いになってしまいそうだった。
結局いちご舎に到着するまで普段の3倍くらい━━━ううん、もっとかも。とにかく永遠に思えるくらい長い時間を掛けて私たちはいちご舎に着いた。そして玄関に入ってすぐのところで、走ってきた光莉さんと六条様と遭遇し、談話室で一度休憩することになったのである。
(こんなとこにいないで一秒でも早くお部屋に戻った方が良いんじゃないかな)
当然そう思って伝えはしたんだけど、玉青ちゃん自身がそれを望んだこともあってそうなった次第だ。
(どうして戻りたくないんだろう。あそこは私と玉青ちゃんの…二人の家も同然なのに)
ぼさっと突っ立っているのは性に合わないし、なにより玉青ちゃんのために何か一つでもしてあげたかったから、部屋に戻って紅茶を━━━といってもパックのやつだけど淹れて引き返すと、談話室にはなぜか六条様の姿はなくみんな不安そうに俯いていた。その陰鬱な雰囲気はせっかく淹れた紅茶が冷めてしまいそうなほどで、私はそれを振り払いたくて無理にでも明るい声を出した。
「玉青ちゃん、良かったら飲んで。玉青ちゃんが淹れてくれるお茶ほど美味しくはないけど」
「ありがとう渚砂ちゃん」
そこへ六条様が戻ってきて私たちをぐるりと見渡すと、突然とんでもないことを言い出した。
「玉青さん。私の部屋の向かいの部屋を用意したわ。そっちへ行きましょう」
「………。はい…」
「えっ? あ、ちょ、ちょっと待ってください。どうして玉青ちゃんを違う部屋に連れて行くんですか? お部屋なら私たちのがあるのに…」
私を見る六条様の目はとても申し訳なさそうで、そしてそれは夜々さんや光莉さんも同じだった。
「なんで…みんなそんな顔をするの? だって私と玉青ちゃんはずっと同じ部屋で」
「どうする、玉青さん? 決めるのはあなただけど…」
「私は………………。ごめんなさい渚砂ちゃん」
長い沈黙の後、返ってきた答えは私の望んだものではなかったのに、みんなはそれを初めから分かっていたかのような顔で受け止めた。無言で立ち上がり、そのまま六条様の後についていこうとした玉青ちゃんの背中が遠ざかる。
「待ってよ玉青ちゃん! なんで? なんでそっちを選ぶの?」
「渚砂ちゃん…」
「他のみんなもそうだよ。どうして玉青ちゃんを止めてくれないの? 玉青ちゃんは私の…」
「渚砂さん! もう…その辺で」
私と玉青ちゃんの間に割って入ってきた夜々さんが、私を落ち着かせようと肩を掴んで押し留めながらそう言った。けど私はもう我慢出来なくて…。
「私じゃなきゃダメなんです。私の役目なんです。理由だって…ちゃんと…あり…ます」
必然的に集まる視線を真っ向から跳ね返すつもりで、私は僅かに震える声で話し出した。
「私たち…お付き合い…してて、玉青ちゃんは私の恋人なんです。突然こんなこと言い出して何を言ってるんだって思うかもしれないけど、本当なんです。だから…玉青ちゃんのお世話は…私がやります」
「渚砂さん…あなた………」
「お願いします。一生懸命頑張ります。これからは玉青ちゃんよりも早く起きて、自分で髪をセットして、玉青ちゃんの着替えを手伝って…。それから、それからえっと………宿題だって自分の力でやるし、他の事だって。とにかく玉青ちゃんの傍にいたいんです。だから…私から玉青ちゃんを取り上げないでください。お願いします」
六条様に向かって頭を下げた。精一杯想いを伝えながら何度も何度も。ギュッて握りしめたスカートがクシャクシャになるのも構わず、頭を下げ続けた。
「渚砂ちゃんやめてください…。渚砂ちゃんにそんなことされたら、私、どうしていいか分からなくなっちゃいますから」
「どうしても何も、一緒に部屋に戻ろうよ、ね? 玉青ちゃんだって本当はその方が…」
「違います。私からお願いしたんです。渚砂ちゃんが部屋に戻ってすぐに、六条様に」
顔を覆った玉青ちゃんの表情はよく見えなかった。けど、声が上擦ってひっくり返っていたから、たぶん泣いていたんだと思った。
「なん…で? そんなことを言ったの? ねぇ玉青ちゃん…」
「渚砂さんには悪いけれど、他の生徒が戻ってこないうちに色々と済ませた方がいいわ。だから…」
「すみません、ご迷惑をお掛けします」
このままじゃ玉青ちゃんと離れ離れになっちゃう。私は再び遠ざかっていく背中に向けて必死に手を伸ばした。
「ま、待ってよ玉青ちゃん。私、玉青ちゃんが好き。たしかに静馬様は素敵だし、ドキッとしたこともある。でも私は玉青ちゃんが好きなの。私が一番好きなのは、静馬様じゃない! 玉青ちゃんだよっ!! だから………私と一緒にいてよ。玉青ちゃんがいない寮生活なんて…考えられないよ」
「ッ………。う……、ぐす、ひっ……う、うう~~~」
足を止めた玉青ちゃんの肩がフルフルと震えていた。声を我慢して、息を激しく吸い上げるようにしながら玉青ちゃんは泣いていた。
「そんなの…私だって同じに決まってるじゃないですか。私だって…私だって渚砂ちゃんが好きです。大好きです。でも、好きだから…渚砂ちゃんが好きだからこうしなきゃいけないんです。だって、だってッ!! あんな事があって渚砂ちゃんと一緒に居られるわけ………ないじゃ…ないですか。辛いんです。渚砂ちゃんの顔を見るのが。怖くなっちゃうんです。渚砂ちゃんの声を聞くと。嫌なの…渚砂ちゃんの目に触れるのが。こんな穢された私を、渚砂ちゃんに見られたく…ない」
「玉青ちゃ…」
ふらふらと駆け寄ろうとした足がもつれて床にペシャンッと崩れ落ちた。
「渚砂さん、今は玉青さんを一人にしてあげましょう? そうじゃないと、二人とも傷付くだけだよ」
「夜々さん…。でも、でも…」
傍にいた夜々さんに助け起こされながら、私はまだ諦めきれなくて━━━。
「やだ…。やだよ。やだっ! やだやだやだッ!! 私、私…玉青ちゃんと一緒がいい。一緒が………いいよ」
辛いのは玉青ちゃんの方のはずなのに、子供みたいに駄々を捏ねて泣き叫んだのは私だけだった。
「大丈夫ですよ渚砂ちゃん。少しの間だけですから。少ししたら元気になって、全部元通りになりますから。だから、それまでの間…ちょっとだけ………さようなら、渚砂ちゃん」
<慟哭>…涼水 玉青視点
パタンと扉が閉まるなり、私は壁に寄り掛かるとそのままズルズル滑るように床へとへたり込んだ。必死だった。一生懸命だった。少しでも渚砂ちゃんを心配させないようにするために、限界ギリギリまで頑張った。だからその反動で力が抜けた私はそうする以外に何も出来なかった。
「よく…耐えたわね。あなたにはいつも驚かされるわ」
「六条様、私…」
「最後の笑顔、きっと渚砂さんは安心したはずよ」
それはたぶんお世辞で、やっぱり渚砂ちゃんにはたくさん心配させちゃったんだろうけど、それでもそう言って貰えたことで私自身が少しだけ安心して…。頑張りが認められたんだ、って気持ちになって、軽くなった心が浮いた分だけ、流れ込む水みたいに感情が溢れ出すともう抑えきれなくて…。
気付けば六条様に抱き着いて泣いてる自分がいた。
「私、私…静馬様に、静馬様にッ!!」
「もういいのよ、好きなだけ泣いても」
「初めてだったんです。私…本当に誰かを好きになったの、渚砂ちゃんが…初めてで。なのに…、なのに静馬様が…私を…無理矢理」
「ごめんなさい。本当に…ごめんなさい玉青さん」
「う、ううっ。渚砂ちゃんが…好き。好き。渚砂ちゃんが………大好き。渚砂ちゃん…渚砂ちゃん…渚砂ちゃん。ぅ~~~、ぁああああああああああああああ」
最愛の人と引き裂かれた私の慟哭が、アストラエアの丘に響き渡った…。
■後書き
スピカのお話もう少し早く入れてもよかったかもですね。平和なダンスパーティの裏では悲劇が…みたいなのをやりたかったんですけど、雰囲気が逆に浮いてしまったかも? まぁ清涼剤になってくれたら…。
アニメでは天音と光莉を邪魔する役回りだった剣城要と鬼屋敷桃実ですが、この作品の中では一貫して良い人してます。要はちょっとニヒルで自信過剰だけど優しくて思いやりのある王子様。桃実は年下の籠女を気遣う保護者的な面や、親友である要を支える感じに。たぶん、結構気に入ってたんでしょうね。アニメで『狂言回し』としての役を担いながらもなんか抗って成長しちゃったみたいなところがなんか、琴線に触れたというか…。なんだかんで最終的にはやり直し出来た二人って結構大人だったなって。
さてさて、スピカの話を除くと今回も非常に陰鬱としたお話になりました。とくに後半の渚砂玉青の視点を書く際にはキーボードをググ~~~~ッと握りしめながら書いてて、ちょっと壊しそうになったくらいです。
ダンスパーティ編は今回で最後ですが、まだ続きますのでもしよかったら次章も読んでいただけると嬉しいです。というかここで終わるとバッドエンドになっちゃいますからね。それでは~。