突然の来訪者は『あの御方』。あの日以来の二人きりでの再会に凍り付く玉青は、恐怖で言葉を失ってしまう。そんな玉青に向かって告げられた恐るべき
■目次
<悪魔の
<こんなに近くにいるのに>…涼水玉青視点
<季節外れの雪が降る>…源 千華留視点
<悪魔の
そのシルエットの正体が静馬様だと分かった途端、私の身体は恐怖に震え、凍り付いたように動かなくなった。ベッドで上体だけを起こしたまま見つめる先で、風になびく銀髪が周囲に漂わせたのは、蝶の振りまく鱗粉にも似た輝き。それらは風に乗って部屋のあちこちを旅すると、淡い光を残して儚く散っていった。
「だ、だって…鍵…掛けて…」
何かの間違いではないかと思って視線を巡らせてみても、ドアにはこじ開けた様子など何一つなく、来訪者などいませんでしたと言いたげに、
「ふふふ。すり抜けて入ってきたのよ。素敵な
そう言って子供をからかうみたいに微笑んだ静馬様の手の中で、何かがチャリッと音を立てた。そのまま何度か手の中でそれを跳ねさせた後、そっと掌から滑り落とされた
「あっ…鍵………」
それは紛れもなく鍵だった。しかもいちご舎のどの部屋でも開けられる特別な―――寮母さんやシスターが管理するマスターキー。鎖に繋ぎ留められたまま未だ回転を続ける魔法の道具に、自ずと私の視線も釘付けになる。
「いいでしょう? これ。貸していただいたの」
私が「どうしてあなたがそれを?」と尋ねるのに先んじて、静馬様によるタネ明かしが始まった。
「心労で倒れた敬虔なミアトル生を、
その時の事を思い出したのかフッと笑みを零す静馬様の手元からは、ヒュンッヒュンッと風切り音が鳴り響く。チラッチラッと視界を掠めるのは旋回する鍵。鎖の輪っかに指を引っ掛け、器用に弄ぶそれが音の正体だ。しかし私にはそれがまるで…死神が振るう大鎌の音のように聞こえていた。
「私が真面目にお仕事するのが嬉しくて仕方がなかったみたい。シスターったら何て言ったと思う?くくっ、あははははは。玉青さんをよろしく、だなんて言ったのよ。笑っちゃうわ」
タネ明かしが終わり手の動きが止まると同時に、推進力を失って歪んだ弧を描いて自身へと向かう鍵。鈍い光沢を放つそれを見事にパシッと手で受け止めつつ、悪魔は唇の端を吊り上げた。
「さてと…茶番はこのくらいにして本題に入ろうかしら。今日はあなたに提案をしに来たの」
「提…案?」
「ええ、そうよ」
窓辺から離れ、こちらに向かって歩き出す静馬様の姿にあの日の悪夢が蘇る。
「来ないで…。こ、声を…。声を上げますから」
「まさか助けを呼ぶつもりなの? その蚊の鳴くような声で?」
試すように笑う静馬様の指摘通り、私の声はとてもか細く弱々しい声で、ドアを一枚隔てただけの廊下にだって届くか怪しいものだった。
「それ以上一歩でも近付いたら…悲鳴を上げます。本当ですから。生徒は居なくたって寮母さんやシスターはいらっしゃるんです。だから…こっちに来ないで
「相手にお願いをしてる時点で…それは負けを認めてるようなものよ?」
構わず近付いてきた静馬様のしなやかな手が、ヒタッと私の頬に触れる。血の通った人肌のはずなのに、氷のように冷たく感じられるそれに、身体の震えは増していく一方だった。
「ぁ…、あ、ああっ、ぁ……あ…」
「どうしたの? 悲鳴を上げるんじゃなかったのかしら?」
憎い相手に挑発されても声は喉から出てこなかった。心の中では悲鳴を上げるべく必死に口を動かすよう念じているのに、実際に私の口から漏れるのは、ヒューッ、ヒューッという掠れた呼吸音と、意味を成さない言葉の出来損ないだけ。「そういう顔も素敵」と頬を撫で回す静馬様にされるがままに、パクパクと口を開閉させていた。
そしてギシッという軋んだ音と共に、片膝をベッドに乗せた静馬様の唇が吐息と共に耳元へと届けたのは―――。
「ほら? どうしたの? 声を上げていいのよ。キャ~でも、助けて~でも。ふふふふ。あなたの可愛い悲鳴、聞かせて頂戴?」
「ぁ、ぁ……ぁ…ぁ」
ねっとりと耳に絡みつく妖艶な囁き。けれど脳味噌まで蕩けそうなその声とは裏腹に、私の悲鳴を求める言葉はあまりにもおぞましくて…。
「あらあら。声が出なくなってしまったのね? 可哀想に、すっかり怯えてしまって…。そういうつもりはなかったのだけれど、つい
頬を撫でていた手が太腿へと移動し、ツゥーッと這うように足先から胴体の方へと滑っていく。
「このまま声が出ないと、大変な事になってしまうかもしれないわね、玉青さん?」
「ゃ…、やめ……やめ…て……くだ…さ」
脅し文句にどうにかこうにか声を絞り出すと、静馬様はよしよしと頭を撫でながら言葉を続けた。
「それじゃ私が話をするからちゃんと聞くのよ? そしたら何もせずに帰ってあげる。分かった?」
私は返答として無言でコクコクと頷いたものの、それに満足しなかったのか、再び耳元に唇が寄せられ―――。
「お返事は?」
突然の大声にビクッと身体を竦ませた私は、何もされたくない一心で祈るように「はい」と返事をした。あの日の恐怖が頭にこびりついていなければ多少の反抗もしただろうが、今の私はただただ静馬様に部屋から出て行って欲しくて、従順な
(あんな目に遭うのは、もう…絶対に嫌。あんな…あんな怖い事)
思い出そうとしただけでガタガタと震え出した身体を自ら抱き締めると、そっと目を伏せた。戦慄の対象である静馬様を視界に入れることさえしたくなかった私にとって、それが一番の方法だったから。
「良い子ね。そうしていれば私は優しくしてあげる。もちろん酷い事なんてしないから安心して頂戴。女神様に誓うわ」
声色は優しくても気が休まるわけではない。逆に言えば…良い子にしていなければ酷い事をすると、この人はそう言っているのだ。
「提案というのはね、深雪を助ける方法についてなの」
「六条…様を?」
「そう。今学園で噂が広まってるでしょ。深雪はあれの対処に困っているし…心を痛めているわ。だけど何よりも問題なのは、あまり噂が広まり続けると、実家である六条の家が黙っていないって事。名家っていうのは家の看板に傷が付くのを嫌がるものなのよ。最悪、この丘から連れ戻されて卒業式の日まで家で軟禁状態にされる可能性も…考えられるわ」
「そんなっ…!?」
「あくまで可能性だけど、早く手を打つに越したことはないの。六条の家は、ある意味で私の花園家よりやっかいだから。玉青さん、あなたは深雪に恩義があるはず。だったら助けたいとは思わない?」
「それは―――」
思うに決まっている。六条様は私を高く評価し次期会長へと推してくれた。仕事だっていつも丁寧に根気強く教えてくれたし、仕事が終われば優しくもしてくれた。そんな六条様を私は尊敬し、慕ってもいる。第一卒業まで家に軟禁だなんて、六条様が可哀想過ぎるではないか。
でも元を正せば、噂になった決定的な原因は静馬様があんな事をしでかしたからで、あれさえなければ私は部屋を移動せずに済んではずだ。そしたら噂も起きず、六条様だって…。
「―――ッ!? まさか…あの噂もあなたが………?」
「鋭いのね、と言いたいところだけど外れよ。深雪にも疑われたけどね。噂に限っては私はノータッチよ。だからこそ申し訳なくもあるの。深雪にはとんだとばっちりだもの」
信用は…出来るわけない。けど、六条様を助ける方法については聞くだけ聞いてみてもいいと思った。
「それでその方法というのは?」
「興味あるみたいね。別にたいしたことじゃないわ。とても簡単なことよ」
「早く…仰ってください」
「ふふ、せっかちさんね。だったら教えてあげる―――」
そう言うなり伸びてきた手が私の顎に掛かり、無理矢理見つめ合わされた瞳の中に互いが映り込む。顔を逸らしたくても逸らせず、妖艶な瞳が私の魂を吸い取ろうと不気味に明滅した。
「大勢の前で、私のものになると誓いなさい」
「………………えっ?」
突拍子もない発言に、時間が止まったかのような感覚さえ沸き起こる。
「何を仰っているのか………分かりません」
「幸いなことに私は今回の噂についてまだコメントしてないわ。だからあなたがそう宣言をして、私がそれを認める形で交際を発表するの。私と玉青さんが付き合っていて深雪は無関係。部屋の移動は私が裏で深雪に頼み込んだとでも説明するわ。他の要因についても同様よ。どう? そうすれば深雪は噂から解放されて、晴れて自由の身になるってわけ」
「そんな方法…」
「広がってしまった噂を打ち消すにはそれ相応のインパクトがいるわ。そしてそれを可能に出来るのはエトワールであるこの私だけ。ふふ、それとも渚砂との仲を公表する? たぶん聞き流されるのが関の山ね。目の前でキスでもして見せれば違うかもしれないけど………そうしたらその後のあなたたちがどんな扱いを受けるか、想像しただけでも楽しそうね?」
つまりは今飛び交っている噂を、新しい噂で上書きしようというのだ。たしかにエトワールの名声を利用すれば、不可能ではないかもしれないけれど………。
「嫌…です。だって私には…私には渚砂ちゃんが―――」
「なら深雪は見捨てるの? 意外と薄情者ね?」
「そ、そうは………言って…ません。でも、助けたいと仰るなら静馬様一人でだって。あなたなら………他にいくらでも方法が」
「さっきも言ったでしょう。もうこの噂はちょっとやそっとじゃ止められないの。噂の渦中の人物である玉青さん、あなたを利用するこの方法が最も優れた方法なのよ。優秀なあなたなら理解出来るんじゃない?」
「ひ、卑怯ですッ!! 六条様を利用してっ」
提案に乗るということは、渚砂ちゃんを裏切るということ。この人は私たちの関係に自分がトドメを刺すのではなく、それを私にやらせようとしているのだ。許せない、こんなこと。許せない………けど―――。
「私は知ってるのよ。あなたが自分のためよりも、誰か人のための方が必死になれるってことを」
「―――ッ」
「渚砂の時だってそう。自分は傷付いても平気なくせに、渚砂が傷付きそうになると不思議なくらい力を発揮する。私にビンタした時も、渚砂のためだったんじゃないかしら?」
「いけませんか…。誰かのために努力をしては」
「自己犠牲の精神? ふふふっ、大変ね。
「か、考えさせて…ください…。少しでいいですから」
「いいわ。どうせ答えは決まっているんですもの。でも猶予はあまりないからそのつもりでね」
それだけを言い残し静馬様は何もせずに部屋を去っていった。本当に提案することが目的だったらしい。静馬様が外に出て、そして扉の向こうから
<こんなに近くにいるのに>…涼水玉青視点
控えめで可愛らしいノックの音にすぐに渚砂ちゃんだと気付いた。急いで迎えに行くとそこには思った通り渚砂ちゃんの姿が。就寝前の時間ということで薄ピンク色のパジャマを纏っているのがとってもキュートだ。
「いらっしゃい渚砂ちゃん」
「えへへ、玉青ちゃんに会いたくて来ちゃった。夕食前は寝てたみたいだけどあれから具合はどう?」
静馬様が来たことを伝えるべきか、どうしようか。逡巡する私に向けられる屈託のない笑みに胸がチクリと痛む。結局、会話しつつ様子を見ながら決めることにして座るように促した。
「ええ、おかげさまでバッチリです。お茶の用意をしますから、座って待っていてくださいね」
「わ~い。玉青ちゃんとお茶会だぁ!」
喜びを表現するかの如くトタトタと部屋の中を駆けると、椅子とベッド、どちらに座るか迷った後、ベッドへとピョンとダイブ気味に着席した渚砂ちゃんは、そのまま無邪気に足をパタパタとさせた。
「なんだか嬉しそうですね」
戸棚からティーポットを取り出しながら尋ねると、
「当たり前だよ。玉青ちゃんの淹れてくれる紅茶が飲めるんだもん」
と弾むような声が返ってきた。期待されると嬉しくて、ますます美味しいのを淹れてあげなくちゃって気合が入ってしまう。
「パックのじゃ物足りませんでしたか?」
もしそうだったら私が頑張り過ぎて舌が肥えてしまったのかも。渚砂ちゃん好みに作った特製のブレンド茶葉を手に取りながらそんな楽しい想像をしていると、自然と笑みが零れ、気持ちがググッと上を向いていく気がした。
でも渚砂ちゃんの言った意味はちょっと違ったみたい。
「そうじゃなくて………あ、ううん…玉青ちゃんのはもちろんパックのやつより全然美味しいんだけどね。そうじゃなくて…一人じゃやっぱり味気なくて…。もし同じくらい美味しい紅茶を私が淹れられたとしても、玉青ちゃんと飲むのと独りぼっちで飲むのとじゃ、違うと思うから」
暗に私と居ることへの喜びを示してくれたその言葉に、思わず手を止めて振り返った私の横では、沸いたお湯がゆらゆらとのんびり湯気を立ち昇らせていた。
「うんっ! 美味しい!」
「言ってくれればいくらでもおかわりを淹れますからね」
「それは魅力的だけど、あんまり飲むと眠れなくなっちゃうよ」
二人分の椅子はないから私が椅子で渚砂ちゃんがベッド。逆にテーブルは二人で使っていたものより大きいから、ティーポットやトレーを置いてもかなり余裕があった。
「一人部屋って広いね~。ベッドが一個しかないから当然だけど、それでも広く感じちゃう」
「それが嫌でずっと二人部屋を選択する生徒もいるくらいですからね」
「そっちの方がいいよ。うん、私は断然そっち派かな」
私が休んでいた間の学校での出来事などを交え、和やかに続く他愛のない会話。今日一日ショックの大きかった私には最高の栄養剤だ。渚砂ちゃんも何となくそれを察して噂の事とかそういった話題は避け、なるべく楽しそうな話を選んでしてくれたみたいで、ついついお茶のおかわりが進んでしまう。
気付いたらもう4杯目! 寝れなくなると言っていた渚砂ちゃんも既に3杯を飲み干していた。
この雰囲気を壊したくない。そうは思いつつも、私はどうしても渚砂ちゃんの考えを聞きたくて口を開いた。
「渚砂ちゃん。渚砂ちゃんはもし私との仲をみんなに公表することになったら、どう…思いますか?」
ちょっと突然過ぎただろうか? 目を丸くして何かあったのか尋ね返す渚砂ちゃん。そんな渚砂ちゃんに両手で何でもないってアピールをしながら再度聞いてみた。
「あっ、いえ…あくまで例えばの話です。何かしらの事情でみんなに話さなきゃいけないってなったら…なんて」
雰囲気が変わったのを感じたのか、少し姿勢を正して私を見つめ直す視線に影が落ちる。
「やっぱり…不安………かな」
「そう…ですよね」
「みんながどんな反応するのか怖いし……うん、不安がないって言ったらそれは嘘になると思う」
「分かりました。ありが―――」
「でもね」
私の言葉を遮ったその「でも」の力強さに、思わず渚砂ちゃんの顔へと目が吸い寄せられた。
「でも私は………みんなに言いたいなって思う事…あるよ。クラスの子たちとか、同じ学年の子。それに全然知らない上級生とか下級生にも。私たちは付き合ってるんだよって。私の恋人は―――玉青ちゃんは素敵な人なんだよって、言ってみたい。みんなに認められて、学校の中でも自由に振舞って、それで、それでね」
希望について語るその目は、とても………とても眩しくて。
「みんなの前でギュ~~~~ッてして欲しいな」
「ギュ~ッですか?」
「うん! ギュ~~~~ッって。背骨が折れちゃうじゃないかってくらい強く抱き締めてね」
「ふふっ、ふふふふふ。なんだか渚砂ちゃんらしい」
「たぶん大変だとは思う。私たちのことを悪く言う人とかも出てくるだろうし。でも玉青ちゃんとなら…玉青ちゃんとならなんとかなると思うの。だって私―――玉青ちゃんのこと」
途中までは可愛らしいな、なんて思ってたのに。何かを言い掛けた渚砂ちゃんの瞳はウルウルと涙に濡れていて…。びっくりするぐらい艶っぽくて、こんな事言ったら失礼だけど渚砂ちゃんじゃないみたいだった。その瞳の魔力に吸い寄せられるように立ち上がった私は、渚砂ちゃんの隣に腰掛け改めて顔を覗き込んだ。
どこまでも引き込まれてしまいそうな赤い瞳は深い海を思わせる。そして目尻に湛えられた一粒の涙は限りなく透き通る宝石のようで、互いを映し合うことでさらにその美しさを際立たせていた。
渚砂ちゃんに応えるように手を握った私たちの間に、「昼間の続きをしよう」だなんて言葉は必要なかった。磁石のS極とN極のように引き付け合う力が働き、私たちはその力に身を委ね…力を抜く。それが当然であり、必然だと理解していたから。
しかし―――。
(あっ、来る…。嫌っ。なん…で?)
保健室の時の繰り返しの如く再び襲い来るフラッシュバック。
まただ! また
唇が触れた瞬間、昼の時よりもさらにはっきりと脳裏に蘇った静馬様の姿に、お腹の中がひっくり返ったような感覚が込み上げてくる。
(渚砂ちゃん! 渚砂ちゃんッ!!)
心の中で名前を叫びながら必死に唇を強く擦り合わせても、唇は嘘みたいに無機質で、何一つ快感は得られないまま、ただ不快感ばかりが増していく。
「んっ、玉青ちゃん…」
唇が離れ、
(気持ち…悪い。でも、今はとにかく渚砂ちゃんに帰ってもらうのが―――)
「ねぇ玉青ちゃん。もう一回…しよう?」
「えっ…?」
「少しずつだけど、私…玉青ちゃんの望むようなことを、受け入れられるようにしたい。まだキスしか出来ないけど、いつかは…もっと」
「ま、待ってください渚砂ちゃ―――きゃあっ!?」
肩を掴んで迫る渚砂ちゃんにグイグイと押され、勢い余った私たちはそのままベッドへと倒れ込んだ。小さな悲鳴を漏らした私が目を開けると、渚砂ちゃんが両肩の辺りに手をついて私を見下ろしていた。
「ご、ごめんね…玉青ちゃん」
「いえ、だいじょう―――ッ!?」
「…? 玉青ちゃん?」
「な、何でも…ありません」
私が下で、渚砂ちゃんが上。その体勢が奇しくも
どいて! 早くどいてっ! そう叫びたいのを歯を食いしばって我慢し、そっと腰を掴んでどかそうとした私に渚砂ちゃんは―――。
「玉青ちゃんッ!! 好き!!」
そう叫んだかと思うと止める間もなく覆い被さってくる姿に、静馬様のそれが重なった。身体に感じる自分以外の人の重み。唇の感触。握り合う手の締め付け。
(ぁ…、嫌、嫌ぁ…、あ、ああ…)
ドクン、ドクンと身体中の血液が駆け巡る感覚と共に、次々と恐怖が蘇っていく。静馬様の嗤う顔。口の中に侵入してくるヌルヌルとした舌の感触。身体の隅々を這いずり回る白い指先。そして………そして―――。
私の純潔を奪った、あの火傷のような下腹部の痛み。
「嫌っ!? 嫌ぁああ!?」
記憶だけでなくその痛みさえもが蘇ったような錯覚に陥り、私は半狂乱しながら渚砂ちゃんを突き飛ばした。ドンッという音がしたから、かなりの勢いで突き飛ばしてしまったんだろう。けれど私には渚砂ちゃんを心配する余裕はなかった。
「う゛っ!?」
お腹の奥からゴプッと這いあがってきた吐き気に、ベッドから跳ね起きて一目散に洗面所を目指す。本当はトイレまで行きたかったけれど、間に合わないと判断し、洗面台に向かって思い切り
「っ…、うう゛っ!? ケホッ…、ケホッ。う゛っ、うぅ…。カハッ、ハァッ、ハァッ………」
気を失ったりなんだかんだで昼食を食べていなかったのは運が良かったかもしれない。胃の中に吐き出す物が何も残っていなかったおかげで、私は幸いにも
しかし体力の消耗がなかったわけではなく、私は壁に手を付くなり、自分を支えることも出来ずにズルズルと崩れるようにして床にへたり込んだ。
「玉青ちゃん…」
「―――ッ!? 渚砂…ちゃん」
振り向くと洗面台の入り口で渚砂ちゃんが立ち竦んでいた。鍵を掛けていなかった以上、扉は当然ドアノブを動かせば開くわけで…。
つまり私は今の一部始終を見られていたのだった―――。
「もしかして………私と…キス………したから?」
どう取り繕えばいいのか分からず言葉を失う私。しかし体調ではなく別の原因があると感じ取った渚砂ちゃんに投げ掛ける言葉が見つかるはずもなく、私は降参するように
「渚砂ちゃんには…全部お話します」
―――――――――
――――――
―――…
渚砂ちゃんに肩を借り、再びベッドの方へ。横になった方がいいのか尋ねられたけれど、そのままの方が楽だからと答えると、身体をくっ付けるようにして隣に座ってくれた。私はそれを「甘えていいんだよ」という意味に受け取り、少し身体を傾けて寄り掛かる感じで話し始めた。
「初めは保健室の時です。渚砂ちゃんとキスした瞬間に、静馬様に…その………えっと…。なんて言えばいいんでしょう。乱暴…された時のことを思い出してしまって、急に気分が悪くなって。でもその時は疲れてたからかなって自分に言い聞かせたんです。………。いえ、違いますね。認めたくなかったんだと思います。渚砂ちゃんとのキスでそんなことになるって思うのが嫌で」
私がポツポツと話し始めても渚砂ちゃんは何も言わなかった。代わりにところどころで頷いたり手をギュッて握ったりして、「ちゃんと聞いてるよ」と教えてくれた。
「だけどさっきのキスで確信しちゃいました。私の身体にはキスとか、性行為に関するトラウマが刻まれてしまっているんです。残ってるんですよ。静馬様が…私の………身体の中に…まだ。いくらシャワーで洗い流したって消えてくれはしない。1年後、もしかしたら10年後だって…。だからそういった行為をすると記憶がフラッシュバックしちゃうんです。たとえその相手が―――渚砂ちゃんであっても」
私だって、ううん、私だからこそ認めたくなかった。認めてしまえば、余計に渚砂ちゃんとのキスに忌避感を抱くようになるかもしれないから。なのに現実は残酷で、私はキスの度に
「ごめんなさい渚砂ちゃん。出来れば気付かれる前にどうにかしたかった。せっかく渚砂ちゃんから一歩踏み出してくれたのに…」
「玉青ちゃんが謝る必要なんてどこにもないよ。大丈夫、安心して。私は…玉青ちゃんの傍を離れないから」
やっぱり言っておこう。静馬様が来たことも、提案の内容も。渚砂ちゃんには伝えておくべきだ。
「実は…もう一つ。夕食前に、静馬様が来たんです」
「ええッ!? 静馬様が!?」
「はい。そしてあの人は私に…ある提案をしていきました。その内容はですね―――」
六条様を助ける方法と私に求められた条件。それらを余すことなく伝え終わると渚砂ちゃんの瞳にはパッと怒りの炎が灯り、その色合いに私は、炎と混ざり合うような瞳の色がなんて綺麗なんだろう、と場違いな感想を胸に抱いた。
「ごめん。私…ちょっと顔洗ってくる」
「渚砂ちゃん?」
「なんていうか上手く言えないけど、すっごくムカムカしちゃってるからさっぱりしたくて。たぶん悔しいのかも」
「悔しい…ですか?」
「うん。だって理由はどうあれ玉青ちゃんの感情を大きく揺り動かすのって、私じゃなくて静馬様ばっかりなんだもん。玉青ちゃんの恋人は私なのに…。あれ? なんだろう…。もしかしてこれが…嫉妬………なのかな。あはは。よく…分かんないや。とりあえず行ってくるね」
洗面所の方へトトトッと渚砂ちゃんが行ってしまうと、私は言われた言葉を噛み締めるように何度も頭の中で反芻した。
(嫉妬。あの…渚砂ちゃんが。そうですよね。いつまでも子供じゃ…ないですよね。やっぱり話して良かった…)
ドア越しに聞こえてくるパシャッ、パシャッという水の音がいつまでも耳に残っていた。
―――――――――
――――――
―――…
「タオル、これ使ってください」
「ありがと。さっぱりしたよ。玉青ちゃんも顔洗ってくる?」
「私は大丈夫です。それに化粧水を塗ってしまいましたから」
再びベッドに横並びに座った私たちは、今度は渚砂ちゃんが身体を傾けて私に寄り掛かる姿勢で話し始めた。
「話してくれてありがとね。私のこと、信頼してくれてるんだってすごく………嬉しかった」
「渚砂ちゃんは私の恋人ですから」
「えへへ。あっ、てもそれじゃあ夕方は
え………? 今、渚砂ちゃん…なんて? 吐き気が?
渚砂ちゃんの口から飛び出した何気ないセリフに、私はある事に気付いてしまったのである。
(なんで今まで気付かなかったんだろう? そういえばそうだ。あんなに静馬様と近くで接したのに…私は吐き気を…)
「玉青ちゃん?」
「えっ? あっ…、ええと…吐き気よりも恐怖とかの方が勝ってしまって」
「そ、そうだよね。ごめんね。変な事言っちゃって」
キスはしなかったから? あくまで近付いただけで、そういった行為とは無関係だったから? でも、あんなに…、耳元に唇が………。
よく考えたら変な話だ。乱暴した当の本人なのだから、吐き気とかが身体の防衛反応ならもっと反応したっていいはず。それこそ二人きりになった時点で吐いてたっておかしくはない。
静馬様には反応していない? なら、どうして渚砂ちゃんとのキスで…。
そしてとある可能性に思い当たった瞬間、背筋がゾクリと凍り付いた。
(もしかして私が畏れているのは、
そうであるならば私は確かめなければならない。本当に渚砂ちゃんとだけがダメなのか。そうでないと克服するための手掛かりさえ掴めない。
(確かめなくちゃ。必ず。でも………。本当にそうだったら、私は一体どうすればいいの?)
想いは通じ合ってる。距離だってすぐ隣にいる。なのに今の私には、渚砂ちゃんがどこか遠い、決して交わらない並行世界にいるように感じられていた…。
<季節外れの雪が降る>…源 千華留視点
「ふぅん? なるほどなるほど♪」
机の上に並べられた大アルカナのタロットカード。それらがもたらした興味深い占いの結果に自然と独り言が漏れた。
「尋ね人あり…か」
気分よく鼻歌なんて歌いながらカードを回収し、トントンッと綺麗に整えると、休憩がてら紅茶を一口。カップから漂う湯気をゆっくりと吸い込んで香りを堪能しつつ、喉の奥へと液体を流し込む。自分で言うのもあれだけど、なかなか華麗なカード捌きのように思う。
(まぁ、私は何でもそこそこ出来ちゃうから驚きはしないけど…。次は尋ねてくる目的でも占おうかしら?)
一息ついたところで再びカードを机に並べようとしてふと思いとどまった。ただ並べるだけでは芸がない。ここは一つ、占い師らしいミステリアスな要素が必要ではないだろうか?
そんな思い付きからカードを指の間に挟むと、勢いをつけて机の上を滑らせてみる。
さて、上手くいくと良いんだけど。
スーッと移動していくカードの行方をじっと見守り、それが狙い通りの場所で停止したのを確認すると私はパチンッと指先を鳴らした。もちろん、そうなるのが分かっていたかのような表情でだ。
(相手に信じ込ませるにはハッタリも使わないとね♪)
どうやら今日の私は絶好調らしい。この勢いで占い同好会も作っちゃおうかしら、と考えを巡らせたものの、既に他の誰かが作っていたことを思い出し自嘲気味に笑った。
(女の子は占い大好きだものね。そりゃあるわよね~。残念残念♪)
気を取り直して並べたカードを慎重に一枚、また一枚とめくっていったものの、途中から私の表情はどんよりと曇り出し、最終的には険しい顔のまま最後の一枚を前に、手がピタリと止まっていた。
(あらあらあら? 目を覆いたくなるくらい惨憺たる結果ね。こんなこと…そうそうないわよ)
嘆く私の目の前には不吉な運命を告げるカードばかり。そのうえ最後のカードの内容によっては、さらに結果が悪いものへと変わる可能性があった。
そしてオープンされる最後の一枚。
「―――ッ!?。深雪さん、あなた………」
私は思わず唇をきつく結びながら、めくり終えたカードを未練たらしくいつまでも睨みつけるのだった…。
―――――――――
――――――
―――…
占いの通り、尋ね人―――深雪さんが訪れたのは就寝前の時間のことだった。
「今日は折り入ってお願いをしにきたの」
「何かしら? 私に出来る事であれば喜んでさせていただくわ♪」
テーブルを挟んで向かい側。椅子に行儀よく座る深雪さんは畏まった様子でそう告げた。
(素敵な表情をしているわね)
それが嘘偽りのない率直な感想。真剣な眼差しをしてはいるけれど、かといって決して気負っていない。良い意味で力の抜けた、そんな顔だ。
「
「噂についてじゃなくて………いいのね?」
「ええ、いいの」
「そう…」
どうか噂がなくなるように助けて欲しい。彼女の口からその類のお願いが出てくればどれほど楽だったことか…。
「それで…お願いって?」
「今度ホールでミアトルの全校集会があるわ。その時に来て欲しいの」
「ふふふっ。嫌だわ深雪さん。その時間、ルリムは授業中よ? まさか…抜け出せと?」
「そのまさかと言ったら?」
ああ、この子は破滅の道を歩もうとしている。それが分かっていながら私は止めようともせずに知らないフリをしてるなんて。
「制服はこちらで用意するわ。頭の飾りを外せばなんとか―――」
「―――制服の用意は結構よ。私を誰だと思っているの? 変身部の部長、源千華留よ。ミアトルとスピカの制服くらい持っているし、その生徒に化けることだって造作もないわ」
「心強いわね」
「お願いはそれだけ? 他にもあるなら言って頂戴」
催促するように尋ねた私に返ってきたのは、ただ一言「ないわ」という短い言葉だった。
「ないの? 本当に?」
「ホールに来て、そして見届けてくれれば他に何もいらないわ。その代わり、六条深雪の散り様を目に焼き付けて」
「本気なのね」
「最後の晴れ舞台。
「ふふっ、あははははははは。私たちって奇妙な関係ね。友人で…そのうえちょっぴり恋敵なんだもの。言っておくけど私、静馬の事まだ好きよ。たぶん自分が思っている以上に…ずっと」
「………。知ってる」
出会う順番が違っていたら、私と深雪さんが恋人同士だったかもしれない。それで静馬が途中からちょっかい出してきて…。心が揺れ動いてつい誘惑されちゃったり。
な~んて、ね? 考えたって仕方…ないわよね。うん…。
「あなた以外の役者の準備は万端なの?」
「これからよ。でも、あの子たち―――静馬に運命を狂わされた青と赤の少女には、必ず舞台に立ってもらうわ。そうでなくては…私一人では…意味がないもの」
「分かった。遅れず行くわ」
「ありがとう、それじゃ」
ぐだぐだと長ったらしく語ることなく、手短に済ませた会話が終わると深雪さんはあっさりと部屋を去っていった。一人きりになった部屋に静けさが灯り、その静寂を打ち破るように窓を大きく開けると、吹き込んできた風がカーテンをバタバタと揺らめかせた。
「占い…当たっちゃいそうね」
寝間着の袖に忍ばせていた一枚のカード。腕を揺らすことで袖の中からストンッと現れたそれを指で受け止め照明にかざす。もし観客がいたら手品のような鮮やかさに拍手が沸き起こっていたはずだ。
そのカードが決定づけた占いの結果は―――破滅的な別れ。どのような形になるかは分からないが、深雪さんと静馬はおそらく―――。
「当分、占いはごめんだわ」
カードをまじまじと眺めながらそう呟いた私は、それをビリビリと引き裂くと、月の輝く夜空に向かって思い切り投げつけた。けれど吹き付けた一陣の風が、雪のようにひらひらと舞う破片を捕まえて、運命は変えられないとでも告げるように部屋へと押し戻し、罰当たりな私に紙吹雪を浴びせ掛けた。
「女神様も
季節外れの雪が降った部屋から私の物悲しい声だけが、月夜に溶けて………滲んで消えた。
■後書き
玉青ちゃんを『騎士様』に例えるのは第15章が最初でした。いつも渚砂の傍にいる玉青を静馬がそう評したわけですが、その後も第19章の食堂で渚砂のファーストキスを奪われるシーン、第22章で玉青が静馬をビンタするシーンなどでも登場します。自分よりも誰かを優先する自己犠牲的な性格という意味では、やはり玉青ちゃんの印象が強いかな…と。
アニメ最終話での「いってらっしゃい」と渚砂を静馬の元へ送り出すシーンとか、当時の私にはあまりにも辛い場面でした。
一方の渚砂ちゃんですが、ここのところ急速にヒロインパワーが上昇中。今までちょっと影が薄かったかなって部分もあったので可愛さマシマシです。
もしよかったら次章もよろしくお願いします。それでは~♪
<追記>
読んでくださっている皆さん。ありがとうございます。なんと色が付きました。投稿した作品に色が付いたのは初めての事なのでとても嬉しかったです。この場をお借りして御礼申し上げます。