アストラエアの丘で   作:クラトス@百合好き

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■あらすじ
 千華留の部屋を訪れた夜々と光莉。秘密の衣装に着替えて何やら作戦会議中? 一方の玉青は、渚砂とトラウマの克服に向けて過酷な特訓に励んでいた。
 第35章は準備がテーマ。全てはミアトルの全校集会のために!!

■目次

<仲間の存在>…源 千華留視点
<荒療治>…蒼井 渚砂視点
<勝利への布石>…涼水 玉青視点


第35章「てんでお話にならないわ」

<仲間の存在>…源 千華留視点

 

「あら~♪ 二人とも似合うじゃない」

 

 ここはルリムの変身部の部室であり、私の目の前にはミアトルの夏服に身を包んだ夜々さんと光莉さんの姿があった。それぞれが鏡の前で身体をひねってみたり、スカート丈を気にするような素振りをしながら、鏡に映る自分の姿を熱心に見つめている、

 

「ん~。夏服はスピカの方が好きかな。どうせなら冬服を着てみたかったんだけど」

「ご希望なら後で試着させてあげる♪ サイズもばっちり取り揃えているから胸がきついなんて心配も必要ないわ。でもそうね…たしかに夜々さんはスタイルが良いから冬服の方が………。あ~でもそれだと素敵な黒髪が制服の色に沈んで勿体ないかも。ならいっそのこと髪をアップに…。けどこのストレートの髪を束ねてしまうのは―――」

 

 腕を組みつつ、あーでもない、こーでもないと考え事。久々に新しいモデルさんを前にして、ついつい変身部部長としての性分が顔を覗かせてしまう。

 

(アイデアって新鮮味一つで結構湧いてくるものね。今度の新作衣装はこの二人にモデルになってもらおうかしら?)

 

 そんな目論見を立てていると、光莉さんがスカートの端を摘まみながら鏡に向かって可憐なお辞儀を披露していた。

 

「私は好きだけどな。ミアトルの夏服。可愛らしくて冬服とはまた違った魅力があると思う」

「光莉さんは夏服の方が似合いそうね。甘い感じの雰囲気とぴったりだもの♪」

 

 ああ、ダメね。次から次へとやりたい事が浮かんじゃう。大人びた印象の夜々さんにはシックな装いをさせたいわね。それとスタイルを活かしたちょっぴりセクシーなドレスなんかも。逆に幼さの残る光莉さんは甘々なデザインで…籠女ちゃん用に考えていた案が流用出来そうかしら。温めておいた不思議の国のアリスの衣装も使いどころっちゃあ使いどころね。

 

 一人脳内ファッションショー状態でうんうんと頷いていると、夜々さんから質問が飛んできて私は一瞬で現実へと引き戻された。

 

「でもこれで潜入出来るんですか? 顔ですぐにバレちゃうんじゃ?」

 

 いけないわ、私ったら。今は真面目にやらないと。私がミスしたら深雪さんに申し訳が立たないもの。そう! 今は大事な大事な、ミアトルの全校集会への潜入ミッションを遂行するための準備中なんだから♪

 

「大丈夫よ。ホールが開場した後のわちゃわちゃした時間帯を狙えば中に入るだけなら問題ないわ♪ それにあなたたちは席に座って仲良くお喋りするわけじゃないんだし」

「後は指示通りに…ですね?」

「ええ。大変だと思うけど頑張ってね」

「あの…()()()()()()と仰ったような気がしたんですが…」

「良く気付いたわね光莉さん。そうよ。私はミアトル生に紛れて席から深雪さんを見届けるの。仕事を二人に押し付けるみたいで申し訳ないけれど、許して頂戴ね」

 

 私の返答に二人は仲良く声を揃えて「ええっ!?」と驚きの声を上げた。ってそれもそうよね。手品のタネを知らないとびっくりしちゃうわよね。

 

「実は静馬の()()()に協力した悪い子たちを説得した結果、協力してもらえることになったのよ。それを利用して上手くやるわ」

「説得…ですか。折檻じゃなくて?」

「………………。そうとも言うわね」

 

 とぼけた顔をして茶化す夜々さんに、私も便乗して悪役みたいな表情を浮かべながら答えてあげると、二人は途端に押し黙って気まずそうな顔をした。

 

「千華留様。それ…笑えないんですけど…」

「冗談よ、冗談♪ 二人ともユーモアが足りないんだから。………っと。もう良い時間ね。本当に冗談はこれくらいにしておいて、もう一度段取りを確認しておきましょうか」

「頑張ろうね光莉」

「うん、夜々ちゃん」

 

 雨降って地固まる…か。失敗しなくたって私たちみんな謹慎くらいにはなるってのに、二人ともやる気満々なんだから。笑顔で応じた二人の顔を見ながら、私は少しだけノスタルジックな気持ちに囚われた。

 

(良いわね。こういうのって。私も静馬も、なまじ一人でどうにかする力があったせいか、誰かを頼るってことがあまりなかったから。本当はもっと誰かに頼って生きても、叱る人なんていなかったのに。意固地になってたのかしらね、お互い。でも…だからこそ私たちは知るべきなのよ。個の力ではなくて仲間の力を。全校集会の日、あなたはきっと―――)

 

 

 

 

 

<荒療治>…蒼井 渚砂視点

 

 もう何度目だろう? 私と唇を合わせた玉青ちゃんが洗面所に駆け込むのは。お昼もわざわざ抜いてお腹の中を空っぽにした玉青ちゃんは、学校が終わっていちご舎に戻るなり私との特訓を始めた。

 

 顔を近付けては手で口元を押さえ、また顔を近付けては口元を押さえての繰り返し。時々吐き気が軽いのか、私と少しだけ唇を触れさせる。でもそれはそれで反動が大きいのか洗面台へと駆けていくのだ。吐き出すものがない玉青ちゃんは、ただ嘔吐(えず)くだけとはいえ、洗面所から響く苦しそうな声は充分に私の心に突き刺さっていった。

 

「玉青ちゃん…少し休んだ方が」

 

 私よりも玉青ちゃんの方が辛いのは分かってる。分かってるけど…それでもそんな玉青ちゃんを見ていると胸が軋んで音を立てるから、私はそう声を掛けた。

 

「そうですね。少しだけ休憩しましょうか。私も疲れちゃいました」

 

 青ざめた顔で無理して笑わなくたっていいのに。元から体力だって多くないんだから、こんな無茶を繰り返してたら身体を悪くしちゃうよ。でもそんなこと言えない。だって玉青ちゃんが頑張っているのは、私のためでもあるのを知ってるから。

 

「膝を…貸してもらえませんか?」

「えっ、膝? あっ! 膝枕!」

 

 フラフラする身体を重たそうに引き摺りながらベッドまでやって来た玉青ちゃんが身体を横に倒すと、私の膝の上に青い髪が触れた。

 

「懐かしいね」

「あの時は大変でした。ふふっ、渚砂ちゃんの―――」

「わぁーーー! 思い出さなくていいってば~」

 

 ごろんと仰向けになった玉青ちゃんの頬や額に光る汗の粒。それは全部、玉青ちゃんが頑張った印だ。張り付いている青い髪を丁寧にどけてあげながら、私はその印が愛おしくて仕方がなかった。出来ることならば印が付いている場所全てに、キスをしてあげたい。でも今は出来ないから代わりにタオルでその汗を拭ってあげた。

 

「渚砂ちゃん。全校集会が終わったら、私たち…みんなから色々言われるでしょうね」

「そうだね。言われるだろうね」

「気持ち悪いだとか…変態だとか…もしかしたらもっと酷い事も」

「望むところだよ。私はもう玉青ちゃんの隣を歩くって決めたもん。何を言われたってへっちゃらへっちゃら」

「渚砂ちゃん…」

「強がりじゃないよ。だって私たち、これからはずっと一緒なんだよ? だったら怖いものなんてない。だから…全校集会の日は、みんなの前でギュ~~~~ってしてね。それから…それから。私を連れて行って。湖のほとりの玉青ちゃんが好きな場所へ」

「ええ。そこで私たちは―――」

 

 口には出さなかったけれど、私たちは間違いなく同じ光景を―――約束しあった未来を思い浮かべながら笑い合った。

 

 

 

 

 

 

<勝利への布石>…涼水 玉青視点

 

 授業のない日曜日であるにも関わらず制服に身を包んだ私は、自室で渚砂ちゃんと向かい合っていた。

 

「本当に一人で大丈夫なの?」

「何を言ってるんですか渚砂ちゃん。私一人じゃないと意味がなくなっちゃうじゃないですか」

 

 部屋まで見送りに来てくれた恋人に、私は安心してもらえるように微笑んだ。それでも不安そうに揺れる赤茶のポニーテールがとても愛おしく感じられて、思わず抱き締めたくなったのをグッと堪えながら前を見据えた。

 

「すぐに戻りますから。それじゃあ…行ってきます」

 

 廊下を歩き、階段を下りていちご舎の玄関へ。今日はあいにくの雨。しかも土砂降りだ。玄関に満ちる湿った空気にうんざりしつつも、私は手に持った傘を勢いよくバサッと広げ外へ出た。

 

 髪の色と同じ青い配色のお気に入りの傘。軽い雨なら渚砂ちゃんと二人で相合傘をしても問題ない大きさだけど、降りしきる今日の雨は手強く、風の吹く方向へ合わせて傘を傾けていてもあっという間に身体の端が濡れていってしまう。上から降る雨はもちろんのこと、叩きつけるように降った水飛沫は地面で跳ね返り、容赦なく白いソックスへと染み込んでくすんだ色へと変色させた。

 

(酷い雨。嫌になりますわ)

 

 これから自分がしなければならない事を考えただけでも溜息が出るのに、雨も相まって気分が余計に萎えていく。それでも私は行かなければならない。私と渚砂ちゃんの未来のため、そして六条様のためにも。

 

 綺麗に舗装された道から、木々の間を抜ける道へ。普段から限られた人しか通らない小道は、雨によってぬかるんでいてとても歩きづらい。悪戦苦闘し靴を泥まみれにしながらようやく辿り着いた目的地で、私は「ふぅ…」と大きく息を吐いてから辺りを見回した。

 

 日頃から周囲と隔絶されたこの場所は、土砂降りの雨も手伝って、いつも以上に人を寄せ付けぬ不思議な威圧感を漂わせつつ森の中で背筋を伸ばして君臨している。その堂々たる姿はどこか、主である静馬様に似ているなとぼんやり思った。

 

 傘を折り畳み、試しに何度か振ってみる。たっぷりと雨を吸った傘はこれくらいでは水が切れないようで、水滴がボタボタと垂れてくる。仕方がないのである程度のところで諦めそっと壁に立て掛けると、少し離れた場所でおそらくあの人のものであろう傘が、その場に小さな水溜まりを作り出してコンクリ―トを濡らしていた。

 

「温室…か」

 

 ガラスの板で覆われた巨大な箱庭。私にとってはあまり良い記憶のない場所だ。ガラス越しに見た渚砂ちゃんと静馬様が抱き合う姿は、今でも私の脳裏にしっかりと焼き付いていて忘れられそうにない。けれど私だって、あの日の私とは全然違う。

 

「渚砂ちゃん、どうか私を守って」

 

 いちご舎で待つ最愛の人に祈りを捧げながらガラスの戸を開けた。

 

 ここから先はエトワールによって支配された領域。一度足を踏み入れたら、主の許可なくば決して抜け出せぬ牢獄のような場所。奥へと続く道を一歩一歩踏みしめながら私は進んで行った。

 

 色鮮やかな鉢植えたち。アーチ状に形作られた緑のトンネル。様々な歓迎を受けて進む私の目の前に現れたのは―――。

 

「そろそろ来る頃だと思ったわ」

 

 開けた一画に設置されたテーブルセットには既に紅茶の用意がされており、温室の世界観とマッチした椅子には夏服にケープを羽織った静馬様が優雅に佇んでいた。天井を覆うガラスには雨が強く打ち付けられて、絶えず大きな音がしているというのに、その優雅さはまるで別世界のような光景だった。

 

「ごきげんよう、エトワール様」

 

 スカートを指で摘まみ恭しく、大仰に挨拶を行ってから傍へと近付いていく。背後のガラスは滝のような雨によって幾筋もの水の流れが視界を邪魔し、ほとんど外が見えないのが少々心細い。それと密閉されているからか、湿り気を帯びた草木や土の匂いが外よりも濃密に感じられた。

 

「随分と他人行儀な呼び方ね。他に人はいないんだし、なにより()()()()()()()なのだからもっと親し気に呼んでくれても構わないのよ? ねぇ、玉青?」

「や、やめてください。あなたに…そう呼ばれる筋合いなんて…」

 

 憎き相手の口から自分の名前が呼び捨てにされるのを聞いて、背中にムズムズとした悪寒が走る。思わず身を捩った私を見て、静馬様は目を細めて嬉しそうに笑った。

 

「照れなくたっていいのよ。実際私たちはお互いを深~く知っている間柄なんだから。なんだったら私を呼び捨てで呼んでみる?」

「お断りします。あんな強引に結んだ関係なんて…私は認めるつもり…ありません」

「うふふっ、でもよかったわ。今日は少しは元気そうじゃない。この前は怯えてばかりで虐め甲斐がなかったもの」

 

 例の件について返事がしたいと申し出たところ、指定されたのがこの場所だった。ここならば邪魔は入らないし内密な話をするにはもってこいだけど、何か意図があるのではないかとあれこれ勘繰ってしまう。

 

「早速ですが返事の方を―――」

「待ちなさい。その前に」

 

 何事かと思いきや、意外にも差し出されたのは厚手のタオルだった。

 

「これを使いなさい。風邪をひかれても困るわ」

「ありがとう…ございます」

 

 自分でもびしょ濡れなのは分かっていたから、タオルを貸してもらえるのはありがたい。いかにも柔らかでフカフカそうなそれを受け取り、丁寧に腕や足を拭いていると、静馬様は「手伝うわ」と言って私の後ろに回り込んだ。自分で拭けると言ってもお構いなしで、もう一つのタオルを手に私の髪に触れると、染み込んだ水分を吸い取るように優しく拭ってくれる。そのくすぐったいような気持ちいいような絶妙な力加減に、私の凝り固まった警戒はほんの僅かだけ解けてしまっていた。

 

「身体もこんなに冷たくなってしまって。別の日にしても良かったのよ?」

 

 背後から腰に回された腕が一瞬のうちに私を絡め取っていた。振り払おうかとも考えたが、今更この程度のスキンシップで騒ぐのはどうかと思って黙々とタオルで身体を拭いていると、静馬様は自分が濡れるのも厭わず身体を密着させてきた。

 

「あなたの青い髪、とても素敵ね。こうして濡れていると色合いがとても深くなってサファイアのよう。手触りは…そうね、ビロードに似てるかしら?」

 

 顔の横から垂れる髪の房を手に、うっとりした声色で囁かれる熱っぽい誉め言葉。いつになく饒舌なその様子から機嫌が良いのは間違いない。私が黙って好きにさせたことが嬉しかったようだった。

 

「髪型も良いわ。シニヨンだとうなじが大きく露わになって。ふふっ、うなじが好きだなんて言うと少しフェチっぽいかしら? ああ、でもこの肌の色に手触り。私でなくとも惹かれるはずよ」

 

 耳に掛かっていた吐息が首筋へと移り、ひんやりと冷たくなった身体がその部分だけ血色を取り戻す。そしてそのまま吐息が近付いたかと思うと、静馬様の唇が軽くうなじに触れた。

 

「んっ…」

 

 私の口からも吐息が漏れたのは、驚きで身体が硬直したのと共に、その唇が火傷しそうなくらいに熱を帯びていたからだ。刻印を刻むための熱した金属の棒のようなそれは、冷え切った私の身体には熱すぎた。二度、三度と押し付けられる度に、火傷にも似た赤い痕が、キャンパスに見立てたうなじにくっきりと残されていく。私はその熱にうなされるようにブルリと身体を震わせながら、頭を傾けて首を差し出し続けた。

 

 この身体が海に浮かぶ氷塊ならば、首筋への熱いベーゼは燦然と輝く太陽だった。氷が熱で溶かされてなくなっていくように、静馬様の体温が伝わる度に、恐怖も少しずつ薄れていく。唇が触れた時に大きく蠢いていた胸の鼓動は、いつの間にか鳴り止んでいた。

 

 ()()()。あの時の渚砂ちゃんも()()()()()

 

 さきほどは温室をエトワールの支配する領域と表現したが、それは少し違っていた。正確に言えば…間違ってはいないが、かと言って正しくもない。この場所で静馬様に抱きすくめられたことで、私はそれを思い知らされた。

 

(とんだ………勘違いでしたわ)

 

 支配する領域だって? とんでもない! ここはそんな生易しいものではない。この温室は…静馬様の体内も同然だ。人と植物の境目が混じり合い、さらにはそこに温室という建物まで加わり、ごちゃ混ぜとなった状態。言うなれば同化しているようなもので、温室は静馬様であり、静馬様は温室なのである。つまり私はここへ足を踏み入れた時点で、自ら静馬様の胃袋の中へ収まりに来たに等しい行為をしていたわけだ。

 

(それに…まさか渚砂ちゃんとの特訓が仇になるなんて…)

 

 トラウマの払拭に成功した半面、今の私は普通に静馬様の口付けを受け入れてしまっていた。私という名の閉じられた鍵穴を最初にこじ開けたのがこの人である以上、私は否応なくこの人に反応してしまう。鍵穴が同じなのだから、一度開錠に成功した鍵が容易く侵入出来るのは自明の理だった。

 

 そして温室のあちこちから漂ってくる美しい花々の甘い香り。静馬様の尖兵となったそれらはフワフワと私の周りを漂い、鼻腔を抜けて脳まで到達すると思考を痺れさせた。一方で生い茂る樹木から伸びた枝は私の手足を縛り付け、身動きが取れないようにきつく巻き付いた。

 

(いけない。ここにいると…頭が…おかしく…なる)

 

 返事をしたら一刻も早く逃げ出さないと。

 

「静馬様。そろそろ返事の方を」

「いいじゃない、もう少しくらい。それにこのまま聞いたって構わないのよ?」

 

 弱々しくそう切り出した私をあしらいつつ、静馬様はまた一つうなじへとスタンプを刻んだ。冗談じゃない。本音を言えばすぐにでも出て行きたいというのに。

 

()()()()()返事なのですから、ちゃんと聞いて頂きたいですわ」

 

 自分でも芝居がかったセリフだとは思ったが、おかげさまでようやく解放されることに成功した。まだジンジンと熱の残るうなじを気にしながら衣服の乱れを直し、真正面に向き直る。

 

「せっかくの…ね? そう言うからには期待してもいいのかしら?」

 

 さも私の答えが五分五分であるかのような口振り。けれどその口元は、返事が待ち遠しくて仕方がないといった様子で、僅かに歪んでいた。

 

(静馬様からすれば、これは私の敗北宣言。でも私からすればこれは―――)

 

 勝利への『布石』なのだ。しっかりと打ち込まなければ意味がないし、後々困ることになる。私が軍門に下ると信じ込ませ、全てが自分の思い通りになっていると勘違いしてもらう必要があった。

 

(少し緊張した素振りで、声は僅かに震わせて。表情は観念しましたといった様子で、どこか悔しそうに)

 

 よし…大丈夫。やれる。騙せる。

 

「はい。私、涼水玉青は………静馬様のものになると…誓います」

「ふふっ、まぁそうするしかないわよね。分かり切ってはいたけど、でも嬉しいわ。それでいつ発表してくれるのかしら? 明日? 明後日? それとも今からいちご舎の生徒を集めて発表する?」

「それについてなのですが、全校集会はいかがでしょうか?」

「全校集会? そういえばもうすぐあったわね。でもそこでどうやって発表するつもりなの?」

「私は少しですが壇上で喋る機会がありますので」

 

 訝し気な声を出していた静馬様が「へぇ?」と眉をピクリと動かして表情を崩した。どうやら興味を引くことが出来たらしい。問題は最後まで信じてもらえるかだけど…。

 

「まさか壇上で発表してくれるってわけ?」

「大勢の前でとのリクエストでしたので。お気に召しませんか?」

「うふふふ、あはははははは」

 

 派手好きの静馬様であれば喜ぶものだと思っていたが、問いかけに返ってきたのは盛大な笑い声。予想外の反応に私はなぜ静馬様が笑ったのか分からず、困惑しながらその理由を尋ねた。

 

「あの…何が」

「ふふふ。笑ってごめんなさいね。あなたがあまりにも()()()()()()()()()可笑しくなってしまって」

「良い子ちゃん?」

「いくら深雪のためだからと言っても、急に従順になり過ぎではないかしら? 頑張り過ぎってことよ」

 

 まずい。もう少し『溜め』を―――一旦消極的な案を提示して、それを却下されてから本命を出すべきだっただろうか? たしかに少し急ぎすぎたかもしれない。

 

「それは………こうでもしないと承諾して頂けないかと思ったものですから」

 

 俯き気味に視線を泳がせ、苦渋の選択であったことを匂わせる。それでも胸に去来した失敗したのではないか、という思い。せめて顔には出てませんようにと祈りながらも、せっかく温まってきた身体に冷たい汗が流れ落ちた。ここで疑われてしまうと全てが台無しだ。

 

「ふぅん? あなたにとって深雪はそれほど恩義を感じる相手だったということ?」

「静馬様の方が…あの方のことをよくご存知では?」

「………。まぁいいわ。あなたが本気なのかどうか、テストすれば分かることだわ」

 

 一難去ってまた一難。どうにか踏みとどまったと思ったら今度はテストが課されるらしい。

 

「テスト…ですか」

「ええ。その結果を見て信用するかどうか決めようと思うの」

 

 口では分かりましたと言いつつも、私はそのテストとやらの内容が気になって仕方がなかった。内容にもよるが、いずれにしても厄介なことになってしまったことには変わりない。こうなった以上は何が何でもテストをクリアしなければならないわけだが、果たしてどんな無茶が飛び出すやら…。

 

(―――ッ!? 必死過ぎても却って疑いを加速させてしまうんじゃ?)

 

 さっきの静馬様の指摘。頑張り過ぎという言葉を思い出しハッとした。静馬様は僅かながらも違和感を覚えたからそう言ったのだ。となればクリアしないという選択肢も考慮しなければならない。

 

 全力を尽くすべきか、程よく手を抜くべきか。静馬様が狙ってそうしたのかは分からないが、私は見事に思考の袋小路へと迷い込んでしまっていた。

 

「そんな難しい顔しなくたって平気よ。とてもシンプルなテストだもの。()()()()()()()()()()()()

「キス…ですか」

「今のあなたなら簡単でしょ?」

 

 グッと身体に力を入れて構える私に、静馬様は落とした消しゴムを拾うような自然さで言ってのけた。「簡単でしょ?」というセリフの気軽さから、とりあえず、トラウマのせいで私が渚砂ちゃんとキス出来なかった情報は漏れていないと判断し、胸を撫で下ろす。

 

 もし知っているのであれば、こうも気楽にキスを要求したりはしないはずだ。

 

「意外と驚かないのね。予想でもしてた?」 

「あっ、いえ充分…驚いています」

 

 キスなら予想の範囲内ではあったが問題はそこではない。

 

(するのは大丈夫。渚砂ちゃんのおかげでトラウマはどうにかなったから。けど…選択肢が多過ぎる)

 

 あっさりキスをするべき? それとも思い切り躊躇ってみせる? 表情は? 追い込まれた私だったら、こういう時にどんな反応をする?

 

 ダイバーが潜っているうちに上下が分からなくなってしまうのと同じように、今の私も何をどうすればいいのか分からなくなって、もがき苦しんでいた。ダイバーたちにはガイドとなるロープを伝うことでそれを解決するが、私にはそのガイドとなるものは用意されていない。自分の考える対応が正しいのか、正しくないのか。溺れかけている私が一体どんな表情をしているのか、自分でも分からなかった。

 

「どうしたの? 出来ないの? そう難しい事ではないはずだけど」

「………。分かりました」

 

 散々悩んだ挙句、私は唇を噛み締めながらも目を瞑り、顔を僅かに上へ傾けて接吻を受け入れる姿勢を取った。それが最適とはいかなくても、模範的な解答であると信じて…。

 

 しかし―――。

 

「…? どうぞ。心の準備は…」

 

 いつまで経っても訪れることのない唇の感触に疑問を抱き、薄っすらと目を開けてもなお静馬様は微動だにしていなかった。

 

「そうじゃないでしょ?」

「え?」

「私はキスを()()()()()と言ったのよ。()()()と言った覚えはないわ」

「まさか…私の方からっ!?」

「ようやく顔色が変わったわね」

 

 してやったりという様子で静馬様の顔に笑みが浮かぶ。『キスをしてくれればいい』という言葉を、私は静馬様からキスされるのを受け入れろという意味だと受け取った。今までの経験上、静馬様相手には常に受動的だったからだ。だから今回もそうだとばかり思って目を瞑ったのである。

 

(たしかに静馬様の言う意味にも受け取れるセリフでしたけど…自分からなんて)

「言っておくけど協力はしてあげないから頑張って頂戴ね」

「それはどういう?」

「試してみれば分かるわ」

 

 自分からキスをさせるだなんて、いかにもあなたに服従しましたというサインみたいで、この人の好みそうな事だ。でも私が従うのはあくまで表面上だけ。たった一度、従いますというポーズを見せれば済むことである。

 

(渚砂ちゃん、ごめんなさい。私が好きなのは渚砂ちゃんだけですから)

 

 決意を固めた私は静馬様の前に立ち、その顔を見上げた。そのままでキスするには少し身長差がある。屈んでくれれば何とかなるが、きっとしてくれないだろう。だったら私がつま先を上げて背伸びするほかない。

 

「失礼…します」

 

 渚砂ちゃんへの申し訳なさで震える身体を精神力で黙らせ、顔を近付けようとした。けれど静馬様はそんな私の努力を嘲笑うかのように軽やかに身を躍らせると、口付けを躱したのだった。

 

「どういうおつもりですか? キスをしろと言ったのは静馬様ではっ!?」

 

 予想外の事態に上擦る声。

 

「言ったでしょ。()()()()()()()

「なっ!?」

「私が逃げないように捕まえておくのもあなたの仕事のうちよ?」

 

 ということは私が静馬様の腰か、もしくは首の後ろに手を回すかしろと言うことなのか。

 

(そんな…。それじゃ私が静馬様とのキスを望んでるみたいに………)

 

 自分がそうしながらキスする姿を想像し、今度は屈辱によって身体が震えた。いくらポーズだけとはいえそこまでしてしまったら、渚砂ちゃんを裏切っているみたいで心が張り裂けそうになる。

 

「分かり…ました。お望みどおりにしますから、暴れたりは…しないでください」

「それもあなた次第ね」

 

 改めて正面に立って細い腰に手を回すと、静馬様は身を捩り逃れようとした。どうやらお気に召さないらしい。違うのならば違うと言えばいいのに。本当に面倒なお人だ。仕方なく首の後ろへ手を掛け、甘えるように撓垂(しなだれ)れ掛かると、答え合わせの代わりに私の腰へと腕が回された。

 

 こんな姿を他人に見られたらと思うとゾッとする。10人いたら10人全員が間違いなく、私が静馬様に恋をしているのだと証言するようなビジュアルだろう。

 

「積極的ね。嬉しいわ玉青」

「あなたが…させたくせに」

 

 ―――ッ。思ったよりも唇が遠い。これじゃ精一杯つま先を伸ばしてもギリギリ届くかどうか。

 

 静馬様が協力してくれないのであれば私がより一層抱き着くしかないのだが、それはキスをねだる年下の恋人が行う振る舞いのようで、私の羞恥心を酷く刺激した。

 

「それでは…します…ね」

 

 踵を地面から浮かせ、腕に精一杯の力を込めながら、私は唇を触れ合わせた。どうせするのであれば軽くにしようが、しっかりしようが変わらないと唇を強く押し付ける。変に逃げ腰になるよりも一回で終わってくれた方が私としてはありがたい。

 

 余裕を持たせて、たっぷり10秒以上はそうしていたはずだ。これなら認めてもらえるだろうと力を抜いた私に、静馬様は意地悪そうに呟いた。

 

「ダメね。てんでお話にならないわ」

 

 それは絶望的な宣告であった。

 

「な、なぜですか? 私は言われた通り自分からあなたにキスを―――」

「こんなお遊びみたいなキスで信用の対価になると思っているの?」

 

 今なお静馬様に抱き着いたままの状態で、私は当然とも言える抗議を行った。しかし返ってきたのは非情な通告。あんなにも苦労して、ようやくキスしたのに…。たった一度だけ、そう思ったから頑張れたというのにその努力を一蹴されるなんて…。

 

「私が満足するようなキスの仕方。あなたには教えてあるはずよ」

「そんな…」

 

 静馬様が何を言っているのかは分かるつもりだ。あの日私がされた口付けを、私から自分にしろと要求しているのだと。けれどそこまでは許したくはなかった。だってまだ渚砂ちゃんとは、()()()()()してないのだから。

 

「それは…宣言してからの…お楽しみに」

「ダメよ。今しなさい。出来ないなら私はあなたを信用しないだけよ」

「卑怯者っ!」

「あなただって大して変わらないでしょ? 私のものになると誓うと言いながら、心は渚砂に捧げたまま。表面上だけ取り繕って私を欺こうとしている。はっきり言って生意気よ、あなた。私相手に面従腹背を決め込もうだなんて」

「いけませんか? 私が誓うのは六条様を助けるため。そのために…一時的に…あなたに魂を売るだけです」

 

 あくまでも計画の事は伏せたまま正直に答えるフリをする。そもそも計画には関係なく、私が本心から従うつもりがないことは静馬様だって重々承知なはずだ。そのうえでの戯れ。そうではなかったのだろうか?

 

「あら? 私はとても優しくしているつもりよ。渚砂に心を捧げたままでも許してあげると言っているの。だけどその代わりに………身体を差し出しなさい。心と身体。せめてどちらかくらい差し出さないと、取引とは言えないわ」

「っ…。こんなやり方をしたって私はあなたになんか」

「あなたはまだ知らないだけよ。いくら気持ちがどうのこうの言っても、女同士だって心が身体に引っ張られてしまうこともあるのよ? それを教えてあげる」

「覚えておいてください。これは…六条様のためですから」

 

 睨みつける私の顔を素敵だとからかう静馬様の口を、私は自らの唇を被せることで塞ぎ、そして恐る恐る舌を伸ばしていった。

 

「んっ…」

 

 最初に触れたのは柔らかな唇。その次に前歯に当たってから、舌はようやく静馬様の口内へと辿り着き、躍り出た広い空間の中で手持無沙汰に立ち往生した。された経験はあっても、自分でした経験のない私にはどう動かせばよいのかが分からない。けれどそのままでいるわけにもいかないので、さらに奥へと舌を進ませると静馬様の舌とぶつかった。

 

(擦り合わせればいいんでしょうか?)

 

 おっかなびっくり反応を窺うように舌先でちょこんと押してみると、同じように軽く押し返された。ヌルッとした感触に一瞬ビクッとしながらもそれを二度、三度と繰り返すうちに、何となくそれっぽい動作になっていく。私は初めて覚えたその動作を一生懸命リピートしてから唇を離した。

 

「いかが…でしたでしょうか?」

「ダメよ。もう一度」

 

 返答はそれだけ。アドバイスも何もない。自分でキスしながら試行錯誤をしろということらしい。仕方なく再び唇を触れ合わせ、舌を動かしてみる。とはいえ覚えたのはさっきの動きだけなのだから、どうしたって単調で上手くいくはずもない。すぐに唇を離した私に「もう一度」と告げる声が放たれ、私は無謀な努力を繰り返すほかなかった。

 

 何度目かのキスを始めると、今まで大人しく控えていた手が私の臀部を撫で回すように動き出した。

 

「気が散って上手く出来ませんからやめてください」

「仕方ないでしょ。あなたのキスが下手だから、暇なんだもの。だったらこれくらいのお遊びは許されるべきよ?」

 

 抗議するだけ無駄だ。そう思った私は這いずる手を無視したままキスを続けようとしたが、新たな刺激が加わった身体は、明らかに違う反応を示すようになっていた。

 

(お腹が………熱い)

 

 揉みしだかれたヒップから伝わった体温が移ったのか、下腹部にジンジンとした熱が溜まっていき、それと同時に大胆な動きを覚え始めた舌がヌルヌルと擦れる度に、小さな火花が脳内で弾けては淡い閃光を残していった。キスの合間に自然と漏れだした吐息と艶めかしい声。自分のものだとは分かっていても信じられない。

 

 気付けばキスしていたはずが、()()()()()状態になっていて、互いが舌だけでなく身体全体を触れ合わせるように小刻みに動かしながら口付けを交わしていた。そしてグニィッと思い切り掴まれて形を変えていたヒップが、突然パッと解放された途端、私は「うっ」と呻き声を上げて身体をわななかせた。

 

 力が抜けた身体は静馬様にもたれかかるように完全に預けられ、荒い呼吸のまま首の後ろに回した手がビクビクと痙攣を繰り返す。お腹の奥の熱はじんわりと全身に広がり、酔っぱらっているような感覚だった。

 

「嫌がってたわりには、随分と可愛らしい反応ね。それとも口だけの嫌々だった?」

「―――ッ。テストが終わったなら…離れて…ください」

「フラフラなのに勇ましいこと。でもまぁ、返事を待たされた分の利息にしては、充分過ぎるほどの対価だったかしら」

「私は…もう…帰り…ますから」

 

 静馬様の手から離れ、ヨロヨロと歩き出したものの、私はすぐに膝をついて温室のタイルへと(うずくま)った。しゃがんだ拍子に濡れたショーツの感触が太腿に押し付けられて、その気持ち悪さに身を捩って悶えてしまう。

 

「まだお腹の奥…熱いんじゃない? もう少しゆっくりしていくといいわ。そうね、()()()()()()()()()()()()()()

 

 土砂降りの雨の中、ガラス張りの鳥籠に囚われた私に覆い被さる影は、打ち付ける雨粒のカーテンに掻き消されその姿を消した…。

 

 

 

―――――――――

 

――――――

 

―――…

 

 

 

「もう行ってしまうの? せっかちね。余韻くらい楽しんでいけばいいのに」

「雨…止みましたから」

 

 投げ捨てられていた夏服をすっかり身に着けた私は、それだけ言うと半裸の静馬様を残し温室を出て行った。手にはお気に入りの傘。歩く道の両脇には、雲の隙間から顔を覗かせた太陽が照らす草木の雨露の煌めき。さきほどまで痛いくらいに噛み締めていた奥歯も、今は圧から解放されてホッとしているようだった。

 

 次に会うのはおそらく全校集会の日。それまで好きなだけ余韻に浸っていればいい。道の途中で立ち止まった私は、雨の上がった青空に向かって呟いた。

 

「渚砂ちゃん。私…頑張りましたよ。だから帰ったら、たくさん…褒めて…くださいね。でないと私、泣いちゃいますから」

 

 迷子の雨が一滴(ひとしずく)、私の頬を伝って流れ落ちた…。

 

 

 

~~~次章へ続く~~~

 

 

 

 

 

 

 




■後書き

 次回は全校集会当日のお話となる予定です。次章もどうかよろしくお願いします。それでは~♪

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