「
深い暗闇。 月や星々の光はおろか、文明の光すら満足に差し込まない深い闇。
尋常な精神の持ち主であれば吐き気を催す程の死臭が漂うその部屋で、雨生龍之介はその異様で異常な空間とは真逆に、楽しげに唱えながら魔法陣を描く。
土蔵から発見した手記にあった通りに仕上げ、掠れていて読めない部分もあったとはいえ余りにも適当な呪文を唱え終えると、その部屋に存在する、元凶たる龍之介を除けば唯一の生き残りである少年に声をかける。
しかし子供にそんな余裕は無い。 無残な骸と化した両親を前に、只々怯え、震える事しか出来ない。 そもそも縛られている小学校入るか入らないか程度の子供に返事など期待していなかった。
それに気付いた上で、龍之介は饒舌に語る。
「悪魔に殺されるのって、どんなだろうねぇ。 ザクッとされるかグチャッとされるのか、兎も角貴重な経験だと思うよ。 滅多にあることじゃないし――うぁッ!?」
不意に、龍之介の背を強い力が押す。 何とか踏鞴を踏む程度で転ばずに済んだものの、目の前に転がる少年以外には、閉め切ったこの部屋に背を押せるものは存在しないはずである。
一瞬で頭が冷えた龍之介は、まさか見逃していた生き残りでもいたのかとポケットのナイフに手を伸ばしながら振り向く。
けれど、そこにあったのは風。 そして光だった。
鮮血の魔方陣が燐光を放ち、それを中心に竜巻じみた突風が吹き荒れる。
――紛う方なき未知。 紛う方なき超常。
突き飛ばされた事も子供の存在も頭から吹き飛んだ龍之介は、期待に胸躍らせながら事の顛末を見守る。
……ここで雨生龍之介は、全くの偶然と理不尽な不幸ながら、二つのミスを侵していた。
うち一つは、手記の内容について。 その内容は確かに聖杯戦争についてのものだったが、如何せん書かれている内容が
故に、龍之介は子供の手の甲に生じた異変を見逃した。
二つ目のミスは、明確な触媒を用意しなかった事。
手記の内容を殺人のインスピレーション程度としか捉えていなかったが為に、召喚する対象を限定する物品を用意していなかったのだ。 当然、召喚されるものは召喚者と縁ある者である。
故に、龍之介は最後の逃走する機会を失った。
閃光。 轟音。 この二つが二人を襲い、立ち込めていた霧が晴れる。
世界を隔てて尚遠い世界の住人が、役目を全うして燻んだ魔方陣の中央に今、降臨した。
――ひょろりとした長身の男だった。
長い銀髪に、老けた顔。 紙の様に白い肌。 目は閉じている為に瞳の色は分からないけれど、それが寧ろ龍之介にはマネキンの様な印象を感じさせた。
服装は黒いドレスの様なデザイン。 煌びやか過ぎず、けれど質素でもない。 時々見かける、お洒落とはただ宝石や貴金属やブランド物ばかりを身に付ければいいと思っている連中とは違う、明確な意識を持って作られ、選ばれた気品ある服。
「ほぇー、スッゲー……」
龍之介がその暗い輝きに見惚れていると、唐突に、しかしゆっくりと、瞼が開いた。
その奥にあったのは――深い青。 龍之介の語彙で一言で説明するならば、『深淵』若くは『深海』と表現しただろう。
その淵と目があった、と龍之介が知覚し。
――それが、龍之介が感知出来た最後の感覚となった。
前振りなく放たれた一本のナイフ。 何気ない、例えるなら蝿を払う感覚で振るわれた一閃は、しかし精密に龍之介の眉間を貫き一瞬で脳幹を損傷させただけに留まらず、その勢いだけで首を折るだけの威力があった。
両親を襲った悲劇。 その元凶を即死させた、龍之介の言葉を借りるなら『悪魔』。
そんな悪魔が、規則正しい足音を立てて子供に歩み寄る。 平和に眠っていた、ありふれていた筈の夜を襲撃した怪異の連続に子供の心はもう限界だった。
猿轡を咬まされた口から曇った叫びを零しながら、必死に身を捩って逃げようとする。
けれど当然の様に追い付かれ、背後手を縛る結び目を掴まれ軽々持ち上げられる。
一際大きな絶叫が鳴り響いて――そこで初めて、子供は違和感を覚えた。
息苦しさが消えている。 いつも通りに声が出る。
同時に腕を縛っていた縄が小さな音を立てて落ち、両足で立つ事が出来た。
ここで漸く、子供は悪魔の表情に殺意も害意も無い事に気が付いた。
「……さて」
子供を解放した悪魔は、されどその表情に一種の嫌悪を乗せ、続きを言い放った。
「よりにもよって余を、それもアルターエゴとして召喚せしめたのは貴様か?」
「……えっと……」
理解が追い付かず答えに困る子供。 その様子を見て、アルターエゴと名乗った悪魔は溜息を吐く。
「まあよい。 マスター権を放棄して尚付け狙うだろう連中であれば残りの敵の数を把握出来る故、貴様が狙われる事は無かろう。 さっさとこの街を後にするとしよう。 行くぞ」
子供の右手を握ったままリビングを横断する。 小さな歩調に合わせてゆっくりと歩く悪魔の手からは、けれど確かに温情があった。
――そして、だから。 かなりの余裕を保ったまま間に合ったのだろう。
戸惑う子供は、縋る様に、自身の名を口にした。
「……
独り言同然の音量で呟かれた名前に、悪魔は過剰な程反応した。
信じられないと、けれど漸く腑に落ちたと言わんばかりに、悪魔は聞き返す。
「……今、何と言った?」
「ぼくの名前は、
効果は絶大だった。
呆然と立ち止まっていた悪魔は硬直するも、しばらくすると笑い始めた。
「は――フハハハハハハハ! 成る程、そうか! そうよな! それだけの縁がなければ、余を呼び出す事なぞ不可能!」
数分に渡って爆笑を続ける悪魔。 何かとんでもないことを仕出かしてしまったのではないかとオロオロする子供――和人が、また泣き出しそうになる頃になって漸く落ち着いたらしい悪魔は、優しく繋いでいた手を離すと、片膝を付き、目線を合わせた。
「こうなれば話は別だ。 では、改めて問おう」
全幅の信頼と慈愛、そして自信に満ちた悪魔は、真面目な口調でこう告げた。
「――サーヴァント、アルターエゴ。 真名はブライアン・ヴラド。 助けを求める切なる願いを聞き届け、異界より此処に参った。
問おう、」
ここに成立する陣営は、正義とは何かを問う物語に生じたバグ。
第四の王を交え紡がれる、異端の物語。
「――お前が、余のマスターか」
――今此処に、開演を宣言す。