──今でも覚えている。
体が芯から凍ってしまいそうなほどに寒い朝。背中に感じる確かな温もりに頬を緩ませながら、玄関の近くに立っている自分。
目の前には、炭がたくさん入った籠を背負ったお兄ちゃんがいる。お父さんが死んじゃって、寂しいはずなのに、私たちにその姿を見せることなくいつも気丈に振舞っている。どうやら今日も炭を売りに町に行くらしい。
行ってらっしゃいと言うと、その赤みがかった目を少し細めて、眩しそうに笑う。
雪に足を取られながらも、しっかりとした足取りで小さくなっていく背中を、私はじっと見つめていた。
──今でも、覚えている。
結局その日のうちには帰ってこなかったお兄ちゃんを心配して、玄関の前でずっと座り込んでいる六太を寝かしつけようとしていた時だった。
乱暴に開けられる扉。びゅうと強く寒い風が家の中に入ってきて、花子がきゃあと叫んだ。
そこからは、一瞬の出来事だった。
誰かが家の中に入ってきたと思ったら、横にいた竹雄が倒れた。びっくりして竹雄の肩を持つと、生暖かい感触が掌を伝う。
血だった。
竹雄は、何も言うことなく事切れていた。ごろりと転がった竹雄の、生気のない瞳がこちらを見上げていた。
あまりの恐怖に、喉が痙攣する。叫ぼうと思っているのに、小さく短い声しか出てこない。
周りを見ると、お母さんも、花子も、茂も、六太も、倒れていた。
それを見ている私も、なんだか肩の辺りが熱くなってきて──
ふらりと、身体から力が抜ける。走馬灯が走る余裕もないほどの早さで、命が零れていく。毛穴の一つ一つから魂が抜けだしているかのようだった。
「……う……」
倒れこむ私の耳に、六太のうめき声が聞こえた。
六太はまだ生きている。
それに気づいた私は、震える体に鞭を打って六太に向って体を動かす。
息をするたびに激痛が私の体を襲う。臓物が捩れて掠れたうめき声が食いしばった歯の隙間から漏れ出ていく。
それでも、六太だけでも守らなくては。
六太は侵入者が入ってきた際に吹き飛ばされたらしく、玄関前の雪の上に転がっている。
やっとその身体に触れた時、後ろから足音が聞こえて来た。
どうやら、この侵入者も六太と私が生きていることに気が付いたようだ。
咄嗟に、私は六太に覆いかぶさった。
そして、霞む視界に映った、近くに置いてあった斧を手に取って、思い切り後ろに投げつけた。
がつんと、何か固いもの同士がぶつかる音が聞こえて来た。
それと同時に、意識が薄くなってくる。手に触れる雪の冷たささえも、感じれないほどに。
「お、兄……ちゃん……」
お兄ちゃんは今何をしているだろうか。
町で寝ているんだろうか、それとも私たちみたいに変な人に襲われてしまったのだろうか。
そう考えると無性に悲しくなってきてしまい、ぽろりと涙が零れた。
ああ、会いたい……お兄ちゃんに、会いたい。
意識が消えた。
▼
ぐぅと、意識が眠りの奥底から引き上げられる感覚で、禰豆子は目を覚ました。
どうやら近くの洞窟で寝ていたらしく、びゅうびゅうと寒い空気が外から雪崩れ込んでいた。
空高く昇った太陽によって照らされた雪は純白の絨毯を銀の光で彩っており、そのあまりの眩しさに禰豆子は目を細めた。
「お、おは……よう」
一人ごちる。特に意味のないこの挨拶は、習慣になってしまったものだった。挨拶する相手なんかいないのに、つい朝になれば口を開いてしまう。
禰豆子は悲しそうに眉を八の字にすると、そのままとぼとぼと歩き出した。
目的地なんかはない。ただ足があるから歩くだけ。そんなことをしている間に、こんな場所にたどり着いてしまった。
昨晩の鬼はどうなったのだろうかと、禰豆子はふと考える。太陽に燃やされていたらいいのだが。
最近、年号が変わった。昭和とやらから平成になったらしい。しかし人と触れ合うことなく生きている禰豆子にとって、その違いは些細なものでしかなかった。
相変わらず生きて、相変わらず歩くだけ。その生活に変わりはない。
しかし、世の中はだいぶん変わった。
日本が開国をして既に百年以上。その中で、日本は様々なものを取り入れ、国内を変化させていた。
昔のような木造の家は既になく、建つ建物のほとんどがコンクリートでできた固いもの。
人々は何やら小さな機械を手に持って、他人の会話をしている。昔のように、烏を使う人などもういない。
いたるところに設置された街灯のせいで、夜はその暗さを失ってしまった。
刀を持っている人間は問答無用で捕まり、牢獄に入れられてしまう。そんな世界で、鬼殺隊が存在出来るわけもなく、ここ数十年禰豆子は鬼殺隊を見ていなかった。
そんな日本だからこそ、人々の鬼への恐怖が薄れていくことは不思議ではなかったと言えるだろう。
鬼は空想上の生き物で、だから怖くはない。
それが、現代に生きる人間たちの共通認識だった。
しかしそれは、あながち間違いではない。
かつては逢魔が時を我が物顔で跋扈していた鬼共は、そのほとんどが息絶えてしまったからだ。
鬼のことを多少なりとも知っている人物なら、この名を知らない者はいないだろう。
全ての鬼の頂点、人喰い鬼を作る鬼、最初の鬼。
鬼舞辻無惨は、約千年もの間この世の中で暴虐の限りを尽くしていた存在で、鬼殺隊が倒そうと骨身を削りながら刀を振るっていた相手である。
数えきれないほどの人々を虐殺し、喰らってきたその鬼は、八十年前に殺された。他でもない、禰豆子の兄竈門炭治郎によって。
すとんと、禰豆子は近くの木に凭れかかった。空を見上げるその瞳の中には寂寞の色が見え隠れしていた。
▼
──今でも、覚えて、いる……。
充満する血の匂い。響く耳鳴り。
それは、全ての終わりだった。
重く立ち込めた灰の雲からは、細い雨粒が糸のように降り注いでいる。
罅割れた地面、幹からへし折られた大木に飛び散った血痕。
それは、今までの戦いがどれほど熾烈であったかを鮮明に映し出していた。
私は多分、泣いているんだろう。
頬を流れる熱いそれは、雨などではない。
静寂が辺りに覆いかぶさっていた。雨粒が葉を叩く音だけが、辺りに小さく響いていた。
舞い散る砂埃さえも落ち着きを見せ始めてやっと、私は足を動かした。
動かしたといっても、それは小さく後ずさっただけ。私の眼は、事実を受け入れられずにいた。
鬼舞辻が、その胸に刀を生やして立っていた。身体が動かないのか、その瞳はぼんやりとその刀に向いている。
いつもは洒落っ気のある服装はひどく破れており、その隙間から青白い身体が見えた。
ごぽりと、動かない鬼舞辻の口から血の塊が零れ落ちる。それは、彼の命のようにも見えた。
不意に、強い風が吹いた。
風は雨雲を小雨ごと追い払って、青い空を覗かせる。七色の虹が私たちを覆うようにかかっていた。
眩い太陽の光が、梯子のように下りてくる。その先にいるのは、鬼舞辻と……。
「あ、あぁああああああああああああああっ!!!!」
鬼舞辻の凄まじい声が辺りに響き渡る。日光を避けるために伸ばされた左手は、太陽を掴もうと手を伸ばしているようにも見える。
鬼舞辻の体が燃え始めた。まるで細胞すべてが燃えているのではないかと疑ってしまうほどに凄まじいその炎が彼の体を燃やし尽くす。地面の水溜まりに反射した炎が、煌々と辺りを照らし出す。鬼舞辻の、文字通り命の灯はあまりにも残酷で儚くて、私は思わずぼうっとその光を眺めていた。涙で視界が霞んで、よく見えなかった。
何もかもがよく見えない。だからこそ、この目に映っている景色は多分間違いなのだろう。
──燃え盛る鬼舞辻の右腕に胸を貫かれたお兄ちゃんなんて、見間違いに決まっている。
そう頭で言い聞かせても、体は素直だ。兄の命が薄れていくことをはっきりと感じている。
駆け寄ってその身体を抱きしめたいのに、脚が動いてくれない。
ああ、嫌だ。死なないで。
そんな言葉さえも発せないまま、私は呆然と立ち尽くしていた。
ぐらりと、お兄ちゃんの身体が傾く。鬼舞辻が燃え尽き灰になったのだ。
独特な臭いをまき散らしながら風に吹かれていく鬼舞辻の灰は、彼に似て儚く弱々しいものだった。
お兄ちゃんが地面に倒れる。足元に広がっていた水溜まりに倒れ伏したその顔は、瞬く間に泥だらけになった。じわりと地面に血が広がっていく。
「炭治郎!」
周りにいた人々が駆けよっていく中、私だけが、呆然と目を見開き、その場から動けずにいた。
その日、私は孤独になったのだ。
今までは私の家族だと思っていた周りの人間の顔が剥がれ落ちる。鍍金が落ちたその後には、見たこともない顔がたくさん並んでいる。
おかしい、私は今まで、家族を守るために戦っていたはず、なのに……。
お兄ちゃんが倒れたと同時に、全部がどうでもよくなって……。
気づけば、泣いていた。
大声で、喚いて、蹲って。
泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて、泣いて。
いくら泣いても涙は枯れなくて。お兄ちゃんを失った心の穴はどうしても塞がらなくて。
空を見上げ、吠えるように泣いていた。
霞む視界に映った虹が、嫌味なほどに綺麗だった。
▼
「大丈夫……」
口内で転がすように呟けば、返事をするかのように木枯らしが頬を撫でていく。
しかし、この寒さの中では「撫でる」というより「叩きつける」であり、気が付けば禰豆子の手はかじかんで赤くなっていた。
立ち上がり歩き出す。
あの日、独りぼっちになった禰豆子は、何かから逃げるように一人で旅をし始めた。目的なんかはないし、あったところで意味なんてないのだろう。
生きる意味であった、炭治郎を亡くしたのだから。
ぼうっと、生きているか死んでいるかもわからないような生活を送る、まさに鬼のような日々。禰豆子は、八十年ものあいだそうやって生きて来た。
あの時鬼舞辻との戦いの場にいた人間たちとは、あれっきり会っていない。八十年経った今となっては、生きているのかすらも怪しい。
それくらいに長い時を、禰豆子は過ごしていたのだ。
ふと空を見上げると、高く青い空を遮るように送電塔が建っている。
孤独に、それでも気品高く聳え立つ文明発展の象徴は、見事といっていいほどに辺りの景観を壊している。
こんな山奥にまで人間たちは手を出し始めた。遠くない将来、禰豆子の居場所は人間の領地で消え果るだろう。
禰豆子はそんな将来を嘲笑うかのように鼻を鳴らすと、変わらぬ足取りで再び歩き始めた。
彼女の心は、今日も凪のように静かだった。
ふと、鬼の血の匂いがして、立ち止まる。
匂いの発生源は、近くに生えていた樹木だった。
どうやら昨晩禰豆子が首を引きちぎった鬼の血が噴き出して、傍にあった木にかかったらしい。
鬼舞辻が斃れて、変わったことがある。
それは、ほとんどの鬼が死に絶えたことだ。
しかし中には、鬼舞辻の血に関係なく生き残った鬼もいる。
鬼舞辻の血が薄い鬼……いうなれば、あまり力がなかった雑魚鬼が、血で狂い死ぬことなく生き残ったのだ。
雑魚鬼といってもその強さは人間とは比較にならない。彼らは容易に人間を引き裂くことが出来るのだ。
だからこそ、最初の内は生き残った雑魚鬼を殺すために鬼殺隊が奮闘していた。
しかしあまり知能がない雑魚といっても、中には学習する鬼もいたわけで、そのうち人前に姿を現す鬼はだんだんと減っていった。
禰豆子も、八十年の旅の中で何度か鬼と会ったことがある。
たいていの鬼は知能がない雑魚ばかりだったが、中には彼我の実力差を瞬時に理解し、争いを避けようとしていた老獪な鬼もいた。
時代は変わってきている。その中で、変わらぬと言われていた鬼もまた、少しずつ変化していっているのだ。
「……!」
ふと、禰豆子は雪と風の匂いの中に、何か違う匂いを発見した。
それは、か弱い匂いだったが、禰豆子はすぐに理解した。
人間の匂いだ。
地を蹴り駆け出す。雪が捲れ上がり、葉をすべて落とした木々の隙間から差す陽光に煌めいた。
枯れ木が飛ぶように後方へと飛んでいく。禰豆子は鬼に対しても出さないほどの速さで走っていた。
微かに匂ったその人間の匂いは、どこか懐かしくて、どこか寂しくて……。
走りながら、禰豆子は涙を流していた。何故かはわからないが、心が張り裂けそうなほどに辛かった。
転がり落ちるように坂道を下りる。知らぬ間に麓まで来ていたようだ。
麓といっても、こんな雪山なので住んでいる人はほとんどいない。
しかし、木と雪に塗れた麓の中にぽつんと一軒だけ家が建っているのが見えた。
そして、家の前には一人の男が立っている。
男に近づきながら、禰豆子はやっと気づく。
炭の匂いだ。
炭治郎がよく背負って、町にまで売りに行っていた炭の匂いがするのだ。
ずきりと禰豆子の胸が痛む。彼女の胸を刺した痛みは、悲しさとなって胸の底に広がっていく。気づけば彼女は大粒の涙を零していた。嗚咽が止まらないほどに、彼女は泣きじゃくっていた。
男が禰豆子に気づいたらしく、こちらを見て不思議そうに首を傾げている。どうやらまだ彼女が鬼だということには気づいていないようだ。
少しずつ、禰豆子が男に近づく。
近づくにつれ、禰豆子は自分の動悸が早くなっていることに気がついた。
──赤みがかった目と髪に、優しそうな表情。炭の匂いが染みついた服。
その外見は、彼女が見たことがあるもので、それと同時に八十年もの間見たいと願っていたものだった。
禰豆子が、ゆっくりと目を見開く。驚愕に涙が止まっていた。
その見た目は。
全部、全部、全部、全部。
「あのう、大丈夫ですか?」
炭治郎と、瓜二つだったのだ。
凪だった彼女の心に、一粒水滴が落ちて、大きな波紋を作った。
無惨との戦闘シーンと、無惨が斃れた後の鬼の扱いについてはオリジナルです。
ジョジョの奇妙な冒険の四部に出てくる元DIOの部下のように肉の芽を植え付けられた鬼はDIOの死後おかしな体になったみたいな感じで、無惨の血が多かった鬼は狂い死んでしまった、みたいな考え方です。逆にあまり血をもらっていなかった鬼は健在です。
……それにしても、無惨様の倒し方があまりにも呆気なさ過ぎたような……。