「大丈夫ですか?」
返事をしない禰豆子を心配したのか、男は再び尋ねてくる。
二人の距離は数メートル。この近さになっても、男は未だに禰豆子が鬼だということには気が付いていないらしい。竈門炭治郎は匂いで鬼かどうかを判断出来ていたが、やはりこの男は出来ないらしい。
よく見ると、炭治郎の特徴の一つでもあった、額の痣もない。
別人。
それが、禰豆子の答えだった。
見た目は炭治郎に瓜二つだ。内面の気真面目さがはっきりと見て取れるきりりと結ばれた唇も、意思の強そうなその瞳も、その芯のあるしっかりとした声音さえも。時代を越えて生まれ変わったのかと疑ってしまうほどにそっくりだった。
しかし、違う。明らかに違う。
禰豆子に対するよそよそしい態度や、拭えきれていない警戒心など、明らかに炭治郎とは違う部分もある。
禰豆子はぼんやりと、その男を見ていた。男も禰豆子を見ていた。
不意に、禰豆子はどうしようもないほどに泣きたくなってしまった。中身は違うといっても、見た目は炭治郎と全く同じなのだ。未だに精神年齢が幼い彼女にとって、割り切ることは難しいことだった。
守れなかった兄が、自分を助けるためにその身を犠牲にした兄が、目の前にいるような気がして。
言いたいことがたくさんあったはずだった。
ごめんね、ごめんね、ありがとう。私を背負ってくれて。私の為に戦ってくれて。私を愛してくれて。
なのに、何も言えない。喉がひくついて、言葉がひっかかって、何も出てこない。唾だけが口内を濡らし、しかし喉奥がからからに乾いてしまっていて。
「あ、うう……」
再び目頭が熱くなり、涙が零れる。八十年の後悔が詰まった、哀しみの涙だった。
男は、いきなり泣き始めた禰豆子に戸惑ったのか、ゆっくりとこちらに歩いてくる。
「あ、あの……どうしたんですか? ……っ!」
禰豆子の数歩前まで近づいた男は、そこで息を呑んでぴたりと止まった。
その視線は、禰豆子の服装にぴたりと止まっている。
「そ、その血……どうしたんですか……?」
言われて、禰豆子は気が付いた。
昨晩戦った鬼の血が、彼女の着物にべっとりとついている。男はそれを見て驚愕したのだ。
何か弁明をと口を開く禰豆子だが、口に嵌められた竹がそれを許さない。
男はおっかなびっくりといった感じで禰豆子と彼女の服を見ていたが、その身体はすぐに硬直した。
「も、もしかして……鬼!?」
彼は、禰豆子の瞳を見ていた。彼女の瞳は、鬼になったころから変化した。瞳孔が、猫の眼のように細長くなったのだ。
それは他の鬼も一緒で、だからこそ瞳は鬼を見分ける一つの方法として広く知れ渡っていた。
しかし、広く知れ渡っていたといってもそれは昔の話。現代の人間が知っているようなこととは思えない。
しかし、目の前の男は、はっきりと禰豆子のことを鬼と言った。彼は、鬼に関して何かしらの知識があるのだ。
がたがたと震え出した男は、小さく後ろに後ずさると、手に持っていた斧を捨てすぐに踵を返し走り始めた。
その足取りは、恐怖のためか定かではない。何度も引っかかって、倒れそうになっている。
あまりにも急に逃げられたので、暫しの間唖然としていた禰豆子だったが、すぐにその男の背中に向かって走り始める。
「たっ、助けてくれ!!」
足をもつれさせながら叫んだ男は、ちらりと後ろを見て顔を青くする。鬼が追いかけてきているのだ、恐怖でしかないのだろう。
「うー、うー」
攻撃するつもりはないと言いたい禰豆子だが、残念なことに彼女が現在発することが出来るのは鬼のようなうめき声だけ。それは、男の恐怖心を更に焚きつけるだけのものだった。
「い、いやだ! 殺されたくない!」
失礼なと言いたげな瞳をした禰豆子は、走る男の肩を掴もうと手を伸ばす。しかし、それを察知したのか、男は半身を捻り、禰豆子の手を避ける。しかしその際に、彼の身体が大きく傾いた。
重力に従い、彼の身体が地面へと吸い込まれるように落ちていく。しかしここで倒れたら喰われるとでも思っているのか、男は更に走ろうと足を前に出す。
その結果、つんのめるように数歩前に進み倒れてしまう。
どさり、彼の身体が地面につく──その瞬間、男が倒れた部分の雪が大きく崩れ落ち、斜面を滑り始めた。
彼が倒れたのは、細く険しい道だった。右側には高い岩棚があり、左側は数十メートルもある小さな崖だった。
崩れた雪の塊が向かっていくのは崖の方。男は転んだ際に足を痛めたのか、上手く立ち上がれていない。
そのまま滑っていった雪は、崖にまで到達して、男をその上から放り投げた。
──鈍い痛みが禰豆子の頭を襲う。その痛みの向こうは、微かな光を放つ彼女の記憶の一片があった。
暴れる禰豆子。それを抑えようとする炭治郎。雪山の中でおぶられていた禰豆子は、飢餓状態に耐えられずに、炭治郎を襲おうとしていた。
暴れる禰豆子を何とかして落ち着かせようとしていた炭治郎が、雪によって足を滑らした。
ふわりと浮く彼の身体。彼女が暴れていたのは、どうやら大きな段差の上だったらしく、足を滑らせた炭治郎が、下に落ちていく。驚愕と哀しみに満ちた彼の瞳は、見ているだけで心が痛くなるものだった。
「うわぁああああっ」
男の叫び声で現実に引き戻された禰豆子は、落ちていく男に咄嗟に手を伸ばす。
あの時は、暴れて迷惑をかけることしかできなかったけど、今なら違う。ちゃんと自分の意志で動いて、誰かを助けることが出来る。
しかし、伸ばした手は男に届かない。男のからだが小さくなっていく。雪が積もっているため死ぬことはないだろうが、少しは怪我をするかもしれない。
そう思った瞬間、禰豆子は飛び出していた。
息ができないほどの鋭い空気が彼女を叩きつける。しかし禰豆子は怯むことなく、再び男に手を伸ばす。
男は気を失っているのか、伸ばされた手を掴もうとはしない。地面が近くなってくる。
禰豆子はすぐさま岩棚を蹴り、落ちる速度を上げて力のない男の手を掴む。雪みたいに冷たい手だった。鼻腔を切り裂くような寒さに混じって、炭の匂いがしてきた。
男を持ったまま空中で回転した禰豆子は、自分が男の下敷きになることで落下の威力を弱めようと試みる。しかし、回転したのはいいものの、上手く止まれずに一回転してしまい、結果男が再び下になる。地面がすぐそこまで近づいてきている。
このままでは男が下敷きになる。禰豆子は手を伸ばすと、そのまま素手で岩棚を掴んだ。
岩が削れる音が森閑とした山に響き渡る。禰豆子の顔が痛みで歪む。純白の雪の上に数滴の血が飛び散った。
しかし、やはり人よりも更に強靭な肉体を持つ鬼。禰豆子は大した怪我をすることもなく、岩棚を掴んだまま宙ぶらりんの状態でため息をついた。片手で男の服を掴んでいた。