好きなものは炭と家族。嫌いなものは鬼とピーマン。至って普通の人間。
優しすぎるのと住んでいる場所のせいで浮いた話はないが、特に困ったこともない、平和な生活をしていた。
だからこそ、とある昼下がりに急に鬼が彼の家へやってきたことは、彼にとって大きなショックだった。それこそ、家をほっぽり出して逃げ出してしまうくらいに。
目を覚ますと、そこは見慣れた木目の天井だった。見知った木目を数えながら目をこすると、不意に気を失う前のことを思い出した。
仁太は咄嗟に自分の体を触ってみる。鬼に喰われたところはないか、心配だったのだ。
どうやら五体満足のようだ。ほっと溜息をつくと、掛け布団を退かす。悪夢のせいか、汗をびっしょりとかいていた。
「しっかし、縁起でもない夢見たもんだ。まさか鬼に追いかけられるなんて……」
起き上がりながら呟く。しかし思えば、夢の中に出て来た鬼はかなり別嬪だったような気がすると、仁太は思った。
猫のような瞳孔に、雪と見間違えてしまいそうなほどに真っ白な肌。年頃の女性なのか、触れたら折れてしまいそうなほどに儚いその雰囲気は、夢の中とは思えないほどリアルに仁太の頭の中に焼き付いていた。
整った顔立ちに艶やかな濡羽色の髪の毛。
そう、まさに今壁に凭れかかりながらうとうとしている彼女のような恰好で──
「…………?」
目をこする。再び見る。鬼がいる。
「ええっ!? いるじゃん! 鬼いるじゃん!!」
起きたばかりの脳のキャパシティを越える情報量に暫しの間呆然としていた仁太だったが、すぐに飛び起きた。
彼の大声で起きたのか、禰豆子が目を開く。猫のような目が彼を捉えた。
「ひぃっ! た、食べないで……」
引き攣った声を出す仁太に、禰豆子はそっと手を伸ばす。自分はあなたを食べたりしないという意思表示で行ったその行為は、男の恐怖心を増幅させるだけだった。
男は近づいてくる禰豆子を見て座ったまま後ずさりをする。その顔は、恐怖に歪んでいた。
炭治郎が見せないであろうその表情を浮かばせる仁太を見て、禰豆子は心が張り裂けるような思いだった。
別人なのは承知している。同じ性格でないことなど、先ほどの反応からしてわかりきっていた。
それなのに、同じ顔であることがこうも辛い。
意図せず、ぽろりと禰豆子の瞳から涙が零れた。炭治郎はもうこの世にいないのだと、再三突き付けられたような気分だった。
鬼の恐怖に喚き散らしていた仁太は、ふと禰豆子が見せた涙に、暫しの間目を奪われていた。
彼は、鬼と人間は違う生き物だと小さなころから信じて疑ってこなかった。鬼は人間を喰って生きて、涙なんか流さない非情な生き物なのだと、幼少期に痛感した。
だからこそ彼にとって、鬼という生物は恐怖の対象でしかなかったのだ。
しかし、今目の前にいる鬼は確かに涙を流している。人間と変わらぬ、透明で綺麗な、ビー玉みたいな涙だ。
なんだかその涙は、哀しみがぎゅっと詰まっていた。見ているだけでこちらも悲しくなってきてしまうような、痛みを伴った涙だった。
だからだろうか、仁太は知らず知らずのうちに、禰豆子の手をぎゅっと握っていた。恐怖はもうなかった。
禰豆子が目を見開く。細い瞳孔が揺れていた。
「だ、大丈夫ですか?」
そう尋ねると、禰豆子は少し俯いた後、にこりと笑って頷いた。眦に溜まった涙が、つぅと頬を伝って地面に落ちていった。
「だ、大丈夫……大丈夫……よかった……よかったねぇ」
不意に、口元に嵌めていた竹が落ちた。からんと高い音を立てて床を転がった竹は、年季が入っているのかぼろぼろだった。
禰豆子の口には、もちろん牙が生えている。しかし仁太は何故か怖いと思わなかった。なんだか、懐かしいとさえ思っていた。
口元が自由になった禰豆子は、拙い口調でしゃべり始めた。それはまるで、幼い妹のようで。
『お兄ちゃんは私が守るから』
ふと、頭痛と共に舞い降りて来たかつての記憶に、顔を顰める。頭痛が去った後も、胸の奥になんだかしこりが残っていた。
禰豆子の瞳から既に涙は消えており、にっこりと笑みを浮かべながら仁太のことを見ていた。
妹に似ている。彼は、ぼうっとそんなことを考えた。
鬼と人と。八十年の時を越えて、禰豆子は再び自らを理解してくれる人間と出会った。
この出会いが、彼女をその存在ごと変えていくことを、今は誰も知らない。
主人公の名前を反対から読むと……