木枯らしが吹き荒れるとある一日。雪で埋め尽くされた山の中に一軒、ぽつんと忘れ去られたように建っているあばら家がある。
隙間から縫うように吹き込んでくる冷たい風に、顔を顰めながら起き上がった仁太は、ふと耳朶を打った何かの音に首を傾げた。音は、家の外から聞こえてきている。
寝巻から着替え、ドアを開けると、家の目の前に一人の少女が立っている。ぼろぼろの市松模様の羽織に、古臭い藁の雪靴。
ドアを開けた仁太に気づきこちらを振り返ったのは、数日前から何故か彼の家に居候をしている鬼の禰豆子であった。
禰豆子はどうやら薪を作っていたらしく、彼女の周りには積もるほどの薪が落ちている。凄まじい音がしていたのは、どうやら彼女が斧を使うことなく自分の手で木をたたき割っていたからだろう。
「お、おはよう……」
「おはようございます」
にこりと笑って挨拶をする禰豆子。最初は仁太も怯えていたが、彼女が仁太を喰う気がないということに気が付いてからは、特に怖がることもなく挨拶くらいなら出来るようになっていた。
しかし、だからといって彼の中に巣食う鬼への恐怖が完全に消えたわけではなく、今でも寝起きの際に禰豆子を見ると心臓がどきりと縮み上がる感覚がある。
仁太は玄関の脇に置いてあった藤の花の香を家の中に入れる。鬼はこの花の匂いを嫌うので、仁太は毎晩寝る前に家の前に置いているのだ。
しかし不思議なことに、禰豆子はこの匂いが嫌いではないらしく、初めて香を見せた時は不思議そうに首を傾げながら匂いを嗅いでいた。
彼女は不思議な鬼だった。
牙も、瞳も、全てが鬼だ。しかしその割には太陽の下を楽しそうに歩き回り、夜になったらぐっすり眠る。更に人を喰う気はおろか血を飲むそぶりも見せないし、おまけに可愛らしい。
薪を叩き割り終えた禰豆子が、とてとてと仁太に走り寄る。彼女の片耳に付いた旭日のような耳飾りが揺れていた。
禰豆子は、彼女が着ている服とこの耳飾りを、何よりも大切にしているようだった。何故かはわからない。しかし、彼女は絶対に何があっても耳飾りを外さないし、服も大切に保管していた。
理由を聞いてもにこにこと笑うだけで、仁太は正直禰豆子の扱いに困っていた。
何を話しても「おはよう」「よかったねぇ」「だいじょうぶ」しか話さない彼女は、存在自体が不気味という理由もあるが、それ以上にコミュニケーションをとるという大切な段階を壊す大きな役割を果たしていた。
毎日欠かさず彼女に話しかけている仁太だったが、当たり前の如く会話が広がることはない。その事実に彼の心は折れかけていた。しかし仁太の言葉はわかっているらしく、彼女はよく仁太の言葉を聞いていた。今さっきまで彼女が割っていた薪も、最初は仁太が何気なく尋ねたことだったのだ。
「恐怖の対象だった鬼をこんなことに使っていいものなのか……」
とてとてと家の中に入っていく禰豆子を横目で見ながら、仁太は呟いた。
その呟きは禰豆子にも届いていたのか、こちらを振り返って首を傾げた。
「なんでもないですよ」
そう言うと、禰豆子はにっこりと笑って家のドアを蹴り飛ばしながら入っていく。どうやら彼女に引き戸は難しかったらしい。既に慣れた光景だ。
修理をどうしようかと悩みながら頭を抱える仁太は、先ほどの禰豆子の笑みの中に、確かな寂寞が見えていたことに気が付かなかった。
しかし、気づくその日は遠くない。
▼
屋内に入った禰豆子は、自らの心に芽生えた寂しさに首を傾げていた。
先ほど蹴破ったドアからは優しい朝陽が差し込んでおり、小さな家の中を照らし上げている。舞い上がった埃が陽に反射して、宝石のように煌めいていた。
先ほどの仁太の言葉に、彼女の心は少しだけ痛んだ。何故かはわからないが、彼が敬語を使った時に、彼女の心がちくりと痛んだのだ。
心を抓られるような、小さな痛み。それが何なのか分らないまま、禰豆子は床にぺたんと座りこんだ。
ぐるぐると頭をめぐらせ、辺りを見渡していると、箪笥の上に何かが置いてあるのが見えた。
傍に寄ると、箪笥はなかなか高く、禰豆子には届かない高さであった。
幸い、身長を少しばかり変えることが出きる禰豆子は少しだけ大きくなり、箪笥の上に置いてあった物を掴んだ。その際に何かに触れた。
それは、小さな写真立てだった。あまり触られていないのか、埃が積もっていた。
写真立ての中には、幼少期の仁太であろう少年と、もう一人小さな女の子が映っている。両手でピースを作って太陽のように無邪気な笑みで笑いかけている少女は、どことなく仁太に雰囲気が似ている。多分、妹なのだろう。
禰豆子は写真立てを元あった場所に置き、自分が先ほど掴んだものを見た。
こちらは、クレヨンだった。子供が使う、優しい色だった。やはりこれも長い間触られた痕跡がなく、箱を開けてみるとほとんど新品のクレヨンたちが顔を覗かせた。
クレヨンを見て目を輝かせた禰豆子は、近くにあった紙を取って、何やらぐりぐりと絵を描き始めた。クレヨンを使うのが初めてなのか、少し手こずっているようだった。
「よいしょっと……あれ、何してるんですか?」
しばらくすると、薪を集め終わった仁太が家に入ってきた。仁太は地面に座り込みクレヨンを使っている禰豆子を見ると、少しだけ寂しそうな表情をしたが、すぐに優しく微笑んだ。
「そのクレヨン、気に入りましたか?」
仁太の問いに、禰豆子がこくこくと頷く。双眸は爛々としており、その幼子のような反応に仁太は思わず笑ってしまった。
「そうですか。ならよかったです」
覗き込むと、禰豆子は何やら人物を描いているようだった。
黒と肌色で描かれたそれは、恐らく禰豆子本人なのだろう。
紙の真ん中に立つ禰豆子の周りには、木のようなものが乱雑に描かれている。
それだけ。
ほかには何もない。他には人物もおらず、ただ禰豆子が一人で立っている絵だった。
禰豆子は最後に黒いクレヨンで紙の上部に何かを書き始める。それは、ぐちゃぐちゃで読みづらいが確かに文字だった。
『ひとりぼっちの禰豆子ちゃん』
何て悲しい題名なのだろうか。仁太は胸の痛みに眉を顰めた。
禰豆子を見るが、特に悲しそうな表情ではない。多分、独りぼっちであるということが当たり前だったのだろう。だからこそ、その状況に傷つくことさえ忘れてしまったのだ。
その事実に、彼の心は更に締め付けられる。
「禰豆子さんって名前だったんですね……僕は仁太です」
「……?」
「なんでもないですよ。よろしくお願いします」
悲しみを抑えそう挨拶すると、禰豆子も同じく神妙な顔つきでぺこりと頭を下げる。そして顔を上げて、微笑んだ。
その微笑みは、誰かの物に似ていて──
『お兄ちゃん、私のこと、忘れないでね……?』
ふと脳内をよぎった過去の情景に、仁太は頭を押さえる。
かつての記憶。忌々しい過去。忘れられない思い出。
仁太は思い出と共に滲み出て来た涙を手でふき取った。霞む視界の端に、写真立てが立てられてあるのが見えた。あの時のことを思い出さないために故意的に反対側を向けていたのだが、禰豆子がクレヨンを取る際に立てたので、ふとした拍子に仁太の視界に入ってきたのだ。
笑っている菜々美に、ちょっと不機嫌そうな仁太。二人並んで立つその姿は、誰が見ても仲が良い兄妹の写真だ。
本当なら、今も横にいるはずの菜々美と共にこの写真を見て、懐かしいねなんて言いながら笑いあうはずだった。
それを奪ったのは、他の誰でもない鬼だ。
ある日唐突に仁太達が住む家に現れた鬼は、あっと言う間もなく菜々美を殺した。仁太は、菜々美が殺されるのを目の前で見ていた。何もすることが出来ずに。ただただ呆然と。
仁太の寂しげな表情を見て、禰豆子が目を細める。その表情は、どこか慈しみの感情も混ざっていた。
徐に立ち上がった禰豆子は、眦に涙が残る仁太の前に立ち、背伸びしてその頭を撫で始めた。それは、炭治郎がよく禰豆子にしていたことであった。
急に頭を撫でられた仁太は驚きに目を見開いていたが、すぐに泣き笑いのような顔になる。
仁太より小さなこの女の子は、それでもやはり鬼で、彼よりもずっと永い時間を生きている。そう実感させられるような優しい手つきだった。
差し込む朝陽で居間は神秘的な空気を醸し出しており、それに包まれている二人は、真冬だというのに暖かそうな光の中で笑っていた。
人を食べれば食べるほど、強くなれば強くなるほど鬼は鬼として成長していくのではないかと思っています。
現に原作でも鬼になったばかりの者はまともに喋ることが出来ず、ただ人間に襲い掛かっていました。
しかし、人間を食べれば食べるほど鬼は人間だったころの記憶も失っていきます。
鬼として成熟するため人を喰らうか、人としての矜持を守るため飢餓に苦しみ幼いままでいるか。
禰豆子は後者を選んだため、未だに言葉が喋れないのではないかと思ったりしています。
以上、何故禰豆子が喋れないかという作者の自己解釈でした。
ちなみに禰豆子ちゃんは「おかえり」と「いのすけ」も喋ることが出来ますが、出すタイミングがありません()