──お兄ちゃん、私のこと──
目を覚ます。いや、本当は気づいている。僕は目を覚ましてなんかいない。ここもどうせ、夢の中なんだから。
目の前にはごうごうと吹き荒れる槍のような吹雪。耳が寒さで千切れそうだ。
空を見上げると雪と見間違えそうなくらいに小さな星々が夜空で幽かに揺らめいている。
吹雪の合間を縫うように僕の耳に届いたその言葉は、忘れるわけもない彼女のもので。
「菜々美!」
気づけば、飛び起きて走り出していた。
声のする方へ、気配のする方へ。
だが、わかっている。こんなの夢なんだ。夢でしかないんだ。
菜々美に近づけば近づくほど、身体が重くなってくる。目頭が熱くなって、どうしようもない悲しさだけが胸の中に募っていく。吐く息だけが夏の雲みたいにもくもくと後ろに飛んでいく。
豪雨のような吹雪を抜けると、そこは「あの日」と同じく春の麗らかな陽が降り注ぐ原っぱだった。不思議なことに、先ほどまで叩きつけるように吹いていた吹雪はもうそこにはなかった。
「お兄ちゃん……」
膝に手をついて荒い息を吐いていた僕は、不意に耳朶を打った菜々美の声に顔を上げた。
菜々美がいた。弾けるような笑みでこちらを見ていた。それを見ている僕の顔も、無意識のうちに綻んでいた。
ああ、やっとだ。やっと僕は、菜々美を救うことが出来たんだ。
菜々美に走り寄る。花柄の可愛らしいワンピースは、彼女があの日着ていたものと全く同じ。膝元に寄った皺までもあの日のままで。まるで、時が止まったみたいな……。
手を伸ばす。あと少しでその白く柔らかな手に触れることが出来る。菜々美もこちらに手を伸ばす。その目は、何かを訴えかけるように揺れ動いていて────
『汚い、汚い、汚いのう』
視界が揺れた。目の前にいたはずの菜々美の顔が、なんだか遠くへ行ってしまったような気がして、思わず頭を抱えた。いつの間にか辺りは薄暗くなっていた。
この声を、僕は知っている。僕の心の中にある恐怖という棚に詰め込まれたその存在。忘れたくもなかったし、忘れられそうにもない悪鬼。
目を開くと、そこには──皮肉なことに──これもまたあの日と同じ格好をした、鬼の姿があった。
元々は真っ白であっただろう死装束を絵の具やら何やらでどす黒い虹色に染めており、手に持った刀もまた同じように虹色の光を放っている。
真っ青な肌は死装束と相まってまさに死人のよう。ぎらぎらと光る眼だけがこちらを捉えていた。
『お前の色はなんだ? お前の色はなんだ?』
壊れた人形のように同じことを繰り返す鬼。しかしガチガチと歯を鳴らしていた僕は、何も応えることが出来なかった。
『汚いのう、汚いのう』
嘲笑うようにそう呟いた鬼は、ゆっくりと刀を振り上げた。ぎらりと七色の煌めきが揺れて、こちらに向かってくる。
『お前の血は、赤色なのか?』
吸い込まれるように放たれる袈裟切り。不思議な光を放つ刀は、そのまま僕の鎖骨を砕き内臓を斬り伏せるはずだった。
「危ないっ」
どん、と誰かに押される。視界がぐらりと揺れて、すぐに地面と横づけになる。
ああ、一緒だ。あの時と一緒だ。結局僕は、何も変わっちゃいないんだ。
自らの情けなさに涙が溢れてくる。胸が絞られているかのように痛む。
涙で淡く彩られた僕の視界に、臙脂色の雨が降り注ぐ。
頬にかかったそれは、妙に生暖かくて……。
見上げると、そこには鎖骨辺りから刀を生やした菜々美が、こちらを見ながら立っていた。
「あ、ああ……あああああっ!」
あまりの衝撃に脳が上手く働かない。映像は瞳を通して脳に入ってくるが、それが何の意味を持っているのかすらも理解ができない。
ただ、肌でひしひしと感じてしまう。
僕は、大切なものを守れなかったのだ。
肩口のすぐ下に生えた刀の根元から、じわじわと鮮やかな血が服を侵食していく。花柄のワンピースに薔薇が生えて来たようで、僕は目を見開いてそれを呆然と見ていた。
刀が抜かれる。菜々美の傷口から血液が溢れ出て来た。
そこでやっと僕は現実に戻ってきて、菜々美に駆け寄った。倒れこんだ菜々美を抱き起すと、その華奢な体はいつもよりも重く感じた。
触った掌がぬるりと滑る。菜々美の命が漏れ出ている。
「菜々美、菜々美っ!」
「おに、い……ちゃ……」
掠れた声で、菜々美は僕を呼ぶ。微かに開いた口からはひゅーひゅーと空気が漏れていて、菜々美の状態がいかに危ないかを示していた。
顔は既に真っ青で、血の気がない。幼い僕にだってわかるほど、致命傷だった。
『色がない、色がない……汚いのう……』
鬼は引き抜いた刀から血を払い、血だまりの中に倒れる菜々美と僕を見て呟いていた。その言葉に、僕の思考が怒りに染まる。
菜々美の血を、汚いだって? こんなにも生きようと必死で、生にしがみつきながら涙を流す菜々美を、汚いと切り捨てたのか?
視界が赤く染まっていく。先ほどまで体を蝕んでいた恐怖の震えは消え去り、上塗りするかのように怒りの震えが体の隅々を支配していく。
怒りに任せ言葉を発しようと口を開くと、それよりも先に菜々美が僕の袖をくいと引っ張った。
見ると、脂汗を額にたくさん浮かばせた菜々美が、それでもにっこりと笑いながらこちらを見ている。
「大丈夫、怒らないで……? 私は、お兄ちゃんが生きていればそれでいいから……」
「菜々美、菜々美っ。もう喋るな、大丈夫だから。兄ちゃんが助けてやるから」
その言葉に、菜々美は笑みを深くする。多分、気づいているのだろう。僕が菜々美を助ける術なんて持っていないことを。自分は、もうすぐ死へと転がり落ちていいくのだろうということに。
だが、菜々美は笑う。その小躯のどこにこれほどの力が隠されていたのだろうかと思ってしまうほどに、力強い笑みだった。
「お兄ちゃん、私のこと、忘れないでね……?」
「忘れるわけないだろ! これからもずっと、一緒にいるんだから!」
「うん、うん……ずっと、一緒だから……一緒だから」
菜々美の瞳がだんだんと虚ろになっていく。焦点の定まっていないその瞳は、果たして仁太の顔を見ているのか、それとも目の前を流れ行く走馬灯を眺めているのか。
「逃げて、お兄ちゃん……」
「けど、そしたらお前が!」
「いいから。逃げて。私は大丈夫だから……。お兄ちゃんは、私が……守る、から」
もう喋るのも苦しいだろうに、菜々美は懸命に声を絞り出す。
その力強い声音が原動力だったかのように、仁太の脚がひとりでに動き出す。ここに留まって菜々美のために戦いたいと心では思っているはずなのに、全く動けない。その代わりに足が動き始め、菜々美から遠ざかっていく。
空は次第に白け始め、浮かんでいた星々もやがて明るい空に滲んで消えていく。
逃げ出した仁太を、鬼は何も言うことなくじっと見つめていた。追いかける気はないようだった。
足を引きずるように動かしながら、仁太は咽び泣く。
結局、彼は変わっていないのだろう。
妹を失って、こんな哀しみはもう味わいたくないと泣いたあの日から。一歩も進めずに、地団太を踏みながら指を咥えて空を見上げるだけ。
上手く呼吸ができずに、溺れた子犬のようにあえぐ。熱くなった身体に雪が当たり、急速に冷やしていく。
強くなりたかった。なりたいと願った。けど、何もできなかった。
妹を守れるくらいに強くなって、そして二人でまた幸せに暮らす。そんな生活を毎晩夢見ては、引きずられるように目を覚まし現実に眩暈を起こす。
大好きな妹を守る。守り切る。
不滅の想いは変わらぬまま、ただその場にとどまり続けて。
いつか、羽ばたき空飛ぶことを夢見ている。
▼
頬を擽る、どこか心地よい感覚で仁太は目を覚ました。
どうやら泣いていたらしく、目を開けたにも関わらず、視界がはっきりとしない。
少し頭を動かすと、再び頬に何かが掠り、首元がむずむずするような痒さが体を取り囲む。
起き上がり見てみると、禰豆子が仁太の横で同じく寝ていた。仁太を寝かしつけていたらしく、その手は彼の頬に添えられていた。くすぐったいと思っていたのは彼女の手だった。
「お姉さんみたいだ」
ぼそりと呟くと、それに応えるかのように木枯らしがあばら家を軋ませる。
禰豆子は、その見た目とは反して面倒見の良い優しい鬼である。悪夢にうなされていた仁太を心配し、寝かしつけようと頭やら頬を撫でるほどに。
その行為が、今まで妹しかいなかった仁太に、姉という概念を植え付ける。
仁太は、自分よりもずっと小さな少女のことを妹と見ず、姉のような眼差しで見ていたのだ。
静かに立ち上がった仁太は、厠へ行くために玄関のドアを開ける。山の麓に住む仁太は、当然周りの社会とは断絶された場所に住んでいるので、彼の家にはこういった昔ながらの物がいくつも存在していた。
ドアを開けた仁太は、寒さに両の手を擦りながら厠へと向かう。そんな彼の耳に、雪を踏む足音が聞こえて来た。
頭をめぐらし足音の方を見ると、ひとりの男が立っていた。
丁寧に切り揃えられた前髪が幾重にも重なっているかのような髪型で、太い眉の下の、酷い隈を持つ瞳が仁太を見据えている。二又になった眉尻がぴくりと動き、くすんだ金色の髪がさらさらと揺れていた。
黒い詰襟の隊服のようなものを着ており、動きやすいようにと雪靴を履いている。背は仁太よりも頭一つ分ほど小さいが、その身体は無駄がなく引き締まっていることが見て取れ、目の前の男がどれほどの鍛錬を積んできたのかが明確に示されていた。
彼の腰には大きな刀があり、男は仁太を警戒するように手をはばきの辺りに置いている。すぐにでもその刀身を曝け出せる自信があるのだろう。
見つめ合う二人。剣呑な空気が辺りを覆う。
先に口を開いたのは、剣士だった。
「鬼はどこだ」
「……は?」
あまりにも突拍子のないその言葉に、仁太は思わず素っ頓狂な声を上げた。
仁太の反応に、男はむっと眉を顰める。
「鬼はどこだと聞いている」
「えと……どちら様でしょうか?」
仁太の言葉に、男は自分が自己紹介をしていなかったことに気づいたらしく、刀から手を退かし口を開いた。
「悪かった……。俺の名は
「鬼殺隊……ですか」
「ああ、そうだ。鬼を滅し人々に安寧を与える。それが俺たちの役割だ。それで、鬼はどこにいる」
話はもう終わりだとでも言いたげに、善爾は目を細める。
風が吹き、積もり積もった雪の表面を吹き飛ばしていく。ヴェールのような雪に包まれた善爾の口からは、雪よりも濃いほけが風に揺らめいている。
「し、知りません。僕、鬼なんて知りません」
気づけば仁太は嘘をついていた。
禰豆子のことを言えば全てが解決するはずだった。
妹を殺した憎い鬼。目の前にいるだけで膝が笑い始めるほどに怖い鬼。
目の前にいる善爾は、鬼退治の専門家だ。禰豆子について話せば彼は容易に解決するだろう。
しかし、仁太はあえて禰豆子のことを言わなかった。
何故かは彼自身もわかっていない。
ただ、確かに一つ言えることがあるとするならば、彼の中で鬼に対する価値観が変わっているということだった。
鬼は絶対悪で、恐怖の対象。その今までの見方が、禰豆子と接しているうちに変わっていたのだ。彼女の優しい笑顔を、悲しそうな涙を見ているうちに、仁太は彼女を守りたいと思っていた。
仁太の言葉に、善爾は目を更に細くし彼を睨みつける。目の下の隈がくっきりと見えた。
「嘘をつくな。俺にはお前が嘘をついているか、音でわかる」
「……音?」
「ああそうだ。お前からは嘘の音がする。それに、後ろの家の中からは鬼の音もしてくる。お前、一体何を隠しているんだ」
語気を強めた善爾が一歩仁太に近づく。中てられた殺気に、仁太は数歩後ずさってしまう。
再び、両者の間に剣呑な空気が流れる。
先に動いたのは善爾だった。
鯉口を切り、流れるように抜刀。そのまま腰を低く下ろし、地を蹴った。
すると、彼の身体が霧のように揺らめいて消えた。あまりの速さに、仁太は目で追えなかった。
高速で動く善爾の姿は見えず、彼の金の髪だけが流れるように動いて見える。それは、まるで稲妻が走っているかのようだった。
不意に、目の前に善爾の体が現れる。額が地面に当たってしまうのではないかと心配になってしまうほどに前傾姿勢の善爾は、そのまま刀を振り上げ逆袈裟を仕掛ける。
その剣筋だけをかろうじて視認することが出来た仁太は、のけぞるようにして剣の切っ先を躱す。鋭い音が耳に響き、銀の一線が流れるように仁太の視界に映った。完璧に避けたと思っていたが、見ると服の一部が斬られていた。
背中から倒れこんだ仁太は、善爾のどろりと濃い殺気に体中から冷や汗を流す。
彼は本気で殺す気だったのだ。
攻撃を躱された善爾は、面白くなさそうな表情で再び刀を構える。
今度避けられるかどうかはわからない。しかし、仁太は何故か降伏するつもりはなかった。
何が何でも躱してやろうという思いが、彼の胸中でむくむくと膨らんでいた。
立ち上がる仁太。善爾は特に動くこともなく、じっと仁太を睨みつけている。
ぴたりと動きを止める二人。熱くなった体を雪が冷やしていた。
しかし束の間の休息もすぐに終わる。善爾が体を傾かせ、再び刀を振るう態勢に入った。
どこから刀身が襲ってきても躱すつもりで身を構えていた仁太だったが、善爾が動こうとしたまさにその瞬間、まるで二人を仲裁するかのように仁太の家のドアが吹き飛んだ。
オリキャラ登場です。
名字でわかるかもしれませんが、まあ後々キャラは説明したいと思います。