仁太は、しりもちをついたまま、目の前で繰り広げられている戦闘をただ茫然と眺めていた。
禰豆子は鬼だ。だから、自分とは違うとは理解しているはずだった。
だが、いざ現実を目の当たりにすると、言葉に出来ない悲しさが彼の胸に宿った。
禰豆子が、先ほどまで笑いあっていた人が戦っている。そして自分は何もできずに蹲っているだけ。
何も変わっていない。あの日から。あの時から。
禰豆子と善爾の実力は、少なくとも仁太からすれば拮抗しているように見える。お互いが相手に致命傷を与えられないまま、ずるずると戦闘は続いていた。
しかし仁太は知っている。
永遠なんてないことを。ずっと続くものなんてないことを。
心地よい場所にいたら、無意識のうちにその空間がずうっと続くのではないかという錯覚に陥ってしまう。
しかしそんな現実はない。時が経てば何もかもが変わっていく。
花は枯れるし人は死ぬ。
拮抗していたと思っていた二人も、徐々に差が出始めた。
善爾の動きが変わった。先ほどまでも俊敏な動きを見せていたが、彼が不可思議な呼吸を始めてからは、それが更に速くなった。その身体が消えたのかと錯覚してしまうほどの速度で一直線に走る善爾は、そのまま禰豆子の首に向け刀を振るう。
ぞわりと、心が粟立った。禰豆子が殺されそうになって、仁太は初めて恐怖を覚えたのだ。
幸いなことに禰豆子は何とかその剣筋を躱したが、次に躱せるかどうかはわからない。仁太は動かない自分の足を呪いながら、心の中で練豆子を応援した。
刀を空ぶらせた勢いで倒れこんだ善爾だったが、すぐに起き上がり再び刀を構える。
行かなければ。この戦いを止めなければ。
そう思ってはいるものの、脚が動かない。まるで接着剤でも塗りたくられたかのようにぴたりと地面にくっついて離れないのだ。
仁太は小さく舌打ちをする。変わりたいと願っていたのに、この体たらく。自らの情けなさに恥じるのはこれで何度目だろうか。
自分に向け叱咤激励を飛ばすが、返ってくるのは僕が行ったところでという弱気な言葉。
善爾の逆袈裟斬りのような斬撃が禰豆子に直撃する。左わき腹にするりと入った刀は、そのまま障害物もなく禰豆子の体を切り裂いていく。
あわや真っ二つというところで禰豆子がかろうじて身を仰け反らせ刀から抜け出す。しかしその表情は苦痛で歪んでいる。
当たり前だろう、身体を切り裂かれたのだ。
禰豆子の苦しそうな表情を見るだけで心が痛む。それなのに、脚はかたくなに動かない。
息が荒くなって、視界がぼやけてくる。禰豆子から滴る血に自分の情けなさを重ねて、仁太は胸を痛めていた。
身体を切り裂かれた禰豆子が、苦しそうに息を吐きながら膝をつく。
それを見た善爾が叫んだ。
「その首、もらったっ!」
吸い込まれるように落ちていく刀。もう避けようがない。
これから起こるであろう凄惨な光景を頭に描いた仁太は、そのあまりのむごさに目を固く閉じた。
『──お兄ちゃん』
そんな仁太を呼ぶ、懐かしい声。
目を開くと、真っ暗な世界の中にぽつんと、菜々美が立っていた。
『お兄ちゃん、守ってあげて』
掠れた声で菜々美は言葉を紡ぐ。目には涙が溜まっていた。
『彼女を、守ってあげて』
目を開いた仁太は、近くに落ちていたこぶし大の石を拾うと、善爾に向って全力で投げつけた。
まっすぐに飛んで行った石は、禰豆子の首に当たる寸前だった善爾の刀に当たった。
ぴたりと止まる善爾の刀。禰豆子はその隙を見て後ろに跳んだ。彼女の首筋から血が垂れていた。
「……お前、鬼に憑りつかれてるのか?」
地面に転がった石を一瞥した善爾は、刀を仁太に向けながら尋ねた。
「何故鬼を助けようとする。鬼は人を喰う下衆共だ。守る意味なんかない」
「鬼を守れるほど、僕は強くありません……。今も昔も、守られてばかりの弱虫なんです」
震える声で仁太は応える。けれどもその声の芯には、手に取って触れるほどに現実味のある勇気があった。
「そ、それでも……そんな僕にだって正しいことと悪いことくらいはわかります……!」
「……それで、お前は俺の行為が悪いことだというのか。俺の方が悪人だというのか」
「僕からすれば、あなたは悪人です。罪のない一人の少女を切り捨てようとした、極悪人です!」
きぃんと、雪山に仁太の声が響き渡る。不思議と脚の震えは止まっていた。
善爾は叫んだ仁太を冷めた目で見ると、吐き捨てた。
「頭が固いやつめ。どの時代だって頭の固い馬鹿から死んでいく。お前もその一人だったということだろう」
善爾が消える。そう思ったら、次の瞬間には目の前に現れていた。
身体を横に捻じり、刀の切っ先が背中の後ろに隠れるほどに振りかぶった善爾は、流れるような動作で刀を振る。ぴたりと向けられた双眸からは情けは微塵も感じられず、ただただ怒りが滲み出ていた。
死を直感した仁太は、目を閉じることもなく自分の胴へと向かっていく刀を見ていた。
だがしかし、善爾の刀が仁太を切り裂くことはなかった。
その刃が仁太の胴に届く一瞬前に、一つの影が目の前に現れる。
禰豆子だった。禰豆子は仁太に迫っている刀を素手で掴むと、切り裂かれるのもお構いなしに思い切り握りしめた。紅い血が垂れ、純白の雪の上に日の丸のような紋章を作っていく。
しかし、禰豆子が負った傷はそれだけだった。
善爾はそれ以上、刀を禰豆子に押し込むことが出来なかったのだ。
まるで、石に刃を立てているような硬さ。中途半端に食い込んだ刃のせいで、善爾は動くことも出来なくなっていた。
禰豆子がもう片方の拳を握りしめる。その拳に、善爾は不思議と冷静な気持ちで自身の終わりを察した。
振るわれる拳。行先はもちろん善爾の腹部。
鈍い音が山中に響き渡り、小鳥たちが驚いて飛び立っていく。枝に積もっていた雪が衝撃で地面に降り注いだ。
腹部に重い打撃を受けた善爾は、ゆっくりと前傾姿勢になって──今度は消えることなく雪の上に倒れこんだ。白目を剥いている辺り、気絶しているらしい。あれほどまでにすさまじい打撃を食らって気絶だけなのは、やはり彼の身体が強靭なためなのだろう。
善爾から腕を離した禰豆子は、未だに血が流れ落ちる腕をさすりながら仁太を見る。その瞳に宿る優しさは、まるでお手本のような美しさで。
思わず見惚れていた。先ほどまでの危機のことなどとうに忘れ去ってしまった仁太は、何もかも忘れて微笑む彼女を見つめていた。
彼女の掌の傷が完治する。まるでぎゅっと閉められた蛇口のような鮮やかさだった。
禰豆子が仁太に近づく。しりもちをついている仁太は動くことも出来ずに、ただ彼女の優し気な顔を見上げていた。
仁太の目の前まで歩いてきた禰豆子は、徐にしゃがみ込むと仁太の頭を撫でた。
その温かさと優しさに、思わず仁太は泣きそうになっていた。慌てて目頭をぐっと抑えると、引っ込んだ涙が胸の奥底がじんわりと温めた。
「ありがとうございます、禰豆子さん……」
何も言うことなく頭を撫で続ける禰豆子に仁太は礼を言う。
いつもみたいに、決まった数個の単語しか喋れない禰豆子に対する独り言のようなものだった。実際、仁太は返事なんて想像していなかった。
だからだろうか──禰豆子が口を開いた時、仁太は思わず目を見開いて彼女の顔を見た。彼女はにっこりと笑って仁太を見返した。
「私も……あ、りが……とう。じん、た」
「禰豆子……さん?」
全ては変わっていく。
花は枯れるし人は死ぬ。
変わらぬと言われていた鬼もまた、少しずつ変化していっている。
例えば、人から隠れて暮らす鬼。
例えば、人と争わずに逃げ惑う鬼。
そして、だんだんと人間の心を取り戻していく鬼。
がちりと動かなかった禰豆子の中の歯車が、少しずつ動き始めた。
動き始めた二人を祝う祝詞の如く、暖かな光が二人を包んでいた。