善爾にとって、鬼という生物は憎悪の対象でしかなかった。
鬼殺隊であった両親は、戦いの最中に殉職した。人々の平安を守るために、己の身を滅ぼしてまでその刀を振るったのだ。
鬼殺隊は政府に認められていない非公式の組織である。鬼を殺したところで誰からも礼など言われない。それなのに、両親は必死に戦った。
彼らの原動力となったのは、祖父への愛情だった。
愛する親のため、善爾の両親は自らの命をも散らしたのだった。
善爾は、今は亡き祖父が大嫌いだった。
彼の祖父はとても強い人だったらしい。
当時何人もの柱が敗れ、その命を落としていた鬼舞辻無惨直属の鬼である十二鬼月の上弦を一人で斃したという話も残っているほどだ。
そんな、伝説のような祖父。
だが、やはり善爾は彼のことを好きになれなかった。
祖父は、鬼に憑りつかれていたのだ。
柱になれるほどの実力を持っていた祖父は、それでも柱になることはなかった。鬼舞辻が消えた後、彼が真っ先にしたことは、一人の鬼を捜索することだった。
それこそ、血眼で。自らの命を削ってまで、祖父は一人の鬼を探していた。
何でも、恩のある鬼だったそうだ。
名前は竈門禰豆子。善爾も、両親から聞かされていた。
祖父の最期の言葉は、我が子に対する感謝の言葉でもなく、鬼を殺しきれなかった悔いの言葉でもなく。
たった一言の、簡単な言葉。
まるで我が子を伝達用の烏としか思っていないかのような、業務的な言伝だったらしい。
善爾の両親は、祖父の遺言に忠実に従い、その言葉を届けるために鬼と戦い禰豆子を探していた。
──だから、死んだ。
鬼に言葉を届けるなどという馬鹿なことを成し遂げようとしたために、殺された。
だから善爾は、もし自分が禰豆子を見つけたら、絶対に殺してやるという心持で鬼殺隊に入ったのだ。
入ったといっても、鬼殺隊は既にほとんど活動をしておらず、哨戒を繰り返しているだけの警備集団だった。
銃刀法違反という法がある世の中では、当たり前といえば当たり前のことだった。
しかし善爾は諦めることなく、法に触れそうな手段を使ってまでして日輪刀を手に入れ鬼殺を続けていた。
『おじいちゃんはね、すごく優しい人だったの』
それが、善爾の両親の口癖だった。
『優しすぎて、他人に騙されるようなお人好し。捨て子だった私たちを養子にしてくれて、本当の子供みたいに育ててくれた……それが私たちのおじいちゃん。けどね、そんなおじいちゃんよりも優しい人がいたって、おじいちゃんが昔言ってたの』
かつての日を懐かしむように目を細める両親。善爾は彼らのそんな表情が大好きだった。
『それが、私たちが探している禰豆子さんって鬼と繋がるの。だからね、私たちはおじいちゃんからもらった愛情と恩を、禰豆子さんに返すの』
善爾は、意味がわからなかった。
何故祖父が受けたものを親が返さなければいけないのか。祖父が返せなければそれで終わりでいいだろうと思っていたのだ。
『善爾もいつかわかるはずよ。想いはね、消えないの。ずぅっと残り続けて、優しく光り続けるの』
優しい口調。肌に溶け込んで、心を撫でていく春風のような声音。善爾は目を閉じて、優しさの音を聞きながらまどろみの中へと落ちていく。
『滅びることのない、消えない想いを、私たちが受け継ぐ。そしていつか、おじいちゃんに、禰豆子さんに届くように……それまで、大切にしていくの』
その日、善爾は祖父の遺言を受け取った。
使うことなどないと心の奥底に封印していたその言葉は、不思議なことに忘れることはなく、ずぅっと彼の心の内で暖かな音を鳴らし続けていた。
祖父の名前は
かつて、竈門炭治郎兄妹と共に戦っていた、一人の鬼殺隊だった。
◆
鼓膜をゆっくりと震わせる優しい音で善爾は目を覚ました。
身体を包む暖かさは、鬼を滅するために軽装で雪山に上ってきていた彼の心を緩ませる。
目を開けてしばらくの間は優しさの音に浸っていた善爾だったが、不意にその優しさの音に紛れて鬼の音がしていることに気が付き、自分が陥っている状況を思い出した。
布団を蹴り飛び起きる。日輪刀を探すが、いつもは枕元に置いてあるその感触を感じられない。
顔を上げると畳の上に座り込んでクレヨンで何やら描いている鬼と人の姿がある。
竈門禰豆子。祖父の恩人とやら。八十年という月日が経って初めて善爾は巡り合うことが出来たのだ。胸中に沸き上がる、憎しみとは違う何かの感情に善爾は顔を顰めた。
見ると、彼女のすぐそばに善爾の日輪刀が置かれていた。
起き上がった善爾に驚いたのか、男と禰豆子がこちらを見る。
暫くの間睨みあっていた善爾と禰豆子だったが、禰豆子はそこまで善爾に興味がないのか、すぐにクレヨンで何かを描き始めた。
「おい、俺の刀を返せ」
鋭い声で言うと、禰豆子は面倒くさそうに肩越しで善爾を見つめ、傍にあった日輪刀をぽいと彼に向って投げた。
まさか本当に返してもらえるとは思っていなかった善爾は、しばらくの間目の前に回転しながら滑ってきた日輪刀を眺める。
しかし、善爾が我に返って刀を握る前に、仁太が慌ててそれを取り上げた。
「何やってんですか禰豆子さん! また斬られますよ!」
「大丈夫、私、仁太、まもる……」
「それはありがたいんですけど、僕としてはもうちょっと安全な方法で……」
唸ってばかりだった禰豆子が話していることの驚く善爾だったが、すぐに立ち上がり仁太を睨む。
「さっさと刀を返せ。俺は一刻も早くこの鬼を殺さなければならん」
「だめですよ! 禰豆子さん、せっかくいろんな言葉喋れるようになったんですから!」
善爾の睨みにも、仁太は大して怯えることなく言い返す。先ほどまでの怯えっぷりとは天地の差である。
「喋れるようになった? そんなどうでもいいこといちいち報告するな。鬼は殺す、それだけだ」
「けど、禰豆子さんは何もしてないじゃないですか!」
「何かしてからじゃ遅いんだ。さっさと刀を返せ」
「渡せません。絶対に渡しません! 禰豆子さんに危害を与える人の手助けなんて、僕は死んでもしません!」
死んでも渡さないの意思表示なのか、仁太が刀を抱き蹲る。
善爾は蹲った仁太を見下ろし、苛立たし気に叫んだ。
「鬼は殺さなきゃいけない存在なんだよ! 放っておくと人が死ぬ! それをお前は見殺しにするつもりか!?」
「禰豆子さんは人を殺したことなんてない! 善爾さんだって、殺されてないじゃないですか!」
「…………っち」
「禰豆子さんはあなたを殺すことだってできた! それなのに、介抱までしてあなたを生かしたんです! 禰豆子さんは他の鬼とは違うんです! そんなのもわからないんですか、あなたは!」
捲し立てるような仁太の言葉に、善爾は思わず黙り込んでしまう。
正論だった。禰豆子は善爾を気絶させたにも関わらず、その命を奪うどころか布団を敷いて彼を介抱までしたのだ。
それに、善爾だって理解していた。
禰豆子の内側から溢れてくる、泣いてしまいそうなほどに優しく悲しい音。鏡張りの地面に映る青空のように綺麗で、透き通った音。
交じり合ったその音は、複雑な音階で善爾の鼓膜を揺らす。
禰豆子は悪い鬼などではない。心優しい、小さな女の子なのだ。
しかし、善爾は自分の心を斬り捨て拳を握りしめる。心の奥に燻るのは、あの日の両親の言葉。
優しいはずだった祖父の言葉は、呪いになって善爾を蝕んでいた。その蝕まれた呪いを原動力に善爾は動いていたのだ。
禰豆子を憎んでいたはずだった。素晴らしい祖父を誑かし、鬼を愛する道へと誘った悪鬼だと思っていた。
それなのに、目の前の禰豆子を見ていると今まで信じていた自分の心が揺らいでくる。
その優しい音を聞くと、自分が間違っていたのではないかと思えてくる。
実際、善爾が間違っているのだろう。
祖父は正しかったのだ。全ての鬼が悪いわけではなく、中には人間に歩み寄ろうとする鬼もいるのだと。
だが、それでも善爾は心の刃を収めることが出来なかった。
貫き通していた今までの自分を曲げるわけにはいかなかった。
自分が何のために鬼殺隊に入ったのか、善爾は苦虫を噛み締めているような表情で二人を睨んだ。
「……俺の親は……貴様を探している最中に死んだ! 鬼に貴様のことを尋ねて、隙を見せた瞬間に嬲り殺されたんだ!」
突然の善爾の科白に、禰豆子は目を見開く。その言葉の意味を理解したのだ。
禰豆子の顔がどんどんと暗くなっていく。その表情はまるで夏の空を埋め尽くす曇天のようで、見る者の心を不安にさせるものだった。
「貴様がいなければ、死ななかった人たちだ! 俺の祖父も、お前を探そうとしたせいで柱になれず、うだつの上がらないまま死んでいった!」
禰豆子に責められるような非はないことなど、善爾にもわかっていた。
だが、理解するのと納得するのでは話は別だった。
大好きだった両親。いくら嫌いになろうとしてもいつも憧憬の眼差しで見ていた祖父。
全員、全員。
一人の鬼に囚われたせいで死んでしまった。
ふと、善爾は両親が生前彼に向け優しい口調で話していたことを思い出した。
『私たちはね、おじいちゃんの遺言に縛られて禰豆子さんを探してるわけじゃないのよ、善爾』
『禰豆子さんはな、私たちの恩人でもあるんだ』
『おじいちゃんを助けてくれて、優しさの本当の意味を教えてくれたの。もしおじいちゃんが禰豆子さんに会っていなければ、私たちは鬼を斬るために刀を振るっていたかもしれないもの』
善爾には意味がわからなかった。
鬼なんて憎んで当然の生き物だ。刀を振るなんて、鬼を殺す以外にどうやって使うのだろうか。
そんな善爾を諭すように、語り掛けるように言う。
『それじゃダメよ。何事も本質を見抜かなきゃダメ。ただ闇雲に刀を振るうだけなら、悪鬼と一緒よ。勧善懲悪の意味をはき違えては、あなたは強くなれないわ』
いつの間にか、善爾の手は震えていた。仁太を退かせば、すぐに刀が手に入る。それなのに上手く力が入らなくて、棒立ちしたまま禰豆子を睨んでいた。
「この世界、頭の固い馬鹿が先に死んでいくんだ! 全員鬼を斬れなかった弱者だ!」
心の中身を全てぶちまけた善爾は、荒い息で禰豆子と仁太を見る。
禰豆子は、悲しそうな瞳でこちらを見ていた。彼女からは、寂しさと哀れみの音が聞こえていた。
薄桃色の瞳を悲しそうに細めた禰豆子は、か細い声で尋ねた。
「本当の強さ……なに?」
その言葉に、善爾は言葉を詰まらせる。
それを聞いていた仁太もまた、身につまされる思いだった。
強くなりたいと思っていた。どうすればいいのかわからなかった。ただ漠然と漂うだけの日々はとても辛く耐え難いものだった。
禰豆子は静かな瞳で善爾を見据える。
「鬼、斬る……強い?」
「……刀をより使える方が強いに決まっている」
「違う」
首を振る禰豆子。そして、さも当たり前かのように言った。
「何かを守る……もっと、強い」
「…………」
善爾は握りこぶしを解き、刀を取ろうと上げていた腕をだらんと下げた。
何も言えなかった。目の前にいる少女の言葉はどこまでも正しく、宙ぶらりんのまま苦しんでいる善爾の心を射抜いた。
……思えば、彼の両親はいつも誰かを守るために刀を振るっていた。
例え自分が危なかったとしても、死の淵にまで追い込まれたとしても。
決して、自分の感情で刀を振るうことなんてしなかった。
多分、祖父もそうだったのだろう。
祖父はとても優しかったと聞く。
その祖父は、この少女から、優しさの本質を教えてもらったのだろうか。
善爾は急に、自分が情けなくなってきた。
鬼を殺してきて数年という年月が経ち、やっとそんな簡単な事実に気が付いたのだ。
そしてそれを彼に教えたのは、他の誰でもない鬼。憎んでいた鬼から大切なことを気づかされ、善爾は改めて自分の小ささに気が付いた。
自分の両親も、こんな想いを持って刀を振るっていたのだろうかと思うと、なんだか胸の奥が酸っぱくなって、よくわからない感情が彼の心を占めた。
「何かを守ることが強い……」
そう呟くと、心のどこかが暖かくなったような気がした。その場所は紛れもなく、彼の祖父が子孫に託した言葉があった場所で。
やはり彼も、我妻の意思を紡ぐものだったということなのだろう。
何だか急に体が怠くなった善爾は、大きなため息を一つ吐いた。
「…………わかった。わかったよ」
「……何がわかったんですか?」
「めんどくさいなお前。もうこの鬼に斬りかかることはしないって言ってるんだ。ほら、さっさと刀を返せ」
「本当ですか? 返した瞬間襲い掛かりません?」
「本当に面倒くさいなお前!? さっさと返せこの野郎!」
ひったくるように刀を奪うと、腰にぶら下げる。刀の重みが心地よい。
それは、守るもののために振るう刀の重さだった。
蹴り飛ばされたドアを踏みつけ外に出ると、禰豆子もついてくる。
「なんだお前、餌はないぞ」
肩越しに振り返りそう答えると、禰豆子はぽかんと首を傾げた。
「ばいばい、いのすけ」
「誰だそれは」
鋭く問うと、禰豆子はころころと笑う。
『おじいちゃんが私たちに託した伝達はね、とても簡単なものだったの』
ふと、善爾の心の中で眠っていた両親の言葉が起き上がる。
『とっても簡単で、だからこそおじいちゃんらしくて』
そう言う両親の表情はとても楽しそうで。善爾はそんな顔をずっと見上げていた。
『だからね、善爾も大きくなったら、その言葉の意味を、分かってほしいの』
あの日の約束。その言葉の意味を知ることが出来ずに走り続けた鬼殺の日々。
長い、長い、遠回りの後、ようやく善爾は答えにたどり着くことが出来たのだ。
『絶対に忘れないでね、この言葉をおじいちゃんが禰豆子さんに言おうとしていた言葉。それはね────』
「──ありがとう」
「……?」
ぽつりとつぶやかれた言葉に、禰豆子は再び首を傾げる。
若干の気恥ずかしさを感じつつも、善爾は再び口を開く。
「ありがとう、だよ。俺の祖父と、両親からの伝言。お前に……禰豆子に伝えてくれってさ」
「…………うん」
暫く考えこんだ後、禰豆子ははにかんだ。その表情は、彼の両親が見せたものと同じくらいに優しいものだった。
あの日伝えられなかった想いは、愛は、温情は、八十年の時を経てそれを持つべき者の胸中へと帰っていく。
時に形を変え、時にその意味すらも変えながら、それでも消えることなく紡がれていく。
不滅の想いは禰豆子の中へ。
口角を僅かに上げた善爾は、晴れ渡った空を見上げるような爽快感に包まれながら目を閉じた。
彼の目の前には、既に亡くなったはずの両親と、一人の男が立っている。
善爾と似たような姿恰好をしている彼は、多分──いや、推測などしなくても答えはわかっていた──善爾の祖父である、我妻善逸なのだろう。
善爾の両親と祖父は、何を言うでもなくただ彼を見つめ、ゆっくりと微笑んだ。
優しい音が彼を包む。幼子が母親の膝元で微睡むような、深い安心感。
「ありがとう」
囁くように善爾は言う。
それは、誰に向けての言葉だろうか。それは彼自身にもわかってはいなかった。
ただ一つ言えることがあるとするならば……それは決して祖父の遺言ではない、自分自身の正直な気持ちだということだけだった。
いのすけという言葉が使えて満足です。