「ん…………此処は……」
眠りから意識が覚醒し、瞼を開けた七海は知らない天井を見て困惑するが、すぐに昨夜の事を想起する。
昨夜は玉狛支部で作戦会議を続けていたら、もう遅いからとレイジに言われて支部に泊まる事となったのだ。
小南はそのまま小夜子の所に泊まったらしく、小南直々に許可を出した事で那須は小南の部屋を使用。
那須を置いて帰るワケにもいかない為、七海は適当に空いていた部屋で寝る事になったのだ。
ちなみに、茜と熊谷は遅い時間になる前に帰している。
七海関連で玉狛支部と交流のある那須の両親はともかく、熊谷と茜の家はそこまでボーダーとの縁は深くない。
友人である那須の家であればともかく、流石に支部への外泊は許可が下りなかった可能性が高い。
まあ、合宿のようなものと言えば話は別かもしれないが。
ともあれ、目が覚めた以上はいつまでも寝ていても仕方ない。
今頃、食事当番が朝食の準備をしている筈だ。
無痛症で味覚が死んでいる為料理の手伝いは出来ないが、それでも皿運びくらいは出来る。
お世話になったのだし、何か手伝った方がいいだろうと考えて七海は立ち上がる。
「お、七海。おきたのか」
すると、部屋の扉が開いてカピパラに乗った幼い子供が現れる。
雷神丸と名付けたその
玉狛支部の林道支部長の親類…………と、思われるが面と向かって聞いた事はない。
ともかく、昔からこの玉狛支部で過ごしているお子様なのだ。
年の割に妙にませた所があり、七海としてもどう対応していいか迷う相手だ。
特に、
七海の右腕は、見た目としては肩口から伸びる真っ黒な腕だ。
見た目からして生身の腕でない事は分かる為、幼い子供にあまり見せるようなものではないと七海は考えている。
────なあ、なんで七海の腕はまっくろなんだ?────
以前陽太郎と会った時、そう言われた事を七海は覚えている。
その時は曖昧にはぐらかして誤魔化したが、あまり幼い子供にこの腕を見せるべきではないだろうと考え七海はなるべく陽太郎との接触を避けてきた。
玉狛支部に来る時も、敢えて陽太郎が眠っていたりする時間を選んで来ている。
以前に宇佐美には不要な気遣いだと言われたが、かと言って余計な事をして幼い陽太郎に疵を残すのも少々憚られる。
だが、考えてみれば玉狛支部に泊まったのだから陽太郎とエンカウントする可能性が高い事は予測して然るべきであった。
「…………陽太郎か。ああ、おはよう」
「ああ、おはようだぞ。げんきだったか?」
「取り合えず、元気がないワケじゃないぞ」
そうかそうか、と陽太郎は七海の返答を聞き満足気に笑った。
どう反応していいか分からずにいると、陽太郎から声をかけてくる。
「ようやくあえたな、七海。中々あえなくてさびしかったぞ」
「…………そうか。悪い」
「いや、いいんだ。七海には七海のじじょうがあるだろう」
陽太郎はいやいや、と手を出して気にする事はない、とアピールして来る。
いまいち陽太郎との距離感を掴めずにいると、陽太郎がなあなあ、と七海の肩を揺さぶってくる。
「七海のうで、みせてもらってもいいか?」
「俺の腕を……? いや、それは……」
「七海がいやならいいんだ。けど、できればみせてほしいぞ」
突然の申し出に、七海は困惑を極めた。
幼い子供が興味の対象を見せるようねだるなら、分かる。
だが今の陽太郎は、何処か切実な眼で七海に右腕を見せるよう訴えていた。
少なくとも、興味本位の申し出ではない。
恐らく、何か考えがあっての事だろう。
陽太郎は、幼くとも聡い。
彼にしか分からない何かが、あるのかもしれない。
「…………ああ、いいぞ」
そう考えて、七海はシーツから右腕を────────
陽太郎はじっと七海の右腕を凝視し、うんうんと頷く。
「さわっていいか?」
「あ、ああ」
七海の許可を得て、陽太郎の小さな手が七海の右腕に触れる。
起き抜けの今は日常生活用のトリオン体ではなく生身の為、振れられた感触は伝わって来ない。
だが確かに、温かな手が右腕に触れた感触がした気がした。
「あたたかいな。七海のうでは」
「暖かい……?」
不可思議な感想に七海が問い返すと、陽太郎はああ、と肯定する。
「まえはつめたかったが、いまはあたたかいぞ。きっと、このこえのひともあんしんできるようになったんだな」
「……っ!?」
────そんな、予想外の言葉を以て。
陽太郎は、こえのひと…………つまり、
他ならぬ、七海の右腕を、
…………陽太郎には、動物の言葉がわかるサイドエフェクトがある。
そして、大人はともかく子供の
つまり陽太郎には、
陽太郎はその副作用を以て、七海の右腕から声を聞き取った。
つまり、それは……。
「陽太郎、お前は……」
「…………レイジから、きいたんだ。くろいトリガーが、どうやってできるのか。それで、わかった。『風刃』からまえにきこえてたこえも、七海のみぎうでからきこえるこえも、たぶんそういうことなんだろうって」
七海は、絶句する他なかった。
陽太郎は、確かに黒トリガーの────────姉の声を、聴いていた。
そして今の言葉からすれば、風刃の、即ち最上さんという人の声も聞こえていた。
「…………姉さんは、なんて……?」
気付けば、そんな事を尋ねてしまっていた。
可能ならば、姉の声を、意思を知りたい。
それは、あの時からの七海の切なる願いであったのだから。
目の前に答えがあると知り、どうしてもそれを問いたくなってしまっても無理はない。
「いや、なにをいっているかまではわからないんだ。けど、まえはひたすらなにかをつぶやいてたけど、いまはわらっているかんじがするぞ。きっと、いいゆめをみてるんだなっ!」
「ゆめ、か……」
期待していなかったと言えば嘘になるが、七海は落胆したりはしなかった。
いや、むしろこの右腕に確かに姉の意思が残っていると知り、元気づけられた。
これまで、幾度試しても起動しなかった黒トリガー。
それはきっと、姉に自分の力を認めて貰えていないからだと思っていた。
もしかすれば姉の期待していたくらいに強くなれたからこそ姉が微笑んでいたのかもしれないが、それは全てではない気がした。
夢を見ている、と陽太郎は言った。
それを真に受けるのであれば、姉は今眠っているような状態なのだろう。
黒トリガーが起動しなかったのは、とうの姉の意識が眠っていたからなのか。
それを聞こうとして、思い留まる。
今、言ったではないか。
何を言っているかまでは、分からないと。
ならば、これ以上問い詰めるのは酷だろう。
姉の意思を欠片でも知れたというだけでも、七海には充分過ぎる収穫だったのだから。
「お、わらったな。やっぱり七海はわらっていたほうがいいぞ」
「笑っている……? そうか、俺は今笑っているのか」
無痛症故に表情筋が滅多な事では動かない自分が、今は笑っているらしい。
手鏡なんかは手元にない為確かめる事は出来ないが、陽太郎が言うのだからきっと自分は笑っているのだろう。
事実、悪くない気持ちなのは確かなのだから。
「七海、おれはだいじょうぶだぞ。七海のうでをみても、ぜんぜんへいきだ。だから、おれをさけるのはやめてくれ。おれだって、七海といっぱいはなしたいぞ」
「…………ああ、そうだな。今まですまなかった」
「ああ、よきにはからえ。これからは、ちゃんとあそんでほしいぞ」
陽太郎の言葉に、ああ、と七海は頷いた。
すると、陽太郎の顔がぱあっと華やいだ。
きっと、これでも自分が避け続けた事で寂しい思いをさせてしまっていたのだろう。
それは、反省しなければならなかった。
自分は、勝手な思い込みで陽太郎の事を避けていた。
陽太郎は、自分なんかよりずっとものを分かっていたにも関わらず。
これからは、陽太郎にもきちんと向き合うようにしよう。
それが、ドアの隙間からこちらを伺っている宇佐美の思惑通りだったにせよ、それくらいはしてもいいだろう。
一先ず、勝手に覗き見した輩にはお灸を据えた方が良さそうだ。
具体的には彼女の、
案の定、見た目に反して茶目っ気に溢れた風間が菊地原共々宇佐美をからかうメッセージを送ったようで、それを見た宇佐美は慌てふためいていた。
それを見ながら、陽太郎と二人で笑った七海だった。
「も~、風間さんに散々からかわれたじゃないっ! きくっちーも嫌味言って来るしさあ、してやられたよもうっ!」
「うさみ、のぞきみはいけないことだぞ」
「うぅ、こっちは純粋な善意で見守ってただけなのにぃ~」
朝食の席で、顔を少々赤くさせた宇佐美がジト目で七海を睨んでいる。
それを陽太郎に窘められ、宇佐美はぶーたれる。
勿論、両者共にじゃれ合いの範疇だ。
七海も陽太郎も怒ってはいないし、宇佐美のそれはややオーバーリアクションなだけである。
「────ねぇ、今玲一の寝顔を勝手に見たと聞こえたのだけど、聞き間違い?」
「……あ……」
────────もっとも、
那須は絶対零度の視線で、宇佐美を睨みつけている。
返答次第では、ただじゃおかない。
言外に、そう語っているかのようだった。
「い、いやあ、寝顔は見てないって寝顔は。私は朝食が出来たから呼びに行っただけで……」
「本当? 玲一」
冷や汗を流しながら答える宇佐美を見た後、那須が視線を七海に向ける。
宇佐美は死刑執行を待つ囚人のような気分で、固唾を飲んで成り行きを見守った。
此処で余計な事を言えば、即座にぶっちKILL。
宇佐美の直感が、うるさいくらいそう訴えていた。
「ああ、寝顔は見られていない。大丈夫だ」
七海の弁護が、その場に響く。
那須はそんな七海の言葉を聞き、暫く七海の眼を覗き込む。
そうしているうちに段々那須の表情が柔らかくなり、一度瞬きをした後は普段の笑顔に戻った。
「そう。ならいいわ。ごめんなさいね、ついつい感情的になってしまって」
「い、いや、私も配慮が足りなかったかなー、なんて」
「ふふ、大丈夫よ。寝顔を見ていないのなら、私は気にしないわ」
逆に言えば、寝顔を見ていればアウト判定だったらしい。
那須の中で、それは譲れない一線であるようだ。
小南にも、迂闊に七海の寝ているトコには入らないように言っておかなきゃ、と硬く誓う宇佐美であった。
先程の那須は、ガチで殺る目をしていた。
あれは、マジだ。
那須という少女は手弱女に見えて、実は地雷原だらけの危険な少女でもある。
彼女が修羅と化す境界線は、七海のプライベートへの侵入の有無だと思われる。
自分だけが知っている七海、というものを那須はかなり大事にしている。
それを他人に侵される事は、相手が誰であろうと許さない。
特に、小夜子以外の女子にそれをやられた場合は開戦のゴングが鳴らされる。
女の嫉妬は、怖い。
それを実感した、今日の宇佐美であった。
「玲一、今生身でしょう? 私が食べさせてあげる」
「いや、俺は……」
「もう、遠慮しないの。はい、あーん」
そうこうしているうちに、有無を言わさず那須が七海に食事を食べさせ始めた。
七海とて無痛症の身体との付き合いは慣れたので介助がなくとも食べられるのだが、那須は隙あらば七海に食事を食べさせようと虎視眈々と機会を伺っているのだ。
彼女曰く、「雛に餌をあげる親鳥の気持ちってこんな感じかしら」とのこと。
普段頼りになる玲一が自分に頼り切っている感覚がたまらないらしく、那須は事あるごとにチャンスをもぎ取ろうとして来る。
七海としては人前で食べさせて貰うのは恥ずかしい為遠慮しているのだが、那須にとってこの場所はある程度素を晒しても問題ない場所として認識されたらしい。
蜂蜜をたっぷりかけたような甘いやり取りを見せつけられ、「この子、恐ろしい子……っ!」と宇佐美が戦慄したのは言うまでもない。
ありふれた、とは言えないかもしれないが、それは確かに日常の光景。
七海達が守りたいと願う、景色の一つ。
これはそんな、朝の一幕であった。
陽太郎のサイドエフェクトについては独自解釈です。
もしかすると、陽太郎が幻聴を聞いたという可能性もなきにしもあらず。
そこらへんの解釈は、ご想像にお任せします。