「構って、玲一。今度は私の番だから」
「別に構わないけど、いきなりどうしたんだ?」
那須邸、七海の部屋。
帰宅した七海を待っていたのは、自分の部屋で仁王立ちしていた那須の姿だった。
彼女は普段通りに見えて、いつもとは何処かが違っていた。
有り体に言えば、どうにも不安定に見えたのだ。
美しい
たとえるならそれは、あのROUND3の出来事以前の彼女によく似ていた。
理由は分からないが、今の彼女が何らかの
故に、七海は動けなかった。
彼女は有無を言わさずそんな七海をベッドに座らせると、当然の如くその隣に寄り添った。
「いいから、構って。理由は言えないけど、そういう気分なの」
「まあ、それは構わないけど」
「それでいいわ」
七海の返答に満足したのか、那須はそっとその頭をこつん、と七海の肩に乗せた。
華奢な少女の身体が七海に寄り添い、柔らかな肢体が密着する。
那須はそのまま七海の感触を堪能するように目を閉じ、猫のようにその身体を擦り付けた。
ふわりと、感覚の鈍った七海の嗅覚に甘い少女の体臭が香る。
無痛症の影響で性欲が減衰している七海はそれに興奮こそしないが、愛しい少女の匂いはハーブのように彼の心を安らげる。
自分の場所は此処にある、大切なものは傍にいるのだと、安心出来る。
彼女は、那須玲は。
七海玲一にとって。
なくてはならない、比翼連理の片割れなのだと。
そう、心が。
魂が、感じている。
突然の行動に面食らいはしたが、彼女が寄り添いたいと願うのであれば元より七海に否は無い。
今の七海は、以前のような盲目的なイエスマンではないけれど。
それでも、愛しい少女の
「ん…………ありがと。何も言わずに、思う通りにしてくれて」
暫く七海と密着していた那須は、そう言って漸く顔を上げた。
その表情に先程のような憂いはなく、普段の彼女そのものに見える。
七海と触れ合い、その存在を確かめた事で、精神が安定したのだろう。
その顔は、何処か晴れやかだった。
「構わない。何が原因かは分からないが、この程度で玲が元気になるなら願ってもない」
「…………聞かないの?」
なんでこんな事をしたかを、と続けようとする那須を制し、七海は口を開いた。
「聞かない。玲が言わないって事は、その方が良いって判断してるって事だろう? なら、俺から根掘り葉掘り聞く必要は感じられないな」
「そう……」
那須は七海の返答に嘆息し、苦笑した。
本当ならば、七海は聞く権利がある筈だ。
何故、急にこんな行動をしたのか。
そして、その理由を話さないのかを。
幾ら女心が繊細で複雑怪奇なものとはいえ、那須が先程明確に不安を抱いていたのは確か。
ならば、その切っ掛けとなった出来事があって然るべき。
少なくとも、ROUND3以前はともかく、今の彼女は理由もなしに情緒不安定になるほど脆くはないのだから。
それを分かっていながら、七海はその理由を問い質そうとはしない。
以前のような、盲目的な従属ではない。
ただ、那須を、彼女を信じているから。
信頼しているからこそ、無理に聞き出そうとはしない。
それだけの事なのだ。
(…………これまで、そんな玲一に甘えて来たけれど────────本当に、このままでいいの? 玲一に
七海に存分に甘え、心が満たされた。
有り体に言えば、冷静になった。
だからこそ、自分の置かれた状況を、
これまで無意識に目を背けていた問題に、意識を向けてしまった。
果たして、
小夜子は、七海を異性として好いている。
ROUND3の後、塞ぎ込んでいた那須の下へ殴り込んで来た時に告げられた想いは、彼女の本心そのものだ。
七海を愛している。
女性として、身を捧げても良いと本気で思っている。
しかし、小夜子はそれを七海に告げる気は無いのだという。
────────私、七海先輩に恋してますけど、那須先輩の事も大好きなんです。私が諦めるだけで、二人が幸せになれるなら────ホラ、迷う必要なんてないじゃないですか────────
小夜子はあの時、こう言っていた。
七海が好きなのは、本当だ。
けれど、七海と那須の幸せの為に、自分は身を引くのだと。
そう、告げていた。
(小夜ちゃん……)
那須は、想起する。
自分が、部屋から立ち去った直後。
室内に残った小夜子が、一人呟いた言葉を。
────────勝てないなあ、ホント────────
恐らくそれは、彼女の本心の吐露。
小夜子自身、誰に聞かせるつもりもなかったであろう呟き。
しかし、那須はその
いや、脳裏に刻まれた、と言っても良いだろう。
小夜子は七海と那須の幸せの為に諦める、と言っていたが、それだけが全てではない。
────────あのですね。私も同じ人を好きになった女ですから、分かるんですよ。自分の好きな人の想いが、
小夜子はあの時、そう言っていた。
七海が誰を好いているか。
その想いが、何処に向いているか。
理解している、と。
那須は、知っている。
七海が、自分を女性として見てくれている事を。
己惚れでもなんでもなく。
ただの事実として、それを知っている。
負い目で雁字搦めになっていたあの時とは、違う。
今の那須は、正しく自分と七海の関係性を理解出来ている。
そして、小夜子が諦めた最大の原因は、それだろう。
たとえ告白したところで、七海が彼女を受け入れる事は無い。
それが分かっているからこそ、小夜子は身を引く決意をした。
そうに違いないと、那須は思った。
だって、自分なら耐えられない。
振られる事が分かっているのに、想いを告げる事なんて。
自分の想いを砕く為だけに、告白する事なんて。
そんな事をするくらいなら、居心地の良い関係に甘んじる。
その方が、ずっとマシだ。
だって、そうすれば少なくとも想い人の傍にいる事くらいは許される。
恋に恋して。
恋に焦がれて。
幸せな夢想に、現実逃避でしかないと知っていても────────浸っている事が、出来るのだから。
────────その夢を砕けば、玲一は私一人のものよね────────
「……っ!!??」
瞬間、那須は脳裏に過った自らの思考に戦慄した。
それは、悪魔の囁き。
七海に小夜子の想いを伝えて、ハッキリと断るよう誘導すれば。
真実、七海は那須だけのモノになる。
そんな想いを、魔が差したとはいえ────────ほんのひと欠片でも、抱いてしまったのだから。
(何を、私は今、何を考えたの……っ!? そんな、そんな小夜ちゃんを裏切るような真似を、私は……っ!!)
那須は、自らが抱いてしまった想いを自覚し、嫌悪した。
自分の、浅ましさを。
自分の、醜さを。
自分の、女としての性を。
何故、そんな考えを抱いてしまったかは分かっている。
もしも、七海に何のしがらみもなしに自分と小夜子のどちらを選ぶか問うた時。
ほんの少しでも。
万に一つの可能性でも。
小夜子が、選ばれる事があるかもしれない。
そんな考えが、心の何処かにあったのだ。
那須は七海と同じく、自己評価がとても低い。
自分の容姿が優れている事はある程度自覚はしているが、自分が立派な人間だとは欠片も考えていない。
小夜子が尽力したあの一件のお陰で大分マシになったとはいえ、彼女の思考は基本的に
自分自身の価値を、信じる事が出来ない。
あの一件以来少しでも自立しようと努力はしているが、性根の卑屈さというものは中々変えられるものではない。
幼少期に七海と言う依存対象に出会っていなければまた違った精神性を獲得していたのだろうが、少なくとも今の那須の心の支柱は七海を芯に据えている。
だから、七海が前に立つ分には幾らでも強気になれるが────────逆に、自分自身
七海が自分を好いてくれているのも、ただ自分の方が出会うのが早かったから、という思い込みを未だに抱いている。
(こんな私なんかより、小夜ちゃんの方が玲一には相応しいのかな。こんなんじゃ、玲一と一緒にいる資格なんて────────)
ネガティブな思考を錯綜させ、悪循環に陥っていく。
那須は自分自身への評価が低い反面、身内への評価は相当に高い。
特に、公私共に自分達を支えてくれた小夜子に関しては、絶大な信頼を寄せている。
だから、女性としても、人間としても、小夜子の方が自分より
無論、それは彼女の思い込みだ。
二人の間に優劣はなく、どちらが上という事も無い。
しかし、那須はその自罰的な思考傾向からどんどん悪い方へ考えを巡らせてしまっている。
自己嫌悪の、
今那須は、それに陥っていた。
(…………やっぱり、言おう。そして、小夜ちゃんを────────)
選んで貰おう、そんな最悪の思考を口にする。
その覚悟を決めて、那須は────────。
「────────い、玲……っ!」
「え……?」
────────七海の声で、顔を上げた。
見ると、七海が何処か心配そうな表情で那須の顔を覗き込んでいた。
どうやら、思考の迷路に嵌まってしまい彼の言葉が何も聞こえていなかったようだ。
「大丈夫か? 電話、鳴ってるけど」
「え……? あ、ホントだ」
聞こえていなかったのは、どうやら七海の声だけではないらしい。
気付けば、那須の携帯がバイブレーションと共に着信音を鳴らしていた。
慌てて部屋から出て携帯を取ると、そこに表示されていた名前を見て那須は目を見開いた。
志岐小夜子。
携帯の着信画面には、たった今考えを巡らせていた友人の名が映っていたのだから。
「もしもし」
『あ、やっと出ましたね。血迷う前に間に合いましたか?』
開口一番、あっけらかんとそう告げる小夜子の声に、那須は困惑する。
その声は、言葉は、まるで彼女の思考を読んでいたかのような鋭さがあったからだ。
「え、なんで……」
『なんでも何も、那須先輩は相当分かり易い性格してますからね。今頃、血迷って馬鹿な事をしでかそうとしてるんじゃないかなー、って予想しただけですよ』
その様子ですと、図星みたいですね、と小夜子は電話の向こうで苦笑した。
思いも依らぬ言葉に、那須は絶句するしかない。
まさか、自分の行動をこうまで予測して動いて来るとは、流石に予想外だったからだ。
『ちょっとは学習しましょうよ、那須先輩。先輩の行動を言い当てたのは、これが初めてじゃないでしょうに』
「そういえば……」
確かに、以前にも似たような事はあった。
あれは、七海が小夜子の匂いを付けて来た日。
那須がそれに気付いて問い詰めた際、狙っていたとしか思えないタイミングで小夜子がこうして電話をかけて来て状況説明を行ったのだ。
言われてみれば、その時と今の状況はそっくりだった。
『今回は、七海先輩には随分お世話になりましたからね。甘えちゃったのは事実ですし、そこは釈明しません。まあ、七海先輩が帰るなり那須先輩も埋め合わせとして甘えてたんでしょうしね』
「そこまで、分かるんだ……」
『分かりますよ。大好きな先輩達の事ですからね』
伊達に恋する乙女してません、と小夜子は苦笑する。
那須はなんと言って良いか分からず困惑するが、小夜子は構わず話を続けた。
『それで、一通り甘えた後で冷静になって、馬鹿な事考えたんじゃないですか? 私に報いる為に身を引こうとか、そんな感じで』
「だって、私は────────」
『────────怒りますよ? その先を言ったら。私の言った事、もう忘れちゃったんですか?』
「……っ!」
本気のトーンで告げられた小夜子の声に、那須は押し黙った。
迫力に押されたのもある。
しかし何より、その声には本気の怒りが感じられたからだ。
『言った筈ですよ。私は、七海先輩と那須先輩、お二方の幸せこそが第一だって。お二人が相思相愛なのは、今更確認するまでもないでしょう?
だったら、私は単なるお邪魔虫です。本当なら、金輪際近付くな、くらいの事は言っても良い筈なんです』
でも、と小夜子は続ける。
『だから、私は七海先輩の傍にいる代わりに、自分の想いを押し込める事にしたんです。そうでなきゃ、先輩達と共にいる事なんて出来ない。これは、私なりの妥協案なんですよ』
「でも、小夜ちゃんはこんなに頑張ってくれているのに、私は────────」
『黙って下さい。今は、私の
尚も言い募ろうとする那須に対し、小夜子はぴしゃりとそう告げた。
割と引っ込み思案な那須としては、こうなると押し黙る他ない。
那須が無言になった事を確認し、小夜子は続けた。
『折角、長年のしがらみがどうにかなったんです。先輩達にはこのまま、
ですから、と小夜子は告げた。
『私の事は気にせず、幸せになる事だけ考えて下さい。それが、私の一番の望みなんですから』
────────その言葉は、確かな重みを感じられた。
強がりは、あるだろう。
虚勢も、あるかもしれない。
けれど。
けれど。
那須や七海の幸せを願うその想いは、紛れもなく本物だった。
その想いを、覚悟を。
こうまで示されては、那須は受け入れるしかない。
それが、この後輩への。
大切な友人への、一番の報い方だと、理解してしまったのだから。
「ごめんね、小夜ちゃん。私、幸せになる。小夜ちゃんの想いは、このまま墓まで持っていく」
『それでいいんですよ。悪いと思うなら、これまで通り少しのおいたは目溢しして下さい。私は、それだけで良いですから』
あ、ちなみに、と小夜子は続けた。
『────────もしも変な気を起こして七海先輩に私の気持ちを告げた場合、速攻で寝取りに行きますから。くれぐれも馬鹿な真似はしないで下さいね』
「う、うん。分かった。しない」
『よろしい』
これで安心ですね、と小夜子は笑ったが、那須としては全く笑えなかった。
何故なら。
今の言葉は、一字一句。
何の誇張もない、本気のトーンで告げられていたのだから。
女は怖い。
那須は改めて、女の情念の底知れなさというものを、思い知ったのであった。