七海玲奈①
彼女、七海玲奈と最初に出会ったのは今から6年前、迅が13歳の頃だった。
当時、彼女は1つ上の14歳。
少数精鋭だった旧ボーダーの中でも年若いメンバーだった二人は、何かと絡む機会が多かった。
とは言っても、厭世的で人嫌いな迅を、世話焼きな玲奈が一方的に構い倒す、というのが主であったが。
「あ、また此処にいたんだ。好きだね、屋上」
黒髪をセミロングにした利発そうな少女、七海玲奈は屋上に座り込む俯き気味の細見の少年────────迅を見て、朗らかにそう告げた。
迅は如何にも面倒臭そうに、けれど何処か諦観の籠った眼でそんな玲奈を見返した。
「…………別に。ただ、ここなら一人になれるし」
「まあ、それはいいけどね。迅くんがそうしたいなら、そうすればいいし」
玲奈の言葉に迅はふぅんと視線の温度を変え、思わず口を開いた。
「他の人と交流しろ、とか言わないんだ」
「迅くんの事情は、私も知ってるからね。無理をしてまで人付き合いをしろ、とはちょっと言えないかな」
それが、少年にかかった
直接見た人間の、少し先の未来が視える。
これだけ聞けば、便利な能力とも思うだろう。
実際、使い道は多い。
この力を使えば、普通は助けられない相手であっても、助ける事が可能になる。
そして当然、人間である以上限界はある。
救う人間の、取捨選択。
それを当たり前のように出来るほど、迅はまだ達観していない。
むしろ、それが嫌で人付き合いを嫌っているのだ。
人と付き合えば、否応なく相手の未来が視えてしまう。
故に、迅は人を遠ざける。
彼の見る未来は、良くないものの方が多い。
無論迅自身の体感的な感覚だが、悲惨な光景は、より強く記憶に残ってしまうのだ。
迅の未来視は、相手の未来を
つまり、最悪の場合は相手の末路を、死に様を、直視してしまうのだ。
そして、人の死など、いつ何処で転がっているか分からない。
極論、交通事故に遭えば健康な人間でも死ぬ時は死ぬのだ。
迅は、ただ街を歩くだけでそういった
彼が望む、望まざるに関わらず。
だから迅は、人を厭う。
人が、簡単に死んでしまう事を識っているから。
彼が人を遠ざける事も致し方ないのだと、玲奈は理解している。
故にこそ、無理強いはしない。
迅の見ている
「なら、放っておいてよ。人と会う事自体、嫌なんだし」
「大丈夫。私、死なないから」
「知ってる? 死なないって思ってる人ほど、あっけなく死んじゃうんだよ」
意地悪だなあ、と玲奈は嘯くが、今のところ彼女の未来に死の影は無い。
確定した未来であれば数年先まで見通せる迅の未来視ではあるが、そうでなければそこまで先の未来は視えない。
少なくとも、この時点では。
玲奈が死ぬという未来は、無かったのだ。
「とにかく、同じボーダーの仲間なんだし、色々と交流深めておいて損はないんじゃない? あまり多くの人と関わりたくないなら、私に絞るのも手だよ?」
「それでも、玲奈に交流先を絞る理由がないよ」
「そんな事ないって。まずはお試しでさ、やってみない?」
損はさせないよ~、と玲奈は朗らかに笑う。
勝手にしてよ、と迅は吐き捨てるが、それ以上の拒絶はしない。
なんだかんだ、このしつこく絡んでくる少女の事が、嫌いではなかったからだ。
玲奈は確かに押しが強いし、世話焼きな面が前面に出ている。
けれど、踏み込むべきではない一線はしっかりと守っているし、相手への気遣いは忘れない。
その適度な距離感が、迅には心地良かった。
迅とて、好きで独りになりたいワケではない。
人の温もりは知っているし、それが尊いものである事も理解している。
けれど、迅はかつて母親を近界民絡みの事情で亡くしている。
彼は、その未来を識っていて────────だけど、何も出来なかった。
当時の迅は無力な子供に過ぎず。
肉親の死を覆せるだけの力は、なかったのだ。
それ以来、迅はあからさまに人付き合いを避けるようになった。
もう、人の死など視たくはないから。
もう、識っていたのに失う命を見たくはないから。
当時の迅は、絶望の只中にいた。
希望が視えず、視えてしまうのは暗い未来だけ。
そんな迅が未だ自らの命を手放していないのは、ボーダーへの誘いがあったからだ。
独りでは出来なかった事でも、組織の力があれば違う。
今度は、救える。
今度は、見殺しにしなくても済む。
そう思ったからこそ、迅はボーダーへの誘いに乗った。
自分の
ただ、そう決意はしていても、矢張り人の死を視るのは怖い。
未来を視る事が、怖い。
けれど、この力を活かすのであれば、そんな事は言っていられない。
未来を視なければ、救えるものも救えないのだから。
そういう意味で、玲奈の存在は有難かった。
玲奈は自分と同じく、戦う力を持つ者である。
戦場に出るという事は死に近しくなるという事でもあるが、それでも無力なまま死を受け入れるだけの弱者ではない。
今のところ彼女に死の未来は視えていないし、その人間性も好ましいものである。
何より、玲奈と話していると何処か心が温かい。
その感情の名をまだ知らなかった迅は、言葉には出さずとも玲奈の存在を受け入れていた。
「あ、玲奈おねえちゃん。こんなところにいたのね……っ!」
「あら、小南ちゃん」
そんな二人の時間に割って入って来るのは、いつも彼女────────小南だったが。
ショートカットの栗色の髪を揺らした幼い小南は玲奈の姿を見て駆け寄り、迅の存在を認識するとあからさまに顔を顰めた。
「もう、迅はまたこんなところにいたのねっ! なんでいつもふらっといなくなるのよっ!」
「いいだろ別に。俺がどこにいてもさ」
「よくないっ! 迅みたいなのでもボーダーの仲間なんだし、勝手にいなくなったらダメなんだから……っ!」
ぷんすか、と怒りを全身で表す小南。
迅はそんな小南に面倒臭そうに応対し、ふと玲奈を見上げた。
玲奈は女子にしては身長が高い方であり、迅が猫背な事を考慮しても顔の位置は彼女の方が上になる。
盗み見たその横顔はとても綺麗で、同年代の少女を見渡しても彼女ほど顔立ちが整った人間はいない。
小南は美少女の片鱗が見え隠れしているが、流石にまだ幼過ぎる。
これまで会った中で誰が一番綺麗か、と聞かれれば玲奈の名を挙げるほどには、迅は彼女に気を向けていた。
自覚はしていなかったものの、その感情の名は知識としては知っていた。
ついぞ、その想いを口にする事はなかったけれど。
「ほら、そろそろ昼ご飯なんだから、行くわよっ!」
「分かったよ。だから引っ張るな」
「こうしないと、またどっか行っちゃうでしょっ! お姉ちゃんも、行こっ!」
「うん、今行くね」
迅は小南に引っ張られながら屋上を後にし、玲奈もそれに続く。
それは、掛け替えのない迅の幸せな記憶。
まだ、幸せだった頃の────────本当の悲劇を経験する前の、出来事だった。
「最上さん、なんで……」
迅は一人、屋上で空を見上げていた。
その手には、黒い筒のようなものが────────黒トリガーが、握られていた。
彼が命を替えて作り出した、一つの武器だった。
今迅がそれを持っているのは、悼む時間が必要だろうという、ボーダーの面々の配慮である。
最上が死んでしまう未来は、既に視ていた。
だから、迅は言った。
戦いに、行かないでくれと。
けれど。
最上は、行ってしまった。
必要だからと。
それが、自分の役目だからと。
ならばせめてと、迅は最上に同行した。
自分の力で、未来を変える為に。
だけど。
結局は、最上の
胸を貫かれて死ぬ筈だった最上は、迅を敵の手から助ける為に己が命を
最後は砂になって崩れ落ちる最上の姿は、今も尚迅の網膜に焼き付いて離れてくれない。
自分の為に。
自分の所為で。
自分がいたから。
その自責が。
その自罰が。
迅を、彼の心を、苛んでいた。
「迅くん……」
屋上に、玲奈が姿を見せた。
玲奈の顔には、涙の痕があった。
無理もない。
彼女もまた、最上を慕っていた一人だったのだから。
泣いたのだろう。
悼んだのだろう。
それでも、彼女は此処に来た。
迅を。
最上の死を一番悲しんでいる者の傍に、寄り添う為に。
「玲奈……」
「いいよ、何も言わなくて。放っておいて欲しいのも、分かってるつもり」
けどね、と玲奈は続ける。
「一人でいたら、辛いでしょ? だから、一緒にいよう? 今くらい、誰も文句なんて言わないからさ」
「……っ!!」
もう、それ以上言葉は紡げなかった。
迅は腕を広げて彼を招き寄せた玲奈の腕の中で、ただ、泣いた。
それが。
記憶にある限り、迅が流した最後の涙だった。
「迅くんはさ、もう辞めちゃいたいとか思わないの?」
最上の死から一年後。
迅が予知した、
玲奈は、屋上で迅に向かってそんな事を口にした。
本人にとっては、たわいのない雑談だったのかもしれない。
けれど。
その会話は迅にとって、生涯忘れ得ないものとなったのだ。
「俺が辞めたら、皆が困るでしょ? そんな事は、出来ないさ」
迅は首に最上が遺したサングラスを揺らしながら、そう答える。
仕方のない事だ。
彼の未来視がなければ、被害の規模はきっと桁が一つ違うだけでは済まなくなる。
過日の近界での戦争で、ボーダーの戦力は激減した。
同盟国であるアリステラを救う為に出兵した結果、多くの者が犠牲になった。
無論、それが意味の無いものであったとは思わない。
アリステラの王女と王子を無事保護する事に成功したし、そのお陰で
戦力の過半数を失ったに等しい被害を受けたボーダーにとって、母トリガーの存在は決して無視出来ない。
だから、彼らの、最上達の死が無意味なものであったなど、断じて認めない。
そして、その犠牲を無意味なものにしない為にも、近々起こる大規模侵攻での立ち回りが重要になる。
戦力が激減した今のボーダーでは、想定される規模の侵攻の被害を全て抑える事は不可能だ。
ある程度────────いや、かなりの規模の被害を、許容しなければならないだろう。
近界の存在を公的に証明する手段が確立出来ていない以上、事前の警告も行えない。
今の日本で、未来視で視たから、という理屈は通用しないのだ。
トリオン能力に関しても、知っているのはボーダーの面々のみ。
そして、近界の存在がトリオンを用いた攻撃でなければ倒せないという性質を持つ以上、近代兵器は何の役にも立ちはしない。
故に。
この三門市に、近く地獄が顕現する。
建物は、壊されるだろう。
人も、大勢死ぬだろう。
一体何人、連れ攫われるかも分からない。
それを、見過ごす。
来る事が、分かっていながら。
今後を見据えて。
敢えて、犠牲を受け入れる。
それがどれ程の咎であるか、迅は理解している。
否。
迅は、それが自分の罪であると考えている。
力不足も。
仲間の死も。
自分の無力が招いた結果だと、自分を責め続けている。
以前と違うのは。
それを取り繕う事を、覚えた事だ。
迅は、良く笑うようになった。
迅は、泣かなくなった。
迅は、感情を表に出さなくなった。
最上の一件で、彼は理解してしまった。
力があっても。
組織に属しても。
救えない相手は、いるのだと。
その現実を。
その真実を理解した時、迅は観念した。
自分は、もう
だから迅は、笑うようになった。
仲間を、安心させる為に。
自分を、ただの駒として扱う為に。
張りぼての笑顔で、仮面を被るようになった。
勿論、周囲はそれを察していた。
小南は、そんな気持ち悪い笑いは止めろと言った。
林道は、何かあったら頼れ、と言った。
城戸は、何も言わなかった。
そして、玲奈は。
「────────辛いなら、辞めてもいいと思うよ。だって、迅くんの人生を好きにする権利は、君自身にしかないんだからさ」
「え……?」
何を、と思った。
迅が未来視を使わなければ。
ボーダーへの助力を辞めれば、甚大な被害が出る。
その程度、分からない筈がないのに。
玲奈は、辞めても良いと言った。
何故。
疑問が、迅の脳裏を埋め尽くす。
そんな。
心底ワケが分からない、といった風情の迅に、玲奈は優しく微笑みかけた。
「だってそうでしょう? 迅くんはただ、厄介な力を持って生まれてしまっただけ。力には義務が伴うとか言うけどさ。それを悪用するならともかく、力を
「けど、俺が辞めたら、皆が────」
「その皆って、誰の事? 正直さ、誰も彼も救おうと思っても無理なのは、分かってるでしょう?」
「────っ!」
迅は、絶句する他なかった。
その諦観は。
その
迅の内心の吐露、そのものだったのだから。
「幾ら迅くんが頑張ったって、どうしても取り溢しは出ちゃうんだよ。そしてそれは、絶対に迅くんの所為なんかじゃない。ただ、そういうものだから。仕方ないんだよ」
「でも、それでも俺が頑張ればその分だけ助けられるんだ。なら────」
「それでもも何も無いよ。キリがないじゃない、それじゃあ。そんな事してたら、迅くんが何人いても足りないよ」
だからさ、と玲奈は迅に微笑みかけた。
「嫌なら、逃げちゃおう? 何もかも放ってさ、二人で何処か行っちゃおうよ。誰にも文句は言わせないし、きっと誰も文句なんて言わないよ。迅くんには、そうする権利があるんだからさ」
「────」
玲奈は、本気だ。
本気で、迅が頷けば、その考えを実行する気でいる。
これが、最後の分水嶺。
迅が自分の力と訣別出来る、最後の機会。
彼女の誘いに乗れば、きっと楽だろう。
三門市の被害は増えるだろうが、ボーダーはやっていけるだろう。
そうなるように、今まで散々準備して来たのだから。
だから、もういいじゃないか。
そんな誘惑が、迅の中にもたげたのは確かだ。
逃げたい、と思った事が無いなんて言えば嘘になる。
もう嫌だ。
もう何も、視たくはない。
それは、生まれてから何千回も、迅が抱いてきた切なる想い。
玲奈の誘いは、まさにそんな
だけど。
「それは、出来ないよ。俺は、決めたんだ。最上さんの遺志を、必ず継ぐって。だから、もう立ち止まれない。此処で逃げたら、俺は自分を許せないから」
けど、と迅は玲奈を見据え、告げる。
「────────ありがとう。こんな俺に、逃げる機会を与えてくれて。本当に、嬉しかった」
「……ううん、こっちこそごめんね。急に、こんな話をしちゃってさ」
あはは、と敢えて軽く笑う玲奈。
けれど、それも数瞬。
玲奈は真剣な表情で、迅の瞳を見据えた。
何かを、伝える為に。
「ならさ、一つ頼んでもいいかな」
「ああ、なんだい?」
えっとね、と玲奈は言葉を選ぶように逡巡し、口を開いた。
「迅くんは、言っても止まらないみたいだしさ。どうせなら、一番皆が幸せになれる未来に行こうよ。誰も彼もが笑って終わる、ハッピーエンド。きっと、迅くん達ならやれると思うんだ。私」
「玲奈……」
「皆もきっと、協力してくれるよ。小南ちゃんも、林道さんも、忍田さんも、城戸さんだって。皆、幸せな未来の為に戦ってるんだからさ」
だからね、と玲奈は続ける。
「立ち止まってもいいし、後ろを振り返ってもいい────────でも、
「────────分かった。誓うよ。俺は決して、
それは、誓い。
玲奈の願いを形にした、迅の
彼の心に刻み込まれた、ただ一つの夢。
そして。
その翌日。