「……ふぅ……」
照明の落ちた、那須邸の一室。
彼の自室であるその部屋で、七海はベッドに座りながら溜め息を吐いていた。
防衛任務の後、熊谷と茜が那須の家にお泊り会をしに来る事が決まり、賑やかな夕食会が催される事になった。
生憎那須の両親は仕事の関係で不在だったが、彼女達が泊まりに来るのは何もこれが初めてではない。
所謂フリーパス状態であり、那須の両親からはいつでも招いていいと許可を貰っている。
那須もその辺りは分かっているので、遠慮なく彼女達を呼んだワケだ。
夕食会では主に熊谷が料理を作り、肉うどんを中心に各々の好みの品が並んだ食卓となった。
流石に茜の好物のソフトクリームまでは用意出来なかったが、那須の好物である桃缶は元々家に相当数ストックしてある。
その為デザートとして出したのだが、放って置くと延々と桃缶だけを食べている為、他にもガレットやバームクーヘン等、上品なお菓子を並べて皿に取り分けていた。
最初の頃は女子会の空気に混ざるのはどうかと思って遠慮していた七海も、那須達の根気強い要請に負け、今では共に食卓に付き、団欒の一時を過ごしていた。
…………七海は無痛症の治療の為に『ボーダー』に入隊し、専用の
完成したトリオン体は触覚はある程度回復したのだが、感じ取れる
相当濃い味付けをすればそれなりに味も分かって来るが、そんな料理を毎日食べていては当然身体に悪い為、今の七海にとって食事とは極論栄養補給の為のものだった。
それでも他の者達と同じように料理を食べているのは、人間らしい生活を忘れない為である。
栄養摂取さえ出来ればいいとなれば、極論栄養食品だけで生きていく事も可能と言えば可能だ。
だが、それではあまりに日常に彩りというものが欠けている。
人間にとって食事は単なる栄養補給の手段ではなく、眼で楽しみ、雰囲気を味わい、団欒の時を過ごす為のものでもある。
味が殆ど分からないからと言って食事を簡素なものだけで済ませようとしていた過去の七海にそう言って心変わりさせたのは、他ならぬ那須である。
流石の七海も那須に「私も玲一と同じ食事しか食べない」とまで言われれば、折れるしかない。
七海にとって、那須は何に置いても優先すべき大切な存在だ。
そんな彼女に無味乾燥な食事を強いるなど、七海に出来る筈がなかったのである。
…………まあ、そんな経緯があったので、塩昆布と水だけで日々を生きている
有り体に言えば、キレた。
七海と違って普通の食事を楽しめるのに、面倒臭がって最低限の栄養補給で済ませようとする小夜子の所業は、那須にとって相当に度し難いものに映ったのである。
勿論、大声で当たり散らしたワケではない。
ただ、部屋の床に正座させた小夜子を前にハイライトを消した眼で延々と食事の大切さを説いただけである。
その時の経験を、後に語った小夜子曰く────。
『…………あの時は、殺されるかと思いました。美人の女の人が笑顔で説教して来るのって、あんなに恐ろしいんですね』
と、ガタガタ震えながら、そう語っていた。
美少女と言って差し支えない容姿の那須が眼だけが笑っていない笑顔で淡々と語り続ける有り様は、相当に怖かったらしい。
美人を怒らせると怖い、とはまさにこの事だろう。
その日、小夜子は那須を決して怒らせてはいけないと、心に刻んだのであった。
ちなみに一通り説教を終えた那須は、小夜子の生活改善に取り掛かった。
兎にも角にも、小夜子は
小夜子はゲームやアニメ、読書に熱中し、『ボーダー』の職務がない時間帯は趣味に全てを費やしている。
つまり、小夜子にとって食事とは、
好きだから食べていた、というよりも、
極論、片手ですぐ食べられるものならサンドイッチでもお菓子でも何でも構わないのが小夜子である。
料理の手間を徹底的に排し、その分の時間を趣味に注ぎ込む。
それが、小夜子の基本的な思考傾向であった。
その為、下手に複雑な料理を教えてもすぐに面倒臭がってやらなくなるのは目に見えている。
そこで那須は、同じお嬢様学校に通う『ボーダー』の友人、
小南は作れる料理のレパートリーは少ないが、彼女の作るカレーは絶品だ。
カレーは左程手間をかけずに作れる上、量を調整すれば作り置きも出来る。
その為、一度作ってしまえば後は温めて御飯にかけるだけなので、それまで料理の手間を厭うていた小夜子が始める料理としてはこの上なく適していた。
人が良く善人を形にしたような小南は滅多に頼って来ない那須の頼みに快く応じ、二人がかりで小夜子にカレーの作り方を叩き込んだのである。
最初は乗り気でなかった小夜子も小南が作ったカレーを食べると眼の色を変え、「こんな美味しくて手軽なものが世の中にあったのですね……っ!」と感動していた。
正直、見ていて引くくらいには。
その時点で「貴方、今までどういう生活をして来たの?」と小一時間問い詰めたくなったが、同じ話を蒸し返すのはどうかと思った為那須はぐっと堪えた。
確かに小南のカレーは絶品であるが、小夜子の瞠目具合はそれを加味しても異常だった。
それはまるで、飢えた子供がようやく食事にありつけた時の反応のように思えたのである。
余程、効率重視で料理の
それまでどういった生活をして来たか、伺い知れるものである。
ちなみに那須はいつか七海の味覚が元に戻った時の為にと様々な料理を学んでおり、当然小南からカレーの作り方を習っていた。
その為料理教室の際は那須も同席し、共にカレーの作り方を教えていた。
…………まあ、小夜子がサボらないようにという、監視の意味合いもあった事は否定しないが。
ともあれ、こうして小夜子は水と塩昆布だけという不健全な食生活からは脱却を果たした。
ただし、カレーの手軽さと上手さに味を占めた彼女は他の料理を一切作らず、カレーばかりを作り置きして食べるようになってしまった。
その為、時々熊谷や茜、稀に小南を引き連れて小夜子の部屋に突貫し、突発的な料理教室という名のお食事会を開催している。
本当なら七海も連れて行きたかったが、小夜子はとある過去の経験から
そこに男性である七海を連れて行く事は出来なかった為、その時は渋々ながら七海に留守番を頼む事になったのだ。
…………ちなみに、七海が那須隊への加入が遅れていたのはこの小夜子の男性恐怖症が原因である。
小夜子は年上の男性を前にすると、社会生活に支障を来すレベルで取り乱す。
当然、まともな会話も不可能。
つまり、七海がそのまま那須隊に参加した場合、指示も貰えずオペレーターに協力を仰ぐ事も出来なくなる。
オペレーターから指示を貰えないというのは、戦場に置いて致命的だ。
故に、長い時間をかけて小夜子に七海を
今日の防衛任務は、本当に小夜子が七海をオペレート出来るかを見る、という目的もあった。
結果としては問題なくオペレートが出来ていた為、一安心である。
七海はその経緯を思い出し、くすり、と笑みを漏らした。
「…………ようやく、此処まで来たか。俺はちゃんと、約束を果たせているかな────姉さん」
そう呟き、七海は自分の右腕を────姉が残した、『
「…………トリガー
そして、トリガー起動の言葉を、告げる。
しかし、何も起こらない。
右腕は、『黒トリガー』は、完全に沈黙していた。
────この
七海に適合はしているらしいが、この右腕をトリガーとして起動しようとしても、うんともすんとも言わないのだ。
その為、七海は『黒トリガー』を扱う特別な隊員────『S級隊員』としては扱われていない。
『黒トリガー』は、それ一つだけで戦局を変えかねない凄まじい力を持つ大戦力である。
しかし、その特殊な
誰が『適合者』になるかはその『黒トリガー』によって違い、その『黒トリガー』の『作成者』の好みが反映されているというのが通説である。
その為、起動出来ない人間の所にあっても宝の持ち腐れなのである。
通常、『黒トリガー』は適合した人物の中でも組織によって選抜された者が所持し、有事の際はその力で『ボーダー』に貢献する。
故に、起動出来ないこの『黒トリガー』が七海の元にあるのは本来であればおかしい。
着脱が出来ないという事情を加味しても、普通であればそんな事は罷り通らない。
…………意外にも、と言えば失礼に当たるが、この『黒トリガー』と自分の現在の処遇を認可したのは『ボーダー』のトップである
城戸司令は旧ボーダーに属していた人間で、今では『近界民』排斥を掲げて冷徹に指揮を執る自他共に厳しい人物だ。
しかし、どうやら城戸司令と七海の姉である玲奈は旧ボーダー時代に親交があったらしく、その弟である七海に目をかけている節があった。
城戸司令は俺の右腕の『黒トリガー』が着脱不能である事、そもそもこの右腕がなければ七海が生活に支障を来す事などを軸に説明し、有無を言わさぬ調子で七海がこの『黒トリガー』を所持する事を認める決定を下した。
どうやらこの決定には迅も関わっているらしく、あれこれ根回しをしてくれていたらしい。
本当に、迅を初めとした旧『ボーダー』の面々の心遣いには七海は頭が下がる想いであった。
旧ボーダーの面々が中核となっている『玉狛支部』にも度々お世話になっており、那須が支部所属の小南と友人関係になったのもその縁が関係している。
クラスメイトであったというのも理由ではあるが、七海を通じた縁であるというのも大きい。
那須が七海と一緒にいても目くじらを立てない女子は那須隊のメンバーを除けば、小南くらいである。
それ以外の女子と二人きりで話していたりすると、目に見えて那須の機嫌が悪くなるのはご愛敬だが。
「…………玲一、起きてる?」
「あ、ああ、起きてるよ」
そこで部屋の扉の向こうから那須の声がして、七海が返答すると那須が寝間着のまま部屋の中に入って来た。
身体の線が浮き出るような寝間着を着た那須の姿は月明かりに照らされて幻想的な美しさを纏っており、儚げな美貌が七海を見詰めて揺れている。
深夜に男の部屋に来るにはあまりにも無防備過ぎると言えたが、無痛症の影響で性欲も鈍っている七海にとっては幼馴染の熱っぽい視線にドキリとする事はあれど、即座に押し倒したりするといった思考には繋がらない。
七海にとって那須は、手を触れてはならない宝石のようなもの。
自分の気持ちを押し殺してでも守り抜きたい、
それが、今の彼の那須に対する認識であった。
…………それが、彼女の気持ちと致命的にすれ違っている事には、気付いていなかったのだが。
「また、起動を試していたの?」
「…………ああ、けど、駄目だった。姉さんは何で、応えてくれないんだろうな……」
ふと、愚痴を漏らす。
七海の口から漏れたその言葉は、紛れもない彼の
────那須は、知っている。
一人、物哀し気に右腕を見詰める七海の姿を。
一人、幾度も『黒トリガー』起動に挑戦する七海の姿を。
それが、いつも強がっている少年の本当の姿であるという事を。
…………那須の表情が、曇る。
今日熊谷達を家に呼んだのは、仲間との団欒で少しでも七海に楽しんで貰いたかったからだ。
熊谷達と談笑する七海の姿は、傍から見ても楽しそうに見えた。
事実、彼は楽しめていたのだろう。
欠け替えのない仲間との、団欒の一時を。
…………けれど、七海の右腕は彼の
たとえどれだけ気分が高揚していたとしても、彼は自身の右腕を見る度過去の喪失を想起する。
七海の右腕が常に彼と共にある以上、それを切り離す事は出来ない。
彼自身、正真正銘
先程の呟きが、その証左だ。
「お、おい、玲……?」
改めてそれを見せつけられて複雑な想いを抱いた那須は、無言のままベッドに座る彼の隣に腰掛けた。
そして七海の右腕をかき抱き、その身体を密着させる。
幼馴染の突然の行動に目を白黒させた七海を見て、那須はくすりと笑みを浮かべた。
「────眠れないなら、眠れるまで、一緒に星を数えましょう。今夜は雲もないし、綺麗な星が見えているわ」
那須はそう告げると窓の外の夜空を指さし、つられて視線を動かした七海の視界には満天の星空が見える。
その光景に七海は思わず息を呑み、それを見て那須は満足そうに微笑んだ。
「ね? いいでしょ?」
「…………分かったよ。仕方ないな」
ありがとう、とか細い声で口にした七海は、密着した那須の身体を見ないように夜の空を見上げる
那須もまた、七海に寄り添いながら星空を見上げた。
────流れ星が、落ちる。
二人がそれに何を願ったのか、知るのは無粋だろう。
彼女達だけの願いが、そこには込められていたのだから。
というワケで那須さんとの夜会話回。
と、現状の説明+αでした。
次回はバトルかな。個人ランク戦。
さて、相手は誰でしょう?