「カゲさん…………」
「なにシケたツラしてやがんだ。ここが、大一番だろうが。おめーがそんな顔して、どーするよ」
影浦は自身を見上げる七海に、そう言って笑いかける。
あくまでも、自然体。
絶対的な強者を前にしていても、普段の彼と変わらない笑み。
だが、それも当然か。
心優しき猛獣は、大切な弟子の前で無様を見せるような真似はしない。
その事を誰よりも知っている七海の顔に、思わず笑みが零れる。
大きな背中。
敬愛する師を前にして、七海の心に温かなものが溢れて来る。
思えば、彼と初めて会った時からこの背中を追いかけていた。
迅とは違う意味での、
ボーダーに入り、人生の指針を教えてくれて色々便宜を図ってくれた迅。
似た
どちらも七海にとって掛け替えのない存在であり、常にその背中を追い続けた存在でもある。
あの最終ROUND。
様々な要素が重なって実現した、影浦との一騎打ち。
当時の情景は、今でも鮮明に思い出せる。
この時間が、いつまでも続いて欲しい。
心からそう願ってしまう程の、至福の時間。
それが敬愛する師との本気の決闘であり、お互いの全てをぶつけた────────────────本当の意味で心からぶつかり合った、何よりも楽しかった師弟の
あの一戦で、ようやく影浦の背に追いつく事が出来た。
七海はそう思っていたし、影浦もそれは認めていただろう。
(やっぱり凄いな、カゲさんは)
だが。
追いついた背は、いつまでも立ち止まっているワケではない。
あの時から────────────────否。
いつ如何なる時でも、影浦は己の歩みを止めなかった。
あの一戦で、彼に追いつけたのは確かだろう。
けれど、何もせずに追い縋り続けられる程影浦の歩みは遅くはない。
師として、弟子に負けたままではいられない。
そんな矜持が、頼もしい背中から伝わって来るようだった。
だから、停滞している暇なんてない。
こちらも同じように歩き続けなければ、きっとまたその背は遠のいてしまうだろう。
「うだうだと説教するつもりはねーよ。そういうのはガラじゃねーし、俺の役割でもねーだろ」
それを証明するように、影浦は頭をかきながら笑う。
その様子は、何処かぎこちなく。
粗雑な言動に秘めた本心が、確かに見え隠れしていた。
「────────────────やる事が、あんだろ? だったら、気にしねーでやってみろ。その間くれー、俺がなんとかしてやっからよ」
それは、弟子へ向けた
不器用で口下手な彼が送った、最大限の叱咤。
優しい獣に背中を押され、七海は。
「────────はいっ! お願いします、カゲさん」
────────────────全ての覚悟を決め、顔を上げた。
師に。
自分が最も慕っている兄貴分に、此処まで言わせたのだ。
ならば、応えなければ嘘というもの。
先程まで心に燻っていた恐怖が、薄らいでいく。
警戒を緩めた、ワケではない。
ただ、開き直ったのだ。
自分が切り札を切る時間は、きっと影浦が────────────────いや。
そう、確信したが故に。
『ふふ、大事なところで全部持っていかれちゃったわね』
「玲…………」
『ごめんなさい、影浦先輩みたく傍に行けなくて。でも、その役目はきっと────────────────その人にしか、出来なかっただろうから』
通信で、那須から声が届く。
戦術の確認や、今後の相談などではない。
ただ、彼に言葉を贈る為。
彼女は、彼女達は、意を決したのだ。
『一番恰好良いところは取られちゃったけど、アンタにゃあたし達も付いてる。それを、忘れないで』
『そうですよっ! まだいいトコ何も見せられてないですけど、必ずこの後で活躍してみせますからっ!』
『ええ、だから玲一は安心して
『引き続き全力でサポートします。七海先輩、思いっきりやって下さい』
熊谷が、茜が、那須が、小夜子が。
それぞれの言葉で、
影浦によって灯された心の火が、燃え盛っていくのを感じる。
だけど。
くべられた
『おう、ここが勝負どころだろ。細けー事はカゲに任せて、いっちょ決めてやれ』
『ああ、七海ならきっと出来る。あの二宮隊だって、迅さんだって超えられたんだ。なら、そんな所で躓いてる場合じゃないだろ』
荒船が、村上が。
七海の、戦友にして好敵手達が。
彼の背を、押してくれている。
共に戦い、研鑽した攻撃手達。
彼等がいなければ、きっと七海は此処まで強くはなれなかっただろう。
『七海先輩、守りはカゲさんに任せていいよ。オレも、やれる事はやるからさ』
『うん、ゾエさんも力になるよ。何処までやれるかは、分からないけどね』
『おう、そうだぜ。つーか、カゲも気合い入れろよ。そこまで啖呵切って失敗したら、かっこわりーぞ』
「余計なお世話だ、ヒカリ」
ぶっきらぼうながら頼もしい言葉を送る、影浦隊。
彼等がどれだけ自分の支えになってくれたかは、言うまでもない。
影浦を筆頭に、口下手ながらも心優しい獣の牙の
その暖かな言葉は、七海の背を優しく押した。
『俺たちの分も、とは言わん。お前がやるべき事をやれ』
『おう、気持ちの強さで勝負は決まらねーけどよ。
厳しくも、心強い言葉で励ましてくれる風間と太刀川。
自分の無念を晴らす為、などと女々しい事は彼等は言わない。
ただ、彼の先達として。
必要な言葉を、送るだけだ。
『必要なら幾らでも援護はしよう。その代わり、君の力を貸してくれ』
『さっさとやれ。時間を無駄にするな』
『要約すると援護は任せろってこった。足りない部分は幾らでもフォローしてやっから、しっかりやれよ』
『ふふ、人格はともかく実力的には充分な駒が揃っているわ。安心してやりなさい』
『ああ、迅さんの言葉じゃないがお前ならきっと出来る筈だ。自信を持て』
『俺が言う資格があるかは分からないが────────────────頑張れ。お前と迅が望んだという未来、掴み取ってみせろ』
頼もしい言葉を送る、旧東隊の面々。
かつて競い合い、ぶつかり合った者達。
彼等との戦いもまた、七海の血肉になっているのは確かだ。
故に、その実力は保証出来る。
何せ、
『後の事は任せて、全力でやりなさいっ! あたし達もすぐ、そっちへ行くからねっ!』
『七海、此処が最大の分岐点だ。多くは言わない────────────────きっと、お前なら未来を掴み取れると信じているよ』
小南と迅。
四年前から彼を支え、そして導いてくれた者達。
姉を。
玲奈を、識る者達。
彼等の存在が、どれだけ七海の救いとなったか。
故に、これ以上に頼もしい
七海の心の灯火は、これ以上ない程燃え盛っていた。
『七海』
そこで。
予想もしなかった人物から。
通信が、届いた。
送り主は、城戸。
他の者には伝わらない秘匿回線を用いて送られた言葉は、ただ一言。
『玲奈を、頼む』
「────────はいっ!」
言葉を尽くすのは、無粋だろう。
あの城戸から、玲奈を。
姉を頼むと、言われたのだ。
最早、やる事は決まり切っている。
迷いも、躊躇いも。
既に。
七海の心には、欠片も残ってはいなかった。
「トリガー、
その一言と共に、七海の戦闘体が。
トリオン体が解除され、生身の身体が曝け出される。
無痛症に冒された身体は地に足で立つ感覚がなく、生きている実感さえも希薄だ。
けれど。
今の七海の心に、不安はなかった。
頼もしい味方の、仲間の言葉が。
彼の心に、大きな灯火を宿していたから。
不安も、恐怖も。
今の七海には、存在しなかった。
「────────!」
「させん」
七海の様子に気付いたヴィザが即座に刃を振るおうとするが、更に激しくなった弾幕と忍田の斬り込みがそれを抑える。
弾丸の数と勢いからして、残るトリオンを総動員して二宮と出水が援護射撃をしてくれているのだろう。
ボーダーの誇る二人のトリオン強者と、ノーマルトリガー最強の剣士。
その二重の抑えが、七海を斬り捨てようとしたヴィザの動きを制止する。
「それは、こちらの台詞ですな」
「…………!」
だが。
ヴィザは、優先順位を間違えなかった。
今の弾幕も、忍田の突撃も。
全ては、時間稼ぎに過ぎない。
援護射撃がもうすぐ途切れるのは察していたし、忍田もこれまでの戦いで限界が近い。
故に、ヴィザはその二重の抑えを最低限の動きで防御。
全ての弾丸を薙ぎ払うのではなく、自分に当たる弾のみを選別して迎撃。
撃ち漏らした弾は体捌きのみで躱し、無防備な七海に向け不可視の斬撃を見舞った。
幾ら
そもそも、彼の生身の肉体は碌に日常生活を送れるような状態ではないのだ。
攻撃を察知出来たとしても、それを避ける為の機動力がない。
故に、この攻撃を避ける術はない。
七海の身体は断ち切られ、無残な末期を晒す。
「させっかよっ!」
否。
そんな真似、心優しき猛獣が許さない。
影浦は己の
自らの直感のみで自身の守る七海の危機を察知し、彼を抱えて跳躍。
致死の刃を、己の右手首を代償に凌いでみせた。
超々高速斬撃は影浦の体捌きを以てしても避け切るには至らず、七海を抱えていた彼の右手首を切断した。
だが、問題は無い。
肝心の七海は、無傷。
ならば、手首の一つくらい安いもの。
影浦はそう考え、不敵な笑みを浮かべた。
「やれ、七海っ! おめーの願い、叶えてみせやがれっ!」
「はいっ!」
師の激励を受け、七海は己の右腕を────────────────黒トリガーを、掲げる。
姉がその身を賭して生み出した、黒い棺。
四年もの間、何の反応も見せなかったそれを。
七海はこの場で。
運命を変える分岐点にて。
発動するべく、
(応えてくれ、姉さん…………っ!)
刹那。
七海の視界が、歪む。
それは、極限の緊張が齎した白昼夢だったのか。
本当の所は、分からない。
けれど。
目を開けた時、七海は。
「────────此処は…………」
気付けば、真っ白な世界に彼は立っていた。
地平線が見える、何もない平野。
足場さえも定かではなく、現実味のない光景。
それは何処か空虚で、だけど。
とても、暖かだった。
「────────────────久しぶり。元気だった? 玲一」
懐かしい、声が聞こえた。
忘れる筈がない。
四年も前になるけれど。
もう、その姿も朧気にしか思い出せないけれど。
でも。
その声を間違う事なんて、ある筈もなかった。
「姉、さん…………」
髪の長い、七海に似た顔立ちの少女。
七海玲奈。
四年前に黒トリガーと化し、荼毘に伏した筈の彼女が。
当時そのままの姿で、七海の前に立っていた。
「これは、一体…………?」
「それは、私にも分からないわ。玲一の見た幻覚かもしれないし、黒トリガーに残った私の残滓が見せた夢なのかもしれない。だけど────────」
「あ…………」
ふわりと、懐かしい匂いと共に柔らかな感触が七海を包み込む。
姉は、玲奈は。
涙を堪えた瞳で、彼を強く抱き締めていた。
「…………ごめんね。あの時、私はとにかく玲一の痛みを取ってあげたい、って思考で一杯だった。だから黒トリガーの機能が暴走して、玲一から痛みや感覚を奪っちゃったの。挙句の果てに起動自体も不可能になっちゃって、本当に申し開きのしようもないよ」
姉の言葉が事実かどうかは、分からない。
今見ている光景が現実のものなのか、都合の良い幻覚なのかさえ分からないのだ。
目の前の姉の言葉の根拠が何処にあるかなんて分からないし、ブラックボックスの塊である黒トリガーであればそういう可能性も充分有り得てしまう事も確かだ。
「ううん、いいんだ。そのお陰でこうして姉さんに会えたんだったら、無意味なんかじゃないよ。だから恨んでなんかいないし、むしろ感謝してる。だって、これまでの僕の────────────────いや、俺の軌跡は何が欠けていても有り得なかったんだから」
だけど。
それよりも、何よりも。
今、二度と会えない筈の姉とこうして邂逅出来ている。
それだけで、全てが報われる心地だった。
本当に姉の言う通り、無痛症や黒トリガーの不具合の原因が彼女の想いにあったのだとしても構わない。
だってそれは、姉が自分の事を最期まで想ってくれていた証なのだから。
感謝こそすれ、恨む理由はない。
心の底から、七海はそう思っていた。
「そっか。良い出会いに、仲間に、恵まれたんだね」
「うん。皆、良い人たちばっかりなんだ。貰い過ぎってくらい、色々なものをくれた────────────────掛け替えのない、大切な人達だよ」
四年前の悲劇がなければ、きっと今の七海は此処にはいない。
違う形でボーダーに入る事があったとしても、出会い方も関係も今とは全然違っていた筈だ。
だから、後悔なんてある筈ない。
姉を失ったのは悲しいけれど、時間が巻き戻る事なんてない。
だったら、自分の歩んで来た道だけは否定しちゃいけない。
たとえ、どれだけの哀しみを抱えていたとしても。
皆の支えで此処まで来れた事は、紛れもない事実なのだから。
全ての出会いと別れに、意味はあったのだと。
そう、誇る為に。
「お姉ちゃんが、玲奈姉さんが託してくれた意思は、確かに受け継がれているよ。玉狛の人たちに、迅さん。勿論、俺だって。回り道も色々したけれど、その全部があって今まで歩いて来れたんだ」
だから、と七海は玲奈に笑いかける。
「────────────────もう、大丈夫だよ姉さん。この先もきっと、歩みは止めない。皆と一緒に、望んだ未来を掴み取ってみせるよ」
それは、一つの訣別の言葉。
この邂逅の意味や理屈を、考えようとは思わない。
だけど、確かな事は。
この機会を最期に、こうして姉を話す事はもうないだろうという事だ。
今の光景だって、奇跡のようなものなのだ。
もう一度同じ事が起きるなんて、都合の良い事がある筈がない。
だけど、死者の手は引くものではなく振り払うもの。
どんな奇跡が起こったとしても、死んだ人間は蘇らない。
だから、遺された者が出来るのはその
故に、引き留めはしない。
これが、最期の邂逅なのだとしても。
先へ進む以上、姉と共に居る事は出来ない。
その想いが、伝わったのだろう。
玲奈は何処か寂しそうにしながらも、満面の笑みを浮かべてみせた。
「────────うん、そうだね。私に出来る事は、此処までだから。死んだ人間がいつまでも生き残った側に拘ってちゃ、どうしようもないもんね」
それが本心なのか、強がりなのかは分からない。
だけど、それでも玲奈は笑って見送る事を決めた。
その想いを、覚悟を。
背負う事だけが、七海に出来る唯一の恩返し。
そう決意して、沸き上がる言葉を呑み込んだ。
「大丈夫。もう、そのトリガーに不具合はないよ。
「うん」
「いってらっしゃい────────────────幸せを掴み取ってね、玲一。迅くんにも、よろしくね」
その言葉を最後に玲奈の姿は薄くなり、消えていく。
やがて視界全体が閉ざされていき、白い世界が消え失せる。
それでも、七海の網膜には。
最後まで笑みを絶やさなかった、玲奈の姿が映り込んでいた。
白昼夢が終わり、現実に戻る。
時間は、一秒たりとも経ってはいない。
今の幻視が何だったのか、説明は出来ない。
だけど、それで構わない。
何故なら。
確たる証拠として、七海の右腕は。
黒トリガーは、淡い光を放っていたのだから。
「
心に浮かんだ、
その瞬間、右腕は眩い光を放ち。
四年に渡る沈黙を破り、目覚めの時を迎えた。