七海と那須①
「…………俺、は…………」
七海は那須邸の自室で一人、ベッドに座りながら懊悩していた。
あの記憶に新しい敗戦の日から、一夜が経過した。
その間、那須とは一切話が出来ていない。
試合が終わった直後、「一人にして欲しいの」と告げたきり、那須は今回の反省も次回に向けた作戦提示も行わず、そのまま帰って自室に籠ってしまった。
無理もない、と七海は思う。
実力が足りず、敗北したのならまだ良い。
だが、今回の試合では加古が総評で告げた通り、完全に那須の失策が原因だった。
熊谷が落とされた後、二宮を直接狙わずに今まで通り乱戦に持ち込み、獲れる点を狙っていけばこのような結果にはならずに済んだかもしれない。
茜のお陰でロスは最低限に抑えられたが、その事実もまた那須や七海の心を締め付けていた。
自分達が無様な試合展開を見せた直後、茜は冷静な判断力と小夜子の正確なサポートを頼りに、しっかりと得点を挙げて逃げ切って見せた。
那須の暴走に引きずられるが侭に惨敗を喫した自分達とは、雲泥の差だ。
本当に、良い狙撃手に育ってくれた。
だからこそ、自分達が惨めに過ぎる。
あの時、本当であれば那須の暴走を抑止すべきだったのは自分だった。
那須は基本的に、七海の言う事であれば大抵は従う。
今回の場合でも、七海が強く訴えかければ暴走を止められた可能性はあった。
だが、七海にそれは出来なかった。
七海は、那須を負い目で自分に縛り付けているという
事実がどうであろうが、七海は自分の過去の経緯が原因で那須を自分の傍に縛り付けている事を、常に気に病んでいた。
あの悲劇さえなければ、那須が此処まで七海に寄り添う事はなかったのではないか?
その想いが、七海はどうしても拭えなかった。
七海は、自分に自信がない。
正確に言えば、自分に誰かを惹き付けるだけの魅力があるとは思っていない。
七海は幼くして右腕と痛み、姉を無くし、頼るべき相手がいなかった。
那須の両親は良くしてくれていたが、彼等は七海にとってはあくまで
自分の親代わりとして見るには、抵抗があったというのが本音だ。
七海は、周囲が思うよりは明確に、那須への想いを自覚している。
けれど、彼の持つ
那須と共に暮らし、常に傍に寄り添い、彼女は献身的に尽くしてくれる。
本当であれば、こんなに幸せな事はない。
…………それが、那須の負い目から生じたものでなければ。
それだけ、那須の七海への献身は病的だった。
七海の願いは何であろうと叶えようとし、その為に自分を犠牲にする事を厭わない。
自分の事は二の次であり、那須の行動原理には常に七海の存在があった。
那須の生活は、七海を中心に構築されている。
朝起きる時も真っ先に七海に挨拶に向かい、登校もそれぞれの学校への別れ道までは一緒に歩く。
放課後は七海といち早く合流する為に友達付き合いも部活動もなしに、最短で家に帰って来る。
一度自分の事はいいから友達付き合いを優先しても構わない、と告げた事があるのだが、その時は目に見えて取り乱し、七海に縋りついて泣き出した為すぐさま発言を撤回する事となった。
那須は自分の献身が七海に拒否されると、すぐさま情緒が不安定になる。
実際、その寸前まで行った事はある。
それだけ那須にとって七海の存在は絶対であり、なくてはならないものだった。
…………七海にとっての那須が、そうであるように。
七海にとって那須は、幼馴染であり、気になる女の子であり、そして自分の
自分が弱いから、姉は命を投げ出した。
自分が弱いから、那須を自分に縛り付けてしまった。
自分が弱いから、今の関係を変える事が出来ない。
七海の内側には、常に強烈な自己嫌悪がある。
ひたすらに強さを求めたのは、
太刀川や村上はそんな自分の鍛錬に打ち込む様子を褒めてくれたが、七海の持つ動機は彼等が想像するようなストイックな向上心などではない。
ただ、弱さ故に大切なものを失った過去の自分から離れたいが為、修練に集中し余計な事を考えないようにしているだけだ。
けれど、そんな風に自分を誤魔化していたツケが祟ったのだろう。
影浦と公式戦で初めて戦えるという大事な試合で那須の暴走を止められず、惨敗を喫した。
その事は、七海の心に深い傷を刻み込んだ。
あれだけ自分に目をかけていた影浦の期待を、裏切ってしまった。
仮想の出来事とはいえ
あの時の影浦の激情は、今でも脳裏に残っている。
────やっぱ、そうすんのか。テメェは……っ!────
影浦に背を向け、逃げ出した時。
背後から響いた、影浦の怒声。
失望と怒りが入り混じったそんな声を出させてしまった事に、七海は何より後悔した。
影浦は、自分との勝負を楽しみにしてくれていた。
自分も、影浦との勝負を楽しみにしていた。
なのに、自分が全部台無しにした。
那須を止めるのではなくその行動に同調し、多くの想いを裏切った。
その罪は、果てしなく重い。
誰が一番の戦犯かと問われれば、間違いなく自分である。
七海は、そう強く信じていた。
あの一戦には、加古が解説として招かれていた。
今まで散々世話になった彼女に、あんな無様な試合を見せてしまった。
きっと、失望していた事だろう。
総評の時も自分達の行動を手厳しく酷評していたし、彼女自身も七海達に呆れ果てていた筈だ。
自分の師匠達も、あの無様な敗北を見て失望しているに違いない。
裏切ってしまった。
期待を。
厚意を。
皆の、想いを。
…………許せない。
あれだけ多くの人の支援を受けておきながら、それをあっさりと裏切ってしまった自分自身が許せない。
そんな自分を許容してしまった、自分自身の弱い心が許せない。
そして、そんな風に省みておきながら、同じ状況になれば同じ行動を繰り返すだろうと分かる自分の愚かさが、何より許せなかった。
分かるのだ。
自分は、同じ状況に立たされればまた同じ行動を繰り返すのだと。
自分にとって那須の願いは、至上の命題そのものだ。
その内容の是非に関わらず、那須が願う事であれば
そして、そんな自分自身を止められない。
那須に対する負い目、申し訳なさが、彼女の願いを断る勇気を七海に持たせなかった。
…………元々、那須は自分の主張を強く口にするタイプではない。
様々な想いを抱えながら、笑顔で全てを抱え込む。
あれは、そういう少女だ。
以前はもっと前向きだった筈だが、あの四年前の悲劇以来彼女の根幹には
七海に関する事であれば必要以上に干渉しようとする傾向はあるものの、それ以外の事に関しては基本的に他人を、七海を優先する。
控えめな性格の、優等生。
周りからは、そんな風に見えていた筈だ。
だが、その本質は全く違う。
那須の本質は、激情家だ。
理論立てて物事を考えるのは得意だし、頭の回転も非常に速い。
だが、彼女の行動原理はその心の内で燃え盛る激情にある。
彼女は常に己の大き過ぎる感情に振り回され、それをなんとか抑えつけているだけだ。
だから、ちょっとした切っ掛けでその感情は溢れ出す。
七海に関わる事となると沸点が異様に低くなるのも、その顕著な例だ。
特に、七海が害される事に対し、那須は敏感に反応する。
あの試合の最中、七海はよりにもよって那須の眼の前で
別の場所で被弾し、それを『スコーピオン』等で補っていれば、まだ判断能力の低下だけで済んだかもしれない。
右腕ではなく別の部位なら、理性が焼き切れる事はなかったかもしれない。
だが、
その事は、那須の記憶の悪夢を想起させるに充分な出来事だったに違いない。
恐らく、東もそれを狙って敢えて右腕を狙撃したのだろう。
那須から、冷静さを奪う為に。
そして目論見通り那須は暴走し、無謀な突貫の末に七海を道連れに敗退した。
悔しい。
情けない。
申し訳ない。
那須に足を引っ張られた事、ではない。
暴走する那須を止められなかった自分自身が、である。
────七海は、非常に内罰的な少年だ。
責任を外ではなく、己が内に求めようとする。
誰の所為で、ではなく。
自分の所為で、と考える悲観的な思考。
それが、七海の根幹にあった。
だから、自室に閉じ籠りチームの誰とも会おうとしない那須相手に、踏み込めない。
もう、次の試合まであと数日だというのに。
まだ、碌に作戦も立てていないのに。
那須の行動を、諫める事が出来ない。
諫めようと、思う事が出来ない。
一晩が過ぎても、状況は変わらず。
那須は、部屋から出て来ようとしなかった。
────自分の命は、七海の為にある。
那須は本気でそう思っていたし、その想いそれ
自分の行動は全て七海の為にあるものであるし、極論それ以外は何も要らない。
彼女は、七海さえいればそれで良かった。
熊谷や茜、小夜子の事は勿論大切だ。
同じ学校に通う小南も、良い友人だと言える。
だが、それ以上に交友関係を広げる必要性を、彼女は見いだせなかった。
彼女は、今の人間関係で満足していた。
今ある繋がりで充分だと判断してしまったが故に、それ
同じ学校に通っているとはいえ照屋などとは接点も碌になく、星輪女学院でも友達らしい友達は殆どいない。
世間話をする程度の相手はいるが、それだけだ。
熊谷のような、親友と呼べる相手はあの学校にはいなかった。
那須は別に、それで良いと思っていた。
だって、下手に友人なんて増やせば七海との時間が減ってしまう。
自分が満たされているのは、七海と共にいる時だけだ。
七海がいてこそ、自分が生きる意味がある。
七海がいるから、自分は生きていて良いと思える。
七海のいない自分なんて、そもそも存在する価値などない。
彼女は本気で、そう思っていた。
これは、比喩表現などではない。
もし、七海が何かの原因で死んだりすれば、那須は間違いなく後を追う。
それだけ、那須の七海への執着は凄まじいものがある。
だからこそ、彼に尽くしながら彼に頼り切りになっている矛盾に気付いていない。
那須は七海の欲する事は全て叶えたいと思っているが、同時に
即ち、自分が願う事は、七海も同じように願っている事なのだと、無意識の内に思い込んでしまっているのだ。
普通に考えればそれは違うと分かりそうなものだが、彼女の依存癖は筋金入りだ。
外から指摘した所で、恐らくそれを認めようとはしないだろう。
思考と行動の乖離を告げられた所で、那須はその事に無自覚なのだ。
困惑して、それで終わりだろう。
那須にとって、七海に尽くす事も、七海が自分に尽くす事も、
七海と離れると不安になるのも、七海がチームメイト以外の女の子と仲良くしていると負の感情が溢れ出るのも、その本当の意味に気付いてはいない。
何故七海の傍にいたいのか、その明確な回答を那須は持っていない。
正確には、気付こうともしていない。
だって、那須にとって七海が傍にいるのは当たり前で、
彼女にとって七海とチームメイト以外は
だから彼女は七海以外を頼る事はなかったし、それはチームメイトといえども例外ではない。
実はROUND2までの試合で茜や熊谷の運用方法を決めたのは小夜子であり、那須ではない。
正確には、七海の出した案を元に小夜子がそれを纏めたのがあの形である。
那須はその作戦を承認し、号令をかけたに過ぎない。
那須本人は前期までの合流戦術を好んでいたし、出来る事ならチームメイト全員で動きたいとも思っていた。
だが、茜と熊谷の能力を活かしきるには、合流より単独運用の方がベストなのだ。
それを誰よりも正確に理解していた七海と小夜子は、草案を纏めて作戦として形にした。
全ては、『那須隊』の全員で勝ち上がる為に。
実際、那須は気分が良かった。
前期まではB級中位の下の方で燻り続けていたのが、今期は僅か3ROUND目からB級上位に食い込む事が出来た。
しかも、最初の二試合はまさかの
これで、調子に乗るなと言う方が無理がある。
だから、ある意味那須はROUND3も楽観していた。
これまでもどうにかなって来たのだから、今回も大丈夫だろうと。
結果的に東にその弱点を突かれ、那須は敗北した。
考え得る限り、最悪の形で。
悔しかったし、申し訳なかった。
熊谷の仇を獲れなかった事も、七海を勝たせてあげられなかった事も。
何より、それまで上がり調子だったチームの流れまでをも堰き止めてしまった事を、那須は悔いていた。
自分達が惨敗した後、茜が一人で活躍したのを見て、那須は複雑な想いを抱いていた。
チームメイトが活躍したのは、勿論嬉しい。
けれど、彼女一人だけが活躍した事で、余計に自分達の惨めさが加速した。
他の皆に、合わせる顔がない。
そう思い込んでしまった那須は、七海とすら接触を拒否して自室に引き籠もっている。
表向きは、体調不良であると嘯いて。
七海も、那須もその疵は重い。
『那須隊』は、その機能を完全に停止していた。