「ん……………………朝、か」
眠りに落ちていた意識が覚醒し、七海はその瞼を開く。
目覚めてすぐに視界に入るのは、変わり映えのない自室の風景。
薄暗い室内に、カーテンの隙間から微かに日の光が差し込んでいる。
時刻は、朝の5:00。
どうやら、少し早くに起きてしまったようだ。
無痛症を患っていた頃であればきっかり6時に起きるように調整をかけていたのだが、生身の感覚が戻った事で体内時計が若干ブレたようだった。
(あの頃は、本当に生身での過ごし方に苦労したからな。それが急になくなった分、どうにか調整し直さなきゃな)
当時は基本的に七海は特注のトリオン体で生活していたのだが、唯一就寝時だけは生身に戻る必要があり最初の頃は起きる時間が毎回異なってしまい生活リズムを整えるのに随分苦労したのを覚えている。
何せ、普通ならば朝になり身体を覚醒させる要素である差し込む日の光や朝の空気の冷たさを、一切感じ取れないのだ。
無痛症になって暫くは耳元に大音量のアラームをセットする事で聴覚刺激によって定時に起きれるように訓練し、何とか朝の決まった時間────────────────6:00に起きるよう、体内時計を調節したのだ。
最初は那須が朝起こしに来ようとしていたのだが、元々彼女は朝に弱い。
加えて身体が病弱な為、無理な早起きは体調に支障を来たしかねない。
だから何度も説得を行い、渋々ながらこの件については不干渉という事で納得して貰った。
但し。
「んぅ…………」
「あ…………」
その代わりなのか、時折こうして七海の布団に潜り込み添い寝を要求するようになったのである。
無痛症で男性らしい反応が死んでいた七海はそれで彼女の気が済むならと承諾し、これまでにも数えきれないほど那須の添い寝を受け入れ続けて来た。
朝起きた時に愛しい少女が傍にいる感覚は悪くはなかったし、性欲が皆無になった分純粋に那須を慈しむ事が出来ていた。
そう、
この四年間七海が那須の過剰なスキンシップを受け入れていたのは、男性的な身体機能が死んでいた為に半ば感覚が麻痺していたという理由もある。
これまでは、それで問題なかった。
どれだけ那須と密着しようが、七海はただ愛しい少女を平常心で見守る事が出来ていたのだから。
けれど、今は事情が異なる。
七海の無痛症は、感覚の喪失は。
黒トリガーの起動を以て、快復した。
一応精密検査を受けてはみたが、結果は健常体そのもの。
これまで身体に起こっていた不具合は最早欠片も見当たらず、あの白昼夢での姉の言葉通り本当の意味で彼は
それを実感した時は言い知れぬ感動を覚えていたが、それによる
大規模侵攻を乗り越え、痛覚を取り戻した夜。
那須は本当に上機嫌な様子で枕を持って部屋を訪れ、七海に添い寝を要求した。
七海はこれまで通りの感覚でそれを受け入れ、いざ添い寝の段になって────────────────気付いたのだ。
痛みが、感覚が戻ったという事は。
添い寝なんて真似をすれば、那須の────────────────女の子の柔らかな身体の感触や甘い匂いが、ダイレクトに襲って来る事に。
それに気付いた時は、那須はもう眠ってしまった後だった。
極限の戦いを乗り越えた後だった為もあり、精神的疲労と七海が感覚を取り戻した歓喜で色々とキャパシティが限界だったのだろう。
床についてすぐに眠ってしまったのは、理解出来る。
だから、たまらなかったのは七海の方だ。
彼はこれまでの四年間、男性的な機能が────────────────つまり、性欲が死んだ状態で過ごしていた。
四年前、13歳の頃はまだ男女の性差を実感出来ていたか曖昧な時期だった事もあり、七海は思春期の男子が抱く筈の欲と一切関わらないまま過ごしていた。
故に、七海は本当の意味で性欲といったものを実感した事は一度もない。
那須に対する恋心は確かに存在し、彼女の傍にずっと共にいたいという想いはある。
けれどそれは子供の理想のような純粋無垢なものであり、相手に触れたいとか色々したいだとかの下心の一切介在しないものだった。
だから、那須の匂いと感触を直で感じて人生初めて男性らしい反応を自覚してしまった七海は、初めて性を認識して戸惑う思春期男子と変わらない。
しかも本人が超がつく程真面目で誠実な性格故に、困惑よりも那須に対しおかしな気持ちを抱く自分に嫌悪感を覚えてしまう始末だった。
かといって、今更眠る那須を起こして部屋に戻すワケにはいかない。
あの一件を経て安定したとはいえ、那須は七海に何かを拒絶される事を極度に怖がる性質がある。
此処で那須の添い寝を拒否すれば、彼女が酷く落ち込むのがありありと想像出来てしまう。
「ん、れい、いち…………」
「…………!」
ぎゅっと、那須の腕が七海の腕を引き寄せ胸にかき抱いた。
自然、彼女のほのかな胸の膨らみの感触が、ダイレクトに腕に伝わって来る。
硬直。
強く腕を抱く彼女を振り払う事など以ての外で、最早諦めて添い寝する以外道はない。
(取り敢えず、頑張って寝よう。目を瞑れば、きっとそのうち眠れる筈)
七海は観念して布団を被り直し、眠る為に目を瞑った。
しかし視覚を閉ざした事で触覚と嗅覚が強化された結果、より強く那須の感触や匂いを感じ取ってしまい、眼は冴えていくばかり。
その日、七海は眠れない夜を過ごす事になったのだった。
「最近の玲一が、可愛いの」
「なんの話ですか」
とある日、小夜子の自室。
そこを訪れていた那須は、開口一番おかしな事を宣った。
この恋敵、遂に頭がやられたか、と半眼で睨む小夜子を尻目に那須はニコニコ笑顔で事情を語った。
「感覚が戻ったから、私がくっつく度に色々反応して可愛いのよ。なんだか、年下の男の子をからかう女性の気持ちが分かってしまったわ」
「その歳でショタ性癖はマズイと思いますよ。いや、それともまた違うのか」
「何言ってるの? 玲一は、
「とにかく言葉選びが変態のそれだっていう事です。そのあたり自覚しないと、折角の容姿が台無しですよ」
はぁ、と内情を理解した小夜子はため息を吐いた。
今の話を聞く限り、どうやら七海は四年ぶりに取り戻した五感の影響で、常日頃から過剰だった那須のスキンシップにいちいち大きく反応して彼女を喜ばせているらしかった。
まあ、気持ちは分かる。
那須は女性の小夜子から見ても絶世の、と頭文字を付けるに何の躊躇いもない美貌を持っている。
話を聞く限り特別な努力は行っていない、というか病弱な身体の影響で行えないらしいが、それでもあの容姿なのだから恐れ入る。
白い絹糸のような肌も、ハイライトの薄い儚げな眼も、すらりとした妖精のような肢体も。
その全てが彼女の浮世離れした美貌を際立たせており、小夜子も初めて那須を見た時は思わず見惚れてしまった程だ。
男性恐怖症だったからといって
その那須が、常日頃から遠慮なく密着しボディタッチをして来るのだ。
普通の男性であれば、色んな意味でたまらないだろう。
しかし、七海は性欲が死んでいるかのように────────────────否。
無痛症の影響でそういった機能が死んでいた為に、純粋な混じり気なしの好意だけでそんな那須の行動を受け入れていた。
男性恐怖症の小夜子が七海に拒否反応を持たなかったのも、そういった男性らしからぬ姿勢が影響していないとは言い難い。
今は七海の人となりを深く知っている為それはあくまでも切っ掛けでしかないが、彼を好きになった理由にそのあたりが関わっていないとは言い切れないだろう。
それは良い。
問題は、感覚が戻って普通の男性機能が復活している七海相手に那須がこれまで通りの過剰なスキンシップを継続している事だ。
ハッキリ言って、今の七海にそれは拷問に近い。
理性の化身のような七海は、那須に如何なる劣情を抱いたとしても鋼鉄の意思でそれを捻じ伏せ我慢をし続けるだろう。
那須の無自覚な誘惑に耐え切れず間違いを犯してしまう、とは欠片も思ってはいない。
そんな事をするくらいなら、自傷してでも止めようとするのが七海という少年だ。
そのあたりの可能性を、今の那須は一切思い至っていない。
いや、はしゃいでいてそれどころではない、と言うべきか。
何せ、あの何をしようが顔色を変える事の殆どなかった七海が自分の一挙一動に反応し、顔を赤らめているのだ。
これまでそういった反応を見せて貰えなかった那須が、調子に乗って有頂天になるのも理解出来る。
那須同様小夜子も七海の紳士オブ紳士な部分に好感を抱いているのは確かだが、それはそれとして異性として自分を見て評価して貰いたいという欲は普通にあるのだ。
襲って欲しいとまでは言わないが、自分の姿に見惚れるくらいはして欲しいというのが那須の正直な気持ちだろう。
那須は自分の美貌についてあまり自覚しているとは言い難いが、それでも他者から見て好ましい容姿である事は察しているらしい。
常日頃から「きれい」「美人」だなどと言われ続けていれば、「そういうものか」という自認くらいは芽生えるだろう。
けれど、自分の容姿が特別なものである事に対する認識が充分とは言い難い。
那須は自分の知名度が高いのは雑誌で特集を組まれていてボーダーの研究の被験者という事情があるからだと思っているが、ぶっちゃけ世間が注目しているのは研究内容よりも彼女の容姿の方だった。
ボーダーには浮世離れしたとんでもない美少女がいる、というのは三門市では有名な話だ。
那須はそれを小耳に挟んでも広報部隊である嵐山隊の木虎や綾辻さんの事かな、と思案するくらいで、その噂が自分の事を指しているとは微塵も考えてはいなかった。
その自己評価の低さはどうなのだ、と小夜子は常々思っていたが、よくよく考えてみれば簡単な話だった。
那須にとって、価値のある評価というのは即ち七海からの評価なのである。
有象無象がどれ程騒ごうが、最愛の少年から称賛されないのでは意味がない。
彼女は本気でそう思っているし、言葉には出さないが七海以外の他者からの評価などどうでもいいと思っている。
だからこそ、七海が彼女の美貌を称賛しない限り、那須の自身の容姿に対する自己認識の低さは覆らなかったのだ。
そして今、七海は感覚を取り戻した事で美し過ぎる幼馴染の異性としての姿を直視してしまい、彼女がスキンシップを図る為に赤面する有り様となっている。
確かに、自分が同じ立場になったのならばはしゃぐのも無理はないと思う。
「ふふ、次はどうしようかしら。小夜ちゃんと一緒に、色んな服を着て見て貰うっていうのも良いわね。普段着る機会のない水着でも、引っ張り出すべきかしら」
────────────────それこそ、色んな良識やら倫理観を忘却してしまうくらいには。
このままでは、七海の為だけのファッションショーを自分を巻き込んで開催しかねない。
那須だけが突貫するならまだしも、こんな超絶美少女と水着姿で見比べられるなど死んでもごめんだ。
チームの仲間として、先輩としては尊敬しているが、流石にそんな暴挙を許すワケにはいかない。
決意した。
浮かれて「今度昔みたいに一緒にお風呂でも入ろうかしら」などと、血迷った戯れ言を口にしている
正しい性教育を施して、いい加減茹だった頭を冷ましてやろうと。
丁度、彼女の部屋には教材が溢れている。
熊谷や茜、そして七海がいる時には絶対出さない、
この様子からして、那須は男性のそういった事情に相当鈍い。
あの七海の傍で思春期を過ごしていた上に、彼女が通っているのは女子高である星輪女学院。
下手をすれば文字通りの意味で箱入りに育てられた為に、性知識に疎い可能性すら充分有り得る。
だからこそ、彼女には男女のあれこれの生々しさをきちんと知って貰う必要があると小夜子は判断したのだ。
妄想を垂れ流している那須の横で小夜子はおもむろにPCを操作し、風景写真に偽装したフォルダからお目当てのゲームのファイルに辿り着く。
そして一端音量を最小にした上で、那須に向き直りにこりと微笑みかけた。
「那須先輩、折角来たんですし一緒にゲームでもしましょう。今後の相談は、その後でも良いですよね」
「あ、え、ええ、構わないわ。どんなゲームなの」
「男と女がイチャつくゲーム(意味深)ですよ。まだ那須先輩には見せた事のないものなので、楽しんで貰える筈です」
「あら、そうなの。じゃあ、やらせて貰おうかしら」
那須は小夜子の思惑に気付く事なく、彼女に指示されるままゲームを開始する。
それが、どんな地雷であるか知る由もなく。
彼女が始めたゲームは、プレイヤーの好きなようにキャラをクリエイトする事が出来る類のものだった。
小夜子はその仕様を利用して、那須そっくりのキャラクターと七海そっくりのキャラクターを作成している。
これは彼女のお楽しみに為に作った代物であり、本来であれば那須本人に見せる予定は欠片もなかった。
だが、調子に乗って暴走している那須を沈めるにはこれしかないと、小夜子は自爆覚悟でこのゲームの使用に踏み切ったのだ。
────────────────結果として、効果は絶大。
その後暫くは那須は七海と不自然に距離を取るようになり、今度はその事を小夜子が七海に相談される事になる。
こうして那須の暴走は小夜子によって止められ、事情を知った七海に感謝される事になる。
勿論どうやって那須を納得させたかは話しておらず、小夜子としては七海に感謝される役得だけでまあ良いかと笑みを零した。
後日、そんな小夜子の心情を察知した那須が仕返しとばかりに七海とのデートの実況中継画像を送って来る事になるのだが。
それはまた、別の話である。
『なまみのななみ』
「身体快復少年七海」
黒トリガーの起動によって痛覚を取り戻し、生身での活動が可能になった本編終了完成系七海。
日常でも生身で過ごすようにしているが、流石に四年もの間生身でいる時間はかなり少なかった為にリハビリが必要である為、そちらに尽力しながら徐々に生身でいる時間を増やす事にしている最中である。
男としての色々も取り戻している為、これまでと変わらない過激なスキンシップを図って来る那須にはたじたじ。
那須の暴走を止めてくれた小夜子には、色んな意味で感謝している。
また、その感謝を告げた時に小夜子に密着され、可愛らしい反応を見せたのはオペレーターの少女だけが知っている。
但し那須は女の直感で察知したので、きっちり「お返し」はしたらしい。
後は幸せな日々を過ごすだけの、色々取り戻した系主人公の顛末。
このくらい、お茶目の範疇だろう。
彼が苦難に挑む日々は、もう終わったのだから。