「……はぁ……」
熊谷は『ボーダー』本部のラウンジで、溜め息を吐いていた。
彼女が憂うのは、他でもない────昨日から閉じ籠ったままの那須と、チームメンバーとの接触を避けている七海の事だ。
昨日のROUND3の試合で、熊谷は真っ先に落とされた。
B級一位部隊の犬飼と二宮というオーバーキルにも程がある二人に追い込まれ、成す術なく沈んでしまった。
そして、その熊谷の脱落を切っ掛けに那須が暴走。
熊谷の仇を取ろうと無理に二宮を狙い、結果として七海を巻き込んで脱落してしまった。
…………熊谷も、途中まではやりようはあると考えていたのだ。
犬飼と不運にもエンカウントしてしまった後、熊谷は学校の校舎に彼を誘い込み、そこで隠し玉として用意していた『メテオラ』で奇襲。
あわよくばそのまま落とし、そうでなくとも隙を見て逃走を図るつもりだった。
だが、誘い込まれていたのは熊谷の方だった。
犬飼は熊谷の『メテオラ』による奇襲を難なく躱し、視界の効かない校舎の外から飛来した二宮の『アステロイド』により、彼女は落とされてしまった。
彼女が追われている最中に『メテオラ』を使わなかったのは、熟達しているとは言い難い射撃トリガーを当てる為には広い屋外では不利と考えた事と、牽制として用いるには熊谷のトリオン量に不安があったからである。
元々、『メテオラ』は他の射撃トリガーと比べても大幅にトリオンを喰う弾丸だ。
熊谷のトリオン能力の評価は、『5』。
お世辞にも、トリオンが豊富とは言い難い数字だった。
そんな状態で考えなしに『メテオラ』を連発すれば、熊谷のトリオンはあっという間に尽きてしまう。
更に、『メテオラ』の使用中はどうしても脳のリソースをそちらに使ってしまい、他の事が疎かになる。
そういった理由で、熊谷は逃走中に『メテオラ』を使用する事はなかった。
恐らく、屋外で使った所で大した効果も挙げられず、徒にトリオンを消費する結果になっていたであろう事は予想出来る。
有り体に言って、ROUND3で熊谷が落とされた原因の多くに、『メテオラ』が事実上腐ってしまった事がある。
そも、『メテオラ』をトリガーセットしていた理由も、那須や七海が自在に『メテオラ』を扱う様子を見て憧れたという理由が強い。
那須に頼んで射撃トリガーのレクチャーをして貰い、ある程度実戦で使えるよう仕込んでは貰ったのだが、熊谷と那須ではそもそも射撃トリガーへの適性が違う。
射撃トリガーを扱う際に必要となるのは状況を俯瞰する視点、相手の行動を予測し、適切な弾道を描く空間把握能力、そして使い方を間違えない為の瞬時の判断能力だ。
あからさまに言ってしまえば、射撃トリガーを十全に使うには頭が良くなければ話にならない。
その点、熊谷は適性が高いとは言い難かった。
学校の成績はそう悪いワケではないが、流石にリアルタイム弾道制御という離れ業を行う那須と比べれば、頭の回転の速さの違いは歴然だった。
そもそも、熊谷のポジションは
射手とはまるで立ち回りが違う為、彼女が射撃トリガーを習うのであれば本当であれば
そうなると七海が適任と言えるのだが、生憎七海は教導能力はそこまで高いものではない。
戦術の組み立て等は優れているが、七海には無痛症がある。
人とは身体を動かす感覚が違う為、教える時には他者との差がハンデとなる。
教師としては向いていないのだ、七海は。
戦闘そのものもサイドエフェクトを前提としたものである為、戦闘時の立ち回りは理論派と言うより感覚派に近い。
それでも仲間との連携が取れているのは、偏に小夜子のオペレートが優秀だからだ。
小夜子は那須や七海が取得した情報を元に正確な弾道経路を導き出し、それを逐次那須や茜に伝える事で高度な連携を可能としている。
それが茜の正確無比な精密射撃の成功に繋がっており、ROUND3の終盤の茜の大戦果も彼女の弾道解析能力なしには成し得なかったであろう。
その小夜子は、今朝早くから加古に呼び出されて出かけている。
日中から彼女が出かける事は珍しい為心配にはなったのだが、今の熊谷に他人の心配をしている余裕はなかった。
(…………あたしが、落とされなければ…………いや、そもそもあの二人の関係を放置しなければ、こんな事には……)
熊谷は、自己嫌悪に沈んでいた。
昨日の一戦の敗因は、元を辿れば熊谷の開幕直後の『緊急脱出』にある。
彼女が落ちた事で那須の暴走に繋がり、『那須隊』のエース二人の脱落という最悪の事態を招いてしまった。
その自責の念が、熊谷を苛んでいた。
あくまで結果論である事は分かっているのだが、真っ先に落ちてしまった負い目もあり、熊谷は前を向く事が出来ていない。
元はと言えば、熊谷が那須と七海の歪な関係を知りながらそれを放置していた事にも原因があるのだ。
…………那須と七海の関係の捻じれについて、熊谷は那須に近い者として充分承知していた。
だが、那須に近過ぎるが故に遠慮してしまい、踏み込んだ対策を取る事が出来ず、今日まで至ってしまった。
その結果が、あれだ。
七海は那須に抱く負い目故に彼女の要望を断れず、暴走を抑止する事が出来なかった。
那須は七海に対する執着を見抜かれ、それを利用されて七海共々罠にかかり仕留められてしまった。
熊谷が二人の関係に対し、何か有効な対策を打てていればこうはならなかった。
少なくとも、熊谷はそう考えていた。
悔しい。
情けない。
何より、そんな無様な自分が許し難い。
だが、そうは思っていても他人のフォローを第一とする熊谷にとって、無理に踏み込んで関係を変える、という一手を取る事は難しかった。
何かあれば自分が支えれば良い、という考えが熊谷の中にはある。
辛い時に寄り添い、愚痴を聞くだけでも少しは楽になる筈。
そう思って二人の傍にいたのだが、今はその那須からも会う事を拒絶されている。
一度携帯で連絡を取ろうとしてみたものの、「ごめん」と一言書かれたメールが送られてきて以来、何の音沙汰もない。
こうなると、熊谷は八方塞がりだった。
少しは良い考えが浮かぶかと思って気分転換を兼ねて個人戦をしに来たはいいものの、懊悩を抱えたままの熊谷にいつものキレはなく、敗戦を重ねる結果となってこうしてラウンジに退避して来たのである。
「…………どうすればいいのよ、もう…………」
「あれ? 熊谷さんじゃない」
「え……? あ、出水くん……」
そんな熊谷の下に、見知った声が聞こえて来た。
顔を上げた先にいたのは、『太刀川隊』の射手にして七海の師匠の一人、出水公平。
出水は意外そうな顔をしながら、熊谷の姿を見据えていた。
「どうしたの? 本部のラウンジに一人でいるなんて珍しいじゃん」
「それは……」
「…………あー、まあ言わなくて良いよ。大体察したから」
はぁ、と溜め息を吐きながら出水は熊谷の正面の席に座り込む。
突然の接近に目を白黒させる熊谷だが、出水からは本気の心配の色を感じ取る事が出来た為、話があるなら黙って傾聴しよう、とその場に腰を落ち着けた。
「大方、昨日のあれで七海達が沈んでんだろ? で、熊谷ちゃんはそれを自分の所為だと思ってる、と」
「そうだけど……」
「あー、まあそう思うのは当然だよなあ。事実と言えなくもないし……」
てっきり何かしらの慰めの言葉が出て来るかと思っていたのだが、出水はハッキリと熊谷の失態を認める発言をした。
熊谷としても言い返す事など出来ず、俯くしかなかった。
「一つ聞きたいんだけどさ。熊谷さんは、何で『メテオラ』を選んだの? もしかして、明確な目的を持って選んだワケじゃないとか?」
不意に、出水がそんな質問をして来た。
内容は図星だった為に、熊谷は思わず目を見開く。
「…………何で分かるの?」
「そりゃ、これでもNO2の射手だからなー。『ボーダー』で二番目に凄い射手としちゃ、素人射手の考えなんて見え見えだよ」
敢えて偽悪的に振る舞いながら、出水はそう告げる。
此処で下手な慰めの言葉を言っても、逆効果だ。
ならば、それよりもまず
「熊谷さんはトリオンが多い方じゃねーし、そこまで器用でもねーだろ? そういう人が付け焼刃で射手トリガー使っても、そりゃ有効に使えるワケがねーんだ。それは、熊谷さんも身を以て思い知っただろ」
「……そうだね……」
「ま、射手トリガー使うにゃ脳のリソースをある程度振り分ける必要があっからなー。斬り込みながらバカスカ使える七海の方がおかしいから、普通の人が使えばああなるって」
七海だってサイドエフェクト前提に使ってるかんなー、と出水は付け加えた。
確かに、攻撃手が射手トリガーを使う際、『メテオラ』を使う事は早々無い。
熊谷の知る限りで言えば七海以外では、『玉狛第一』の小南くらいだ。
それだけ、攻撃手が射手トリガーを使う、という事は難しいのだ。
「それに、射手トリガーの選択も悪い。熊谷さんはトリオン多い方じゃねーから、『メテオラ』でもそこまで広範囲は巻き込めねーし、息切れも早い。だから逃げっ時も使えなかっただろ?」
「……うん……」
「ま、七海が使ってるのを見て羨ましがる気持ちは分かっけどよ、何事も向き不向きってのがあんだ。俺だって、もしも攻撃手やってたら此処まで強くはなれなかっただろーしな」
太刀川さんみてーには動けねーしな、と出水は苦笑する。
確かに、『ボーダー』に属する隊員は自分の向き不向きを測った上で、自身のポジションを選択する。
熊谷の例を言えば射手トリガーの取り扱いにも狙撃にも適性がなく、ブレードトリガーの適性が一番高かったが故に攻撃手を選択した。
そこから受け太刀を重視した立ち回りを修め、今では攻撃手界隈でもその防御の上手さは一定の評価を得ている。
適材適所とは、まさにそういう事だ。
仮に出水が攻撃主に転向したところで大した活躍は出来ないであろうし、熊谷は狙撃手をやれるような適性は無い。
それだけ、今のポジションは自分に合ったものなのだ。
そこから外れた事をしようとすれば、むしろ失敗する方が当然と言える。
(……やっぱり、私が安易に『メテオラ』なんかを選んだから……)
出水の説明を聞くうちに、熊谷は自身の選択がどれだけ愚かなものだったのかを思い知った。
付け焼刃の戦術に手を出し、その結果落とされるのを早めてしまった。
もしもあそこで校舎に入って奇襲を狙わず、屋外を逃げ続けていればもしかすると七海の合流が間に合う可能性もあったかもしれない。
結果論ではあるが、熊谷の選択が少なくとも間違っていた事は証明されている。
他ならぬ、彼女の脱落という形で。
そう考えると益々自分が惨めになり、熊谷の心は更に重くなる。
「あー、ごめんごめん。責めるつもりじゃなかったんだよ。ただ、
「……え……?」
そんな彼女を見て、出水は努めて明るい声でそう告げ、予想外の言葉に熊谷は顔を上げた。
視線を合わせた出水はにやっと笑い、熊谷に向けて口を開いた。
「確かに、射手トリガーは
「選択、肢……?」
ああ、と出水は答え笑みを浮かべた。
「もし良ければなんだけどさ。熊谷さん、────を、覚えてみる気ない?」
そして、彼は一つの、
「おしおし、どうやら上手く行きそうだなー」
熊谷と連れ立ってラウンジを出て行く出水を見て、太刀川は笑みを浮かべた。
彼が此処にいる事からも分かる通り、出水が熊谷に会ったのは偶然ではない。
七海達の
自分が出て行っても、どうせやれるのはランク戦だけだ。
今の熊谷に、ただの言葉や気晴らしに意味はない。
必要なのは、
だからこそ、
出水もなんだかんだで七海達の事は気に懸けており、自分に何か出来る事はないかと考えていた。
そんな出水の心情を察した太刀川は、彼にGOサインを出してやったのだ。
太刀川はお世辞にも気が利く人物とは言い難いが、こと
何が必要で、どう動くのがベストなのか。
戦闘に関わる事ならば、太刀川がその判断を間違える事はない。
その二面性を見た某彼の師匠曰く、「どうして慶はその頭の回転を戦闘以外に使えないんだ」と愚痴を零していた程であった。
ともあれ、これで熊谷に関しては大丈夫であろう。
まずは熊谷に自信を付けて貰わなければ、今の破綻した『那須隊』を立て直すなど不可能だ。
そして、戦闘以外の事となれば太刀川が出る幕ではない。
今回の件に関する手出しは、これだけに留めるつもりであった。
「…………ま、他の連中が何とかするだろ。早く立ち直れよ、七海。お前が腑抜けたままじゃ、つまんないからな」
太刀川はそう呟き、ラウンジを後にした。
七海達が動けずにいても、彼等が築いた関係性は生きている。
周囲の者達は、一人、また一人と動き出していた。