────初めて彼女と出会った時、思わずその姿に魅入ってしまった事を覚えている。
七海が那須と出会ったのは、まだ小学校に上がる前。
比較的運動神経が良かった七海であったが、他の子供と比べて
サイドエフェクト、『感知痛覚体質』は幼い頃より発現しており、七海にはどう動けば怪我を負わないか、痛い思いをしないかという事が感覚的に分かっていた。
その為、他の子供より怪我を負う可能性が低くなるのは自明の理であったのだ。
しかし、当時はまだ『ボーダー』も存在せず、『近界民』についての情報も出ていなかった時代。
七海がそんな能力を持っていたと知る者はおらず、彼は要領が良く怪我をしない子として親達の間では知られていた。
サイドエフェクトの事を知らなければ、単に要領が良いだけにしか見えない為当然と言える。
ちなみに、怪我が少ない事に関して姉に何故かと問われ、正直に答えた事があった。
自分はどう動けば怪我をしないかが分かるのだ、と。
流石の姉も怪訝な顔をしていたが、頭ごなしに否定する事もなく、きちんと話を聞いてくれた。
玲奈は近所でも評判の良い少女であり、七海の同級生達にも慕われていた。
荒唐無稽な七海の話にも耳を傾けてくれた姉は、他の人にその話をしない事を七海に確約させた。
姉は昔から、頭の回転が速い少女だった。
恐らく七海がこの話を広める事で、悪い風評が生まれる事を危惧したのだろう。
それはそうだ。
しかし、七海は少々極端な性格でもあった。
この一件以来、七海は他の子供と少し距離を置くようになったのである。
迂闊に話をして情報が漏れるリスクを背負うくらいならば、初めからある程度距離を置いて接すれば良い。
幼い七海はそう結論してしまい、結果として七海は人の輪から遠ざかるようになった。
七海が那須と出会ったのは、そんな時である。
那須と七海は親同士が仲が良く、その縁で彼女と出会う事になった。
その日は調子が良い日だったらしく、那須は彼女の親に呼ばれて家のリビングに姿を見せた。
その時の衝撃は、筆舌に尽くし難い。
普通、その年代の少女と言えば
そこに
…………だが、那須は他の少女とは容姿のレベルがまるで違っていた。
まだ、小学校に上がる前の段階で、である。
その頃から那須は誇張なしの美少女としての片鱗を見せており、儚げなその雰囲気はまさに深窓の令嬢そのものだった。
当時は今より更に身体が弱く、外出もままならない状態だった事もそのイメージを補強していた。
初めて出会った時等は、お伽噺のお姫様のようだ、と思ったものである。
ぶっちゃけ、一目惚れだった。
恋のなんたるかを理解するその前に、七海の少年としての心に那須の存在は一瞬で深く重く刻み込まれた。
この少女と知り合えた事に、両親に深く感謝した。
運命を、感じた。
何があろうとこの少女を守り抜く、と幼心に誓った。
そして、その誓いは今日に至るまで忘れた事は一度も無い。
小学校に上がってからは那須の美貌は次第に周囲の知る所となり、余計な興味ややっかみが生じる事もあった。
そして七海は、その都度対応に全力を尽くした。
しつこく那須に絡もうとする男子は力づくでお引き取り願い、彼女に男子の興味をこぞって掻っ攫われた女子達の嫌がらせは即日ホームルームで告発し、二度とやらないよう誓わせた。
少々やり過ぎる事もあったが、決して暴力は振るわず相手の失言や失態を引きずり出し、都度都度適切に対処していった為、周囲の大人達も七海の徹底的な
そんな七海の奮闘に、那須はどうやら気付いていたらしかった。
二人きりになった時に、小声で「ありがとう」と言われた直後は、自分でもどうかと思う程舞い上がった事を覚えている。
自分の行為は、報われた。
その想いが、七海の
結果として、那須は確かに虐めや嫌がらせとは無縁になったが、その代わりに交友関係は酷く狭い範囲で完結してしまった。
那須は人付き合いは少々不器用な方だったらしく、尚且つ身内とそれ以外を明確に区別するタイプだった。
その為、ごく狭い範囲の人付き合いで満足してしまい、自分から積極的に友人を増やそうとはしなかった。
そして、そんな那須の在り方を、是正する者は誰もいなかった。
そもそも、那須は左程頻繁に学校に行っていたワケではない。
那須は生まれつき病弱であり、調子の良い日以外は外出すらままならない。
学校に行ける日自体が少ないのだから、友達が少ない事はある意味仕方ないと周囲は判断していた。
確かに、そういう面はあった。
那須は自室に訪れた七海の話を聞く事が何よりの楽しみになっており、友達よりも七海を優先しているのは明らかだった。
此処で七海が接触を抑えていればまた話は違ったのだろうが、当時の七海にその選択肢は有り得なかった。
那須と共に過ごす時間は七海にとって何よりも大事なものとなっていたし、それは彼女も同じであった。
誰が二人に尋ねても、同じ返答が返って来るだろう。
即ち、
その頃には既に七海にとって那須は単に気になる異性以上の存在となっており、あらゆる危険から彼女を守る、という誓いも守り続けていた。
その結果が、あの四年前の大規模侵攻の悲劇である。
那須に向かって瓦礫が降り注ぐのをサイドエフェクトで察知した七海は、躊躇なく彼女を突き飛ばしその身代わりとなって瓦礫に右腕を押し潰された。
考えた末の行動ではない。
ただ、
その後に起きる事を、明確に意識して動いたワケではない。
ただ、那須に危険が迫っていたから、当然のようにその身を盾にしただけだ。
七海にとって那須を命懸けで護る事は常識以上に当然の事であり、そこに疑問を差し挟む余地などない。
それは最早、七海という存在の
些か極端に過ぎるが、昔から七海はそういう所があった。
様々な意味で、
サイドエフェクトの影響で怪我が少なかった幼少期、その能力を隠す為に他の者と距離を置いていたように。
やるからには、徹底的に。
それが、七海の
加減は要らない。
躊躇もしない。
ただ、こうと決めた事に全力であれ。
それが、七海という少年の在り方。
それは主を戴く、従者のそれに近い。
自分というものの上に、那須の存在を置いてしまっている。
だから、彼女を守る為にその身を投げ出す事に躊躇が無い。
だから、その行動に疑問を覚える事が無い。
だから、それが異常であるとは欠片も考えていない。
普通、自分の身を危険に晒す事を人間は躊躇するものだ。
特に七海は、そのサイドエフェクトによってどう行動すれば怪我を避けられるかを知っていたし、たとえ突発的な事故だろうが彼にとっては
つまり、七海はその行動を選べば自分がどういう目に遭うかを知っていながら、那須の為にその身を投げ出したのだ。
その迷いのなさは、最早狂気だ。
人は、痛みを嫌がるものだ。
怪我を避けられるのなら、避けるものだ。
特に、まだ情緒が整っていない子供の時分であれば。
しかし、七海はそうしなかった。
自分が痛い思いをする事よりも。
自分が取り返しのつかない怪我を負うよりも。
那須が傷付く事が、彼には耐えられなかった。
そしてその想いは、現在に至るまで欠片も変わっていない。
むしろ、あの大規模侵攻の悪夢を経て更に強くなっているとも言える。
七海はあの時、
姉という欠け替えのない存在を失った事で、七海は何かを喪う事に対し過度な恐怖を抱いた。
あの日、意識が朦朧とし、身体も自由に動かせない中。
砂となって、崩れ落ちる姉だったもの。
自分が助かる代わりに、死体すら残さずに消え果てた姉。
あの光景が、脳裏に焼き付いて離れない。
七海は、姉のお陰で命を拾った。
だが、七海の中の時計の針は、あの時から止まったままだ。
だから、ROUND3で那須が狙われた時、考えるよりも先に身体が動いた。
那須の身代わりとなって弾丸を受け、身を挺して防いだ。
それで那須が助かれば、七海としても問題はなかった。
だが、実際は那須は七海の損傷を見て、暴走。
無防備なまま突貫を敢行し、二度目の狙撃の標的となった。
その時もまた、七海は那須を守る事を最優先とした。
即ち、再び自分を盾にした。
結果は、言うに及ばず。
七海の選択は状況を悪化させただけに終わり、試合にも負けてしまった。
悔しかった。
何より、情けなかった。
自分が落ちた事が、ではない。
那須を守り切れなかった事が、である。
七海は、今でもあの時の那須を庇った判断が間違いだったとは欠片も考えていない。
正確には、それ以外の選択など思いつきもしていない。
何があろうと、那須を守る。
幼き日のその誓いは、まるで呪いのように七海の心を縛っている。
誰かに言われた事であれば、やがてそれは忘れるものだ。
だが、七海は自分で決め、自分自身で誓いを立てた。
その想いが、色褪せる事などある筈がない。
今でも七海は、那須の事を男として想い続けている。
那須を縛り付けてしまっているという負い目から、その想いに蓋をしていても。
想いそれ自体が、消えたワケではない。
むしろ、その想いは成長した事によってより強く、強固になっていた。
故に、ブレようが無い。
七海は
もしくは、するべきだとも思っていない。
那須を守る事は七海にとって当たり前の事であり、要はそれが上手く行ったかそうでないかの違いだけだ。
その事を
自分一人で、何が悪かったという事に気付ける筈もない。
だが、今の七海は那須に接触を拒絶され、どうしたらいいか全く見当がつかずにいる。
図らずも、那須が部屋に閉じ籠り、全ての接触を断ったが為に浮き彫りになった歪みと言えよう。
「…………」
七海は頭の整理がつかないまま、『ボーダー』本部にやって来ていた。
特に、何か目的があったというワケではない。
ただ、自然と足が向いただけだ。
…………家には、部屋に閉じ籠った那須がいる。
七海にとって、那須がすぐ傍にいながら会う事が出来ないという状況は、拷問に近いものだった。
だから逃げるように那須邸を後にしたのだが、今の七海に何かを積極的にやろうとする程の覇気はない。
ただ、本部の中をブラつきながら無為に時間を要被するだけだ。
「……七海か……?」
「……鋼さん……」
そんな折、七海と親しい攻撃手の一人────村上鋼が、七海の存在に気が付いた。
村上は一瞬迷ったものの意を決して七海に近付き、おずおずと口を開いた。
「本部には、何か用があって来たのか?」
「いや、そういうワケじゃないが……」
ふむ、と村上は七海の様子を観察し、昨日の出来事を鑑みてその精神状態の大方を把握した。
何が問題であるかも、理解した。
本来ならば言葉を尽くして対処する所なのだろうが、元より口が回る方ではない。
ならば、取るべき答えは一つ。
村上は意を決し、七海に
「もし時間があるのなら────少し、付き合って貰えないか? 個人戦に、さ」
────純粋な、個人ランク戦の誘い。
普段から行っているそれは、今回に限っては別の意味を持つ。
言葉で諭せないなら、行動で。
百の言葉を尽くすよりも、実戦は何よりも雄弁に自分の想いを突き付けられる。
そう判断したが故の、戦いの誘い。
「……分かった。付き合うよ」
「ありがとう」
そして、七海はその誘いを受け入れた。
素早くブースに移動する七海の姿を眺めながら、村上は気合いを入れた。
少しでも、七海の力になる為に。
彼の親友の一人である村上は、己が剣を以て友を助ける決断をした。
それが、最善の手段と信じて。