────彼と初めて出会った時、那須は運命めいたものを感じていた。
親の紹介で出会った七海は、線の細い穏やかな印象を持った少年だった。
当時の七海は今より口数が少なく、訥々と呟くように話すので物静かなイメージが強かった。
それでいて運動もそれなりに嗜んでいるようで、見た目に反して割と体育会系の気質があった。
しかしインドアな趣味にも理解があり、那須が一緒に読書がしたいと言えば、素直にそれに応じてくれていた。
那須が微笑みかけると顔を赤らめる初心な所もあり、そんな彼の反応を見るのは気分が良かった。
当時から美少女の片鱗を覗かせていた那須は男女問わずあらゆる視線を集めており、自分の容姿のレベルについては何となくではあるが自覚していた。
人より優れた容姿を、自分は持っているのだろうと。
もっとも、それはあくまで客観的な視点に立ったもので、那須自身は自分の容姿についての理解が高かったとは言い難い。
繰り返し
精々、
しかし、その自分の容姿が七海のそんな反応を引き出しているのだとしたら、そう悪い気分でもなかった。
那須は元来病弱な身体で、普段は外出もままならなかった。
そんな那須にとって、外の世界の話を楽し気に語ってくれる七海という存在は、特別なものであった。
差し詰め、城に閉じ籠ったお姫様の下に訪れる王子様のよう、と言えば言い過ぎだろうか。
家の中という閉じた世界で暮らさざる負えなかった那須は、家族以外の話し相手に飢えていた。
そんな中で七海は外の情報を齎してくれる貴重な存在であり、その年齢不相応の落ち着いた性質は那須の好む所だった。
確かに那須は話し相手に飢えていたが、かといって騒がしい相手は苦手だった。
その点七海は話し上手とは言い難かったが相手に合わせたペースで話をしてくれる為、那須としても話し易かった。
年齢を重ねるにつれ那須の美貌に対する興味とやっかみに悩まされる事もあったが、そういう時はすぐさま七海が対応してくれた。
素直にお礼を言ったら顔を赤くしていたので、自分の為にやってくれたのだな、と嬉しくなった。
ともあれ、那須にとっての七海の存在は、最早無くてはならないものになっていた。
添い遂げるのであれば、この子だろう。
幼心に、那須はそんな夢想を抱いていた。
七海も那須に対し少なくとも好印象を抱いていたのは分かっていたので、彼女は漠然と自分の
男女が付き合うにあたり、最も大事な事はその相手といて、ストレスにならないかどうか、である。
特に那須は無理が効くような身体でない以上、パートナーとの性格的な相性の良さは必須だった。
その点、七海は満点に近い相手と言えた。
一緒にいて苦ではなく、いつも彼と会う時間が待ち遠しい。
病弱な身体故に迷惑をかける事も多いだろうが、それでも七海であれば何とかしてくれるだろうと、那須は思っていた。
…………
自覚して、彼と一緒になる未来を夢見ていた。
その未来が、必ず訪れると信じて。
────けれど、その夢想は一瞬にして崩れ去る。
四年前のあの日、『近界民』の大規模侵攻によって。
その日、那須は縁側で七海と話をしていた。
いつも通りの、平和な歓談。
しかし、昼過ぎに空に黒い
穴から現れる、白い化け物の群れ。
化け物に追われ逃げ惑う、街の人々。
そして、化け物によって薙ぎ倒された瓦礫の山。
そんな、地獄のような光景が広がっていた。
だが、七海はそんな事態にもある程度落ち着いて対処していた。
とにかく建物から離れよう、という事になり、七海は那須の手を引いて歩きだした。
那須はただ、そんな七海に黙って従うだけであった。
その時はまだ、那須の心には余裕があった。
たとえ突然訪れた非日常だろうと、七海と一緒であれば大丈夫。
そんな、漠然とした楽観論を抱いていた事を覚えている。
その後に待ち構えるものに、気付く事なく。
…………
自分の手を引いて歩く七海の足取りが、変わる。
何かに気付いた様子の七海は那須を突き飛ばし、そして────。
────崩れた屋根の、下敷きになった。
その光景は、今でもよく覚えている。
轟音と共に、何かが崩れ落ちる衝撃。
手を繋いでいた筈の七海は、傍に居らず。
瓦礫に右腕を押し潰され、大量の血を流し倒れる七海の姿が、見えた。
何を叫んだかは、覚えていない。
しかし、事態を理解した那須が、半狂乱になって七海の事を呼んでいた事は覚えている。
サイドエフェクト、『感知痛覚体質』。
その影響によって痛みの発生する場所を感知していた七海は、那須に向かって瓦礫が落ちて来る事を察知し、自分がどうなるかを分かった上で身代わりとなった。
誰かの為に、その身を投げ出す。
言うは易く、行うは難し。
しかし、七海はやってのけた。
少しも迷う事なく、那須の為にその身を投げ出した。
…………その事が、二人の関係に決定的な溝を作る事となった。
瓦礫に押し潰され、右腕を喪失した七海。
切断面からは絶え間なく血が流れ落ちており、早くなんとかしなければ死神の足音が聞こえて来るのは確実だった。
しかし、所詮那須は病弱な少女でしかなかった。
瓦礫を退かして七海を救う事も、走って助けを呼びに行く事も出来ず、自由にならない身体のまま七海に少しでも近付こうとしていた。
彼女を守る為とはいえ、七海は那須を突き飛ばしてしまった為、那須は打撲を負っていた。
身体の痛みと、欠け替えのない存在がその手から零れ落ちていく恐怖。
それが那須の精神を追い詰め、体調を悪化させていった。
痛む身体に、限界の心。
その二重苦に、那須の精神は完膚なきまでに叩き折られた。
最早どうする事も出来ず、那須は目の前で失われていく七海の命の灯火をただ見ているしかなかった。
…………そんな時にやって来たのが、七海の姉の玲奈だ。
玲奈はすぐさま状況を理解すると「任せて」と告げ、本当になんとかしてしまった。
────自らを、『黒トリガー』とする事で。
トリオン能力に優れた人間が、己が全てを懸けて自らに不可逆の変換をかけたもの。
それが、『黒トリガー』。
玲奈は七海の状態を確認するとあっさりと自らが『黒トリガー』と化す事を選択し、自分の身体を七海の右腕へと変化させた。
彼の義手となった玲奈のお陰で七海の命は助かり、那須もまた、あの大規模侵攻を生き残った。
二人は病院に着くなり入院する事となり、そのまま数日が経過した。
その後彼の病室を訪れた那須が見たものは、欠け替えのない存在を失い、意気消沈する七海の姿であった。
自分の所為だ。
那須は強く、そう考えた。
自分があの時、玲奈を頼ってしまったから、七海から大切な姉を奪ってしまった。
他に選択肢などなかったとはいえ、玲奈の背中を押してしまったのは自分だ。
あの時はああするしか無かったとはいえ、七海から姉を奪う最後の一押しをしたのは、自分なのだ。
故に、那須は誓った。
これからは、彼への贖罪の為に生きるのだと。
自分が奪ってしまったものを、一生をかけて償っていくのだと。
七海は姉の存在と共に、自らの痛みをも失った。
痛みを、触感を失った七海は普段通りの生活をする為にも、リハビリが必須だった。
そして那須は、進んでそれを買って出た。
流石に病弱な那須では何から何まで世話をする事は不可能だが、それから那須は七海と可能な限り一緒にいるようになり、彼の手足となるべく献身的に振る舞った。
傍から見ても、病的な程に。
その根底には、
自分の所為で右腕と姉を失う事になったのだから、一生懸命尽くしてその埋め合わせをする事で七海からの評価を維持する。
那須が無意識の内に働かせていた
無論、七海が那須を恨んでいるなどという事は有り得ない。
彼自身内罰的な傾向があるし、あの一件は自分の責任である、と言い張っている。
けれど、彼女はそれを知らない。
自分の事をどう思っているかという事を聞くのが怖くて、
答えは分かり切っている筈なのに、1%の疑念が拭えない。
だって、彼は自分を助ける為にその右腕と痛み、そして欠け替えのない肉親を失ったのだ。
幾ら七海が温厚な性格だからと言って、その原因となった自分を少しも恨んでいない事などあるのだろうか?
そんな想いが、那須を正面から七海と向き合わせる事を躊躇わせた。
ハッキリ言ってしまえば、彼女に度胸がないだけなのである。
しかし、怖いものは怖いのだ。
那須が抱える七海への想いは、無理に抑え込み続けた事で重度の依存癖に変化してしまっている。
七海の一挙手一投足から目を離せず、彼が害されれば正気を失う程怒り狂う。
それは最早癇癪と何も変わらず、那須の精神は非常に不安定な状態のまま今日まで過ごしてしまった。
彼女が自らの負い目と自分の想いを混同してしまっているのは、今の現実から目を背ける為である。
七海に、拒絶される事が怖い。
もし、もし七海が那須を恨んでいたのだとしたら。
そんな有り得ない筈の仮定が、とても怖い。
七海がいるから、自分は生きていける。
そう本気で考えている那須にとって、七海に嫌われる事は世界の終わりと同義である。
七海が生きていて、七海が自分を選んでくれる世界でなければ、彼女は許容出来ない。
それ以外の可能性など、見たくもない。考えたくもない。
けれど、無理に距離を詰めて関係が壊れる事もまた怖い。
七海に近付いて、拒絶される事が怖い。
七海に迫って、厭われる事が怖い。
七海に告白して、断られる事が怖い。
怖い。
怖い。
とても、怖い。
だって、
七海本人には、怖くて聞けない。
かと言って、七海の気持ちは七海にしか分からない。
七海の気持ちを確かめる術がない以上、
そうなると、ネガティブな想像ばかりが浮かんで来る。
七海が、自分以外の誰かと共に生きている未来。
七海が、自分を拒絶して一人で生きていく未来。
七海が、いなくなってしまう未来。
そんな未来になってしまえば、那須は生きてはいけない。
彼は、未来を視る力を安売りしない。
それにもし、彼女が望まない未来であっても、迅が望む未来であったのなら、真実を話してくれない可能性も有り得る。
彼はいつも、より多くを救える選択肢を選ぶ。
もしも七海が他の人を選ぶ未来であっても、より多くを救える未来であるのなら、迅はそれを許容する。
彼にとっては大多数の救済が最優先事項であり、個人の恋愛感情にまで頓着してくれるとは思えない。
未来を視る力を持つ彼の重責は、個人の事情では揺るぎはしない。
七海を通じた付き合いでしかないが、迅の性質について那須はそのように解釈した。
だから、彼女が迅に頼る事は有り得ない。
流石に、その程度の分別はあった。
しかしそうなると、振り出しに戻ってしまう。
那須は、七海の気持ちが知りたい。
けれど、それを確かめるのは怖い。
それを聞くのも、怖くて出来はしない。
つまり、どうしようもないのだ。
那須には、一歩を踏み込む勇気がない。
長年に渡る負い目を抱え続けた事で、すっかり弱気が癖になってしまっている。
決断力、という点で那須は高いとは言えなかった。
頭に血が登らない限り、那須が能動的な行動をする事は殆どない。
七海に関する事以外、無気力であると言っても過言ではない。
…………これでも、マシにはなった方なのだ。
熊谷と友達になる前は、それこそ七海以外の人間とは碌に口も聞こうとしなかったのだから。
熊谷という心を許せる友を得た事で、那須はようやく七海以外の人間を視界に入れるようになった。
閉じていた世界が、広がった。
しかし、それでも那須が心を許すのは『那須隊』のメンバーのみ。
比較的仲が良い小南とさえ、それなりの壁がある。
彼女が真に胸襟を開ける相手は、同じ隊の仲間しかいないのだ。
けれど今、那須は前回の試合でその仲間達に多大な迷惑をかけてしまった。
眼の前で七海の右腕が吹き飛ばされた事で怒り狂い、結果として惨敗を喫してしまった。
七海を巻き込んで自滅に近い形で落ちた那須の責任は、とても重い。
…………だが、それだけであればまだ、
そのまま、隊全員が負けてしまったのであれば。
しかし、現実には一人残された茜が小夜子のサポートを得て孤軍奮闘し、きっちり点を取った上で逃げ切り退場まで実行した。
きちんと戦略を練れば、上位相手でも通用するのだと、他ならぬチームメイトが証明してしまった。
あそこで自分が暴走しなければ、もしかすると勝ちの目もあったのかもしれない。
そう考えると自分がやらかしてしまった事に対する責任がより重くのしかかり、彼女に考える事を放棄させていた。
きっと、チームメイトはこんな自分に失望しただろう。
隊長失格、と言われてもおかしくはない。
それに何より、七海に失望されたかもしれない。
その想いが、那須を部屋に閉じ籠らせた。
彼女は部屋の中で一人膝を抱えて、答えの出ない煩悶を繰り返している。
こんな事をしている場合ではないのは、分かっている。
次のランク戦は、僅か数日後なのだ。
早い所対策を立ててミーティングをしなければ、次もまた無惨な結果に終わってしまう。
けれど、身体は、心は言う事を聞いてくれなかった。
誰かと会うのが、誰かと会って責められるのが、怖い。
その想いだけが暴走し、那須は益々自らの殻に籠ってしまう。
八方塞がり。
今の那須の状況を表現するに、これ以上の言葉はないだろう。
現状のままでは駄目だと分かっているのに、怖くて前に進めない。
答えの出ない自問自答を繰り返す、結果の出ない永久機関。
それが、今の那須なのだ。
「…………ん…………?」
不意に、インターホンが鳴った。
玄関のカメラ映像を見てみると、家の前に小夜子が立っている。
何か、用があって来たのだろうか。
けれど、今は会いたくなかった。
だから那須は、無視を決め込もうと目を背け────。
『那須先輩。今行くので、その場を動かないで下さい』
「……え……?」
────合鍵を使って家の中に入って来た小夜子の行動に、仰天した。
確かに、チームメンバーには家の合鍵を渡している。
いつでも集まれるようにという意味と、那須の容態が急変した時に助けて貰う為という大義名分で。
しかし普段、彼女達がこの合鍵を使う事はない。
流石に那須の許可なく家に入るのはどうかと思っていたし、家に集まる時は大抵那須と一緒なので合鍵を使う機会がなかったのだ。
だが、小夜子は那須の返事も聞かずに合鍵を使い、家の中に踏み込んで来た。
普段であれば、有り得ない行動。
そんな彼女の突拍子もない行動に、那須は尋常ならざる何かを感じて、慌てて部屋の鍵を閉めようとする。
「お邪魔しますよ」
「……あ……っ!?」
────だが、鍵を閉める前にドアが開け放たれ、小夜子が文字通り部屋の中に押し入って来た。
小夜子は後ろ手で鍵を閉めると、呆然とする那須相手に近寄りつつ告げる。
「────突然失礼しますね。ちょっと、喧嘩しに来ました」
そして小夜子は、那須に向かって凄絶な、