「あ、七海じゃない。アンタ、もう平気なの?」
「ええ、皆のお陰もありまして。なんとか、持ち直した所です」
『ボーダー』玉狛支部を訪れた七海を出迎えた小南に対し、七海は苦笑しながらそう告げる。
矢張り、玉狛の面々にも相当な心配をかけてしまっていたようだ。
こちらを見て溜め息を吐く小南の姿を見るに、特にこの少女は我が事のように気を揉んでくれていたらしい。
口では色々言うものの、小南は善性の塊のような少女だ。
自分のこれまでの行動の結果かけてしまった心労は、察して知るべしだろう。
そう思い、七海はぺこりと頭を下げた。
「ご心配をおかけして、申し訳ありませんでした。これからは、きちんと皆を頼りにさせて頂きます」
「分かればいいのよ、分かれば。アンタ、口では頼るとか言う癖に、全然頼って来ないんだもん。そういうトコ、どうかと思ってたのよね」
「返す言葉もないです……」
矢張り、自分が他人を頼ろうとしない所は、皆少なからず不満に思っていたようだ。
小南は特に感情を正直に表現する少女であるので、あからさまに顔を顰めて不満をアピールしている。
それだけ気を揉ませてしまっていた事実に、七海としては平謝りする他ない。
「…………どうやら、今回は口だけではないらしいな。心の整理はついたのか?」
そのやり取りを見ていたレイジは、表情を変えずにそう尋ねる。
こちらは小南とは反対に滅多に感情を表に出さないが、それでも七海を心配してくれていた事くらいは分かる。
だから七海は、真摯に答えを返した。
「はい、なんとかなりました。改善点も、自覚出来ましたし」
「ならいい。頼る事は、恥じゃない。お前はもっと、頼る事を覚えるべきだな」
「鍛錬の面では、一応頼らせて貰っていましたが……」
七海の言葉に、レイジは大きく溜め息を吐いた。
「それだけじゃ、頼ったとは言い難いな。お前は強くなる事に対しては真摯だったが、足りない部分を自分を鍛える事で補おうとしていた。鍛錬を欠かさないのは当然だが、それだけじゃ駄目だ」
「要は、足りない部分があったら遠慮なく人を頼りなさいって事よ。そりゃ任せきりじゃ駄目だけど、アンタに頼られて悪い気がする奴なんていないんだから堂々と頼りなさい」
文句言う奴がいたらあたしがしばいてあげるわ、と小南は胸を張って告げる。
そんな彼女の気遣いに感謝し、二人に改めて頭を下げた。
「これからは、頼る事も多くなると思います。その時は、よろしくお願いします」
「よろしくされてあげるわ……っ!」
「ああ、いつでも頼れ。お前の頼みなら、俺達は断らん」
謝意を伝えた七海を小南とレイジは暖かく迎え、レイジは七海の頭をわしわしと撫でた。
そのような経験がなかった七海は多少戸惑ったものの、なんだか父親に褒められているようでいて、悪い気分ではなかった。
暫くそのまま身を委ねていると、そういえば、と小南が思い出したように告げる。
「そもそも、今日此処に来たのはなんで? いつも、来る時は連絡くれるわよね?」
小南の言う通り、七海は玉狛支部に用事────────要は小南やレイジに模擬戦を頼む時は、二人が支部にいるかきちんと事前連絡で確認してからやって来るのが常だった。
だが、今回七海は小南達に連絡を取らずに此処に来ている。
つまり、彼が用があるのは小南でもレイジでもない、という事になる。
「…………実は、迅さんに呼ばれたんです」
「迅に……?」
ええ、と七海は答え、自分が此処に来た理由を告げた。
「────────話したい事があるから、支部に来て欲しいと。そう、言われたんです」
「よう七海、悪いな」
「迅さん……」
玉狛支部、その屋上。
星明りに照らされたその場所で、迅は七海の到来を待ち受けていた。
未来を視るその瞳が、七海の姿を視界に映す。
彼の眼は、何処か憂いを帯びているように見えた。
そも、迅が七海と自分から会おうとする事自体、最近では滅多になかった。
それどころか、七海が支部を訪れる時は姿を晦まし、接触を避けていた程である。
その事について小南達から散々苦言を呈されていたのだが、それでも迅の態度は変わらなかった。
なのに何故、今になって自ら七海に会おうと思ったのか。
七海は、その理由が知りたかった。
「…………詳しい事情は、説明するまでもありませんか……?」
「そうでもないよ。俺が視る事が出来るのは、あくまで未来の
お前が話して良いって言うならな、と迅は告げる。
そんな彼に対し、七海は躊躇わず口を開いた。
「そうですね。じゃあ、少々長くなりますが……」
そして七海は、これまでの経緯を迅に語った。
迅はそれを、黙って傾聴している。
聞き返す事も、内容を理解しようと頭を捻っている様子はない。
ただ、予定調和のように、話を聞き入っていた。
そんな迅の様子を見ながら、思う。
恐らく、迅が話を聞きたい、というのは建前でしかない。
迅は「詳しい事は分からない」と言ったが、
つまりそれは、状況を正確に理解している、という事に他ならない。
七海から現状を聞かずとも、迅はそれに関する情報を既に手にしている筈なのである。
なのにわざわざ七海に話させたのは、何故か。
それは多分、七海の反応を見たいからだろう。
正確には、今の七海の心の動きを。
先程の話の中でも、
だからこうして、七海に話をさせる事で七海の精神状態をチェックしている。
自分が持って来た話を、伝えるべきか否かを判断する為に。
「…………以上です。傾聴、ありがとうございました」
七海はそう言って話を終え、迅の反応を待つ。
迅はそれを聞くと深く溜め息を吐き、じっと七海を見据えた。
「そうか。大変な時に、傍にいてやれずに悪いな。なんて、俺が言っても虚しいだけか」
「…………いえ、迅さんには迅さんの事情があったでしょうし……」
七海は迅が言わんとする事を理解し、そう告げる。
迅は未来視の力を持つ以上、今回七海に起きた事柄を
彼にその気があれば、それこそ試合直後にでも七海の元に来る事が出来ただろう。
なのに、来なかった。
そこには、迅の明確な意図を感じられる。
即ち、
迅は、七海の問題が解決するこのタイミングを狙って動いた。
恐らく、七海に何かの話をする為に。
そうした方が良い結果に繋がると、己が視た未来を元に考えて。
七海が自分の意図を理解した事を、察したのだろう。
深々と溜め息を吐き、迅は口を開いた。
「…………全く、察しが良過ぎるな。これでも、色々と工夫したんだけど」
「いえ、これでも迅さんの事は昔から知ってますので。レイジさん達にも話は聞いていますし」
「そっか。ま、なら仕方ないかな」
迅はそう言ってぽりぽりと頭をかき、真剣な眼で七海を見据えた。
「…………実は、七海に伝えなきゃいけない事があるんだ。七海は、お姉さんが────────玲奈が死んだ事を、自分の所為だと思っているだろう?」
「それは……」
いきなりの切り出しに、七海は困惑する。
確かに、七海は玲奈が死んだ責任を、自分の行動の所為だと思っている。
それは、事実の筈だ。
なのに、迅のこの言い方。
これでは、まるで……。
「違うんだ。それは違うんだよ、七海。玲奈が死んだのは、俺の所為なんだ」
「え……?」
────────その責任の在り処が、別にあるとでも言いたげだった。
「少しは、聞いてるんじゃないか? 俺は、玲奈が君の元へ行けるように協力した。いいか、
「……っ!」
七海は、迅が言わんとする事を正確に理解した。
迅には、『未来視』のサイドエフェクトがある。
即ち、玲奈が七海の元に向かう事で起きる結果────────
それを知りながら、迅は玲奈を行かせた。
つまり迅は、こう言っているのだ。
「俺はあの時、幾つかの未来を視ていた。その中にさ、あったんだよ。君が生き残る事で、玲奈が黒トリガーになる事で、より多くの人が救われる未来が。だから俺は、
だから、と迅は言う。
「君は、俺を恨んで良い。憎んで良い。玲奈の死の責任は君じゃない、俺にあるんだ。君はこれ以上、自分を責める必要はないんだよ」
「……迅さん……」
…………此処に至り、七海は迅の意図を正確に理解した。
迅はただ、七海の事を気遣っていただけだ。
彼が玲奈の死を、自分の責任だと感じている事に、迅は心を痛めていた。
彼女の死の責任は自分にあると、強く思い込んでいたが故に。
だから彼は、自分が悪者になってでも、七海の重荷を減らす事を選んだ。
自分なら、幾ら恨まれても構わない。
そんな意図が、透けて見えた。
きっと彼は、これまでもそうして来たのだろう。
自分がどう思われようと、構わない。
ただ、自分の周りの人達の、皆の幸せを心から望む。
それが、迅悠一。
ただ一人
一度、大きく深呼吸する。
そして、七海は自分の想いを、伝えるべき言葉を、告げる。
「────────そうですか。教えて下さって、ありがとうございました。でも、俺は貴方を恨みません」
「七海……」
「迅さんの事だから、俺がこう言う事も
迅はそう問われ、やれやれと溜め息を吐く。
その様子からすると、図星らしかった。
「…………ああ、君がそう答える未来は視えていた。けど、俺を気遣う必要は────────」
「いいえ、これは俺の本心です。そもそも、何で俺が迅さんを恨む必要があるんですか?」
「え……?」
予想外の事を言われた、と迅は困惑を露わにする。
そんな迅に、七海は真摯に自分の想いを告げる。
「迅さんは、
「……それは……」
察していた、のだろうと思う。
玲奈は迅の、『旧ボーダー』の仲間だった。
当然彼の
けれど、玲奈は迅への恨み言など一言も口にしなかった。
────困った事があったら、迅君が力になってくれると思うから。ボーダーの皆も、良い人達ばっかりだから────
彼女は、今際の際に、そう言った。
迅なら、なんとかしてくれると。
そう信じて、彼女は逝った。
あの時の玲奈に恨みの感情などなかったと、七海は胸を張って言える。
何せ、大切な姉の事だ。
自分の所感は、間違っていない。
姉が迅を恨んでいない以上、自分が恨むのは筋違いというものだ。
「姉さんは、むしろ迅さんに感謝していました。迅さんのお陰で、俺を助けに来れたんだと。迅さんは、俺と姉さんの
「玲奈が、俺に……?」
そう言われる事は、流石に予想外だったのだろう。
迅の眼が、驚愕に見開かれた。
恐らく、ずっと恨まれていると思い込んでいたのだろう。
きっとこれまで、彼は様々な人の恨みを買っていたに違いない。
だから玲奈の一件もそうなのだと、
彼は、人に感謝される事に慣れていない。
自分の人生を『ボーダー』の為に、この世界の平和の為に捧げたも同然なのに、彼の理解者は驚く程少ない。
そして彼は、そんな理解者達から意図的に距離を取っていた。
何かあった時、自分だけで責任を背負い込めるように。
その思考傾向は、これまでの七海と同じだ。
自分で、全ての責任を背負い込もうとする。
他者に、自分の重荷を預けようとしない。
それは周囲から見れば気が気ではないのだと、七海は身を以て実感した。
迅との違いは、迅は周囲の思惑をある程度理解しながら、敢えてそう振る舞っているらしいという事だ。
彼は、自分一人の幸福というものを投げ捨てている。
より良い未来の為に、自分の幸せを犠牲に出来てしまう。
彼は、ずっと孤独だった。
『未来視』という唯一無二の力を持って生まれた所為で、彼は自分の望まぬ未来を散々見せられて来た。
だから、自分が幸せになる事を諦めてしまっていた。
自分が、やらなければならない。
彼の自己犠牲精神は、きっと誰よりも大きい。
皆の為ならばと、自分の幸福を秤にかけてしまえる。
それが、迅の強さだった。
けれど、その在り方は彼の精神に尋常でない負担をかけ続けている。
自分がどう思われようと、構わない。
そんな彼のスタンスは、一種の諦観に依るものだろう。
彼は、自分が真に理解される事を諦めてしまっている。
だから、誰にも期待しない。
自分を含めて、より良い未来に辿り着く為の
彼はそうやって、人と距離を取っていた。
恐らく彼の中には、そうして他人を
人を
そう、本気で思い込んでいる。
筋違いも、良い所だ。
彼がそうやって動いているのは、元々幸せな未来を掴み取る為だ。
感謝こそすれ、恨む道理など無い。
むしろ、そんな風に思ってしまう迅を、哀しいと感じてしまった。
自分の同情など、迅は求めていないのかもしれない。
けれど七海は、言わずにはいられなかった。
「迅さん、迅さんこそ、これ以上自分を責めないで下さい。きっと、姉もそう言う筈です。それとも────────迅さんが知る姉は、貴方を責めるような人でしたか?」
「────────参ったな。そう言われちゃうと、返す言葉がないや」
はぁ、と迅は深く溜め息を吐き、頭をかいた。
そうして七海を見た迅の顔は、何処か憑き物が落ちたようであった。
「…………本当はさ、気付いてたんだ。玲奈が、君が、俺の事を恨む筈がないって。けど、那須さんと同じだよ。俺は、それを確認するのが、今まで怖くて出来なかった」
「迅さん……」
「…………本当、馬鹿だよ。玲奈にもよく、呆れられたもんさ」
迅は昔を懐かしむように、宙を見上げた。
その横顔は、憂いに満ちている。
玲奈の話をする迅の姿は、彼女に対し仲間以上の何かを抱いていたと、そう思わせるには充分だった。
「…………迅さんは、姉の事を…………」
「さて、それはもう過ぎた事さ。過去に何があったとしても、
そう言って、迅は誤魔化す。
それが最早、答えだった。
「…………玲奈はさ、昔こう言ってくれたんだ。
迅は、物憂げにそう告げる。
その言葉には、玲奈に対する親愛の情が見て取れた。
「小南も、レイジさんも、最上さんも…………皆、俺の事を気遣ってくれた。でも皆、俺の力が必要なものだと理解していたから、俺に
当然だけどな、と迅は告げる。
もし、迅がその力を使って『ボーダー』に貢献しなければ、これまでよりもっと酷い被害が出ていたに違いあるまい。
今の平和は、迅の貢献なしには成り立っていない。
『ボーダー』の存在すら、彼の力を支柱にしている面がある。
だから、迅は己が役目を投げ出せない。
そうすればどうなるか、誰よりも識っているが故に。
「俺は皆の為に自分の幸せを捨てる事を当然だと思ってたし、皆もそんな俺に何も言えなかった。
故に、迅は人を遠ざける。
自分の幸福より、皆の未来を選んでいたが為に。
けれど、玲奈はそんな迅の在り方を
皆の為に、個人の幸福を捨てる必要はない。
そう、言ってくれたのだと言う。
「最上さんにも、似たような事は言われたけどね。でもそれは、大人としての意見でもあったから、俺は素直に受け入れる事が出来なかった」
当時は、自分を認めて貰いたいって欲もあったしな、と迅は言う。
彼の師であり、彼が持つ黒トリガーの
過去の戦いで自らを黒トリガーとした、迅の大切な人だったのだと。
今彼が持つ黒トリガー、『風刃』はその最上が自らの命に不可逆の変換を施した果ての姿だ。
迅はきっと、最上の死から、誰にも自分の重荷を預ける事が出来なかったのだろう。
自分に
彼は、自分が重荷を捨てれば、また誰かが犠牲になると思い込んだ。
それだけ、最上の死が迅に与えた影響は強かった。
だから迅は、自分の重荷を誰にも預けようとしなくなった。
そうする事で、また誰かが犠牲になるくらいなら。
自分一人で、背負い込んでしまった方が良いと考えて。
「けれど玲奈は、言ってくれたんだ。
けど、と迅は告げる。
「俺は、そんな玲奈さえ、未来の為に見殺しにしてしまった。あの時程、自分の事を人でなしと思った事はない。自分は、自分の幸福どころか、他人の、大切な人の命さえ、未来の為なら平気で犠牲に出来るんだって、そんな風に自覚した」
「…………けど、辛かったのは迅さんも同じでしょう?」
七海は居ても立っても居られず、そう言った。
これ以上、迅が自分を責める姿を見る事が耐えられなかったから。
だから七海は、告げる。
「大切な人が死ぬ痛みは、俺も良く識っています。だから、迅さんが自分だけを責める必要はないんです。姉だって、そんな事は望んでいない筈です」
「…………そうだな。やっぱり、君は玲奈の弟だよ。そんな風に気遣う所まで、そっくりだ」
そう告げる迅の瞳が、潤んでいたのは気の所為だろうか。
他ならぬ、玲奈の弟である七海に許された事で、彼の重荷は少しでも軽くなった。
今は、そう信じたい。
七海は、強くそう思った。
「参ったな…………君を気遣うつもりが、俺が気遣われちゃうなんて。これじゃあ、面目が立たないや」
「迅さんは少し、気を張り過ぎなんですよ。少し気を抜いても、バチが当たらないと思いますよ」
それに、と七海は言う。
「もう少し迅さんは、自分の気持ちを周りに伝えるべきです。言わなきゃ、何も伝わりません。それは俺も今回、強く感じた事ですから」
「…………そうだな。本当、その通りだよ……」
そう呟き、迅は星空を見上げる。
一筋の風が、吹いた。
満天の星空に、流れ星が落ちる。
それを見て、迅は瞳を僅かに細めた。
彼が何を感じていたかは、分からない。
けれど、少しでも彼の気持ちが軽くなったのならそれで良い。
共に星空を眺めながら、七海はそう強く願った。